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ベトナム戦争 - Wikipedia

ベトナム戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中立的な観点:この記事は、中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、あるいは議論中です。そのため、偏った観点によって記事が構成されている可能性があります。詳しくは、この記事のノートを参照してください。

ベトナム戦争(ベトナムせんそう 1960年 - 1975年)は、インドシナ戦争後に、ベトナムの独立と南北統一をめぐって戦われた戦争宣戦布告なき戦争であるためベトナム紛争とも呼ばれる。第二次インドシナ戦争ともいう。共産主義勢力の拡大を防ぐため、北ベトナムと対峙する南ベトナムを支援するアメリカ合衆国が中心となり大規模な軍事介入を行ったが、目的を達せずに撤退した。

形式的には北ベトナムと南ベトナムの戦争であったが、実質的に共産主義勢力(ソビエト連邦中華人民共和国)と資本主義勢力(アメリカ)が背後にあっての戦いであった。その為、「代理戦争」と呼ばれた。


南ベトナムに展開するアメリカ軍のヘリコプター
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南ベトナムに展開するアメリカ軍のヘリコプター
ナパーム弾を投下するアメリカ軍
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ナパーム弾を投下するアメリカ軍
クチトンネル内の北ベトナム政府軍の作戦司令室
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クチトンネル内の北ベトナム政府軍の作戦司令室
北ベトナムに爆弾を投下するアメリカ海軍のF-4戦闘機とA-7攻撃機
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北ベトナムに爆弾を投下するアメリカ海軍のF-4戦闘機A-7攻撃機



目次

[編集] ベトナム戦争年表(1960年-1975年)

Cộng Hoà Xã Hội Chủ
Nghĩa Việt Nam
ベトナム
ベトナムの国旗

ベトナムの歴史


主な出来事
仏領インドシナ成立
仏印進駐 · 大東亜戦争
ベトナム八月革命
第一次インドシナ戦争
ベトナム戦争 · 中越戦争
ドイモイ


ベトナム共産党
共産主義


「国家」
ベトナム民主共和国
ベトナム国
ベトナム共和国
南ベトナム共和国
自由ベトナム政府
ベトナム社会主義共和国


人物
ホー・チ・ミン
グエン・ミン・チェット
グエン・タン・ズン
ノン・ドゥック・マイン


言語
ベトナム語 · チュノム
クォック・グー


ベトナムの国章
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[編集] 開戦の背景

[編集] 冷戦構造と独立運動

第二次世界大戦後、 アジア中南米アフリカにある多くの植民地で、宗主国の弱体化を背景にした軍事行動を伴う激しい独立運動が発生し、独立運動家と既得権を守ろうとする欧米列強の宗主国との間での紛争が繰り返し起きた。独立運動は共産主義勢力によって指導、支援されている場合が多く、アメリカに対抗する共産主義体制のボス的存在であるスターリンに率いられるソビエト連邦は、当然、各地の共産主義勢力を支援したが、米ソともに核兵器を保有していることから直接戦うことは避け “冷たい戦争” と呼ばれる冷戦構造が成立した。

その対立は朝鮮戦争キューバ危機ベルリン封鎖に見られるように代理戦争の形をとって表面化した。自由主義の盟主を自認するアメリカは、中華人民共和国東ヨーロッパでの共産主義政権の成立が“ドミノ倒し”のように発生したこともあって、一国の共産化が周辺国へのさらなる共産化を招くというドミノ理論に怯え、アジアや中南米諸国の反共産主義勢力を支援して各地の紛争に深く介入するようになった。

[編集] 第一次インドシナ戦争

ジュネーブ協定に抗議して吊るされたホー・チ・ミンとシャルル・ド・ゴールの人形(1964年)
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ジュネーブ協定に抗議して吊るされたホー・チ・ミンシャルル・ド・ゴールの人形(1964年)

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、ベトナム(仏領インドシナ)から日本軍が撤退すると、コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンハノイに首都を置いてベトナム民主共和国(北ベトナム)を成立させ共産主義による国造りを目指した。

しかし、ベトナムの再支配を目論む旧宗主国フランスは独立を認めず、ベトナムに再進駐すると1946年にベトナム南部に傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させる。12月19日には北ベトナムへ武力攻撃を開始し、第一次インドシナ戦争が勃発した。また、1949年に旧阮朝皇帝バオ・ダイを首班とするベトナム国をサイゴン市(現ホー・チ・ミン市)に成立させ、ベトナム人民の支持を得ようとしたが失敗した。

フランスはホー・チ・ミンと鋭く対立し、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6000人にも及ぶ兵力を投入したものの、1954年5月にヴォー・グエン・ザップ将軍が率いるベトナム人民軍にディエンビエンフーの戦いで惨敗し、ベトナムからの撤退を余儀なくされた。戦後、関係国の間でジュネーブ協定が取り交わされベトナム民主共和国の独立が正式に承認されたが、北緯17度線を境界として南部ベトナムにはベトナム国が存続した。

[編集] ベトナム戦争の推移

[編集] アメリカによる軍事介入

第一次インドシナ戦争が行われた間アメリカは一貫してフランスを支持し、フランスのベトナム撤退以降は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を軍事・経済両面で支え続けた。

