第二次世界大戦
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第二次世界大戦 | |
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戦争: 第二次世界大戦 | |
年月日: 1939年9月1日から1945年9月2日 | |
場所: 主にヨーロッパ・アジア太平洋 | |
結果: 連合国の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指揮官 | |
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戦力 | |
損害 | |
死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説あり) |
死者 軍人1700万人 民間人3300万人 (諸説あり) |
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ドイツ空軍機の空襲で破壊されたロンドン(1940年)
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ベルリンに向けてカチューシャで攻撃を行うソビエト軍(1945年)
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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)は、1939年9月1日から1945年9月2日にかけて、世界の主要国が二つの陣営に分かれて戦争を行なった人類史上二度目の世界大戦を指す(大きく分けるとヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の2つ)。人類史上最大の戦争となった。
[編集] 概要
大日本帝国、ドイツ、イタリア王国、満州国などが構成する枢軸国と、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、中華民国、ソビエト連邦などが構成する連合国の間の戦争。1939年9月1日早朝(現地時間)、ドイツのポーランド侵攻が戦端となった。
アジア・太平洋地域においては、日本がイギリス、アメリカ、オランダなどに対して戦端を開いた1941年12月8日(日本時間)から、日本が降伏文書に調印した1945年9月2日までの間の戦争は、大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)、もしくは太平洋戦争(当時の連合国による呼び方)と呼ばれる。
戦争の結果、連合国は軍事力で枢軸国を圧倒し無条件降伏させた(日本に関しては、降伏の際に悲願とした『皇室制度の堅持』を連合国に打診し、結果的に受理された事から、独・伊両国とは違う”有条件降伏”であるとする意見もある)。連合国の中でも戦場からの距離が離れていたために本土の被害を殆ど受けず国力が維持でき、また圧倒的な工業力で連合国戦勝の大きな原動力となったアメリカは、戦場になり荒廃したヨーロッパ諸国に代わり世界の中心的立場を得ることになる。そして国際連合やブレトンウッズ体制を通じ、世界を自らの覇権下におく戦後諸制度を構築するとともに、日本や東南アジアをその影響下におくことに成功した。またソビエト連邦も、領域の拡張および東欧を影響下に置くことに成功した。
他方、敗戦国であるドイツと日本は、欧州ないしアジアでの覇権を失った。またヨーロッパ諸国は戦勝国側でも戦争の被害や損害が激しく、アメリカとソビエト連邦の台頭もあり世界の中心的立場を失った。ヨーロッパ諸国が力を失ったことなどで植民地での独立運動が激化し、宗主国もそれを抑えることが出来ずに次々と独立を許し、戦後20年経った1960年代後半には世界中から主な植民地はほぼ無くなった。
この結果、大航海時代に端を発するヨーロッパ諸国とその植民地を中心とした世界から、アメリカとソビエト連邦の二強世界となり、時代は東西冷戦へと移るのである。
また第二次世界大戦は軍事兵器技術が飛躍的に発達し、軍事戦略・戦術が大きく変革した戦争でもある(一例としては開戦時は単翼レシプロエンジンが普及し始めたばかりで一部では複葉機がまだ現役だったが、戦争終盤ではジェット戦闘機が実戦投入された。銃撃を防げる無限軌道車程度だった戦車は、強力な戦車砲と分厚い装甲を持つ現在の基本な形へと進化した。また核兵器、誘導ミサイル、弾道ミサイルなども開発・実戦投入された。また一般大衆が初めて国家規模で戦闘に巻き込まれた戦争でも、実戦で核兵器が使用された唯一の戦争でもある。
[編集] 開戦時期についての諸説
第二次世界大戦をどの戦争から数えるかについては諸説ある。1931年の満州事変からとする説、1935年のエチオピア戦争からとする説、1936年のスペイン内戦とする説、1937年の日中戦争を始まりとする説等である。通説は、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻とそれに対するイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告からである。 また、1931年の満州事変から1945年の日本の降伏までの中国大陸における十五年戦争は、連合国参戦以前の日本と中華民国との間の単独の戦争であるという説や、1939年のソ連軍のフィンランドへの侵攻は第二次世界大戦には含まれないという説もある。
[編集] 陣営
(主な国のみ/植民地は除く)
[編集] 枢軸国 |
[編集] 連合国 |
[編集] 陣営を鞍替えした国 |
[編集] 中立国 |
[編集] 大戦の前夜(ヴェルサイユ体制・植民地・東アジア情勢)
[編集] 世界
第一次世界大戦後の世界情勢では、1919年にアメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンが提唱した理念に基づいて開かれたパリ講和会議でのヴェルサイユ条約締結を経てヴェルサイユ体制が成立し、その延長で国際連盟が設立されたが、肝心のアメリカが参加せず、ソビエト連邦とドイツが除外されていた。
パリ講和会議における「民族自決主義」は不貫徹なものであるが、国際法の一部となった。ハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラビア、ポーランド、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアはこの時に独立を認められた。また、イギリスは1921年に長年支配下にあったイランを、1922年にエジプトを独立させている。このことからベルサイユ体制は単なる列強の論理の具現ではないと言える。
[編集] 新たな植民地獲得
第一次世界大戦の戦勝国は日本を除き、国土が戦火に見舞われなかったアメリカに対し多額の債務を抱えることになった。その後債権国のアメリカは未曾有の好景気に沸いたものの、1929年10月にニューヨークのウォール街における株価大暴落から始まった世界恐慌は、ヨーロッパや日本にもまたたくまに波及し、共産主義国であるソビエト連邦を除く主要資本主義国の経済に大きな打撃を与えた。
これを打開するため、植民地を持つ大国は自国と植民地による排他的な経済圏いわゆるブロック経済を作り、植民地を持たない(もしくはわずかしか持たない)国々は新たな植民地を求めるべく近隣諸国に進出していった。例として、前者はイギリスのスターリング・ブロック、フランスのフラン・ブロックである。後者は日本による中国大陸への侵略や、事実上の傀儡政権である満州国の設立、イタリア王国によるエチオピアの侵略やナチス・ドイツによるオーストリアの無血占領(併合)が挙げられる。また、後者においては、経済の停滞による政情不安によりファシズム的思想の浸透やそれにともなう軍部の台頭、人種差別的志向の台頭が顕著なものとなった(これは植民地を持っていたイギリスやアメリカなどにおいても顕著に見られる現象であった)。
[編集] 石油資源を巡る思惑
第一次世界大戦時に生まれた飛行機の戦争利用(戦闘機)、塹壕戦を打ち破る戦車等新兵器の開発は内燃機関の発達と共に急速に進展した。それに伴って石油資源の確保は重大な問題となり、イギリスやアメリカ、オランダ等の国内外に石油資源を持つ国家がそれを外交手段として用い始めたが、石油産出地の獲得と自国の備蓄量が持たざる国家にとって死活問題となった。特に日本の場合には戦争の開始時期を決める大きな要因となった。
1930年代当時の主な産油地域としてはアメリカのテキサス州やカリフォルニア州、ソビエト連邦のバクー、オランダ領インドネシアのボルネオ島などが挙げられる。一方日本はアメリカなどの産油国からの輸入に、ドイツはルーマニアのプロエステ油田に頼っている状態であった。なお、この時点においては現在の一大産油地域である中東地域や北海などにおける石油資源の多くは発見されておらず、これらの地域は産油地域としてはさほど、もしくは全く重要視されていなかった。
[編集] 海軍軍縮の破棄
海軍の軍備拡大競争は各国にとって経済的に大きな負担であり、海軍の軍縮は列強にとって避けることのできない大問題であった。アメリカ・イギリス・日本を中心とする主力艦艇に関するワシントン会議に始まり、補助艦艇に関するロンドン会議を経る。この間、各国は「海軍休日」ともいわれる日々を送るのであるが、それは、1934年に国際連盟を脱退した日本による条約破棄の通告によって終わりを告げた。これにより世界は無条約時代に突入し、再び建艦競争の時代となった。建造能力において各国の差は大きく、日々広がる格差の拡大も又、戦争の開始を決める大きな要因となった。
[編集] ヨーロッパ
![ウィーン市内をパレードするヒトラーとムッソリーニ](../../../upload/shared/thumb/a/ae/Hitler_in_wien_1939_gross.jpg/180px-Hitler_in_wien_1939_gross.jpg)
[編集] イギリス
第一次世界大戦の戦勝国であるものの莫大な戦費の負担や植民地の独立、もしくは独立運動の激化などで痛手を負ったイギリスは、その反動で国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義及びソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、ナチスが政権を握り、軍備拡張政策を取るドイツに対しては宥和政策を取ることに終始していた。そのために、1935年3月のヒトラーによる再軍備宣言後(ヴェルサイユ条約破棄)、ドイツの軍事力強化に対して強硬措置はとらず、むしろ同年6月には英独海軍協定を結んだ。
その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、ネヴィル・チェンバレン政権下においては軍備を整える時間稼ぎのため、ミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。このためヒトラーはさらに軍拡政策を推し進めることになる。
[編集] ドイツ(とオーストリア)
敗戦国であるワイマール共和国は戦勝国から多額の賠償金を負担させられ苦しんでいた。その結果、深刻なインフレに陥り市民生活が圧迫される。その後それを克服し順調な経済回復を続けると思えたが、1929年に起きた大恐慌によってドイツの経済は再び重大な危機に陥いることとなった。
その様な状況下で、反ユダヤ主義とヴェルサイユ条約破棄を訴える国家社会主義ドイツ労働者党と党首・アドルフ・ヒトラーが人々の支持をつかみ台頭していった。1933年に行われた総選挙で勝利したヒトラーは首相に就任。全権委任法を制定、民主主義的なワイマール憲法を停止させる。ドイツはヒトラー独裁体制への道を進み行くことになる。翌年、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の死去を受け、ヒトラーは大統領・首相・ナチス党首を兼ねた総統に就任する。
その後1935年にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言し、クルップやダイムラー・ベンツ、メッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、国家の総力を挙げた大々的な再軍備を開始するとともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基、「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく。ユダヤ人に対する迫害政策は、参加国への配慮から1936年に行われたベルリンオリンピックの開催前には一時的に休止されるものの、オリンピックの終了とともに再度強化されてゆく。
1938年にドイツはオーストリアを軍事的恫喝を背景に無血併合(アンシュルス)する。その前にはイタリア王国とともに国際連盟を脱退し同盟(ベルリン-ローマ枢軸)関係を結び、同じく国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟に、大戦勃発後は枢軸国に発展することになる。
ヒトラーは、民族自決主義の基に周辺諸国内のドイツ人居住地域を併合し、最終的にヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつける。ミュンヘン会談の合意を反故にされたイギリス、フランス両国はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになる。
[編集] イタリア
第一次世界大戦における戦勝国であるイタリア王国であるが、扱いは敗戦国に等しいと感じさせるほどに恵まれておらず、戦後急速に経済が悪化し、右派、左派を問わず様々な政治勢力が主導権を握るべく対立し政情不安に陥っていた。その後ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト党がローマ進軍により権力を得て、反対勢力を排斥していくのに長くはかからなかった。
当初、ムッソリーニは自己の勢力圏内と考えてきたオーストリアに進出を企てるヒトラーに敵意を抱いていたが、逆にヒトラーはムッソリーニに対して好意を抱いており、終始ムッソリーニに対し友好的に接していたこともありその関係は急速に良好なものとなっていった。なお、ドイツのヒトラーは、ヨーロッパ諸国から新しい政治スタイルであるファシズムを推し進めるリーダーとして賞賛されていたムッソリーニの政治方針やそのスタイルから大きな影響を受け、ムッソリーニを手本としていた。
その上、イタリアがエチオピア戦争によって国際社会から強い非難を受け、国際連盟を脱退するなど次第に孤立するようになると、ドイツのオーストリア併合を認めるなど急激にドイツとの提携を図るようになった。また、それに併せてドイツの友邦である日本との関係強化も図るようになって行き、ついには3国の間で日独伊三国軍事同盟を結ぶことになる。
[編集] ユーゴスラビア
戦勝国となったセルビアは戦後オーストリア・ハンガリー帝国からスロベニア・クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナを獲得したが、「未回収のイタリア」に指定されていたフィウメが領内に入っていたためイタリア王国と国境紛争をおこす。また、国内問題としてクロアチア人とセルビア人との対立も頭の痛い問題となった。民族対立が大きくなるとアレクサンダル1世はセルビア人独裁体制を敷き、国号もユーゴスラビア王国と改める。
セルビア独裁色が強まったことによりさらにクロアチア人の反感が高まり、アレクサンダル1世はマルセイユ訪問中に暗殺される。次いで即位した国王ペータル2世は、アレクサンダル1世の過激なセルビア専制体制を放棄し、ある程度クロアチア人の主張を受け入れて1939年にクロアチア自治州を成立させる。だが、クロアチア民族主義者はこれに納得せず、さらにクロアチアの独立を目指してドイツと関係を強くし、1941年にクロアチア独立国を成立させる。
クロアチア独立国の元首となったウスタシャのアンテ・パベリッチは、ドイツの支援を得てセルビア人への復讐を開始し、70万人近いセルビア人を虐殺した。当時ロンドンに亡命していたユーゴスラビア政府側もチェトニックと呼ばれるセルビア人中心の部隊を結成して独立国に対抗したが、逆にクロアチア人を虐待するなどしたため、部隊内の統率が取れず、ドイツへの抵抗運動においてはヨシップ・ブロズ・チトー率いるパルチザンに主力の座を譲ることとなった。
[編集] スペイン
![スペイン内戦中のマドリード(1938年)](../../../upload/shared/thumb/6/63/Terualsiege.jpg/180px-Terualsiege.jpg)
1936年に勃発したスペイン内戦では、ファシズムのドイツとイタリアがフランシスコ・フランコ・バハモンデ率いる反乱側に最新兵器を貸与するなど積極的に物資的支援を行い、反ファシズムである共和派の人民戦線をソビエト連邦が支援したことで、同内戦は第二次世界大戦で使用されることになる兵器の実験場の様相を呈した。
