蒋緯国
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蒋緯国(しょういこく、ピンイン: Jiang Weiguo, 1916年10月6日 - 1997年6月22日)は中華民国国民革命軍将軍。日本国東京に生まれ、幼名を建鎬、号を念堂と称す。
蒋緯国は蒋介石の次男である。本人は蒋介石の少子であることを否定していたが、晩年に著した自伝『千山独行-蒋緯国的人生之旅』の中で、生父は戴季陶であり、母親は日本で看護師をしていた重松金子であることを認めている。
東呉大学経済学に学び、1936年の中独合作に際しドイツに赴き、翌年ドイツ軍に入隊、ドイツ陸軍ミュンヘン士官学校に入学している。卒業後もドイツ軍に参加し、第二次世界大戦初期にはポーランドへの電撃作戦に参加している。しかし日独伊の枢軸国同盟構想が強まると中国に帰国、その後は日中戦争及び国共内戦に参加している。国軍では主に装甲部隊を指揮し、退役前には上将にまで昇進している。
遷台後の1954年に湖口兵変が発生すると蒋緯国への軍権授与は停止された。1964年、三軍将校の戦略教育の準備に着手、1969年には戦争学院を設立する。1975年に陸軍二級上将に昇格し、三軍大学の校長に就任、1980年は聯勤総司令に着任する。1986年の退役後は国家安全会議秘書長に就任、1993年には総統府資政に任命されている。
1990年の国民大会での総統選挙では当初林洋港を総統候補、蒋緯国を副総統候補にする動きがあったが、最終的に両者は総統選挙立候補を断念、この時登場したのが李登輝及び李元簇である。
蒋緯国は民間でも活躍し、中華戦略学会を創設を初め、美生会中国総会会長、中独文化経済学会理事長、中華民国サッカー協会理事長などを歴任した。
1997年9月22日、糖尿病合併症により台北栄民総医院で死去した。