1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支持した反共産主義的な軍人政治家であるゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、その後アメリカの全面的な支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。しかし、ゴ大統領一族による圧制は国民を苦しめ、その張本人であるゴ大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は〝NLF〟でNational Liberation Frontの略である)が結成され、南ベトナムに対するゲリラ活動を本格化させた。

その後1963年1月に行われたアプバクの戦いの敗北により、南ベトナム(ベトナム共和国)政府軍の無力が露呈すると、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領はアメリカ軍による直接的な軍事介入を決断した。

[編集] 南ベトナム政権とクーデター

さらにケネディ大統領の許可を得たCIAの支援による軍事クーデターが同年11月に発生し、当時アメリカのコントロールに反発し、仏教徒弾圧政策を推し進めて国際的な非難を浴びていたゴ・ディン・ジェム大統領と実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官が暗殺され、アメリカ軍と関係が深い軍事顧問で将軍でもあったズオン・バン・ミンを首班とした新政権が成立する。その後、1964年1月30日にはグエン・カーン将軍を中心とした勢力が再びクーデターを起こし、ズオン・バン・ミンが隣国のタイ王国へと追放されたものの、南ベトナムは、その後も約2年間の間に13回ものクーデターが発生するという異常事態になる(ズオン・バン・ミンはベトナム戦争終結直前の1975年4月29日に、1968年から大統領を務めたグエン・バン・チューにかわり、再び南ベトナムの大統領に就任するものの、4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった)。

この様に、南ベトナムの政府高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、また自軍の精鋭部隊の多くをクーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらないという状態になっており、この様な体たらくは、ベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続くことになる。

[編集] 仏教徒弾圧

1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対し抑圧的な政策を推し進めたゴ・ディン・ジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿が全世界にテレビを通じて流され、大きな衝撃を生んだ。なお、ゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻で、その不敵な態度から「ドラゴン・レディ」とあだ名されたマダム・ヌーが、アメリカのテレビのインタビュー中にクアン・ドック師の焼身自殺を「人間バーベキュー」と呼び、これに怒ったケネディ大統領が1963年11月のクーデターを即決したと言われている。

[編集] トンキン湾事件

ロバート・マクナマラ国防長官のアドバイスの元、ベトナムへの直接的な軍事介入の開始を行うという決定的な失策を犯したものの、大規模なアメリカ軍の派遣には難色を示していたケネディが1963年11月に遊説中のテキサス州ダラス暗殺された。当時の駐南ベトナム大使ヘンリー・カボット・ロッジJr.はケネディに対しベトナムの状況を報告するため召還されていたが、後年ロッジはケネディが暗殺されずに自分と面談していた場合、ベトナムから手を引くと言う政策転換プランが提示されたかもしれないと回想している。ロッジの発言は、この時点でケネディは秘密裏に国防省に対して、アメリカの軍事顧問を南ベトナムから引上げた場合の影響を調査するよう、指示を出していたことが後年判明したことが根拠になっている。

ケネディの暗殺に伴い、ケネディ政権の副大統領であった右派のリンドン・B・ジョンソンが大統領に就任し、アメリカは政策を転換することなく戦争介入の体制が整って行く。その後アメリカ軍は、1964年8月2日8月4日トンキン湾で発生した北ベトナム軍の魚雷艇によるアメリカ海軍駆逐艦「USS マドックス」への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。

8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認、本格的介入への道が開かれた。なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、この事件は、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ自作自演であったことを暴露した。また、1995年にはマクナマラも同様の内容を告白している。

[編集] 北爆開始

サイゴン市内に展開するアメリカ軍の戦車
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サイゴン市内に展開するアメリカ軍の戦車
爆弾を投下するアメリカ空軍のF-105戦闘爆撃機,中央はB-66
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爆弾を投下するアメリカ空軍のF-105戦闘爆撃機,中央はB-66

クーデター以来、サイゴンの支配力はきわめて不安定であった。アプバクの戦いで政府軍を下し、勢いに乗った南ベトナム民族解放戦線は、この権力の隙を狙った無差別テロ攻撃を繰り返し加え、サイゴンはじめ都市部の治安は一挙に悪化した。そして標的は南ベトナム軍の顧問をしているアメリカ軍へも向き、1965年2月7日にブレイクのアメリカ軍基地を爆破し、多数のアメリカ軍将校殺害に成功した。ジョンソン大統領は即日、報復として解放戦線勢力圏と同時に、トンキン湾事件報復を口実として首都・ハノイ市などのベトナム民主共和国中枢への爆撃(北爆)を命令した。いわゆるフレイミング・ダート作戦で、3月からは本格的な北爆であるローリング・サンダー作戦が開始された。

当初は発電所やダム、市街地に近い軍需工場や兵器・物資集積所、港湾施設、飛行場、空軍基地に対する攻撃が禁止されていたなど極めて限定的なものであった。これは当時の北ベトナムを支援するソ連軍事顧問団の存在が確認されており、万一誤爆した場合は米ソ直接対決や世論の猛反発を受けるのが必至とされていた。これは北ベトナムにとって極めて有利な状況に働いた。北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。更には飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に聖域を与えた。ミコヤンMiG-17MiG-19、ミコヤンMiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。