また、多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、「国際旅団」の名の元に人民戦線側の支援を目的に結束し、アメリカの作家のアーネスト・ヘミングウェイやフランスのアンドレ・マルローなどが参加した。ただし、「国際旅団」の結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員の85パーセントは共産党員で、それ以外の多くもそのシンパだったように、事実上ソビエト連邦の傀儡組織であった。
[編集] フランス
戦勝国であるフランスは第一次世界大戦において西部戦線の主戦場となり国土は荒廃し、膨大な損害を出した。そのため第一次世界大戦による被害の総てをドイツに賠償金として負わせようとした。そして普仏戦争によって失われた土地アルザス・ロレーヌだけにとどまらず、1923年にはルール地方にもベルギーとともに進駐した。その結果炭鉱でストライキが起きたことにより、ドイツ経済はそれまでに進んでいたインフレーションから破滅的なインフレーションに陥ることとなる。
1936年にはレオン・ブルム人民戦線内閣が成立したものの、その後は政治的混迷期が続き、隣国スペインで行われた内戦など、戦争の足音がヨーロッパを覆って来たにも拘らず本格的な戦争への準備はなされないままであった。
[編集] ソビエト連邦
ウラジミール・レーニンの死後、独裁的な権力を握ったヨシフ・スターリンは、政敵レオン・トロツキーの国外追放を皮切りに、反対派を次々と粛清し徹底的に排除することで社会主義路線を確立した。大粛清時(ピークは1936年から1938年)には処刑や強制収容所での過酷な労働などによって、一説には1200万人以上の人が粛清された。その為に内政は混乱し、ミハイル・トハチェフスキーら有力な赤軍指導者の多くが粛清され軍備が疲弊していたこともあり、他国との軍事衝突に対しては消極的であった。
その様な状況下でスターリンは、軍事強国であるドイツとの対立を回避しながらポーランドやバルト3国、フィンランドなどを手に入れるために、天敵とまで言われたドイツのヒトラーと1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結び、世界を驚かせた。
[編集] ポーランド
第一次世界大戦の結果として再び国土を回復したポーランドは、ドイツとソ連という二大大国の間につくられた緩衝地帯の一つとして重要な場所に存在したが、バルト海への土地を確保するためにドイツを分割してしまう立場となった。又、国内にも多くのドイツ人をかかえることとなった。このことはドイツにとって領土獲得への口実を生み出させた。
その後、1939年にドイツとソ連の間で締結された独ソ不可侵条約の付属秘密議定書での取り決めによって、ポーランドの分割が合意された。
[編集] ヨーロッパの国家間の条約
- ドイツ対ポーランド…不可侵条約(1939年4月28日、破棄)
- ドイツ対ソビエト連邦…不可侵条約(1939年8月23日、調印)
- イギリス・フランス対ポーランド…相互援助条約(1939年8月25日、調印)
[編集] 東アジア
[編集] 日本と満州国、中華民国
日本(大日本帝国)は1905年に日露戦争に勝利したものの、莫大な戦費の負担を背負った。その上、対ロシア講和条約であるポーツマス条約において、満州南部の鉄道及び領地の租借権や大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争賠償金を取得することができなかったために財政状況は悪化し、国内経済の状況も悪化した。しかし、第一次世界大戦の勃発によりヨーロッパへやヨーロッパから工業製品を輸入していた国への輸出が拡大したことで、戦争特需状態となり高い経済成長を見た。
だが、第一次世界大戦が終結しまもなくヨーロッパ経済が平穏を取り戻すと、戦勝国であり同じく国土に直接的な被害を受けなかったアメリカと同様に、戦争特需による好景気を謳歌していた日本の経済は不況となった。さらにシベリア出兵における日本の積極的な軍事行動により、東アジアに利権を持っていた列強諸国を中心にその領土拡大の野心が疑われる。シベリア出兵による膨大な出費と、1923年に起きた関東大震災がそれに追い討ちをかけることとなって日本の経済状態がさらに悪化するとともに、政情が次第に不安定なものとなって行き、1930年代前半頃より政治テロや五・一五事件、二・二六事件などの陸海軍の将校によるクーデター未遂事件が度々発生するようになる。
五・一五事件で護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相が暗殺され、二・二六事件でも高橋是清大蔵大臣などの政党人が暗殺された結果、日露戦争後の大正期にかけて大正デモクラシーと呼ばれるような政党政治及び議会制民主主義が根付き始めていたにも拘らず、日本における民主主義は急速に勢いを失って行き、それと代わるように急速に陸軍を中心とする軍部が実権を握ってゆくことになる。
一方で、第一次世界大戦の勃発という東アジア地域でのヨーロッパの列強勢力の影響力行使の空白期間は、国内の経済的危機状態を近隣諸国への進出により打破しようとしていた日本にとっては非常に有利に働くこととなる。第一次世界大戦の戦勝国であった日本による、敗戦国であるドイツの中国大陸や南太平洋諸島における植民地の獲得と、中華民国への21ヶ条要求などは、この時期であるからこそできたことであり、特に中華民国に対する強硬な姿勢は中国大陸における抗日運動の火種となった。この頃より日本軍(関東軍)は、地元の軍閥である張作霖とも友好関係を築いていたが、1928年に張作霖爆殺事件が起き張作霖が暗殺されると関東軍の犯行と考えられた。
なお、日露戦争の結果、ロシアが有していた旅順や大連の租借権と長春-旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を日本が獲得した。1906年に日本は国策会社である南満州鉄道を設立し、これ以降日本は中国大陸の北部(満州)における権益を急速に固めることになる。その後日本は、1931年に勃発した満州事変などのそれまでの軍事行動の結果として、中国大陸北部を中心とする土地をさらに占領し、1932年には元首として清朝の愛新覚羅溥儀を執政(後に1934年に皇帝に即位する)とした満州国を建国していた。
これらの日本の行動に抗議する中華民国は国際連盟に提訴し、国際連盟はイギリスのヴィクター・リットン卿を団長にするリットン調査団を派遣する。当時、蒋介石率いる中華民国は度重なる内戦により治安が悪く、緩衝材としての満州国の必要性があることからリットンは日本の満州における特殊権益は認めたが、満州事変は正当防衛には当たらず、形だけでも満州を中華民国に返すように報告書に記した。その後1933年2月に行われた国際連盟特別総会においてリットン報告書(対日勧告案)が採決され、賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)の賛成多数で可決された。可決の直後、松岡洋右日本全権は「この様な勧告は受けいることが出来ず、もはや日本政府は国際連盟と協力する努力の限界に達した」と表明し、その場を退席した。松岡は帰国後国民の盛大な歓迎を受けた。その後日本は国際連盟を離脱し、1936年には日独防共協定をドイツとの間に結ぶなどイギリスやアメリカなどと対決する姿勢を鮮明にしてゆく。
この様な日中の対立を背景に、1937年には盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発した。その後、内戦状態にあった中国国民党と中国共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築する。その後日中戦争が激化した結果、日本政府は1940年(皇紀2600年)に東京で国際博覧会と同時に開催される予定だった夏季オリンピック、東京オリンピックの開催権を1938年7月15日の閣議決定により返上するなど、国民総動員で臨戦体制を固めてゆく。
またこの頃、中国国民党の蒋介石総統とその妻宋美齢は支援を求めてアメリカへのロビー活動を行っていた。この時点でアメリカは参戦に踏み切っておらず中立国であったため、直接的介入は行えなかった。しかしながら、中華民国軍にて教官及びアドバイザーを努めていたアメリカ軍大尉クレア・リー・シェンノートが、日本の航空戦力に対抗するための「アメリカ合衆国義勇軍」を設立する際、蒋介石と親しく親中的な考えを持っていたフランクリン・ルーズベルト大統領はこれを公認、支援した(詳細はフライング・タイガースを参照)。
1939年9月には、日独防共協定で日本と友邦関係にあったドイツがポーランドへ侵攻し、直ちにフランスやイギリスがドイツに宣戦布告し交戦状態に入り、その後1940年中頃にはドイツ軍がフランス全土を占領した。これに伴い、日本軍はフランス領インドシナへ進駐したものの、これにアメリカやイギリス、さらに本国をドイツに占領されたオランダなどが反発し、これらの国々と日本の関係は日に日に険悪さを増していった。なお、その後の1941年4月、ドイツの対ソ侵攻計画を予見してこれに対抗するため日本に急接近していたソビエト連邦に対し、日本政府は日ソ中立条約を締結する。
なおこの頃、コミンテルンのスパイで、ドイツの有力新聞社の新聞記者を隠れ蓑にして日本に派遣されていたリヒャルト・ゾルゲは、近衛文麿首相の側近の尾崎秀実やドイツのオイゲン・オット駐日特命全権大使らの情報網を通じて、日本が対ソ参戦を行わないことを察知しソ連に通報し、その情報を元にソ連軍は対日戦が開かれたときのために極東に配置していた部隊を対独戦線に配置転換した。このことも影響して後に対独戦線はソ連軍の優勢に転換してゆくことになる。
また、1940年10月には、すでに軍部が完全に主導権を握った日本において、軍部の圧力を受けた近衛文麿らの指導の元、国民の統制や強大な政治体制を目的とした大政翼賛会が結成され、全ての政党は解体されこれに吸収された。これを持って日露戦争後に日本に根付きかけた政党政治及び議会制民主主義体制はここに完全に崩壊した。なお、この後1941年に近衛は第3次近衛内閣の陸軍大臣である東条英機によって首相の座を追われ、その後継首相には東条が就任することになる。
この様な状況下にあった日本が、日中戦争がすでに膠着状態に陥っていたにも拘らず、新たにイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアなどの連合国との開戦に至ったのは以下のような経緯がある。
- 日本は、アメリカの後援を受ける中華民国との停戦交渉に失敗し、対中国戦争の泥沼にはまっており国際的にも孤立化していた。そのために日中戦争を打開しようと(帝国陸軍が主になって)ドイツ、イタリアと1940年9月に日独伊三国軍事同盟を結んだが、このことにより、世界を二分することとなった。
- 1940年のドイツ軍のフランス全土の占領と、日独伊三国軍事同盟に伴い、ヴィシー政権の許可を得て、援蒋ルート遮断や資源獲得を目的として日本はフランス領インドシナに進駐した。これに対抗して、アメリカが、鉄や石油などの輸出の禁止や日本資産の凍結などの経済制裁を徐々に強化し、追い詰められた日本の指導層は、石油などの資源を求めて東南アジアにあるイギリス、オランダなどの植民地の獲得を通じて、国家の活路を見出そうとした。
- その後の1941年の独ソ戦の開戦とその一時的な電撃的な大戦果に幻惑され、ソビエト連邦の敗北も近いと考えた日本海軍が対イギリス、アメリカ戦争の計画を練り上げたこと。なお、これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、日本は1941年4月にソビエト連邦との間に日ソ中立条約を結んでいた上、上記のような理由で南方の資源の確保に比重を置いていたこともあり、最終的に対ソ参戦計画を破棄していた。
- このような状況下でも日本とアメリカの間では戦争を回避すべく交渉が続いていたが、1941年11月27日に、満州国の運営からの撤退を含む日本の中国大陸からの撤退などを条件としたハル・ノートがアメリカより提示された時、日本政府はこれを交渉の決裂とみなした。
[編集] タイ王国
これまで欧米列強の圧力に屈すことなく独立を堅持していたタイ王国は、フランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン、シエムリアプ両州の返還を以前からフランスに求めていたが、1940年6月にプレーク・ピブーンソンクラーム首相は日本とフランスとの間に相互不可侵条約を締結し、中立政策を取った。
しかし、まもなくドイツがフランスを占領し親独政権であるヴィシー政権が成立すると、ヴィシー政権と同じく親独政策を取る日本軍がヴィシー政権下のラオスとカンボジアに進駐すれば、フランスに対する領土返還要求を実現することが不可能になると見て、9月にはラオスとカンボジアに対する攻撃を加え始めた。1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦が交戦する事件が発生し、これを見た日本は5月に泰仏両国の間に立って居中調停を行い、フランスにラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン、シエムリアプ両州をタイに割譲させた。
その後、日本軍が12月8日未明の対連合諸国参戦の1時間前にイギリス領マラヤのコタバルに上陸し、マレー半島を北上してタイ南部へ進出した。この様な状況下でもタイ王国は中立を堅持していたが、12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった。
[編集] イギリス領インド
インドは18世紀から長年に渡りイギリス(一部はポルトガル)の植民地下に置かれていたものの、第一次世界大戦以前からマハトマ・ガンジーやジャワハルラール・ネルーらが率いるインド国民会議や、スバス・チャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボースなどの上流階級出身の独立運動指導者による組織的な独立運動が起こったことにより、イギリスによる卑劣かつ独善的な植民地支配に対して大きな反感を抱いていた多くの国民もこれに協力した。その後大きな影響力を持つに至ったこれらの指導者を中心にした国民会議派が、内閣を形成するようになっていた。
中でも、イギリス領インドのスバス・チャンドラ・ボースやラス・ビハリ・ボースなど独立運動家の幾人かは、宗主国と対立する日本やドイツなどと結託する姿勢を取るなどして宗主国の政府に揺さぶりをかけ続けた。
[編集] その他のアジア諸国(植民地)
第二次世界大戦前において、日本とタイ王国、中国大陸の中華民国の支配区域を除く全てのアジア諸地域はイギリス、フランス、オランダ、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国およびアメリカの植民地支配下に置かれており、その動向は全て宗主国の政府に握られていた。
この様な状況下に置かれていた為、欧米諸国の植民地下に置かれていたこれらの国々の国民や地元政府の意思は、第二次世界大戦への参戦に対しては直接的には大きな影響力を持つものとはならなかったが、数世紀の長きに及ぶ植民地支配に対する反感が根強くある上、日露戦争における、有色人種国家である日本による白人国家であるロシアに対する勝利に勇気付けられたオランダ領インドネシアやアメリカ領フィリピン、上記のイギリス領インドなどでは当時から独立の声が高まっており、いくつかの国では独立運動指導者による組織的な独立運動も起こっていた。
[編集] アジアの国家間・アジアと欧州の国家間の条約
[編集] 南北アメリカ
[編集] アメリカ
第一次世界対戦の戦勝国であるアメリカは、ヨーロッパが戦場となっている間に世界の工場として活動し、国土が戦火による破壊を受けなかったことにより、戦後は未曾有の戦争景気を迎えていた。しかしその後に起きた株価の大暴落は世界恐慌を引き起こし、世界に経済的・政治的混乱を広げるきっかけとなった。また、この様な状況下で、職を失い社会に対する不満が蓄積した白人によるアフリカ系や日系アメリカ人などの有色人種に対する人種差別は、排日移民法の施行などの人種差別的な政府方針に後押しされますます増加した。
こうした中、恐慌による経済的混乱を打開することが出来なかったハーバート・フーヴァーに代わり、修正資本主義に基いたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領は、公約通りテネシー川流域開発公社を設立。フーヴァー・ダム建設などの公共投資増大による内需拡大政策や農業調整法、全国産業復興法を制定し、更に諸外国における戦争に参戦をしないことを公約の一つとして掲げ、三選をはたした(アメリカが不況から脱出したのは第二次世界大戦開始後である)。
[編集] 南アメリカ
南アメリカ大陸においては、アジアやアフリカ大陸と違い当時その殆どが独立国となっていたが、旧宗主国であり国民の多くを占める移民の出身元でもあるヨーロッパ諸国と経済的、政治的つながりの強い国が多かった。その中でもコロンビアやブラジル、チリなどでは航空産業や鉄鋼などの基幹分野において、ドイツ系企業やドイツ系移民が経営する企業が中心的な地位を占めていた。
