犬養毅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生年月日 | 旧暦安政2年4月20日 (1855年6月4日) |
---|---|
出生地 | 備中国庭瀬藩賀陽郡庭瀬村 |
出身校 | 慶應義塾中途退学 |
学位・資格 | 勲一等旭日桐花大綬章 |
前職 | 衆議院議員 文部大臣 神戸中華同文学校名誉校長 逓信大臣 立憲政友会総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない (家族・親族参照) |
在任期間 | 1931年12月13日 - 1932年5月16日 |
選挙区 | 衆岡山 |
当選回数 | 衆18回 |
所属(推薦)党派 | 立憲政友会 |
犬養 毅(いぬかい つよし、安政2年4月20日(1855年6月4日) - 昭和7年(1932年)5月15日)は、日本の政治家。第29代内閣総理大臣。通称は仙次郎。号は木堂。勲一等旭日桐花大綬章。
目次 |
[編集] 経歴
備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる。(後に、犬養と改姓。)一時二松学舎にも通い、慶應義塾退学。退学の理由は、一説によると首席での卒業が叶わなかったからだと言われている。1882年、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍。1890年の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を作る。1898年の隈板内閣では共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後を受けて文部大臣となった。1913年の第1次憲政擁護運動の際は第3次桂太郎内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに憲政の神様と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は桂の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は一貫して辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校の名誉校長を務めるなどしていた。
犬養は第2次山本権兵衛内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし、ほどなくして犬養は、小政党を率いることに限界を感じたことから革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退する。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を衆議院選挙で当選させ続けた。さらに、政友会総裁の田中義一が没すると、後継総裁をめぐって内紛が生じ、その結果犬養は幹部に乞われて1929年に第6代立憲政友会総裁に就任する。
さらには、1931年12月に立憲民政党の若槻礼次郎内閣が崩壊したため、反対党の総裁犬養に組閣の大命が降下、内閣総理大臣に就任する。世界恐慌、そして満州事変の最中という荒波の中の船出であった。大蔵大臣には高橋是清を任じ、組閣と同時に金輸出再禁止を行い積極財政をとるなど、不況対策に努めた。また、外務大臣には女婿の芳澤謙吉を任じることにより、軍部に左右されがちな外交政策のイニシアチブを執ろうとつとめた。犬養の就任後は、桜田門事件、血盟団事件と不穏なテロ事件が相次ぐ。ファッショ排撃を訴えた犬養自身も、五・一五事件で凶弾に倒れた。享年77。墓所は港区の青山霊園と岡山にある
[編集] 高節にして毒舌の士
犬養には常に毀誉褒貶が付きまとった。第1次護憲運動では、尾崎行雄とともに「憲政の神様」とあがめられた。まだ東京朝日新聞の記者だった中野正剛は「咢堂が雄弁は珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜に松籟を聞く」と評した。犬養の振るう演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。その犬養が藩閥政権である寺内正毅内閣の外交調査会に入ったものだから、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。「神様」から「変節漢」へとその落差は大きい。その後も、山本権兵衛内閣や護憲三派による加藤高明内閣にも閣内協力をした。ただ、これだけで犬養を「変節漢」と呼ぶのはいささか酷のような気がする。犬養は普通選挙の実現をはじめ、経済的軍備論、南方進出論、産業立国論など独自の政策を温めていた。その実現のため、よりましと見る政権に加わったと見るべきだ。それが証拠に、明治の政界で隠然たる影響力を誇っていた山県有朋が「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と語ったという話が残る。同じように藩閥支配に敵意を抱きながら、原敬は山県に接近、その力を利用して自らの勢力拡大を図った。犬養はその道をたどらず、ほとんど少数政党に身を置いて苦労を重ねた。