しかし精密誘導兵器を殆ど運用していなかった当時の海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重なパイロットを大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さを認め、1967年4月末に殆どの制限が撤廃された。これは直ちに効果をあげた。北ベトナムは空軍基地や飛行場が爆撃を受けて迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のジェネラルダイナミックスF-111アードバーク戦闘機爆撃の他、当時、死の鳥と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(“ビッグベリー”改造を受けたD型が主力)を投入、ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。

なお、グアム島や当時アメリカの統治下であった沖縄のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で操業していたソ連や中華人民共和国のレーダーを満載した偽装漁船から逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。その影響もあり、北ベトナム軍のMiG-19MiG-21 戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える大量の爆弾搭載量に物を言わせたアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイをはじめとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。また、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム首脳陣は、これらの爆撃に対して、西側諸国のマスコミを使い「アメリカ軍による虐殺行為」だと訴え続け、後の西側諸国における大規模な反戦活動への土台を整えた。

[編集] 地上軍の投入と戦線拡大

前線に降下するアメリカ軍のUH-1ヘリコプター
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前線に降下するアメリカ軍のUH-1ヘリコプター

ジョンソン大統領は大権を行使し、1965年3月8日海兵隊ダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。ケネディ時代に南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を軍事顧問・作戦支援グループとして駐屯させており、その数は1964年末に計23,300名であったが、ジョンソンは1965年7月28日陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍・海兵隊)は1965年末までに、「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。地上部隊を派遣したのは南ベトナムだけで北ベトナムには中華人民共和国の全面介入をおそれて派遣しなかった。

一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、ホー・チ・ミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。彼らは10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く(だからこそ陣地としたのだが)、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフトUH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開を可能にしたことで、この戦争の主力兵器として大量生産されることになる。

南ベトナムの民家を点検するアメリカ軍兵士
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南ベトナムの民家を点検するアメリカ軍兵士

11月14日、アメリカ軍はカンボジア国境から東11Kmの地点にあるイア・ドランを中心とした数カ所に、初めてUH-1を使って陸戦部隊を展開させた。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが始めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。この最初の戦闘は、この戦争の帰結を物語っていた。

アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入することとなる。村や森に紛れた北ベトナム兵を探し出し、殲滅する「サーチ・アンド・デストロイ」作戦は農村部の無差別攻撃や、アメリカ軍による村民への暴力行動を引き起こすこととなった。その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾が現在も大量に埋まっており、住民に被害を与えている。

[編集] NLFによるテロの増加

サイゴン市内のテロ事件現場
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サイゴン市内のテロ事件現場

ベトナム戦争の激化に伴い、サイゴン市内を中心に、後方撹乱を目的にした南ベトナム解放民族戦線のゲリラによる爆弾テロ事件がにわかに増加していった。そのターゲットもアメリカ軍や南ベトナム軍・政府の関連施設だけでなく、南ベトナム政府軍兵士やアメリカ人が出入りする(当然南ベトナム人の民間人も出入りする)映画館レストランディスコにまで広がり、その結果、各種テロによる南ベトナム市民の死者が1965年の前半だけで1000人以上にも及ぶなど、南ベトナムの市民生活にも悪影響を及ぼすようになっていった。

これらの南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵の多くは通常時は南ベトナムの一般市民として生活しているものも多く、中には、戦争終結まで妻や夫、親にまで自分が南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵であることを隠し通しているものも多数いた。また、南ベトナム解放民族戦線の指導部の中には、南ベトナム電力公社の副総裁や南ベトナム航空の上級幹部、南ベトナム軍の情報部将校などの南ベトナム政府軍や政府関連組織の重要人物も多く含まれていた。

[編集] チュー大統領就任

チュー大統領(左)とアメリカのジョンソン大統領
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チュー大統領(左)とアメリカのジョンソン大統領

この様に混沌とする状況下にあったものの、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に首相に就任したグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て大統領に就任した。なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して不正選挙であると反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思をを示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。以後、強烈な反共産主義者であるチュー大統領の下、南北の対立は激しさを増してゆく。

なお、チューは1971年の選挙で再選後、1975年4月のサイゴン陥落前日まで南ベトナム大統領を務めた。

[編集] 韓国軍の参戦

南ベトナム内に展開するアメリカ軍の装甲車
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南ベトナム内に展開するアメリカ軍の装甲車

大韓民国朴正熙政権はアメリカの要請により、1964年に最初の海軍部隊を派遣したのを皮切りに、1965年10月には陸戦部隊である猛虎師団1万数千を派兵して本格的に参戦。1973年3月23日に完全撤収するまでに最大約5万人、のべ35万人以上の兵力をベトナムに投入した。韓国軍は北ベトナム兵などを約4万人(公式記録)殺傷したものの、韓国軍の犠牲者も戦死約5千、負傷約2万に上った。オーストラリアタイ王国もアメリカの要請によりベトナム派兵したが、アメリカ以外の国としては、韓国が最大の兵力を投入した。米韓の協定により、派兵規模に応じた補助金を得られたということ、また北朝鮮や中華人民共和国などの軍事的脅威を身近に感じていたため共産主義勢力の伸張に対して強い危機感を持っていたこと、軍に対して国民に理解があり、反戦運動が盛んでなかったことなどがその理由である。韓国軍は国内の最精鋭部隊を投入した。