しかし、1930年代に入りドイツによる脅威がヨーロッパで高まる中、地理的に近いことなどから南アメリカを「自国の裏庭」と考えるアメリカは、それらの企業に対する乗っ取りや政府による接収を行なわせることによって、それらのドイツ系企業からドイツ人を追放させ、基幹分野においてのアメリカの影響力を維持した。
[編集] アフリカ諸国・植民地
アフリカ諸国も、日本とタイ王国を除くアジア諸国と同様、全てイギリス、イタリア、フランス、スペイン、ベルギーなどのヨーロッパ諸国の植民地であり、戦前からいくつかの国で地元国民による組織的な独立運動が行なわれていたアジア諸国の植民地とは対照的に、イタリアの植民地であったエチオピアなどいくつかの国を除き、殆どの国で戦前には組織的な独立運動が起こらなかったこともあり、国民や地元政府の意思は第二次世界大戦への参戦に対してはなんら影響力を持つものとはならなかった。
[編集] 大戦の経過(欧州・北アフリカ)
[編集] 1939年
9月1日の早朝に、ドイツ陸軍の戦車と戦闘機を主体とする機動部隊約150万人と5個軍による侵攻(ポーランド侵攻)が行われ、それを受けてイギリスとフランスは、2週間前に結んだポーランドとの相互援助条約に基づき9月3日にドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することとなった。なお、この際ドイツによる事前の宣戦布告は行われなかった。
これに先立つ8月23日にドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日にはソ連軍もポーランドを東方から侵攻したが、ソビエト連邦によるポーランド侵攻に対してフランス・イギリスは宣戦布告には至っていない。次にソビエト連邦はフィンランドに侵略を開始した(冬戦争)。この行為により、ソビエト連邦は国際連盟から除名処分となる。
総兵力こそ100万を超えるものの、戦争の準備が全くできておらず、近代的な軍備にも乏しく小型戦車と騎兵隊を中心としたポーランド陸軍はドイツの急降下爆撃機と戦車部隊の連携による電撃戦により殲滅された。国際連盟管理下の自由都市であるダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦のシュレースヴィッヒ・ホルシュタインによる砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、開戦から1ヶ月にも満たない9月27日には首都ワルシャワも陥落。ポーランド政府はフランスのパリに亡命した。また、ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツ軍の占領地域に在住するユダヤ人のゲットーへの強制収用が始まった。
フランスとイギリスはドイツに宣戦布告したものの、その軍隊をポーランド方面に進めることはせず、この年の間、西部戦線に大きな戦闘はおこらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間には、「クリスマスまでには停戦だろう」と言う、根拠の無い期待が広まっていたと言われる。また、ヒトラーは戦前宥和政策に終始していたフランスとイギリスが本気で宣戦布告してくるとは想定していなかった。
11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、反ヒトラー派によるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、ヒトラーは早めに演説を切り上げたため難を逃れた。なお、その後も数度にわたりヒトラー暗殺計画が実行されるものの、ヒトラーは全て間一髪で難を逃れることになる。
[編集] 1940年
この年の4月に、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーを突如侵攻し(北欧侵攻)まもなく占領した。しかし、この作戦遂行のために脆弱なドイツ海軍は大型艦艇の多くを損失した。また、同時期に単独で冬戦争中であったフィンランドはソビエト連邦と講和している。
西部戦線では長い沈黙の後、5月前半に急遽ドイツ軍が強力な軍隊を持たないが戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグといった所謂ベネルクス諸国に侵攻、相次いで制圧し、国を追われたベルギー政府およびレオポルド3世国王をはじめとする王室はイギリスに亡命。5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。また、5月15日に降伏したオランダ政府も同じく王室ともどもロンドンに亡命した。
まもなくフランスとの国境へ迫ったドイツ軍は、フランス国民から信頼されていた巨大要塞・マジノ線を迂回し、フランス東部を電撃戦にて瞬く間に制圧した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。ドイツ軍の破竹の進撃を受けて大西洋沿岸に追い詰められたイギリス軍・フランス軍を救うためにイギリスは、5月27日より貨物船やカーフェリーからヨットまでありとあらゆる舟艇を動員し、段階的にダンケルク海岸よりイギリスへ撤退(ダンケルクの戦い/ダイナモ作戦)し、6月4日には34万人の英仏軍救出作戦を完了した。この際にヒトラーが、救出作戦の妨害に戦車部隊を投入しなかったために、イギリス軍は結果的に3万人ほどの捕虜を出し、撤退時にダンケルク周辺に多くの兵器を廃棄したものの精鋭部隊を救出することができた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦の成功を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
その後ドイツ軍は首都であるパリを目指したが、敗色が濃厚なフランス軍からは散発的な抵抗しか受けず、6月10日にフランス軍は首都のパリを全面的に放棄し、14日にはドイツ軍が戦禍を受けておらずほぼ無傷のパリに入城した。その後22日には、パリ近郊のコンピエーニュの森にドイツ軍により特別に用意された、第一次世界大戦時に当時のドイツ軍が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車の中で、フランス軍がドイツ軍への降伏文書に調印した。なお、この際に、その生涯で殆ど国外へ出ることがなかったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後に、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる親独政権であるヴィシー政権が樹立される。
この様な動きに対し、フランスの敗戦後にロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した(法的にはペタン率いるヴィシー政府は合法的な正統政府であり、ド・ゴールの自由フランスは、新政府の方針に反旗を翻し脱走した陸軍将校ド・ゴールによる非合法的な亡命政府ともいえる)。また、対フランス戦の末期の7月10日、枢軸国の一員であるイタリアも、この勝利に相乗りせんとばかりに正式にイギリスとフランスに対し宣戦布告をした。そして、北アフリカではリビアからエジプトへ、バルカン半島ではアルバニアからギリシャへ侵攻を開始したがどちらでも反撃にあい逆に侵攻されてしまった。
また、7月にはイギリス軍とアメリカ軍がフランス領アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍の艦船を、ドイツ側の戦力になることを防ぐことを目的に突如攻撃し大きな被害を与えた(カタパルト作戦)。この時期のフランス領アルジェリアのフランス海軍の艦船はヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦船を破壊し多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスでさえイギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがこれは失敗に終わった。
ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、当面の最大の敵であるイギリス本土への上陸を目指し、7月頃よりイギリス本土上陸作戦である「アシカ作戦」の前哨戦として始まった対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」が行われる。なお、この頃イギリス政府は、ドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ撤退する準備を開始するとともに、ドイツ軍による市街地爆撃の激化に対応し学童疎開を本格化させる。
ドイツ空軍の爆撃機による昼夜を問わない連日の爆撃に、ウィンストン・チャーチル首相に率いられたイギリス空軍とイギリス国民は国家を挙げて必死に抵抗し、スピットファイアやホーカーハリケーンなどの戦闘機や、当時本格的な実用化がなされたばかりのレーダーなどを駆使し、当時世界最強といわれたものの、護衛戦闘機の航続距離が短い為に、爆撃機に対する十分な護衛が出来ないドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、あわせてドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングが被害の大きい昼間の爆撃も中止するなど、事実上イギリスが勝利を収める。
[編集] 1941年
![クレタ島に降下するドイツ軍の落下傘部隊](../../../upload/shared/thumb/5/55/German_paratroopers_jumping_From_Ju_52s_over_Crete.jpg/180px-German_paratroopers_jumping_From_Ju_52s_over_Crete.jpg)
イギリス軍は自らの植民地であるジブラルタルとアレキサンドリアを東西の拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海(イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海のことを「ヨーロッパの下腹」と呼んだ)を確保して枢軸国軍に対する侵攻を企画していた。この様な動きに対してドイツ軍は、イギリス軍との戦いに劣勢であったイタリア軍の支援のために、ユーゴスラヴィアやブルガリアなどのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻するとともに、クレタ島の戦いにおいてイギリス軍に勝利し、同島を制圧した。
また、アフリカ前線においてはフランスが降伏したことに伴い、北アフリカにあるフランスの植民地であるアルジェリアとチュニジア、モロッコがヴィシー政権の管理下となった。その後、1940年9月にイタリア軍は北アフリカにおける連合軍諸国の影響力の低下に乗じてリビアからエジプトへ侵攻したが、イギリス軍に撃退され逆にリビアに攻め込まれてしまった。これに対しドイツのエルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツ・アフリカ軍団」を投入して2月にトリポリに上陸する。その後は北アフリカのイギリス、フランスの植民地に対し次々に侵攻(クルセーダー作戦)し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を破りトブルク要塞を包囲しつつエジプト国境に迫った。
6月22日には、ドイツ軍が1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたソビエト連邦に対して、突如バルバロッサ作戦と呼ばれる対ソビエト連邦侵攻作戦を開始し、ここに独ソ戦が始まった。ドイツ軍は300万近い兵士を事前に移動させ、航空機による偵察を念入りに行なうなど準備を進めていたにも拘らず、独裁者であるヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦はこの攻撃をまったく予想せず、侵攻に備えていなかったために前線は混乱した。ソ連軍(赤軍)は敗走を重ね、それに乗じてドイツ軍は瞬く間にソビエト領内を進軍して行った。
これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、資源確保に比重を置いた日本政府および軍部は南方・太平洋方面への進出の決意を固め、対ソ参戦計画を破棄する。この頃、日本に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報により日本が対ソ戦を展開しないことを知ったソ連は、4月に日本との間で日ソ中立条約を結び、その結果日本(と満州)軍に対抗するために極東に置いた軍の一部を対ドイツ戦に振り分けることができ、これがその後の対ドイツ戦に大きな影響を与えることとなった。
しかし、情報部からドイツ軍の動きに対する警告が繰り返されたにもかかわらず、スターリンはこれらの情報はドイツとソ連の間の戦争の口火を切ることを目指したイギリスから意図的に流された誤情報であると考えて、直接的にドイツ軍の侵攻に備えることをしなかった。そのために年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ねドイツ軍に首都・モスクワの近郊にまで迫られてしまう。
また、この年の現地時間12月7日に起きた真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦し、それを受けて12月11日にドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦した。日本と中国(国民党および中国共産党)の戦いである日中戦争以外は平静を保っていたアジア太平洋地域においても、イギリスやオランダ、アメリカなどの列強を巻き込んだ戦いが始まり、ヨーロッパ戦線にも5大国の一端を担うアメリカが参戦した事により、名実ともに世界大戦となった。なお、これに先がける8月にはアメリカとイギリスが大西洋憲章を発表していた。
[編集] 1942年
前年始まった対ソ戦線では怒涛の進撃を見せていたものの、自身が想像していなかったほどの勝利により戦線が伸びきったことや、本格的な冬が来たこともあり、前線における補給に問題が続出したドイツ軍はブラウ作戦中に起こったスターリングラード攻防戦でソビエト軍に対し歴史的な敗北を喫する。
この大敗北の余波もあり、対ソビエト戦線において、ソビエト連邦の首都のモスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始めることになる。またこの頃、北アフリカのエル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍などの連合軍に対する敗北など、北アフリカ戦線においての形勢も徐々に逆転しつつあった。これらの各方面における相次ぐ敗北により、同盟国として頼りないイタリア軍はいるものの、事実上一国のみでヨーロッパ戦線において連合諸国軍と戦うドイツは自らの攻勢の限界を見ることとなり、この頃より、対ソビエト戦や北アフリカ戦での連合国軍に対するドイツの勢いが徐々に収まってゆく。
また、この頃ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートがイギリスとアメリカ合衆国を結ぶ海上輸送網の切断をねらい、北大西洋付近を中心に多くの連合国の艦船を沈めた他、アメリカ合衆国やカナダの大西洋沿岸やカリブ海沿岸にも度々その姿を見せ連合国の艦船に攻撃を加えるなど大きな脅威を与えた。しかし、その後アメリカ、イギリス両海軍が航空機や艦艇によるUボート対策を強化したために、逆に多くのUボートが沈められることとなり、その勢いは急速に削がれることとなる。一方で北アフリカ戦線ではロンメル将軍率いる、ドイツ・イタリア連合軍が快進撃を続けた。
この年の7月から、1933年の選挙での勝利による政権取得以降、国民の支持を元にユダヤ人迫害政策を進めていたドイツ政府による、ポーランドやユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアなどのドイツ軍の占領域内のゲットー住民に対するアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への移送と、ガス室などを使った大量殺戮が始まり、ドイツによるユダヤ人絶滅計画・ホロコーストの実行が本格化することになる。
