クロアチア
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クロアチア共和国(Republika Hrvatska, 通称クロアチア)は、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和国。首都はザグレブ。
1991年、旧ユーゴスラビアから独立した。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南側はアドリア海に面し、ドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。
- クロアチア共和国
- Republika Hrvatska
-
(国旗) 国章 - 国の標語 : なし
- 国歌 : 私達の美しい故国
-
公用語 クロアチア語 首都 ザグレブ 最大の都市 ザグレブ 大統領 スティエパン・メシッチ 首相 イーヴォ・サナデル 面積
- 総計
- 水面積率世界第123位
56,542km²
0.2%人口
- 総計(2004年)
- 人口密度世界第115位
4,496,869人
80人/km²GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
2,216億クーナ (kn)GDP(MER)
- 合計(2005年)世界第63位
351億ドルGDP(PPP)
- 合計(2005年)
- 1人当り世界第72位
556億3,800万ドル
12,364ドル独立
- 日付ユーゴスラビアよりから
1991年6月25日通貨 クーナ (kn) (HRK) 時間帯 UTC +1(DST: +2) ccTLD .HR 国際電話番号 385
目次 |
[編集] 国名
正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska。通称Hrvatska(フルヴァツカ)。なお余談だが、ネクタイはもともとクロアチア人の風習であったことから、クロアチアに由来する名称でネクタイを指す言語もある(フランス語cravateやスペイン語corbataなど)。
公式の英語表記は、Republic of Croatia(リパブリック・オブ・クロエイシア)。通称、Croatia(クロエイシア)。
日本語の表記は、クロアチア共和国。通称、クロアチア。
[編集] 歴史
詳細はクロアチアの歴史を参照
9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方からビザンツ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチアはカトリック一員となっている。
こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミルがクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴ王のもとで発展をとげるが、彼の死後しばらくして後継者争いから内乱へ突入した。このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーンが、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラボニアはハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。この後15世紀にはオスマン帝国に征服されその領域に組み込まれるが、18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている。1848年の三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチアに対して認めていた自治権も併せて実態的には「オーストリア・ハンガリー・クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。
一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領になるまでヴェネツィアの支配が続く。なおオーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。
1918年に第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したクロアチアは、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラビアに改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州を設定したが不完全な対応であった。
クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パベリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラボニアとヴォイヴォディナ、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。以降、セルビア人勢力のチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。以降1945年に戦闘が終結するまでの4年の間セルビア人が強制収容所などで70万人が虐殺されたとセルビアは主張している。一方でクロアチアはその数はおおげさだとしており、ほぼ同数のクロアチア人がセルビア人によって虐殺されたと主張している。この論争は後のクロアチア紛争の火種となり、クロアチア紛争でも同じような論争が繰り返されることになった。
ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産党 が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力開放されることにによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビアは維持されたが、1980年にチトーが死去するとそれまで押さえ込まれていた各民族の不満が噴出しはじめた。クロアチアでは歴史的な経緯も含めてセルビアに対する反発が強く、特に1980年代半ばからセルビア民族主義を掲げるソロボダン・ミロシェビッチが登場するとその不満はピークに達した。
東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された。クロアチアではユーゴスラビアからの分離独立を掲げるスティエパン・メシッチが政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。1991年3月2日には、西スラボニアの帰属をめぐってユーゴスラビア連邦軍とクロアチア警察の間で睨み合う事態となり、3月31日にはプリトビツァで両者が衝突。死者を出す事態となった。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%の賛成。これを受けて6月25日、スロベニアと同日に独立を宣言した。