[編集] 反戦運動

戦争の現場である南ベトナムでは、南ベトナム解放民族戦線の後援(つまり北ベトナム政府の後援)を受けた市民を中心に反戦運動が行われていた。反対に戦争支援を訴える運動も、南ベトナム政府とアメリカの大掛かりな支援のもと数多く行われていたといわれている。

同時期には日本フランスイタリアなどの当事国ではない西側諸国でも、勢いづいた左翼学生を中心とした運動と絡めた形で大規模な反戦運動が行われていた。なお、当時これらの西側諸国で行われた、共産党や共産主義シンパをはじめとする北ベトナムに同情的な左翼勢力による多くの組織的な反戦運動に対しても、ソ連が資金的・物理的援助を行っていたことが戦後関係者の話によって明らかとなり、多くの批判を受けた。

一方、戦地から遠く離れているものの、テレビ中継により多くの国民が戦闘を目の当たりにしていた「当事国」のアメリカでは、公民権運動が転じた反戦運動が高揚していた。1963年奴隷解放100周年を迎えたアメリカでは、黒人(アフリカ系アメリカ人)による差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が行われていた。その中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制・文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれら若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピープルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。

反戦運動を行うアメリカ市民
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反戦運動を行うアメリカ市民

1967年には最大で50万人を超えるアメリカ兵がベトナムに投入されたが(そのほか、大韓民国・オーストラリア、フィリピンなどの同盟国軍将兵約5万人)、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍(および南ベトナム解放民族戦線)と対峙するアメリカ軍(および南ベトナム軍)にとって戦況の好転は全く見られなかった。その上にアメリカ政府は、莫大な戦費調達と戦場における士気の低下、国内外の組織的・非組織的な反戦運動と、テレビや新聞雑誌などの各種メディアによる反戦的な報道に苦しむことになった。1967年4月にはニューヨークで大規模な反戦デモ行進があり、10月21日に首都ワシントンで最大規模の反戦大会が催された。さらに翌年1月にはテト攻勢(後述)によって反戦運動は大きく盛り上がった。

また、アメリカでは芸能人などの有名人による反戦運動も盛んに行われた。その様な中で、1972年に「アメリカ兵のための反戦運動」として北ベトナムを訪れたジェーン・フォンダは、飛来したアメリカ軍機を撃墜するために設けられた高射砲に座り、北ベトナム軍のヘルメットをかぶりポーズをとった。この時の写真は世界中に配信され、後にフォンダは「祖国への裏切り行為で判断の誤りだった」と釈明したものの、この後長年に渡りべトナムに派兵された兵士や帰還兵、その家族を中心に「裏切り者」、「Hanoi Jane」などと呼ばれ大きな批判を浴びた。

[編集] ジョンソン退陣

ディーン・ラスクとロバート・マクナマラとともに会議に臨むジョンソン大統領
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ディーン・ラスクロバート・マクナマラとともに会議に臨むジョンソン大統領

また、前大統領であるケネディから受け継いだベトナム戦争に対し必ずしも積極的でなかったにもかかわらず、戦闘の拡大を招いてしまったジョンソン大統領は、マスコミからは連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになった。この頃ジョンソンはニューハンプシャー州の予備選でユージーン・マッカーシーに対して辛勝したが、ジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明し、同時に世論調査では最低の支持率を記録した。これらの影響を受けて、1968年3月31日、テレビ放送によって北爆の部分的中止と、この年に行われる民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由としてベトナム戦争に対する反戦運動など国内世論分裂の拡大を挙げた。

反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング牧師4月4日に暗殺される。さらに、ジョン・F・ケネディ前大統領の弟で司法長官を務めていたロバート・ケネディは公民権運動団体の支持を受けて大統領選に出馬、民主党は分裂するが、カリフォルニア州で遊説中の6月5日に暗殺された。8月には民主党候補を決定するための党大会が行われていたシカゴ市内で学生を中心に反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、市警官隊が徹底的な弾圧を行い多数が逮捕された。この様に国内情勢が混沌とする中、政権末期のジョンソンは10月に北爆を全面停止させる。

[編集] テト攻勢

南ベトナム解放民族戦線のゲリラ(ベトコン)の死体
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南ベトナム解放民族戦線のゲリラ(ベトコン)の死体

1968年1月29日の深夜、南ベトナム解放民族戦線は旧正月(テト)に大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。しかし南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃を受け、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言、南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥る。これにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。テト攻勢は軍事的にみては大きな失敗であったが、南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。

また、テト攻勢の最中に、グエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていた。そのゲリラ兵とはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして路上で射殺するという衝撃的な映像は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争に対する各国の世論に大きな影響を与えた。また、この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。

[編集] フエ事件

テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれた南ベトナム安南の古都フエでは、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な市民への虐殺事件「フエ事件」が発生したとある。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと言われている。犠牲者は南ベトナム政府の役人や警察官だけでなく、学生キリスト教神父、外国人医師などの一般市民にまで及び、その数は2000人以上である。テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と解放戦線の攻防戦が続けられていた。なお当時の新聞表記はユエである。(南ベトナム解放民族戦線の組織的な犯行ではないとの説もある。詳細はノート「3.7ベトコンによるテロの増加 3.13フエ事件 について」の項を参照のこと)

