カサブランカ
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カサブランカ(Casablanca、アラビア語表記:الدار البيضاء)は、モロッコ最大の都市であり、モロッコの商業・金融の中心地。カサブランカとはスペイン語で「白い家」を意味する。
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[編集] 概要
首都ラバトの南西約90キロメートルに位置し、北は大西洋に面する。人口は350万人(2004年)でモロッコ最大。観光地として多くの人が訪れる。
[編集] 歴史
紀元前10世紀にベルベル人がアンファという地域に定住したのがカサブランカの始まりだといわれている。紀元前7世紀頃にフェニキア人、紀元前15世紀頃にはローマ人と交易が行われていた。7世紀、アンファを中心とした独立国家が形成されたが、1188年にイスラムのアルモハッド朝に支配を受けることとなる。14世紀にはマリーン朝によって大規模なイスラム改宗が行われた。またその頃、港湾が大きく発達した。15世紀になってアンファは再び独立を果たした。アンファの港を拠点とする海賊船がポルトガルやスペインを襲い、1468年、それに怒ったポルトガル人によって焼き払われてしまった。
1515年、ポルトガル人によって町の再建が行われ、町を「カサブランカ(Casa Blanca)」と名付けた。しかし、1755年に起こったリスボン大地震によってカサブランカは甚大な被害を受け、ポルトガル人はカサブランカを去った。カサブランカはモロッコに統合され、1770年からムハンマド3世によって町の再建工事が行われ、町は要塞化された。18世紀からはスペインと、19世紀に入るとそれに目を付けたヨーロッパの列強諸国との間で交易が始まり、主にウールの積出港として発展した。人口も急激に増大し、1830年に600人だった人口は、1868年に8000人にまで成長した。
しかし、ヨーロッパ列強に対する住民の不満は募っていた。1907年に港湾工事を行っていたヨーロッパ人労働者を住民が殺害したのを機に、暴動に発展。フランス、スペインが軍艦を派遣し、カサブランカを爆撃、フランス軍はカサブランカを占領した。1912年、モロッコはフランスと保護領条約を締結し、カサブランカはフランスの植民地となった。初代総督に就いたリヨテ将軍がカサブランカを商業の中心として整備した。第二次世界大戦中は親独のヴィシー政権の支配下にあり、連合軍の北アフリカ侵攻のときに占領された。1943年にはカサブランカ会談が開かれた。1956年にモロッコが独立し、フランスは撤退した。
[編集] 交通
[編集] 鉄道
カサブランカには2つの大きな駅があり、その2つの駅は鉄道で結ばれている。
- カサ・ポール駅
- 市街地の近くにある。ケニトラ、ラバト方面の大動脈を走る近距離列車が発着する。
- カサ・ヴォワイヤジュール駅
[編集] 空港
ムハンマド5世国際空港が郊外にあり、ロイヤル・エア・モロッコのハブ空港として機能している。カサブランカ中心部へは鉄道で結ばれている。日本との直行便はないので、ヨーロッパなどの空港で乗継が必要となる。
[編集] スポーツ
- 1958年にアイン・ディアブ・サーキットにてF1モロッコグランプリが開催された。
- サッカーが盛んで、強豪で過去にCAFチャンピオンズリーグなどのタイトルを獲得しているアジャ・カサブランカと、ライバルのウィダッド・カサブランカが本拠を置いている。
[編集] カサブランカ出身の人物
- ヌールディン・ナイベト - サッカー選手
- ナワル・エル・ムータワキル - 元陸上選手
- ジャン・レノ - 俳優