一方で、ユーゴスラビア連邦軍は、クロアチア領内でもセルビア人が多く、クロアチアの独立に反対していたクライナ・セルビア人自治区のセルビア人保護を目的にクロアチアに侵入。クロアチア軍は9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突となりクロアチア紛争の激化に繋がった。1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者と難民を生み出した。
[編集] 政治
[編集] クロアチアのEU加盟問題
クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉の開始は、既にEUからの承認を得ており、2005年中に加盟交渉が開始されるスケジュールが組み立てられていた。EUへの加盟時期は未定であるが、次期EU拡大が予定されている2007年の加盟には間に合わないとの見方が一般的である。クロアチアのEU加盟がなれば旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロベニアに続く2例目となる。
ただしクロアチアの加盟交渉の開始に当たってはハーグに設置されている旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトビナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされない事を理由に見送られる事になった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議においてトルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。
当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトビナは同年12月初頭にスペインのカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。
[編集] 地方行政
クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。
- 詳しくはクロアチアの地域区分とクロアチアの都市を参照せよ。
[編集] 地理
大まかに
の4地方に分かれる
ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴビナのネウムによって分離され、飛び地となっている。他国を通過せずに移動できるようにするため、ドゥブロヴニク側から伸びるペルジェサク半島とクロアチア本土との間に、長大橋「ペルジェサク橋」の建設が進められている。
[編集] 経済
[編集] 鉱業
クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎないからだ。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。
[編集] 国民
住民は、クロアチア人が89.6%である。その他、セルビア人が4.5%、ボシュニャク人が0.5%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くがクロアチア国外に退去したものと見られている。
言語は、クロアチア語が公用語であり、広く使われている(96%)。一部セルビア語を使うものもいる(1%)。
宗教は、大部分がローマ・カトリックである(87.8%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。
[編集] 文化
[編集] 世界遺産
クロアチア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が5件、自然遺産が1件ある。詳細は、クロアチアの世界遺産を参照。
日付 | 日本語表記 | クロアチア語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Nova Godina(ノヴァ・ゴディナ) | |
... | 復活祭および復活祭後の月曜日 | Uskrs i Uskršnji ponedjeljak(ウスクルス・イ・ウスクルシニ・ポネディイェルイェヤク) | 変動あり |
5月1日 | メーデー | Međunarodni praznik rada(メジュナロドニー・プラズニク・ラダ) | |
イースターより60日後 | 聖体の祝日 | Tjelovo (ティイェロヴォー) | 移動祝日 |
6月22日 | 反ファシスト闘争記念日 | Dan antifašističke borbe(ダン・アンティファシスティチュケ・ボルベ) | |
6月25日 | 国家の日 | Dan državnosti(ダン・ドルジャヴノスティ) | |
8月5日 | 解放の日 | Dan pobjede i Dan domovinske zahvalnosti(ダン・ポブイェデ・イ・ダン・ドモヴィンスケ・ザファルノスティ) | |
8月15日 | 聖母被昇天の祭日 | Velika Gospa(ヴェリカ・ゴースパ) | |
10月8日 | 独立記念日 | Dan nezavisnosti(ダン・ネザヴィスノスティ) | |
11月1日 | 諸聖人の日 | Dan svih svetih(ダン・スヴィ・スヴェーティー) | |
12月25日 | クリスマス | Božić(ボージチュ) | |
12月26日 | 聖ステファノ殉教者の祝日 | Sveti Stjepan(スヴェーティー・スティエパン) |
[編集] 音楽
クロアチアの民俗音楽は、地域によって大きく異なる。北部では旋律やリズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン・ツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。
[編集] ディスコグラフィー
- "Songs & Dances from Croatia"(Zagreb Folk Dance Ensemble / Dr.Ivan Ivančan - Mentor / EUCD 1500, dinaton & ®©1900, ARC Music Productions Int.Ltd.)
- "Folk Music from Croatia"(Tamburaski Sastav "Veritas"(Tambura Ensemble "Veritas") / EUCD 1078, ARC M.P.Int.Ltd.)
[編集] 食文化
[編集] 出身者
[編集] 関連項目
- クロアチア関連記事の一覧
- クロアチア関係記事の一覧
- クロアチアの通信網
- クロアチアの交通網
[編集] 外部リンク
[編集] 公式
- クロアチア共和国大統領府 (クロアチア語、英語)
- クロアチア政府公式サイト (クロアチア語、英語)
[編集] その他
- 世界の国々 > ヨーロッパ
-
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