犬養の毒舌は有名だった。親友の古島一雄は、犬養の毒舌がやたらに政敵を増やすのを見て「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と夫人に頼んだほどである。これも、意志が強固で悪や卑劣を憎む性格からくる。私生活では全く無欲の人だった。嫌いな食べ物が出ても小言を言うこともなく、着せられる着物を黙って着るなど無頓着だった。議会事務局で働く少年が病気になると、自宅に引き取って学校に通わせるなど、困った人を見ると援助の手を差し伸べずにはおれないところがあった。宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて、中国大陸ではお尋ね者となっている孫文をかくまったこともあった。宮崎は当初、犬養が大隈重信寄りだったため警戒していたが、自宅で会ってみると、煙草盆片手にヒョロヒョロと出てきて、あぐらをかいて煙草を吸い全く気取らない。宮崎は直感的に「好きな人」と判断したという。
[編集] 偶然が重なり首相の座に
そうした犬養が首相の座に着いたのはいくつかの偶然が重なっている。これより前、犬養は1度政界を引退して、富士見高原の山荘に引きこもっている。自らの率いる革新倶楽部が選挙のたびに議席を減らすので、1925(大正14)年、政友会(立憲政友会の略称)と合同した責任を取ったのである。政友会の党首は長州閥で陸軍出身の田中義一だった。藩閥勢力に屈したと非難を浴びた行動だったが、犬養は第1次加藤内閣の閣僚を辞し、議員も辞職してそれなりに筋を通し、政界から引退したのだ。ところが、地元岡山の選挙民は納得しない。犬養の了承を得ないで、彼の引退に伴う補欠選挙で犬養自身を当選させてしまった。そこへもって田中義一政友会総裁が急死するという偶然が重なる。跡目を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。党内の融和派が犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。1929(昭和4)年10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれてしまったのだ。
第2の偶然は対立する民政党(立憲民政党の略称)政権の瓦解だった。まず、浜口雄幸首相が東京駅頭でテロリストに撃たれ、その傷がもとで退陣した。後を継いだ第2次若槻礼次郎内閣も、1931(昭和6)年に勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り総辞職した。この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。その上、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。この時、犬養は数え年で77歳。新聞は「昭和の実盛」と書いた。犬養を、白髪を黒く染めて戦った源平期の老武将斎藤実盛になぞらえたのだ。
犬養は組閣の大命が下ると、直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。これにより、まず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開と取り組んだ。高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。これで日本経済は徐々に回復の方向に向かった。しかし、もう1つの課題の満州事変の処理は難物だった。犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求は拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。かねて支援していた元記者の萱野長知を上海に送って、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。しかし不幸なことに、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居た。森も若い頃は三井物産の社員として中国で働き、孫文の革命運動を支援したこともあった。どういうわけか政界入りしてから右傾化し、軍内部の大陸権益拡張派、右翼との親交を深めていた。犬養の推進する対中融和路線には不満で、書記官長の辞表を提出し、犬養を困らせていた。犬養は秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で、森の知るところとなり、森が萱野からの電報を握りつぶしてしまった。中国が最終的に犬養案を飲んだか、疑問は残るが、交渉は挫折してしまった。
犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていた。陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えた。そればかりか天皇に上奏して、30人程度の、問題の青年将校を免官させようと考えていた。軽率にも、犬養はその考えを外相・芳沢謙吉と森に喋った。当然、森を通じて陸軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激した。何故森を書記官長に据えたかと聞かれ、犬養は「手放しておくと危険だから、手近に置いた」と答えたという。このあたりの判断はかなり甘かったと言わざるを得ない。
[編集] いま撃った男を連れてこい