ドイツによるユダヤ人への大量殺戮は、ドイツの敗色が濃くなりドイツ全土が連合国に占領される直前の1945年初頭まで継続的に行われた。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にもシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者など数万人も含まれる)の死者は数百万人にわたると言われている。
[編集] 1943年
この頃ドイツは、ソ連軍に対し劣勢に陥っていた東部前線のクルスクを巡る戦いにおいて、持てる予備兵力の大半を使い果たし、東部戦線ではこの後二度と攻勢に廻ることはなかった。なお、この年は連合軍による地中海方面への全面攻勢の年であり、東部戦線でソ連軍によるクルスクの戦いが行われているとき、一方でイギリス軍とアメリカ軍はイタリア本土の前哨であるシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シシリー・マフィアなどの協力を得てシチリア島を占領し、次いでイタリア本土への上陸も開始されイタリア戦線がここに開かれた。
連合国軍の本土上陸を許した上に、植民地のエチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、連合軍に対して完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使でムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日に行われた大評議会において開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。この動きに対しムッソリーニの義理の息子でもあるガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら多くの閣僚がこれに賛同し、孤立無援となったムッソリーニは失脚、同日憲兵隊に逮捕され即座に投獄された。
逮捕されたムッソリーニの後任として国王エマヌエーレ3世に任命されたピエトロ・バドリオ元帥率いる新政権は、9月8日に連合軍に対して休戦した。しかし、逮捕された後に新政権によってアベニン山脈のグラン・サッソホテルに幽閉されたムッソリーニは、同月12日にヒトラー直々の任命により救出に駆けつけたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー大佐が率いる特殊部隊によって救出された。その後、かつての盟友であったヒトラーの保護下に降ったムッソリーニは、まだ連合軍の侵攻を受けていなかった北イタリア地域でナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」の樹立を宣言し、同地域は直ちにドイツの支配下に入ることとなった。
このイタリアにおける戦いと、その後のヨーロッパ戦線における戦いでは、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団が、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながらもアメリカの陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど、歴史に残る大きな活躍を残している。
また、この頃より完全に勢いを失ったドイツ軍に対して連合軍が指導権を握った北アフリカ戦線では、フランスの降伏以降自由フランスを指揮していたド・ゴールが、アルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で、残存していたフランス軍を率いてイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍と協調しながら対独抗戦を指導した。
この年に、カサブランカとカイロ、テヘランにて、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦などの連合国各国の首脳による、今後の戦争の方針と戦後の処理が話し合われる会議が相次いで行われた。
[編集] 1944年
この年の4月にソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功した。一方で、すでにイタリアへの上陸を成功させたものの、フランスへの再上陸による西部戦線の構築をきっかけとした本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合国軍は、この年の6月6日に、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、ドイツ軍に占領されている西ヨーロッパ戦線の中核である北フランスのノルマンディー地方に対して、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を行い、多数の死傷者を出す激戦の末見事に上陸を成功させた結果、1940年6月のダンケルクからの撤退以降約4年ぶりに西部戦線が再び構築された。
連合軍は、フランスへの再上陸を果たした後はレジスタンスの協力を受け進軍を続け、8月には1940年以降ロンドンにあったフランスの亡命政権「自由フランス」の指導者であったシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍とレジスタンスを先頭にパリが解放された。なお、この際にドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物だけでなく、パリの市外そのものが大きな被害を受けることはなかった。その後にドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、まもなくフランス全土が解放された。連合軍によってフランス全土が解放されたことにより親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ヴィシー政権の指導者であったフィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になったり国外に逃亡した。
ノルマンディー上陸作戦と同時期に、東部戦線においてソビエト連邦軍によりバグラチオン作戦が行われ、この戦いにおいて虚を突かれたドイツ中央軍集団は崩壊し、勢いをつけたソビエト連邦軍はドイツとの国境付近まで迫った。敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺して連合軍との講和を企む声が日ごとに増し、7月20日には、予備軍司令部参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵らを中心にした反乱グループによるヒトラー爆殺計画が実行されたが失敗した。度重なる暗殺計画の発覚に疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約4000人を処刑させた他、アフリカ戦線の指揮官で陸軍元帥でもあるエルヴィン・ロンメルを暗殺グループの一員と疑い自殺に追い込んだ(なお、陸軍の英雄であるロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され祖国の英雄として盛大な国葬が営まれた)。
この後、ドイツ軍は、ベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を舞台としたバルジの戦いで西部戦線において最後の反攻を試みる。ドイツ軍は、連合国軍に比べ圧倒的に少ない戦力ながらも、綿密に計画された反攻計画が功を奏し、突然の反撃にパニックに陥った連合軍を一時的に押し戻した。しかし、その後体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭うと後退を余儀なくされるなどドイツ軍は東西から攻勢を受け次第に撤退を余儀なくされる。
またこの頃、度重なる敗北で完全に劣勢に陥ったドイツ軍は、かねてから開発中であった世界初ジェット戦闘機であるメッサーシュミットMe262や、同じく世界初の飛行爆弾であるV1飛行爆弾と、次いで超音速で飛行する世界初の弾道ミサイルであるV2ロケットを実用化させ、イギリスおよびヨーロッパ大陸へ次々と上陸してくる連合軍に対し使用したものの、圧倒的な物量を元にすでにヨーロッパ大陸内に深く入り込んだ連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
[編集] 1945年
この年に入り、1939年9月のドイツ軍による侵略以降ドイツによる支配下に置かれていたポーランドは、その全域がドイツ軍の支配から解放され、1月27日にはソビエト軍がポーランド内のアウシュビッツにあるユダヤ人強制収容所を開放した。更にアメリカやイギリスなどの連合国軍がオーストリアやドイツ領内に進むにつれ、その他の多数の強制収容所も開放されてゆき、多くの収容者とおびただしい数の死体が発見され、ドイツがその国力を総動員して行われたユダヤ人絶滅計画とその実行過程の全貌が世界中に向けて明らかになる。
その後ライン川を突破されたドイツ軍は、3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量を前に失敗する。この作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、アルベルト・シュペーア軍需相は聞き入れずほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。
度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い敗走を重ねるドイツ軍は、東のソビエト軍と西のイギリス、アメリカ軍の両方から挟み撃ちにあい、4月16日から17日にかけて、正面のゼーロウ高地以外の南北の防衛線を大幅に突破された。また、同時期にはソビエト軍に首都であるベルリンに迫られ、4月後半に入ると完全に包囲されるまでに陥った。この様な状況下でドイツ軍は、武器らしい武器すら持たない少年や老人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。
この様な絶望的な状況の中、次期総統の座を狙うマルティン・ボルマンにそそのかされたヘルマン・ゲーリングは4月23日にヒトラーに指導権を要求し、その結果ヒトラーが激怒しゲーリングは失脚。その上でヒトラーはオーベルザルツブルグの警察指揮官にゲーリング逮捕を命令するが、まもなくゲーリングが連合軍に投降したため果たされなかった。
枢軸国の同胞であり、イタリアの降伏後はドイツによる傀儡政権の首領となっていたムッソリーニは、ドイツ軍とともに逃亡している最中にイタリア国内でパルチザンによって捕らえられた。その後4月28日にパルチザンによって愛人のクラレッタ・ぺタッチとともに処刑され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。
長年共にいた側近の多くが降伏、もしくは国内外に逃亡し追い詰められたヒトラーは、4月30日にベルリンの地下壕内で前日に結婚したエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺し(毒薬を飲んでとの説もある)、死体は遺言に沿って焼却処分にされた。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にカール・デーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定した。しかし、ソビエト軍がその後スターリンの指示によりヒトラーの遺体を発見したことを隠し続けたため、ヒトラーが国外逃亡したのではないかという疑惑を呼ぶことになる。
その後、5月7日にヒトラーの遺言に基づき、ヒトラーの跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ海軍元帥がソ連を除く連合国に無条件降伏し、翌8日にソ連に無条件降伏。ここにヨーロッパでの戦争は終結した。なお、ドイツ降伏の直前に多くの高官がバチカン上層部などの助けを受けて南アメリカ方面やスペインなどの友好国に逃亡した他、多くの将兵が潜水艦などで南アメリカ方面に逃亡したため、ヒトラーもおなじく潜水艦でアルゼンチンやチリ、さらにはまだ戦いを続けていた唯一の同盟国である日本に逃亡したのではないかという噂が出ることになり、終戦後も暫くの間に渡り連合国によってヒトラーの捜索が行われた。
ヨーロッパ戦線の終結に伴い、同年2月に行われたヤルタ会談に次いで、7月17日からは日本降伏後の処理を話し合うためのポツダム会談が、イギリスのウィンストン・チャーチル首相(会談途中に選挙で政権が労働党に交代し、クレメント・アトリーと交代する) と、4月12日のルーズベルト大統領の急死にともない副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相出席のもと行われる。
[編集] 大戦の経過(アジア・太平洋)
[編集] 1941年
フランスの降伏と親独政権であるヴィシー政権の成立を受け、1940年9月以降行なわれてきた日本軍による仏印進駐への対抗措置として、この年の7月以降イギリスやアメリカ、オランダなどにより日本に対して段階的に行われてきた石油や鉄の禁輸や日本資産の凍結を契機に、日本とそれらの後に連合国となる諸国との関係は緊迫の一途をたどって行った。11月26日にアメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐アメリカ大使に手渡されたハル・ノートの内容を受け、日米間の交渉は完全に決裂し、12月1日に行われた御前会議において、事実上軍部に牛耳られていた日本政府は対連合国の開戦を決意した。なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対してアメリカ政府との交渉の打ち切りを通告していたことを、アメリカ政府は暗号解読によって知っていたといわれている。
その後、12月8日に日本海軍(日本海軍)によって行なわれたハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃や、同日行なわれたタイ国国境に近いイギリス領マレー半島のコタバルへの陸軍部隊の上陸と、二日後のイギリス海軍艦隊に対するマレー沖海戦などの連合軍に対する戦いで日本海軍は大勝利を収めた。なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、来栖三郎特命全権大使によるアメリカ政府への宣戦布告が、駐アメリカ大使館の書記官のタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、結果として真珠湾攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった(なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったにも関わらず、この様に喧伝されることはなかった。更に言えば戦時国際法では最後通牒を事実上の宣戦布告とみなすことができるとするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点でこれは宣戦布告に等しいとみなす考えもある。最後通牒の項も参照されたし)。
日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。また、当時、日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。
しかし、それに対してフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していただけでなく、本土西海岸へ上陸された際の中西部近辺への撤退計画とその後の反撃計画の策定まで行っていた。なお、日本の攻撃を受けルーズヴェルト大統領は、攻撃を受けた翌日に議会において日本に対する宣戦布告決議を行い、宗教的理由で反対票を投じた議員1名を除く全会一致で可決した。
一方、真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、日本海軍航空機(九六式陸攻と一式陸攻)の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、この事が「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島(イギリスの植民地)、フィリピン(アメリカの植民地)、ボルネオ(現カリマンタン)島(イギリスとオランダの植民地)、ジャワ島とスマトラ島(オランダの植民地)などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。なお、このような状況下でフランス本国政府のドイツ軍への降伏に伴う前年の日本軍の進駐以降、ジャン・ドクー提督率いるフランス領インドシナの植民地政府は、日本とヴィシー政権の友好条約に基づき日本との協力関係を継続し、日本に対し戦略物資となるゴムや石炭、米などを供給し続ける。