[編集] ソンミ村虐殺事件

ソンミの虐殺を参照

この他にも、アメリカ軍は解放戦線の非公然戦闘員(ゲリラ)を無力化するため、サイゴン周辺を主として度々村落の焼き討ち、虐殺を繰り返した。

[編集] ニクソン登場

選挙戦を戦うリチャード・ニクソン大統領
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選挙戦を戦うリチャード・ニクソン大統領

ジョンソンに代わって1969年1月20日に登場した共和党リチャード・ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化(ゲリラ戦化)しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。なお、この年7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移った。

10月には再び反戦デモとなったが、それはローソクに火を灯すといった、静かなものに変わりつつあった。政権は戦争に入ってから長く無風状態であったソ連と直接交渉に入り、11月からは米ソ戦略兵器削減交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入った。冷戦は緊張を緩和し、いわゆるデタントの時代に入る。

ヒッピー
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ヒッピー

一方でニクソンは、ブームと化した反体制的な反戦運動に反感をもつ、沈黙した保守派層「サイレント・マジョリティ」に対して行動を呼びかけた。反戦運動が比較的裕福な大学生や都市部のホワイトカラーアフリカ系アメリカ人などのマイノリティを中心としたリベラル層によるものであったが、ニクソンの支持母体は白人保守派層が中心であった。ベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らや彼らの子供であり、徴兵猶予などで派兵を免れる大学生や、既存の概念を否定するヒッピーに反感を持っていた。彼らはニクソンの呼びかけに応えて声を上げ、反戦団体とぶつかり合った。こうした白人保守派層の巻き返しもあり、もはや現役大学生やインテリ層の手を離れ、ブームに乗っただけのヒッピーなどの低所得者層を中心とするものと化していた反戦運動は弱まっていった。

また、まったくの副作用であるが、ベトナムで共に戦った黒人と白人の若者が融和の促進剤となっていった。この点に於いて生前のマーティン・ルーサー・キングは「皮肉な結果である」と述べていた。

アメリカで新大統領が登場した一方、1969年9月には、北ベトナムの指導者でフランス領時代からベトナムの独立と南北ベトナム統一を熱望していたホー・チ・ミンが、突然の心臓発作に襲われ79歳の生涯を閉じた。

[編集] カンボジア侵攻

前線に展開するアメリカ軍の戦車
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前線に展開するアメリカ軍の戦車

隣国カンボジアでは、1970年3月にロン・ノル国防大臣率いる反乱軍が、アメリカが北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線と近い関係にあるとして嫌っていたノロドム・シアヌーク国王の外遊中にクーデターを決行し、シアヌーク国王一派を追放、ロン・ノルを首班とする親米政権の樹立を宣言した。翌4月26日にはロン・ノルの黙認の元、アメリカ軍と南ベトナム軍が、北ベトナムへの物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シアヌーク・ルート」の切断を狙いカンボジア領内に侵攻した。これはアメリカ軍が兵力削減と同時に、共産圏からの支援ルートを切断することで戦況をいくらか有利にし、有利な条件で講和を導こうというものであった。アメリカ・南ベトナム軍は圧倒的な兵力をバックに北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させた。だが6月中には早々と撤退した為、年末には両ルートと北ベトナムの拠点は早々に復旧してしまう。

また、アメリカ・南ベトナム両軍のカンボジア領内侵攻に前後して、アメリカの支援を受けたカンボジア政府軍と、ポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦が始まった。なお、ロン・ノルに追放されたシアヌーク国王はポル・ポト側につき、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。

[編集] 北爆再開

講和条件を有利にする為、カンボジア領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況の好転は微塵も感じられず、あせったニクソンは1972年5月8日に北爆を再開する。いわゆるラインバッカーI作戦である。圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」(英表記;Ho Chi Minh Trail)を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化、北ベトナムとの迅速な講和を狙った作戦変更でもあった。

爆弾を投下するB-52戦略爆撃機
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爆弾を投下するB-52戦略爆撃機

アメリカ空軍は第二次世界大戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。本作戦では従来の「垂れ流し」的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えた。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦ではボーイングB-52戦略爆撃機150機による700ソーティーにも及ぶ夜間絨毯爆撃でハノイやハイフォンを焼け野原にした。更に開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペーブウェイやTV誘導爆弾ウォールアイといったハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。僅か2週間で北ベトナムの都市に対して実に20,000トンに及ぶ爆弾が投下された。

海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助の殆どがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、その殆どは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦の攻撃を受け、敢え無く撃沈・阻止されていった。

対日戦並の本格的な戦略爆撃や機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収め、北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被った。北ベトナムは弾薬や燃料が底を突き、継戦不能な事態に陥った。

