ルドルフ・ヘス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アウシュヴィッツ強制収容所長のRudolf Hößはルドルフ・フェルディナント・ヘースを参照のこと
ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß, 1894年4月26日 - 1987年8月17日)はドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党のNo.3。1941年英国に脱出。
目次 |
[編集] 生い立ち
ルドルフ・ヘスは1894年4月26日エジプトのアレクサンドリアで貿易商の家庭に生まれた。ヘス家の居間には皇帝ヴィルヘルム2世の肖像画が飾られ、皇帝の誕生日には本国と同様に祝う典型的なドイツ人家庭であった。権威主義的で厳格な父の支配する家庭で、ヘスは神秘主義に魅かれやすい内向的な性格に育ち、瞑想の呼吸法を自分なりにアレンジするなど東洋的な思考法に染まっていった。教育をうけるためドイツ本国の寄宿制ギムナジウムに送られて青年期をそこで過ごし、第一次世界大戦では父の反対を押しきって志願しバイエルンの歩兵連隊に入営。1917年ルーマニアで負傷した後に戦闘機パイロットに転向(バイエルン第34戦闘機中隊、Bayrsche Jagdstaffel 34)。少尉まで昇進した。しかし初出撃のわずか数日後に大戦は終結し、ヘスが才能を発揮する機会はなかった。
戦後はミュンヒェン大学で経済学、歴史、地政学を学んだが、このとき地政学の父と呼ばれるカール・ハウスホーファーの薫陶をうけ、生存圏の必要を信じるようになる。在学中に国粋主義運動に没頭し、トゥーレ協会やエップ(Franz Ritter von Epp)の率いる義勇軍団(Freikorps)に加わりミュンヒェン・レーテ共和国の打倒に参加した。
[編集] ナチス・ドイツ
1920年へスはナチ党の創立メンバーとなり、学生リーダーとなってヒトラーとも密接な関係を築く。このころのヘスの手紙からはヒトラーを「護民官」と呼んで熱狂する様子がよく伝わってくる。1923年のミュンヒェン一揆失敗後はスイスに逃亡するが、翌年帰国。ヒトラーと同じ獄で『我が闘争』の口述筆記者を務める。出獄後は一時ミュンヒェン大学でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。党内人事の調整役としてヒトラーとの密接な関係は続き、最も信頼される側近の一人であった。1927年にはヒトラーを立会人としてイルゼ・プレールと結婚している。
1932年へスはグレゴール・シュトラッサーの除名後に党政治局中央委員長に就任、全国の党活動を監督する責任者になった。翌1933年ナチ党の政権掌握にともなって無任所大臣に就任し、親衛隊名誉指導者として親衛隊大将の制服の着用を許される。4月21日総統代理となり、無条件服従を誓う個人崇拝を推進する。1934年には全省庁の政策の共同立案責任者となる。「長いナイフの夜」ではエルンスト・レーム粛清と突撃隊の不服従是正に尽力した。
1935年公務員の任免権を与えられるが、このころから国政における党の重要性は徐々に薄れ始めていた。既に党は全権を握り国家の中枢にあるにもかかわらず、党活動のみに熱中してひたすらヒトラーへの忠誠を強調するだけの凡庸なヘスをヒトラーは次第に疎んじるようになっていった。こうしてヘスの影響力は低下し、ヒポコンデリーに悩むヘスは様々な症状を訴えたため実務はマルティン・ボルマンにゆだねられた。ヘスは1939年第二次世界大戦の勃発数日前に国防会議のメンバーになったが、実権はほとんど失っていた。
1941年5月10日独ソ戦の開始直前にヘスはイギリスに向けてBf110戦闘機を操り、驚異的な単独飛行を行う。既にバトル・オブ・ブリテンはドイツの失敗に終わり、防空網を突破したことも奇跡的だったが、飛行はヒトラーに非常な驚愕をもたらし、ヒトラーは「おお神よ!ヘスが英国へ飛んだ!」と一人叫んだと言われる。目的はイギリスとの停戦交渉であった。ヘスは旧知のハミルトン公爵が住むスコットランドの居城に飛び、公爵を介して独力で独英単独講和をまとめようとしたのだった。無論そのような提案が受け入れられるはずはなく、相手にされなかったヘスはロンドン塔に拘留されることになる。ドイツの公式発表では英国への飛行は精神を病んだヘスの独断とされ、解任されたヘスの代わりにマルティン・ボルマンが指名された。事実ヘスは鬱病を病んでおり、拘留中に自殺を図っている。ちなみに、ヘスは最後にロンドン塔に幽閉された人物である。
[編集] ニュルンベルク裁判
1946年ニュルンベルク裁判でヘスは人道に対する罪や戦争犯罪には問われなかったが戦争の陰謀と国際平和の擾乱の容疑で起訴された。ヘスは無罪を主張し、「ヒトラーはドイツであり、ドイツはヒトラーである。ハイル・ヒトラー。」と述べ、変わらぬ忠誠を示した。弁護側は責任能力に疑問を呈したもののヘスには終身刑の判決が下され、他の重要戦争犯罪人と共に米英仏ソ四国共同管理下のシュパンダウ刑務所で服役することになった。受刑中もヘスの内向的な性格は他の受刑者となじまず、一人瞑想したり米国の宇宙計画に関する本を耽読したりして自分の殻に閉じこもる生活だった。
1966年アルベルト・シュペーアらが釈放されたあともヘスはただ一人の受刑者として服役を続けた。しばしば家族や政治家たちから減刑嘆願書が連合国に提出されたがソ連の反対によって常に却下された。獄中でもかたくなにヒトラーへの忠誠を守り続けるヘスが釈放される可能性はほとんどなかったが、極右政党やネオナチ青年たちによってヘスはナチズムの殉教者として次第に祭り上げられていった。しかしヘス自身はネオナチを、正統なナチズムの歪曲や誤解の産物として嘲り嫌っていたという。
1987年8月17日、93才のヘスはシュパンダウ刑務所内で謎の死を遂げた。鬱病による自殺とされるが、電気コードが不自然な形で首に巻かれるなど不明な点も多くヘスの息子や支援者たちは暗殺説を唱えている。葬儀には右翼政党支持者などが殺到したため埋葬は延期され、その後秘密裏に行われた。現在でも毎年命日になると多くのネオナチたちがヘスの墓のあるヴンジーデル(Wunsiedel)で集会を開いている。
[編集] ルドルフ・ヘス暗殺説
異説として1941年5月10日以降のヘスは本人ではなく替え玉だという説がある。その根拠となっているのは「イギリスに捕まった後のヘスの行動が奇妙なこと」「第一次世界大戦の時の戦傷がないこと」「イギリスに飛び立つ前のヘスのメッサーシュミットには燃料タンクが付いていなかったが、イギリスに墜落したヘスの機体にはタンクが付いていた」などである。 この説の提唱者ヒュー・トマスは実際にシュパンダウ刑務所でヘスと会ったこともあり、本物のヘスはイギリスに到着する前にヘルマン・ゲーリングの陰謀で撃墜されたとしている。
[編集] 文献
- Eugene Bird(著)、笹尾久 / 加地永都子(訳)、『囚人ルドルフ・ヘス:いまだ獄中に生きる元ナチ副総統』、出帆社、1976年