1932(昭和7)年5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養は首相官邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていた。 なんの異常もなく、犬養は医者に「体中調べてどこも異常なしだ。あと100年はいきられそうじゃわい」と言うが・・・夕方5時半ごろ、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が乱入してきた。犬養は少しも慌てず、将校たちを応接室に案内した。応接室から「撃つぞ」との声。犬養の「撃て」という叫びも聞こえ、その直後、ピストルの音が響いた。女中たちが駆けつけると、犬養は鼻の穴から血を流しながらも、「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と意識ははっきりしていた。最期まで言論で説得しようとする犬養らしい姿だった。
10時ごろ大量の吐血をした。驚く周囲に「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と逆に励ますほど元気だった。だが、その後は次第に弱り、午後11時26分、絶命した。まさに「昭和の実盛」の壮烈な死だった。関係者のショックは大きかった。事件後、森が手引きしたのではないかとの噂が絶えなかった。首相官邸に駆けつけた森の態度がおかしかったという古島一雄の証言もある。青年将校たちが、犬養の在宅をどうして知ったのかは事件後の取調べでもはっきりしなかった。そのため、森の手引き説が消えなかったのである。もとより状況証拠としても不十分なものばかりで、若い頃から犬養と親しかった森がそこまでやるはずはないとの有力な見方もある。ただ、森が犬養批判を強め、その行動を監視し、軍に通報していたという事実は残るのである。この事件を五・一五事件という。
[編集] 犬養の死後
それにしても犬養の死は大きな後遺症を遺し、昭和史の分水嶺となった。
事件の翌日に内閣は総辞職し、次の首相には軍人出身の斎藤実が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を首相に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党よりの内閣が成立した。大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まったが、あくまでも議会は機能しており、軍人出身の者が首相についたといっても実態として軍国主義が始まった訳ではない。これ以後は元老(西園寺公望)や重臣会議の推す首相候補に大命降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続いた。この時期は軍人が首相の座につくことが多く、敗戦までの文人首相は広田弘毅、近衛文麿と平沼騏一郎である。
満州事変は、齋藤内閣成立直後に締結された塘沽協定をもって終結を得た。この後、日本は中国進出を進めて国際的孤立の道を進んでいった(ただし、この時点では列強諸国とのぶつかり合いはまだなく、日米対立の時代に突入するのはずっと先であることに注意しなければならない。さらに言えば蒋介石ら国民党実力者達は、事変後に至ってさえ満州情勢には静観の姿勢を示している。事変を「偽満」という言葉で激しく責めたてたのは中国共産党である)。
五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位についた。テロリストを甘やかしたことが、直接的な関係は無いものの、さらに大掛かりな二・二六事件を引き起こすことの遠因となったとも言われる。五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長は「殉教者扱いされるから死刑を出すのは良くないと思った」と語っている。
テロを恐れるあまり、政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がった。新聞社は軍政志向への翼賛記事を書き始め、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。昭和天皇は、続く二・二六事件に衝撃を受け、自身の政治発言が軍部を刺激することを自覚してしまった。続く中国戦線において、参謀本部に不拡大の意志を持つ石原莞爾がいるにも関わらず、彼を後押しをすることが出来なかった。かくして大日本帝国は、陸軍統制派による軍閥政治へと出発していくことになるのだった。
[編集] 家庭 親族
- 長女:芳沢操
- 女婿:芳澤謙吉 - 外交官。
- 長男:犬養彰 - 継母(毅の後妻)とそりが合わず廃嫡。
- 三男(次男という説もある):犬養健 - 政治家、小説家。兄彰の廃嫡後、嗣子となる。
- 孫(健の長女):犬養道子 - 評論家。
- 孫(健の次女):安藤和津 - エッセイスト。奥田瑛二夫人。
- 孫(健の長男):犬養康彦 - 共同通信社社長。
- 曾孫:緒方貞子 - 日本政府アフガニスタン支援特別代表、元国連難民高等弁務官。母は、芳沢謙吉・操夫妻の長女・恒子。父は、外交官の中村豊一。
- 従兄弟:小松原慶太郎-実業家。倉敷紡績所、倉敷銀行(現中国銀行)などを設立。
[編集] 系譜
- 犬養氏 あくまで伝承にすぎないが先祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト)という
孫左衛門━次郎左衛門━忠兵衛━源左衛門當展━幸左衛門當謙━仙左衛門當則━健蔵當吉━源左衛門當済━仙次郎毅