アメリカ軍による情け容赦ない無差別空爆は南北ベトナム市民に大量の死傷者を出し、北ベトナムに少なからず厭戦的な意識を植え付けた。この悲惨な大空爆は北ベトナム政府を慌てさせ、パリ会談に出席せざるを得ない立場に追い込んでいた。陸軍の快進撃と裏腹に海軍と空軍がほぼ全滅し、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった。国家崩壊の一歩手前まで戦況が急激に悪化したのである。しかし、再度の北爆は国際世論の猛反発を受け短期間で中止された。

[編集] パリ協定

パリ協定に署名するアメリカ代表団(1973年1月27日)
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パリ協定に署名するアメリカ代表団(1973年1月27日)

就任以前から段階的撤退を画策していたニクソン大統領は、1969年1月の大統領就任直後よりヘンリー・キッシンジャー大統領特別補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を開始させたが、1972年の北爆の再開などにより交渉は難航を重ねた。この年4月、ニクソンは北ベトナムの隣国である中華人民共和国を電撃訪問する。共産圏の大国である中華人民共和国を訪問したことは、国境を接する北ベトナムについてや、中華人民共和国がポル・ポトを支援している事が関連していると考えられた。

秘密交渉開始から4年8ヶ月経った1973年1月23日、キッシンジャー大統領特別補佐官と北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問の間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。そして4日後の1月27日に、アメリカのウィリアム・P・ロジャー国務長官とチャン・バン・ラム南ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者の間でパリ協定が交わされた。この「和平協定」調印へ向けての功績を称え、キッシンジャー大統領特別補佐官と北ベトナムのレ特使にはノーベル平和賞が与えられることになったがレ特使は辞退した。

パリ協定の調印により、アメリカ軍撤退と外部援助の禁止、アメリカ人捕虜解放、「北緯17度線は国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立。その後、パリ協定に基づきアメリカ軍はベトナム全土から一斉に撤退を開始し、3月29日には撤退が完了した。なお、この協定の締結までにアメリカ軍による北爆が停止されると、北ベトナム軍は補給路を確保しその体勢を立て直したが、アメリカ軍の再介入を恐れ、しばらく南ベトナム軍側に対し大規模な攻勢は行わなかった。

[編集] アメリカ軍撤退後の戦況

アメリカ軍の撤退により、実質的に南北ベトナム軍の正規軍同士が直接対決する形になった(しかし、アメリカ軍の「軍事顧問団」は規模を縮小し南ベトナムに残留していた上、軍事物資の供給も行われていた。なお、この様な状況は北ベトナムとソビエトの間でも同様であった)が、アメリカ軍が撤退した分増えるはずの南ベトナム軍の兵士の数は増えるどころか減り続け、それに合わせるように南ベトナム軍の死傷者の数も増大して行った。また、1974年1月には北ベトナム軍がカンボジアの首都であるプノンペンに迫り、9月以降は北ベトナム軍の部隊が南ベトナム北部を占領し、その後もじりじり南下してくるなど、その勢いは増すことはあっても減ることはなかった。

また、ウォーターゲート事件やベトナム戦費や月面探査による出費と不況などの国内問題に国民の関心が移ったアメリカは、同年8月に議会が最後の南ベトナム政府への金融援助を決定したものの、その額は以前と比べ物にならないほど低く、もはやアメリカ政府が南ベトナム政府を見限ったことは誰の目にも明らかになった。また同月、ベトナム撤退の立役者であるニクソンはウォーターゲート事件の責任をとって辞任、後を継いだジェラルド・R・フォード大統領は混迷を続ける内政の立て直しに集中しなければならず、ソ連とは積極的な宥和政策を採る。こうしてアメリカ国民はベトナムへの関心を失った。

[編集] 北ベトナム軍の全面攻撃

1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図
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1975年3月以降、サイゴン陥落までの北ベトナム軍の攻撃の経緯を表した地図

北ベトナム政府はその後、アメリカの再介入の恐れがないと判断し、1975年3月10日パリ協定に違反して南ベトナム軍に対し全面攻撃を開始した。いわゆるホー・チ・ミン作戦である。

この攻勢に対して、アメリカ政府からの大規模な軍事援助が途絶え弱体化していた南ベトナム軍は満足な抵抗ができなかった。その後3月末に古都フエと、南ベトナム最大の空軍基地があり貿易港として知られるダナンが陥落すると、南ベトナム政府軍は一斉に敗走を始める。4月10日には中部の主要都市であるバンメトートが陥落。グエン・バン・チュー大統領はアメリカに対し軍事支援を要請したものの、南ベトナム政府から手を引いたアメリカ議会は、軍の派遣も軍事援助も拒否した。

4月中旬には南ベトナム政府軍が首都・サイゴンの防御に集中するため主な戦線から撤退を開始したが、結果的にこの戦略は裏目に出た。サイゴン防御のために撤退した南ベトナム政府軍は、敵の急な撤退に進撃の勢いを増した北ベトナム軍を抑えることは出来ず総崩れになり、北ベトナム軍はサイゴンに迫った。

[編集] サイゴン陥落

4月21日にはグエン・バン・チュー大統領が事態の責任を取り辞任。後任に長老の1人で1960年代に大統領を務めた経験を持つチャン・バン・フォン副大統領が就任した。穏健派として知られるフォン大統領による土壇場での停戦交渉が期待されたものの、パリ協定発効以降、協定内容に則りサイゴン北部のタンソンニャット空軍基地に駐留していた北ベトナム政府代表団は、穏健派であるもののチュー元大統領の影響が強いフォン大統領との和平交渉を4月23日に正式に拒否し、存在意義を失ったフォン大統領は4月29日に就任後わずか8日で辞任した。