なお、真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。
![ビルマ国境付近で中国国民党軍と戦う日本兵](../../../upload/shared/thumb/8/87/Salween_River_near_Burma.jpg/180px-Salween_River_near_Burma.jpg)
これに先立ち日本軍は、中国戦線において北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連邦からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。
なお、満州帝国(1932年に日本の協力の元に設立された「五族協和」を国是とした日本の事実上の傀儡政権)や中華民国南京国民政府(1938年に日本の協力の元に汪兆銘を首班として設立された政権)も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
[編集] 1942年
![降伏交渉を行う日本軍の山下奉文大将とシンガポール駐留イギリス軍のアーサー・パーシバル中将](../../../upload/shared/thumb/4/40/Yamashita_and_Percival_discuss_surrender_terms.jpg/180px-Yamashita_and_Percival_discuss_surrender_terms.jpg)
![日本軍に降伏するフィリピン駐留のアメリカ軍兵士](../../../upload/shared/thumb/6/6b/Surrender_of_American_troops_at_Corregidor.jpg/180px-Surrender_of_American_troops_at_Corregidor.jpg)
前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を吹聴していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。
2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在はミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加えを撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、同じくイギリスの植民地であったアフリカ東岸のマダガスカルまで撤退することになる。しかし、日本海軍はこれを追いマダガスカルのディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス軍の戦艦を1隻大破、タンカーを沈没させるなど大きな被害を与えた。なお、日本陸軍も3月中にビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
その後の方針について日本の陸軍と海軍は意見が分かれたが、4月のアメリカ海軍機による突然のドーリットル空襲により、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略が決定される。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍はアメリカ海軍の空母1隻を撃沈したものの、作戦ミスによりアメリカ空母艦載機による攻撃で空母4隻を失うなど開戦後初の敗北を喫した。空母と多くの艦載機を失ったこの敗北は、翌年になり前線が延びきった日本海軍をじわじわ痛めつけることになる。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における敗北の事実をひた隠しにする。
また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたアメリカ海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。その結果、連合軍はアメリカの空母レキシントンを失うなど一方的な損害を負い敗北した。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島及びガダルカナル島に上陸し、航空基地を占領した。これ以来、日米両軍の間でガダルカナル島を巡る戦いが始まる。また、同月に行われた第一次ソロモン海戦でアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍に敗北。10月に行われた南太平洋海戦でもアメリカ海軍は、日本海軍機の猛攻により空母ホーネットや駆逐艦を失った他、他の空母も航行不能に陥り多数の搭載機を喪失するなどの大損害を負い敗北した。これらの相次ぐ敗北のため、太平洋戦線におけるアメリカ海軍の稼働可能な空母は一時的に0隻となった。
なお、各地で激戦が続くこの頃、開戦により敵国に残された両陣営の外交官や駐在員、留学生やそれらの家族を帰国させるための交換船が、日本とイギリス、アメリカの両国との間に数回に渡り運航された。
[編集] 1943年
開戦当初からの破竹の勢いをまだまだ持続していた日本海軍は、年初の1月に行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈した他、駆逐艦1隻を大破するなど、その技量と機動力を生かして一方的な勝利を収める(なお、日本海軍の損失はわずかに航空機10機のみであった)。
しかし、日本海軍とアメリカ、オーストラリア両海軍との間で前年から行われていたソロモン諸島のガダルカナル島を巡る戦いは艦艇・飛行機の消耗戦となり、同海域で4度の海戦が行われたが、結果的に2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。物量と補給、技術の差が勝敗の鍵になったといわれる。また、その後3月に行われたアッツ島沖海戦では両軍ともに損害を与えられずに終結した。
4月18日には、日本の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将(戦死後元帥となる)が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報部による暗号解読を受けたP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国の宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1ヶ月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ軍の情報部により解読されており、アメリカ軍は日本軍の無線の傍受により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦でアメリカ海軍は、日本海軍艦艇の巧みな雷撃により駆逐艦グインが撃沈され、他にも駆逐艦1隻が大破、軽巡洋艦2隻が大破するなどまたもや一方的な大敗を喫する。しかしこの頃、日本海軍の敗北に終わったガダルカナル島の戦いに続き、ニューギニア島では日本海軍とアメリカ、オーストラリア両海軍を中心とした連合軍の両海軍の激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本海軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきたこの年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。戦いは南西太平洋方面の連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦」により島嶼を奪い合うものとなリ、11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いに日本海軍が敗北し、同島がアメリカ海軍に占領されることになる。
日本の東条英機首相は、同月に満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を内外に誇示した。しかし、この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北からようやく態勢を立て直した上、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく1国で戦う上、相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に問題が出てきた日本軍の勢力関係は急速に逆転して行く。
[編集] 1944年
![インド国民軍指導者のスバス・チャンドラ・ボース(右)](../../../upload/shared/thumb/d/da/Bose_Gandhi_1938.jpg/180px-Bose_Gandhi_1938.jpg)
日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていたイギリス領インドおよびビルマ方面において3月に日本陸軍が行なった、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留するイギリス軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦は、スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開せんとする9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により約3万人が命を失うなど、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。また、同作戦の失敗によりアウン・サン将軍率いるビルマ軍に連合軍に寝返られ、結果として翌年には日本軍がビルマを失うことになる。
この頃、連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、アメリカが日本本土に本格的な空襲を行える長距離大型爆撃機(ボーイングB-29)を急ピッチで開発しているとの情報を密かに入手し、本土防衛のため及び戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こすが、失策が重なりアメリカ海軍の機動部隊に敗北する。その後陸上では7月にサイパン島が陥落し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより日本の東北地方の大部分と北海道を除くほぼ全土が本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。
これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発完了にはまだ時間がかかった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たる物でしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。
各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職した。
この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。
この年の10月には、戦争初期に日本軍に大敗し、フィリピンからオーストラリアに逃げ去ったマッカーサーの威信をかけたフィリピン反攻作戦が行われた。これを阻止するために行われたレイテ沖海戦において、日本海軍はアメリカ海軍の空母3隻を撃沈するなどしたものの、圧倒的な手持ち戦力の差と指揮系統の乱れもあり空母4隻と戦艦3隻などの主力戦力を失うなど歴史的な大敗を喫し、ここに一時は世界最強を誇った連合艦隊は事実上壊滅する。なお、この戦いにおいて初めて特別攻撃隊が組織される。
その後、12月にフィリピンのミンドロ島沖で行われた礼号作戦(ミンドロ島沖海戦)で日本海軍はアメリカ海軍に対し勝利を収めるものの、もはや大勢に影響を与えることは出来ず、フィリピン全土は連合軍の手に渡ることになった。南方の要所であるフィリピンを失ったことにより、マレーやインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。
[編集] 1945年
前年末から、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化し、東京、横浜、大阪、名古屋、福岡、富山、徳島、熊本など、東北地方と北海道を除く多くの地域が空襲にさらされることになり、日本軍はB-29を撃墜する為の新型ジェット戦闘機「橘花」などの迎撃機の開発を進めることになる。さらにこの年に入りアメリカ軍のカーチス・ルメイ少将の指揮による非武装の民間人に対する無差別空襲が頻繁に行われるようになるが、迎撃する戦闘機も熟練した操縦士も度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま本土の制空権さえも失っていく。
また、この一連の爆撃に先立ち、硫黄島の戦いが行われ、日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島を日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB29爆撃機の不時着地として整備することになる。硫黄島の戦いが行われている最中の3月10日には東京大空襲が行われ、この頃から日本の大都市や軍需工場の多くが本格的な空襲を受けて行くことになる。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や機雷の敷設により制海権も失っていく中、日本軍は練習機さえ動員し、体当たりによる自爆攻撃、いわゆる「特別攻撃隊」による必死の反撃を行う。
なお、この頃満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連邦の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。
日本軍は1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府および駐留フランス軍を武力によって解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたために連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行なわなかった。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。
その後、5月7日には唯一の同盟国であったドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙して行くことになる。この様な状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、この様な状況に陥ったにもかかわらず、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介に期待してポツダム宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。もしポツダム宣言をすぐに受け入れていれば広島・長崎への原爆投下はなかった可能性が高いといわれている。
![沖縄の宜野湾付近に展開するアメリカ兵](../../../upload/shared/thumb/c/cd/On_the_Ginowan_road.jpg/180px-On_the_Ginowan_road.jpg)
その頃、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は次に沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、沖縄戦の支援のために片道の燃料だけを積み沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和も4月7日に撃沈され、残るはその燃料にも事欠いたわずかな空母や戦艦のみとなり、ここに日本海軍が誇った連合艦隊は完全に壊滅した。
この頃には、日本軍の制空権や制海権の完全な喪失に伴い日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与えるなど、日本陸海軍も必死の反撃を行うものの、戦争経済に関する大局観を当初から欠いていた日本の降伏はもはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの、日本軍の軍民を結集した強固な反撃により双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想された。
