ダカール沖海戦
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ダカール沖海戦(ダカールおきかいせん)は第二次世界大戦でのイギリス海軍とヴィシー・フランス海軍との間の海戦。自由フランス軍がイギリス艦隊の支援の下ダカールへ上陸しようとした(メナス作戦)が撃退された。
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[編集] 概要
1940年9月23日から25日に北アフリカのダカールで勃発し、ヴィシー・フランスの勝利に終わった。 指揮官はイギリス側がサー・ジェームズ・サマービル中将、ヴィシー・フランス側がピエール・ボアソン総督
参加兵力は、イギリス側が戦艦2、航空母艦1、重巡洋艦3、駆逐艦10、スループ3、輸送船6だったのに対し、ヴィシー・フランス側は戦艦1、軽巡洋艦2、駆逐艦4、潜水艦3、砲台(28cm砲など)だった。
損害はイギリス側が駆逐艦2大破、戦艦2・重巡洋艦1中破で、ヴィシー・フランス側が潜水艦2沈没、駆逐艦1大破、戦艦1中破。
[編集] 背景
ドイツ軍の侵攻によりフランスは1940年6月22日に降伏した。イギリスに亡命したド・ゴール将軍は自由フランス軍を作り本国のヴィシー政権と対立した。ド・ゴール将軍がフランス領ダカールを占領しフランス植民地軍を自陣営に引き込もうと考えた。ダカールはドイツが潜水艦の基地としようとしており、それはイギリスにとって非常に脅威であり、イギリス艦隊の支援の下ダカール攻略が行われることになった。
上陸部隊(自由フランス軍歩兵2個大隊他)を乗せた輸送船6隻は自由フランス海軍のスループ3隻(サヴォルニアン・ド・ブラサ、コマンダン・デュボック、コマンダン・ドミネ)に護衛されリヴァプールを出港した。上陸部隊の援護のため戦艦バーラム、レゾリューション、空母アーク・ロイヤル、駆逐艦10隻からなるイギリス艦隊が派遣され、9月13日に輸送船と合流した。
ダカールには未成の戦艦リシュリューなどがあり、また、同地のフランス軍はイギリス軍によるアルジェリアのフランス艦隊への攻撃(メルセルケビール海戦)を知っており戦意は高かった。なお、リシュリューは主砲8門のうち使用できるのは2門だけであり、またスクリューを損傷していて航行不能であった。
[編集] 戦闘経過
[編集] 9月23日
23日、ダカール沖にイギリス艦隊が現れた。空母アークロイヤルの艦載機が投降勧告のビラをまくなどの行動を行った。ダカール側は降伏を拒否し、10時51分、マニュエル砲台(28cm砲9門ほか)が砲撃を開始し、イギリス艦隊も反撃した。フランスの潜水艦ペルセは戦艦の雷撃を試みたが撃沈された。イギリス側は重巡カンバーランドと駆逐艦イングレフィールド、フォーサイトが命中弾を受け、自由フランス軍は上陸できず、日没と共に艦隊は後退した。
[編集] 9月24日
24日早朝、アーク・ロイヤルの艦載機が戦艦リシュリューを爆撃したが、至近弾のみで命中弾はなく、3機を対空砲火で失った。それから、戦艦バーラム、レゾリューションが戦艦リシュリュー、マニュエル砲台と交戦を開始した。フランス艦隊はイギリス艦隊攻撃に向かったが重巡デボンシャー、オーストラリアの攻撃により駆逐艦ローダシューが大破した。また、イギリス駆逐艦フォーチュンが潜水艦アジャックスを撃沈した。10時10分、フランス駆逐艦ル・アルディが煙幕を張ったため、イギリス艦隊は一時後退した。午後、再び交戦が再開された。この日も自由フランス軍は上陸はできずに終わった。
[編集] 9月25日
この日もまずアーク・ロイヤルの艦載機が攻撃を行い、続いて8時30分にイギリス戦艦が砲撃を開始した。9時ごろ戦艦レゾリューションが潜水艦ペヴジェールの雷撃を受け戦列を離れた。これによりイギリス艦隊は引き上げた。
戦闘が長引いていたため、イギリス内閣はヴィシー・フランスとの全面戦争に発展しないように上陸作戦の中止を命じた。これにより結局上陸はなされずにダカール攻略戦は終了した。
[編集] その後
イギリスはこの戦闘の結果、ヴィシー政権にドイツへの親近感をより抱かせてしまった。
この後、アフリカのフランス植民地軍はイギリス、ドイツのどちらにもつかず、2年後のアメリカ軍による北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)をむかえることとなる。
[編集] 関連項目
大西洋の戦い |
ラプラタ沖海戦 | ダカール沖海戦 | HX-84船団 | ベルリン作戦 | HX-106船団 | ライン演習作戦 | ラコニア事件 | ツェルベルス作戦 | トーチ作戦 |