後任には同じく穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、ミン大統領による和平交渉は北ベトナム政府代表団によって同じく拒絶された。この時すでに南ベトナム軍は各方面で完全に崩壊し、北ベトナム軍の地上部隊によりサイゴン郊外にあるタンソンニャット国際空港が完全に包囲されるなど、陥落を待つばかりとなった。

南ベトナム大統領官邸(現在はベトナム統一会堂)
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南ベトナム大統領官邸(現在はベトナム統一会堂)

サイゴン市内の軍施設やタンソンニュット空軍基地への砲撃が続き、サイゴン陥落が避けられない状況となった。南ベトナム政府上層部やその家族、残留アメリカ人らがサイゴンの沖合いに待機するアメリカ軍空母に向けて必死の脱出を続ける中、4月30日の朝にはグエン・バン・チュー元大統領やグエン・カオ・キ元副大統領、アメリカのグレアム・アンダーソン・マーチン駐南ベトナム大使ら南ベトナム政府の要人の多くもアメリカ軍のヘリコプターで脱出した。この時、北ベトナム軍はアメリカ政府の要請を受け、サイゴンに在留するアメリカ軍人・民間人が完全撤退するまでサイゴン市内に突入しなかった。しかしこの際、在留する日本人は、たとえベトナムに残っても迫害を受ける可能性が低いことなどを理由にアメリカ軍のヘリコプターに乗ることを拒否された上、欧米諸国のように政府専用機による救出活動も行われなかったため、混乱下のサイゴンに取り残された。

同日午前には、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が戦闘の終結と無条件降伏を宣言した。その後北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し、午前11時30分にサイゴンは陥落。アメリカの支援も首都も失った南ベトナムは遂に崩壊した。

[編集] 南北ベトナム統一

陥落後、サイゴン市は北ベトナム政府の管理下におかれ、ピアストルドンの通貨の統合や行政官僚組織の再編成、企業の国営化が進められた。その後、1976年7月に南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国の成立が宣言された後、サイゴン市は北ベトナムの指導者の名前を取った「ホー・チ・ミン市」と改名された。

[編集] 損失

ジャングルに枯葉剤を撒き散らすアメリカ軍のヘリコプター(1969年)
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ジャングルに枯葉剤を撒き散らすアメリカ軍のヘリコプター(1969年)

[編集] ベトナム

1960年代前半よりベトナム人自らの意思を無視した形で始められ、その後10年以上続けられた戦争によって、南北ベトナム両国は100万を超える戦死者と数千万の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制に関わらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊により国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。

また、共産主義政権による武力統一および性急な社会主義経済の施行は、長年比較的自由であった資本主義経済に慣れ親しんだ多くの南ベトナム国民の混乱や反発を招き、その後多くのベトナム難民を生む理由となった。南北統一以前のサイゴン陥落から、政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により容赦なく処刑されるか強制収容所送りになった。解放戦線は正規軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。僅かに解放戦線議長を務めて統一に多大なる貢献をしたグエン・フートは戦後に実権が伴わない名誉職である国会議長を務めた程度である。

アメリカ軍がゲリラ掃討を目的に、人体への悪影響を知りながら密林に撒いた枯葉剤は、毒性の強いダイオキシン類を含んでいたために現在に至るまで環境や人体に深刻な影響を与え続けている。また、戦争当時にばら撒かれた不発弾地雷が戦争終結後も多くのベトナム人の人命を奪うなど、戦闘による傷跡は、終戦後30年以上経った現在も国民を傷め続けている。

[編集] アメリカ

カリフォルニア州にある、参戦した南ベトナム軍とアメリカ軍の兵士をたたえる記念碑
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カリフォルニア州にある、参戦した南ベトナム軍とアメリカ軍の兵士をたたえる記念碑

アメリカは自らの利益の為に遠いベトナムの地で起こしたこの戦争で戦死者58,000余名(派兵数全体の約10%)と1,700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果膨大な戦費負担は経済を直撃した。しかしながらこの戦争により、ボーイングロッキードマクドネル・ダグラスノースロップグラマンなどの多くの軍需関連企業は大きな利益を手にし、いくつかの破産寸前だった企業が息を吹き返し、アメリカという国家が軍産複合体に大きく依存していることが再認識された。

また、戦争をめぐっての国内世論分裂や事実上の敗北による挫折感は既成の価値観を崩壊させ、反戦活動の高まりや徴兵拒否の増加を受けて、アメリカ軍がベトナムから撤退した1973年には徴兵制が廃止された。他にも、“勝利”を獲得できなかったベトナム帰還兵への非難や中傷が社会問題化した。