![原子爆弾が投下された直後の広島](../../../upload/shared/thumb/b/b7/Atomic_cloud_over_Hiroshima.jpg/180px-Atomic_cloud_over_Hiroshima.jpg)
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという目的と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。
その直後に、1941年4月より日ソ中立条約を結んでいた共産主義国であるソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、締結後5年後の1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本が事実上占領していた中国東北部(満州国)へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗も出来ないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州と南樺太などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した上に、満州・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦され(このことをソ連軍による報復的強姦という)、満州から引き上げる日本人女性は中華民国国民党軍に拉致され慰安婦にされる、などして、日本は多大な被害を被った。
このような事態にいたってもなお日本軍部指導層は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし裕仁(昭和天皇)の和平を尊重するという意思を受けた鈴木貫太郎首相率いる日本政府は、8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の裕仁による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内庁などを襲撃する事件を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日には、連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かうなど、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。その様な中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。
また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した溥儀皇帝は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。
その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリア、フランスやオランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに、1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
[編集] 大戦中の会談
[編集] 枢軸国
[編集] 連合国
[編集] 大戦の結果(ヤルタ体制)
ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏し、世界で6千万人といわれる犠牲者を出した史上2度目の世界大戦は終わった。その後、第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいて、敗戦国には賠償要求せず国家を再建するためヨーロッパではマーシャルプランが作られ、日本にはイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などが進駐し、アメリカ陸軍のマッカーサー元帥を最高司令官とするGHQによる、アメリカ軍主導の戦後処理が行われた。
[編集] 戦争裁判
その一環として、国際軍事裁判所条例に基づき、ドイツ・日本の戦争犯罪を追及するためニュルンベルク裁判、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた。この裁判では、連合軍の行為については審理対象となっていないため、戦勝国側が敗戦国側に対して戦時中行なった国際法違反の戦争犯罪(原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲、ソビエト連邦のドイツのベルリンでの残虐行為や、中立条約を結んでいた日本や満州国に対する侵略・略奪行為、その他捕虜の虐待、虐殺など)についての責任追及は全く行われていないばかりか、それを正当化さえしている。また、大戦初期における、ソ連邦によるポーランド、フィンランドに対しての侵略も不問とされている(カティンの森事件については1992年にロシア政府が謝罪した)。また、東欧諸国からの民族ドイツ人の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留など戦後の事例について、戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものの、同じく不問とされている。
[編集] 冷戦の始まり
この大戦によって枢軸国として戦った日本、ドイツ、イタリアの三国は軍備を解かれ、自立して自国防衛が可能な国家ではなくなり、いわゆる列強ではなくなった。全体主義国家と自由主義国家の争いは前者が解体されることによって終末を迎えたが、今度は戦争によってそれまで隠されていたソビエトを中心とした共産主義国と、イギリス、アメリカを中心とした資本主義国との闘争が前面に出てくることになる。
[編集] ヨーロッパ
ヤルタ体制の中で東欧諸国は否応なく、チャーチルが名づけたところの「鉄のカーテン」の向こう側である共産主義体制に組み込まれることとなり、ドイツという共通の敵を失ったソビエトとアメリカは、その後1980年代の終わりまで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。また、フランスやイギリス、ソビエトなどの主要連合国はアメリカに倣い核兵器の開発・製造を急ぐこととなる。
[編集] 東アジア
東アジアでは、国内の対立を抗日という同一目標により抑えていた中国大陸の中国国民党と中国共産党の両勢力は、再び内戦状態(国共内戦)となり、アメリカが政府内の共産主義シンパの策動を受け中国国民党への支援を縮小したこともあり、ソビエトの支援を受けた中国共産党勢力が最終的に勝利した。その後中国共産党は1949年に北京を首都とした中華人民共和国を建国し、中国国民党は台湾に逃れることとなる。
一方朝鮮半島では、撤退した日本に替わり、38度線を境に南をアメリカをはじめとする連合国が、北をソ連が統治することになり、その後それぞれ大韓民国と北朝鮮として独立を果たす。しかし、ソ連のスターリンの承認を受けた金日成率いる北朝鮮軍が1950年に突如、大韓民国に侵略を開始。ここに朝鮮戦争が勃発することになる。なお、開戦後50年以上経った現在も南北朝鮮の間の戦争は公式には終結しておらず、北朝鮮と大韓民国側に立つ国連軍との間で一時的な休戦状態が続いている。
[編集] 東南アジア
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、様々な要因(日本軍占領下での独立意識の鼓舞、日本軍統治下で創設された対日協力軍の独立軍への転化、戦前から独立が予定されていた、直接支配がもはや利益を齎さないと判断され放棄された、本国で人道上の理由により植民地支配への批判が高まった、など)により大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立した。
[編集] 中南米
中南米は直接戦争による被害を受けることは殆どなかったが、戦後において、共産主義思想の浸透を懸念したアメリカが、ただ「反共産主義的である」という理由だけでチリやキューバ、ブラジルなど多くの軍事独裁政権に対し経済的、政治的な援助を行った。その結果、冷戦の終結によってアメリカがこれらの軍事独裁政権に対する援助を中止した1990年代初頭までの長きに渡って(1959年に起きたキューバ革命によって社会主義政権になったキューバを除いた)殆どの中南米諸国の国民は、腐敗した軍事独裁政権下で不安定な政治と富の独占、そしてそれがもたらす貧困にあえぐこととなる。
[編集] 大戦による領土の変化及び関連の諸問題
[編集] 日本
日本は、「アジアの列強植民地の解放」と言う名目で、当時列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、これを解放した。支配地域のなかのいくつかの国々では、日本に友好的な指導者を前面に立てて独立の支援を行った。
しかしその反面、戦勝国である中華民国に代わり現在中国大陸を統治する中華人民共和国や大韓民国、北朝鮮といった当時、併合した国や保護下に置いた地域にその後出来た3国との間に非常に強い遺恨を残す事になり、現在もそれに纏わる問題で日本側が非難される事が多い。
[編集] 領土の喪失
- 日清戦争以後に獲得した海外領土を全て失う事となり、関東州租借地を中華民国(中国、以下同)に返還した。
- 韓国併合以降の朝鮮半島の実効支配を喪失し、アメリカ・ソ連軍両軍による分割占領状態になった。これが1948年以降の南北分断、そして1950年の朝鮮戦争につながっていく。
- 委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島の実効支配を喪失し、アメリカによる信託統治に移行した。
- 沖縄戦によりアメリカ軍に占領されていた沖縄島をはじめとする琉球諸島(大東島・沖大東島を含む)や先島諸島(尖閣諸島を含む)は日本の潜在的主権を維持したままアメリカ軍政下に入り、アメリカ統治下になった。一時は奄美諸島もアメリカ統治下に入ったが、1972年までに全ての地域が日本に復帰した。
- 小笠原諸島・火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島もアメリカの施政権下に入った。これらの地域では一部の欧米系住民以外の民間人居住を認めなかったが、1968年に日本に復帰した。
- 南樺太・千島列島の実効支配を喪失し、ソ連邦による統治が開始された。ただし、日本政府は法的にはこの地域の帰属を未確定と主張している。また、日本政府は千島列島南部の国後島・択捉島について、日露和親条約により平和的手段で領有が確定していた固有の領土と主張し、北海道の属島である歯舞諸島・色丹島とともに支配を続けるソ連邦に対して返還を強く求める事になった(北方領土問題)。
[編集] 連合国による占領
- 終戦後直ちにイギリス、アメリカ、フランス、ソ連などを中心とした連合国諸国による占領が開始され、司令部となる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に置かれた。
- なお、この当時連合国諸国による分割統治計画があったが、基本的にはアメリカを中心とした占領となった。もしイギリス、アメリカ、フランスなどの所謂西側諸国と、共産主義国のソ連邦による分割占領が行われていた場合、日本がドイツと同じように長年にわたって2つの国に分裂していた可能性が高いと言われている。
[編集] 戦犯問題
![拘留される山下奉文陸軍大将](../../../upload/shared/thumb/d/d8/Japanese_General_Tomoyuki_Yamashita_03.jpg/180px-Japanese_General_Tomoyuki_Yamashita_03.jpg)
- 勝者である連合軍によって多くの日本の軍人や政治家、民間人が戦犯として裁かれることとなり、その罪状内容により主にA級戦犯とB・C級戦犯の3種に別けられ、日本国内だけでなく日本以外のアジア各地で裁判が行われ多くが処刑された。勝者が敗者を裁くという構図のもと、きちんとした証拠も弁護人も不十分なまま、ずさんな手続きにより処罰・処刑が行なわれたと言われる(私怨による密告だけを元に処刑されたものがほとんどとする意見もある)。
- 極東国際軍事裁判についても、戦犯指定のあやふやさや証拠不十分、裁判中の度重なる通訳のミスや恣意的な裁判進行など、その内容は稚拙であったとする後年の指摘がある。
- 満州国瓦解時にソ連軍により約60万人もの日本軍将兵が捕虜となり、違法にソ連領土内で強制労働させられその多くが栄養失調や凍死で死亡した。
[編集] 戦時賠償・抑留問題
- 対戦国や植民地下においた諸国との戦時賠償については、日本国との平和条約の締結以後、国家間での賠償が進められた。
- この他、シベリア抑留(戦争末期の満州を巡る戦いで捕虜とされた日本兵が長くシベリアに抑留され、強制労働に服し、多くは死亡した)・残留孤児・残留婦人問題、在日アメリカ軍基地(沖縄を始めとする各地にアメリカ軍の基地が存在しており、騒音問題やアメリカ軍人による日本人女性への強姦などアメリカ兵による犯罪が多発していることもあり、返還が議論されている)等の問題が現在も残っている。
[編集] 皇室制度
- 天皇制を維持するか否か(国体問題)は、連合国占領軍の大きな課題であったが、多くの国民の支持を受け続けていた天皇制を廃止すると逆に占領統治上の障害が生じるとして、ソビエト連邦やアメリカ軍内の一部の共和制支持者の反発を退け、共産主義の伸張を食い止める目的もあり天皇制は維持されることに決定された。これに伴い昭和天皇は統帥権の放棄を行うなど戦前に儀礼的に就いていた全ての地位から退き、新たに「国民の象徴」という地位を持つことになった。
[編集] 新憲法
1946年11月3日には、連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって作成された「日本国憲法」が公布された。
この様に、占領下であったとは言え、植民地や統治領ではない一独立国家の憲法が、諸外国の主導で作成、公布され、占領後も使われ続けているのは歴史上例を見ない。また、その内容が、日本の世界における軍事覇権的地位を復活しないために日本の軍事力を削ぎ、行動を規制するものであったことから、冷戦時代は日米間の軍事協力に不都合なものとなり、冷戦後には国連などによる国際協力体制で軍事力の行使を含む平和維持活動を求められた際に問題となっている。冷戦時代より、この憲法が日本を不当に押さえ込む「押し付け憲法」と考え、改憲により「自主憲法」に変えようという主張・勢力が存在したが、近年では自由民主党や民主党などの議員を中心にその動きが盛んである。
[編集] 満州国
- 満州国は1945年8月のソ連軍の侵攻後に、事実上の宗主国である日本が連合国に降伏したため瓦解し、その後満州地域の支配権はソ連の占領を経て中華民国に移譲された。
- 皇帝である愛新覚羅溥儀は8月に退位し、その後日本へ逃亡する途中に侵攻してきたソ連軍に一緒に行動していた側近・閣僚とともに捕らえられ、その後1950年に中華民国の国民党政府ではなく、ソ連と友好的関係にあった中華人民共和国の中国共産党政府に引き渡され戦犯として服役した。
- なお、皇室の一部は戦後日本に逃れたものの、溥儀の退位と逮捕、その弟である愛新覚羅溥傑などの主要皇族の逮捕に伴い皇室も事実上消滅した。
[編集] 中華民国
![中華民国国民議会代表(1946年)](../../../upload/shared/thumb/f/f4/ROC_Taiwan_delegates.jpg/180px-ROC_Taiwan_delegates.jpg)
- 終戦以降、連合国および戦勝国としての正式な地位は中国国民党の蒋介石率いる中華民国にあった。
- 清代以来日本が租借していた関東州を全て回収し、崩壊した満州国に代わり満州全土での主権を回復した。ただし、同盟国であるソ連の要請により、旅順・大連両港や旧東清鉄道の租借権が改めて貸与された。
- フランスから広州湾租借地の返還を受けたが、イギリス領や同国租借地から成る香港はイギリス支配に復帰した。なお、マカオは中立国であったポルトガル領のままとなった。
- 日清戦争で失った台湾島を日本から回復した。ただし、他の大陸内の租借地と異なり、台湾では既に中国大陸と異なる住民意識が醸成されていたため、急速な中国化・非日本化政策を進める中華民国政府との緊張関係が高まり、1947年に二・二八事件が発生した。
[編集] タイ
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、当初より枢軸側として参戦していたが、その裏で連合軍側への鞍替えに向けた活動を行っていた。戦後は、当時の指導者であるプレーク・ピブーンソンクラームの主導による枢軸国側での参戦は日本の軍事的圧力によるものと主張し、鞍替え参戦に向けた活動の連合国側の窓口であったアメリカの口ぞえにより、敗戦国としての扱いを免れた。
一方で、タイへの勢力進出をねらっていたイギリスは敗戦国として処理した。これにより、タイ王国はフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧領土を再びフランス、イギリスに取られた形となったが、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持する事になった。
[編集] フランス領インドシナ
日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。
[編集] オランダ領東インド
オランダ領東インド (インドネシア)では、日本の軍政に協力していた独立派が日本の降伏直後にスカルノを大統領とするインドネシア共和国の独立を宣言し、オランダとの独立戦争に突入した(インドネシア独立戦争)。
この戦争には、元日本軍将兵、約2000名が義勇兵として独立軍に参加している。インドネシアの国営英雄墓地では、その戦争により戦死した約1000名の日本軍将兵が埋葬され、6人の日本人が独立名誉勲章(ナラリア勲章)を受賞した。この戦争の結果、1949年12月のハーグ円卓会議により、オランダは正式にインドネシア独立を承認した(ハーグ協定)。
なお、インドネシア政府は、日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)締結時に、オランダが日本のオランダ領東インドに対する軍事侵攻に対して「被害者」の立場をとり、その後、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したことに対して、「(オランダは、侵攻してきた日本に対し被害者ぶるが)インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」として強く批判している。
[編集] イギリス領マラヤ
イギリスはマレー半島に居住する各民族に平等の権利を与え、シンガポールを除く海峡植民地とイギリス領マラヤ諸州から成る「マラヤ連合案」を提示した。華僑とインド系住人はこれに賛成したが、マレー人には不評で、その結果、ダトー・オンを党首とする形で、統一マレー国民組織(UMNO)が結成された。
イギリスは、1946年に発足したマラヤ連合との間で1947年にマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足した。しかし華僑はこれに不満で、同年主として華僑から成るマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。だが、マラヤ共産党の弾圧、その後各民族系政党が集まった(UMNO、マレーシア・インド人会議(MIC)、マレーシア華人協会(MCA))アライアンスの結成と独立の準備は着々と進んでいった。1955年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め(52議席中51議席をアライアンスが占めた)、1957年8月31日にマラヤ連邦はマレーシアとして完全独立を果たした(詳細は、統一マレー国民組織を参照)。
一方、シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり、その後は自治国となり完全独立をめざすこととなった。サラワクと北ボルネオ(現在のサバ州)も戦後イギリスの直轄植民地となり、段階的に自治の供与が始まった。多大な石油資源を持つブルネイは保護領のままで、その独立は1980年代まで持ち越されることになった。
[編集] アメリカ領フィリピン
フィリピンでは日本の占領下において独立をはたしたが、終戦後に再びアメリカの統治下に戻され、戦前にアメリカが計画していたタイムスケジュールの元、1946年7月4日にマニュエル・ロハスを初代大統領にフィリピン共和国として独立を果たした。しかしアメリカ軍基地が国内に残され、多くのアメリカ資本が居座るなどアメリカの影響は残され、事実上アメリカの植民地状態が継続されたたままであった。
[編集] イギリス領インド
戦後も暫くの間はイギリスによる統治が続いたものの、大戦の結果経済が疲弊し国力が落ちたこともあり、植民地に対する統治能力を失いつつあったイギリスは、マハトマ・ガンジーやジャワハルラール・ネルーらインド国民会議派が指導する独立運動の激化に耐え切れず、大戦終結後3年を経た1948年にインドの独立を承認した。
しかし、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の宗教対立もあって、ムハンマド・アリー・ジンナー率いるイスラム教国であるパキスタンが分割独立し、その後同じくイスラム教徒を中心としたバングラデシュも分離独立した。
[編集] ドイツ
ヨーロッパのみならず世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーはその責任を逃れるために敗戦直前に自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングやヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルグ裁判で裁かれることになった。
その他にも、ヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールや、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていたココ・シャネルなど、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担した芸術家や実業家なども戦後罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。
[編集] 高官の国外逃亡と責任逃避
しかし、終戦直前にアドルフ・アイヒマンなどの多くのドイツ政府高官が、自らの身を守るためにドイツ国内外のナチス支持者(一部の西ドイツの政府高官もその逃亡に有形無形の援助を行った)やバチカンの助けを受けスペインやアルゼンチン、チリなどの友好国に逃亡し、そのまま姿を消した。その一部はその後イスラエルの情報機関であるモサドや、「ナチ・ハンター」として知られるサイモン・ヴィーゼンタールなどの手で居場所を突き止められ、逮捕された後にイスラエル政府などによって裁判にかけられたものの、残る多くは現在に至るまで逃げおおせ、姿を消したままである。
この様な政府高官の大量逃亡は、日本など他の枢軸国では見られなかったことから、これらの逃亡したドイツ政府高官らが一時的に他国に逃れてナチス党の再興を目指すのではないかという疑念を呼んだ。
また、ユダヤ人に対する人種差別や積極的な軍拡を売り物にしたナチス党を選挙で合法的に支持・選択し、ユダヤ人の絶滅政策やその他の民族に対しての抑圧、近隣国への侵略を積極的に後押しした当時のドイツ国民に対する批判は多い。しかし、現在のドイツ政府は、基本的には謝罪の姿勢を積極的に示し諸外国への賠償を行ったものの、同時に「それらの政策はナチス党が行ったもので、それを支持し選挙で選択した国民に罪はない」というような矛盾した姿勢を取るため、罪をすでに消滅した(しかし、当時の国民からの圧倒的な支持を受け政権の座に着いた)ナチス党に押し付けることで、国民自らの責任を逃れようとする二枚舌的な姿勢であるという批判が多い。
[編集] 領土の喪失
- 第一次世界大戦後も領有していた東プロイセンや、ナチス政権が回復した旧ドイツ帝国の領土であるダンツィヒやポーランド回廊など、オーデル・ナイセ線以東の広大なドイツ領を喪失した。
- ナチス政権がミュンヘン会談によりチェコスロバキアから獲得していたドイツ人居住地域のズデーテン地方はチェコスロバキアに返還された。
- これらの地域からドイツ人は追放され、大量のドイツ避難民が移動する中で多くの死者が出た。
- この他、大戦中にドイツが併合した地域(その多くが第一次世界大戦までの旧ドイツ帝国領)は、フランス(アルザス・ロレーヌ)・デンマーク(シュレスウィヒ・ホルスタイン)・ベルギー・ルクセンブルクの諸国にそれぞれ返還された。
- 西部のザールラントは自由州として分離され、フランスの管理下に置かれたが、その後、1957年に住民投票で西ドイツに復帰した。
- ナチス政権が併合したオーストリアはドイツの被占領地域から分離され、1955年のオーストリア国家条約でドイツとの合併は永久に禁止された。
[編集] 東西分割
![建設中のベルリンの壁(1961年)](../../../upload/shared/thumb/8/80/Berlin_Wall_1961-11-20.jpg/180px-Berlin_Wall_1961-11-20.jpg)
- 前記の境界変更を行った上で、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国によりドイツ全土の分割統治が始まり、中央政府は消滅した。
- ドイツ東部のソ連占領地域内にある旧首都ベルリンについては、全土の分割とは別に改めて上記の4ヵ国(アメリカ・イギリス・フランス管理エリアとソ連管理エリア)により東西分割された(1990年に再統一)。やがて1948年にはベルリン封鎖が起こり、ソ連と他の3ヵ国の対立が激化した。
- 1948年にはソ連占領地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が、1949年には他の3ヵ国の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立して、民族分断が確定し、東西冷戦の最前線となった。
[編集] 賠償
ソ連は戦争により被った膨大な被害に対する賠償として、ドイツ東部における自国占領地帯で工業施設の解体・移送を行なった。このことが東ドイツの発展を阻害し東西ドイツの経済格差を生み出す要因となった。また、ダイムラー・ベンツやクルップ、メッサーシュミットなど、ドイツの戦争遂行に加担し、強制労働に駆り出されたユダヤ人を利用した企業は、膨大な賠償金の支払いを課せられることになった。
[編集] オーストリア
- 1938年にドイツによって併合(合邦)されたドイツとは分断され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4ヵ国によりオーストリア全土が分割占領された。
- これとは別に、首都のウィーンもドイツのベルリンと同じく上記の4ヵ国により分割占領された。
- ただし、ドイツとは異なり、ナチスによる併合により消滅していた中央政府が復活し、第二共和制が発足して、文民統治を維持した。
- その後、冷戦の激化にもかかわらずオーストリア政府は国家統一の維持に成功し、1955年のオーストリア国家条約により主権を回復した(永世中立国宣言、ドイツとの合邦を永久に禁止)。
- ドイツへの併合に協力し、その後オーストリア・ナチス党の指導者になった(さらにドイツの外務大臣にも就任した)アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルグ裁判で裁かれ死刑になった。
- 冷戦終結後、国家分断の危険から遠ざかるにつれて第2次大戦以前にドイツに併合され、多くのオーストリア人がそのままドイツ軍の一員として戦争行為に加担した事に対する戦争責任について問い直す動きが見られる
[編集] イタリア
[編集] 領土の喪失
- 第一次世界大戦で獲得した「未回収のイタリア」のうち、トリエステは国連管理下の自由市となった。
- その後、1954年にトリエステ自由市の半分以上を占めるイストリア半島をユーゴスラビア(現在はスロベニアとクロアチア-この時にリエカ(フィウメ)を獲得-)に割譲し、トリエステ市を含む北西部がイタリアに復帰した。
- エーゲ海東部のドデカネーズ諸島をギリシアに割譲した。
- 参戦前の1939年に宣言したアルバニア併合が無効とされ、アルバニアの独立が完全に回復された。
- 戦争中にイギリス軍に占領されたトリポリ、キレナイカ(共に現在のリビア)、ソマリランド(現在のソマリア)等のアフリカ植民地を放棄し、これらの地域はイギリスの委任統治領になった。
[編集] 共和制移行
- ファシズム独裁への揺り返しから共産主義的な雰囲気が支配していた1946年に行われた国民選挙によって、その政権奪取よりファシスト党とそれを率いるムッソリーニに対し友好的な態度を取り続けていたウンベルト2世は廃位され、国外追放となり、サヴォイア家のイタリア王国は終焉を迎え共和制に移行した。
- なお、新たに制定された憲法で、元国王であるウンベルト2世およびその直系男子のイタリア再入国を禁止する条項が制定された。この条項が破棄され、「元王族」となったサヴォイア家のメンバーがイタリアに再び入国できるようになるまでには50年以上の年月がかかった。
[編集] フィンランド
大戦中にソビエト連邦の侵略を受け、それに対抗するためにドイツの協力を仰いだために敗戦国扱いを受け、侵略者であるソビエト連邦から戦争犯罪に問われる事になった。
[編集] イギリス
- 日本の敗戦によりシンガポール、マレー半島や香港などの日本の占領下に置かれた植民地がイギリスの手に戻り、前記の2地域は1960年代に至るまで、香港は1997年に至るまでイギリスの植民地であった。
- インドは戦後もイギリスによる統治が暫く続いたものの、独立運動の激化により1948年に独立を承認した。
- 敗戦国のイタリアがトリポリ、キレナイカ(共に現在のリビア)、ソマリランド(現在のソマリア)等のアフリカの植民地を放棄し、これらの地域はその後しばらくの間イギリスの委任統治領になった。
- 戦後のこれらの植民地の相次ぐ独立により、イギリス帝国の威光は完全に過去のものとなったものの、これらの元植民地の多くはその後もイギリス連邦の一員としてイギリスとの絆を強く保っている。
[編集] フランス
- ドイツの事実上の傀儡政権であるヴィシー政権は崩壊し、首班のフィリップ・ペタン元帥は逮捕され死刑判決を受けたもののその後政権を担った自由フランスの指導者であるド・ゴールにより終身刑に減刑された。また、ココ・シャネルなど多くの対独協力者が断罪され、投獄されたり死刑となった。
- モロッコやアルジェリアなどのアフリカの植民地を回復したものの、戦後のフランスの国力低下に伴いそのほとんどが独立することになる。
- 本土がドイツに占領された後より、事実上日本の影響下にあったフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に独立運動指導者のホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言したものの、植民地支配の復活を狙うフランスとの間に第一次インドシナ戦争が起こり、これは後のベトナム戦争につながることになる。
[編集] ソビエト
[編集] ヨーロッパ地域
- ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。
- 開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。
- 東ドイツやポーランド、ブルガリアなどに親ソ共産政権を樹立し、事実上の衛星国とし影響下においた。
[編集] 極東地域
- 日本領の南樺太(サハリン南部)・千島列島・色丹島・歯舞諸島を終戦後の1945年8月28日から9月5日にかけて侵攻し占領した。1946年2月2日に、これら南樺太および千島列島の領有を宣言する。なお、これに対して日本は公的には認めておらず、択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島の北方領土については日本の領有を主張し、南樺太と得撫島(ウルップ島)以北については帰属未確定としている。(詳細は北方領土を参照)
- 日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。これは中華人民共和国の成立後、1955年まで続いた。
[編集] バルト三国
ロシア革命後に独立を果たしたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は、1940年にソビエト連邦に強制的に併合された。その後はナチス・ドイツの占領下に入るなどしたものの、大戦終了後に再度独立することなくソビエト連邦に併合される。エストニア、ラトビアの国境も変更され、ソ連の一共和国になった。再度の独立は冷戦後の1991年まで待つことになり、エストニア、ラトビアはロシアと国境問題を抱えることになった。
[編集] ポーランド
- 1939年にソ連に占領された東部地域は回復されず、そのままソ連領(現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ)に編入された。
- その代償として、ポーランド回廊をドイツから回復した上、オドラ川(オーデル川)及びニセ川(ナイセ川)以東の旧ドイツ領やダンツィヒ自由市(現在のグダニスク)を併合し、ポーランド領土は大きく西方へ移動した。