[編集] 日本への影響

ベトナム戦争は当時高度成長期にあった日本にも大きな影響を与えた。ベトナム戦争の期間中、長きにわたって日本の総理大臣を勤めた佐藤栄作1964年1972年)は、日米安保条約のもと、開戦当時はアメリカ軍の統治下にあった沖縄や横須賀などの軍事基地の提供や、補給基地としてアメリカ政府を一貫して支え続け、1970年には安保条約を自動延長させた。その見返り的に、1968年小笠原諸島、1972年に沖縄県のアメリカからの返還を実現した。また「非核三原則」が現れたのも佐藤の時代であり、佐藤は沖縄返還後に職を辞するが、沖縄返還への貢献を理由に1974年ノーベル平和賞を受賞した。しかし、受賞の背景が国民に十分理解されているとは言えない。

一方、左翼市民運動家はベトナム戦争を「ポスト安保闘争」の中核とみなし、反戦運動(その一環として脱走兵支援も)や過激な学生運動が盛り上がりを見せた。しかし、これらの活動団体のいくつかがソ連などの共産圏から金銭・物資面で後援を受けていたことが当事者によって戦後暴露され、大きな批判を受けた。

また、ベトナム戦争終結後、1980年代後半までの間に、共産主義政権を嫌い、漁船などを用いて国外逃亡を図った難民(ボート・ピープル)が日本にも多く流れ着いた。ベトナム経済が立ち直りつつあり、新たなベトナム難民がいなくなった現在においても、彼らの取り扱いに伴う問題は解決されたとはいえない。

[編集] 国交回復

ベトナム戦争の終結から20年を経た1995年8月5日に、ベトナムとアメリカは国交を回復した。その後2000年には両国間の通商協定を締結し、アメリカがベトナムを貿易最恵国としたこともあり、ベトナムにとって、現在アメリカは中華人民共和国に次いで第二の貿易相手となっている。フォードジェネラルモーターズヒルトンといったアメリカの大企業が、成長著しいベトナム市場に続々と進出した。

また、現在は両国の航空会社が相互に乗り入れ人的交流も盛んになっている他、ベトナム経済の成長に合わせて投資や貿易額も年々増加するなど、国交回復後の両国の関係は良好に推移している。

[編集] 評価

復興したホーチミン市(旧サイゴン市)
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復興したホーチミン市(旧サイゴン市)

ベトナム戦争は従来の戦争と形態を異にした。生々しい戦闘シーンが連日テレビで報道され、戦争の悲惨さと空しさを全世界に伝えた。小国である北ベトナムを強大な力を持つ超大国アメリカが攻撃し、南ベトナム政府を自分の好きに操ろうとする姿は、理由の如何を問わず、見る者を “大義のない戦争” と思わせるに十分であった。

ベトナム戦争終結と共に、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアではアメリカと中国の支援を受けたクメール・ルージュが相次いで政権に就き、泥沼の戦争を経たにもかかわらず、インドシナ半島は全て共産主義化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実の物となった。だが、この地はその後も安定せず、ベトナムは無差別虐殺を繰り返していたポル・ポト独裁の打倒を掲げてカンボジアに侵攻し内戦が再燃、対して中華人民共和国がベトナムに侵攻して中越戦争が起き、不安定な状況が継続した。背景にはインドシナ半島をめぐる中ソの覇権争いがあり、ソビエト連邦や中国などの共産主義国が、純粋に人道上の理由で北ベトナムを支援したものではないことも明らかになった。

後世の歴史評価を待たなければならないが、元ベトナムの宗主国であったフランス大統領のシャルル・ド・ゴールが語ったように、ベトナム戦争が民族自決の大義と尊厳を世界に問うたことだけは明白である。

[編集] 報道

ベトナム戦争は第一次インドシナ戦争に引き続き、報道関係者に開かれた戦場であった。アメリカ・北ベトナム双方がカメラマン新聞記者の従軍を許可し、彼らは直に目にした戦場の様子を社会に伝え、社会に大きな衝撃と影響を与えた。特にアメリカでは泥沼化する戦場の様子や北爆に関連した報道は、テレビ局や新聞社が自主的に規制する風潮が高まった。インドシナ半島で戦死したジャーナリストは、第一次インドシナ戦争から中越戦争までで172名に上る。内、ベトナム人が72名、アメリカ人22名、フランス人19名、日本人15名、以下イギリス西ドイツオランダカナダなどが続く。彼らはラオス内戦カンボジア内戦でも従軍し、各地で命を落とした。インドシナでの戦場報道は、その後の報道のあり方を様々な面で変えていった。 またアメリカ政府も戦場報道の重要性を認識し、以降、湾岸戦争を初めとしてメディアコントロールに力を注いでいくこととなる。

[編集] 関連作品

開戦された当時から主にアメリカを中心にベトナム戦争を扱った映画が多数製作された。戦争中こそドキュメンタリーや、右翼俳優として有名なジョン・ウェインが製作指揮を取り自ら主演した「グリーンベレー」のようなアメリカによる国威発揚のためのプロパガンダ映画もいくつか製作されたものの、戦争終結後はアメリカによる独善的かつ残虐的な行動や、(アメリカ軍の)ベトナム帰還兵の苦悩を描くものが多く製作された。

[編集] 映画

[編集] テレビ

[編集] 演劇

[編集] 小説

  • 『シャドー81』(小説)

[編集] 漫画

[編集] 音楽

[編集] 関連項目

[編集] 人物

[編集] その他

[編集] 外部リンク

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