- その後、この新たなドイツ=ポーランド国境(オーデル・ナイセ線)の承認が、戦後に成立した西ドイツ政府の大きな政治課題となった。
[編集] チェコスロバキア
- ナチス・ドイツにより解体状態だった国家が再建され、ズデーテン地方も回復した。なお、この際に起こったドイツ人住民の集団追放はその後の西ドイツとの関係に影を落とした。
- ドイツの保護国だったスロバキアはチェコと一体となった共和国に復帰した。ハンガリーに奪われた南部の領土は回復したが、一部はソビエト領(現在のウクライナ)として併合された。
[編集] ハンガリー
第一次世界大戦後に失ったチェコスロバキア(ブラチスラバを含む)やユーゴスラビア(現在のセルビアのボイボディナ自治州など)のハンガリー人居住地域を併合したが、敗戦により無効とされ、第一次大戦後の国境線まで後退した。
[編集] ユーゴスラビア
[編集] アメリカ
[編集] 日本占領
- 日本の占領を連合軍の中で中心的に行い、アメリカにとって有益となる占領政策を行った。連合軍による日本占領の終了後もアメリカ軍基地を数多く残し、また、政財界に大きな影響力を堅持するなど日本を実質的な影響下におくことに成功した。
- イタリア上陸時にアメリカ軍がマフィアを使ったように、暴力団を占領下における左翼勢力を押さえ込むための暴力装置として活用し、そのことによって暴力団に大きな資金が転がり込み、勢力を飛躍的に伸ばす結果を生んだ。
- 日本領土である沖縄や小笠原諸島、奄美諸島を、戦後20年以上アメリカ軍の施政権下に置いた。
- 撤退した日本軍に代わり朝鮮半島の南部を占領した。大韓民国の独立後も朝鮮戦争期を経て現在に至るまで同地域にアメリカ軍基地を残したままである。
[編集] フィリピン統治
- 戦前から植民地として統治していたフィリピンにおいても日本と同じくアメリカ軍基地を残した他、その独立後も多くの権益を残し政財界に対し大きな影響力を残した。
[編集] 太平洋諸島統治
- 日本による委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島を日本が放棄し、アメリカによる信託統治に移行した。
- ミクロネシア連邦を1986年に、パラオを冷戦後の1994年に独立。グアムや、サイパンを含む北マリアナ諸島などはその後もアメリカの統治下にある。
- 1898年以降自治領としていたハワイ諸島の実効支配を戦争終結後も続け、1950年には州に昇格させた。この結果19世紀末にアメリカに侵略されたハワイは完全にアメリカに組み込まれることになった。
[編集] マフィアとの協力
連合国軍のイタリア上陸時における、イタリア系マフィアの現地協力組織による連合軍に対する情報提供や後方支援の他、アメリカ国内の港湾地域における対スパイ活動と引き換えに、アメリカ当局が当時アメリカ国内に収監されていたイタリア系マフィアの指導者の多くを減刑、もしくは釈放したことにより、戦後それらの組織がアメリカ国内で大きな力を持つことになった。
[編集] 新たに登場した兵器・戦術
[編集] 兵器
電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、4輪駆動車、核兵器が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは戦争の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは戦争初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。
第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化された日本の零式艦上戦闘機やドイツのメッサーシュミットBf109のような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、川西航空機九七式飛行艇のような飛行艇や大型グライダー、ジェット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。
また、アメリカのダグラスDC-3やボーイングB-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、ジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。
[編集] 戦術
戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海上作戦(日本)、ボーイングB-29やB-17のような4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への無差別爆撃(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、非戦闘民に対する核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。
[編集] 評価
[編集] 大戦と民衆
第一次世界大戦に始まった国家総力戦により、一般民衆はそれまで以上に戦争とかかわることとなった。第二次世界大戦では、戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃。ドイツによるホロコーストなどの一民族に対する大量虐殺、日本による中国での大規模な破壊・略奪・虐殺を行った「三光作戦」(燼滅作戦)など、戦争により空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対してパルチザン・レジスタンスとしてゲリラ的に蜂起することを余儀なくされ、民衆自身が戦争当事者として戦争に引きずり出された。
- 「三光作戦」という呼称に着目し、これは日本語として不自然な漢語由来の名称であるから作戦自体が中国のプロパガンダであるとする主張もある。
また、動員期間が長くなることによって婦女子の産業及び軍事への進出が第一次世界大戦時よりも更に進んでいた。しかしこのことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。また原子爆弾をはじめとした非戦闘員を主な標的にした大量破壊兵器の登場は、民衆の反戦に対する意識を向上させ、大戦後の反戦運動・反核運動へ繋がっていった。
[編集] 戦後と植民地解放
イギリス、オランダ、フランス、アメリカなどの連合国によって長年植民地とされていたアジアの各国は、緒戦における日本軍の勝利に伴う占領により一時的に宗主国の支配下から切り離されることとなった。これによって、日本のような非白人国が白人国の旧宗主国に対し勝利を収めたことを、植民地にされていた各国の国民が直接目にすることとなった。このことは、これらの被植民地の国民にとって、旧宗主国ひいては白人に対しての劣等感を払拭する大きな力となったと、後に中華民国総統となった李登輝やマレーシアの首相となったマハティール・ビン・モハマドなどの当時の被植民地の後の指導者の一部が述べている。
また、敗北した日本軍の武器が、戦後の権力の空白時に独立運動を進める現地の運動家の手に渡ったことなどから、その後の独立運動にとって大きな影響があったとされるが、実際にはイギリスやオランダ、アメリカなど連合軍の兵器も多数が独立運動側に流出した。これを捉えて「日本は植民地解放の手助けを行った」と主張する意見が日本にはあるが、当時の政府記録を見てもそのような意図は見受けられず、むしろ日本は欧米に取って代わってアジアを支配したかっただけで、敗戦した結果、図らずもこれらの国々の完全な形での独立をこのような形で後押しし、その独立を早める結果をもたらすことになったと言う意見もある。
なお、この戦争において戦場とならなかったサハラ以南のアフリカ諸国の独立運動がアジア地域の独立運動から遅れたことは、この戦争の存在と大きく関係しているという意見もあるが、それは単にサブサハラ地区の経済・社会発展がアジア地域よりも大きく遅れていただけにしか過ぎない、という反論もある。
また東ヨーロッパにおいては、これらの地域を占領した戦勝国であるソビエト連邦が、ポーランドやユーゴスラビア、ハンガリーなどに親ソ共産主義政権を次々と樹立させ、その後冷戦下においてこれらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配することになった。
[編集] 「よい戦争」
特に1970年代以降のアメリカでは、ベトナム戦争との対比で、過去の第二次世界大戦を、「よい」戦争とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の単純な構図で、アメリカが前者を守る正義の行為を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争』[1]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
しかし、戦後の冷戦構造の中でアメリカは、上記のソビエト連邦の動きに対抗するべく「反共産主義的」であるとの理由だけで、チリやボリビアなどの中南米諸国や、フィリピンや南ベトナムなどのアジア諸国のファシズム的な軍事独裁政権を支援し、その結果これらの国は長きに渡り混乱と貧困の中に置かれた。また、日本占領における過程では暴力団を自らのための暴力組織として使い、他にも東条内閣の商工大臣であった岸信介や、中国大陸で海軍の衣を借りて現地人に対する略奪行為を指揮していた児玉誉士夫などを一度は戦犯として処遇したものの、自らに対し従順で利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど、大戦の結果影響圏となった国々で自らの利益のための行動をとった。
[編集] 民主主義と戦争
![カリフォルニア州のマンザナー日系人強制収容所](../../../upload/shared/thumb/f/f4/Japaneseamericaninternmentcenter-flag.jpg/180px-Japaneseamericaninternmentcenter-flag.jpg)
また、大戦中においては「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、民主主義という言葉とは裏腹に深刻な人種差別を抱えており、人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も軍人として戦争に参加することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、実際の戦闘に参加したものはわずか5%のみで、残りの殆どが後方支援業務に就かされるなど、参戦によっても人種差別は全く解消できなかった。アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動によるアフリカ系アメリカ人に対する公民権の適用まで待たなければいけなかったうえ、実際の差別解消はその後数十年経っても事実上実現されていないと言える。
なお、この様に参戦によってもその差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)も同様であった。
また、対日戦の開戦後、日系人の強制収容が強行され、黄禍論に代表されるアメリカにおける日系人に対する差別はより酷くなった。この問題は第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年かかることになる。一方で第442連隊戦闘団などの日系アメリカ人部隊の果敢な戦いぶりは、戦後日系アメリカ人に対する見方を大きく変える原動力となった。
[編集] 第二次世界大戦を扱った映画・背景にした映画(一部)
大戦中は両陣営でプロパガンダ作品が多く作られた他、戦後も終戦直後から現在に至るまで様々な作戦や人物、戦闘にフォーカスした作品が制作されている。
- 燃ゆる大空(1940年、日本)
- 独裁者(1940年、アメリカ)
- ハワイ・マレー沖海戦(1942年、日本)
- カサブランカ(1942年、アメリカ)
- ビルマの竪琴(1956年/1985年、日本)
- 戦場にかける橋(1957年、イギリス)
- 私は貝になりたい(1959年、日本)
- ベルリン陥落(1949年、ソ連)
- 禁じられた遊び(1952年、フランス)
- 橋(1959年、西ドイツ)
- 史上最大の作戦(1962年、アメリカ)
- 大脱走(1963年、アメリカ)
- サウンド・オブ・ミュージック(1965年、アメリカ)
- バルジ大作戦(1965年、アメリカ)
- レマゲン鉄橋(1965年、アメリカ)
- パリは燃えているか(1966年、フランス)
- トラ・トラ・トラ!(1970年、日本・アメリカ)
- ミッドウェー(1970年、日本・アメリカ)
- パットン大戦車軍団(1970年、アメリカ)
- ロンメル軍団を叩け(1971年、アメリカ)
- ヨーロッパの解放(1970年~1972年、ソ連)
- 遠すぎた橋(1977年、アメリカ)
- U・ボート (映画)(1981年、西ドイツ)
- 連合艦隊(映画)(1981年、日本)
- シンドラーのリスト(1993年、アメリカ)
- スターリングラード(1993年、ドイツ)
- U-571(1995年、アメリカ)
- シベリア超特急(1996年~、日本)
- プライベート・ライアン(1998年、アメリカ)
- スターリングラード(2001年、アメリカ)
- パールハーバー(2001年、アメリカ)
- ヒトラー ~最期の12日間~ (2004年、ドイツ)
- Uボート 最後の決断 (2005年、アメリカ)
- 男たちの大和/YAMATO (2005年、日本)
- 父親たちの星条旗 (2006年、アメリカ)
- 硫黄島からの手紙 (2006年、アメリカ)
- 出口のない海 (2006年、日本)
- 俺は、君のためにこそ死ににいく (2007年予定、日本)
[編集] 写真
[編集] ヨーロッパ戦線
アフリカ戦線の指揮を執るドイツ陸軍のエルヴィン・ロンメル大将 |
チュニジアで対独戦の指揮を執るド・ゴール |
連合国による爆撃で破壊されたリビアのイタリア軍基地 |
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連合国軍に開放されたユダヤ人強制収容所 |
ポツダム会談におけるクレメント・アトリーとハリー・トルーマン、ヨセフ・スターリン |
[編集] アジア・太平洋戦線
シンガポール市内を行進する日本陸軍の兵士(1942年) |
ミッドウェー海戦で爆弾を投下するアメリカ海軍のSBD ドーントレス急降下爆撃機 |
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第一次ソロモン海戦で日本海軍の攻撃を受け炎上するオーストラリア海軍の重巡洋艦キャンベラ |
停戦連絡機として使用された一式陸上攻撃機 |
[編集] 出典
- ウィンストン チャーチル「第二次大戦回顧録」毎日新聞社(翻訳)毎日新聞社
- 中曽根康弘/ヘンリー・キッシンジャー(対談)「世界は変わる-キッシンジャー中曽根対談」読売新聞社 2000年
- ヘンリー・キッシンジャー「Diplomacy」Simon & Schuster 1994年
- エドウィン・O・ライシャワー「ライシャワー自伝」文藝春秋 1987年
- レジナルド・フレミング ジョンストン「紫禁城の黄昏」 入江曜子、春名徹(翻訳)祥伝社 2005年
- 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 「ルーズベルト秘録」扶桑社 2000年
- ロベール・ギラン「アジア特電 1937~1985―過激なる極東」矢島翠(翻訳)毎日新聞社1986年
- ニキータ・フルシチョフ「フルシチョフ回想録」ストローブ・タルボット(編集)タイムライフブックス 1972年
- 田久保忠衛「戦略家ニクソン」中央公論社1996年
- 春名幹男「秘密のファイル CIAの対日工作」新潮社 2003年
- ロバート・ホワイティング 「東京アンダーワールド」 勁文社/角川文庫 2000年 ISBN 4-04-247103-X
[編集] 関連項目
[編集] 人物
[編集] アジア[編集] 日本
[編集] 満州[編集] 中華民国および中国大陸[編集] 朝鮮半島[編集] フィリピン[編集] タイ王国[編集] インドネシア[編集] インド |
[編集] ヨーロッパ[編集] イタリア[編集] フランス[編集] イギリス[編集] ドイツ
[編集] スペイン[編集] ソ連[編集] アメリカ
[編集] 南アメリカ |
[編集] その他
[編集] 参考文献
- 立作太郎「平時国際法論」(日本評論社)
- 芦田均「第二次世界大戦外交史」(時事通信社)
- 川上忠雄「第二次世界大戦論」(風媒社)
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 第二次世界大戦 | 20世紀のヨーロッパ史 | 20世紀の世界史