天皇の戦争責任
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天皇の戦争責任(てんのうのせんそうせきにん)は、日中戦争から太平洋戦争までの戦争に対する昭和天皇の役割を戦争責任という方向から考察しようという問題であり、戦後、国内でも海外でも今日まで議論されている昭和時代の、あるいは明治維新以降の日本史に関する重要で未解決の歴史的テーマである。
1945年8月15日に事実上終わった日本の戦争は、日本国内の人々と、海外、特に中国やアジア諸国の人々に損害と苦痛を与えた。戦争責任の問題というのは、この損害等に対する責任の所在および性質を考察し、明らかにしようとすることである。
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[編集] 戦争の開始時期についての議論
戦後の一般的な歴史用語では、日本が1945年に降伏した戦争を太平洋戦争と呼び、第二次世界大戦の一部分であったとされてきた。戦前の日本政府の用語では、この戦争は「大東亜戦争」と呼ばれていた。これらの用語では、戦争はいずれも1941年12月8日の日本海軍による真珠湾攻撃をその開始時期とし、1945年8月15日の日本政府によるポツダム宣言の受諾を終了時点としている(降伏文書の調印は9月2日に行われ、ソ連との戦闘は9月4日まで続いた)。しかし、日本は1937年7月7日の盧溝橋事件以降、中国との間で完全な戦争状態に突入しており、責任を問われる戦争には少なくともこのいわゆる日中戦争が含められている。現に、東京裁判で日本の戦争犯罪を断罪した象徴的な事件である南京大虐殺は、1937年の12月以降の数ヶ月間に、継続的に発生している。さらに、日本の戦争責任を積極的に認めようとする人々の考え方の中では、日本の中国に対するいわゆる侵略戦争は、1931年の満州事変、あるいは九一八事変に端を発しているので、この時期まで戦争をさかのぼろうとする考え方が多数を占めている。さらに、この考え方を突き詰めると、昭和時代前半20年間の日本の好戦的な姿勢の根源は、明治維新以降の日本の姿勢と国際情勢に原因を求めないと、実質的な説明ができないので、戦争の開始時期とは別に、明治以降の日本史を総合的に検討しなければ、戦争責任の問題についての納得のいく解答を得ることはできないということになる。
[編集] 責任の種類
一口に戦争責任といっても、この言葉を使用する論者ごとにその内容はさまざまである。
第一に、戦争責任をもっとも大規模かつ理論的に展開し、戦前の日本は人類の正義に反して世界征服を企み、非人道的な征服戦争を発動して人類一般に対する深刻な損害を与えたとする考え方があり、このような考え方は戦後に日本の戦争犯罪を裁いた極東国際軍事裁判の当初の理論的な根拠になっていたと思われる。しかし、日本が大規模な世界征服の陰謀を抱いていたのかどうか疑問であり、日本の戦争行為はその時代をわずか数十年ほどさかのぼった時期までは連合国を形成する主要な国である西欧諸国が普通に行っていたものと同質ではないか、日本の戦争の時期にはこれを犯罪と考える国際法的な根拠がなかったのではないかなどというようなさまざまな反論があり、日本国内ではこのような戦争責任については、否定的な見解が多数派を占めている。
第二に、少なくとも戦争によって不幸な状態に陥れられた被害者全般に対しての責任を重視する考え方がある。この被害者には、日本の民間人の被害者、軍人や兵士の被害者、日本が侵略した中国やその他のアジア諸国の軍人や民間人の被害者、日本の残虐な扱いで犠牲になったアメリカ軍などの西欧諸国の軍隊の戦争捕虜を含む連合軍の軍人などがいる。この中から、アメリカなど西欧列強の被害者に対する責任は除外し、アジア諸国の被害者については責任を認めようとする考え方も、情緒的なものではあるが比較的多数の国民に共有されている。
第三に、戦争時の敵国の被害者を完全に除外するが、結果的に日本が戦争に敗れ、また日本の軍人や民間人に多大の犠牲者を出したことについての責任だけを限定して認めようとする立場もある。このような考え方は、東京裁判で裁かれた東條英機の陳述などに見ることができ、現在でも多くの日本人の共感を勝ち得ているといえる。
最後に、戦争責任自体を完全に否定する立場がある。これは、昭和の戦争を自存自衛の戦争、あるいはさらに進めて日本がアジアを解放するための戦争だったと位置付け、戦争自体を否定的に評価しない立場に基づくものであり、戦後の国際的な冷戦体制の中で、戦争を担った日本の有力な指導層の人材が政財界に復帰することをアメリカを中心とする西側諸国が認めたという事情もあり、戦後の早い時期から、かなりの層の人々に根強く支持されてきた考え方である。1990年代頃に顕著になった自由主義史観といった議論や運動は、この流れに沿ったものであると見ることもできる。
[編集] 天皇の戦争責任を肯定する論法
上記の解釈のうち、最後の立場から言うと、そもそも日本には戦争に対する責任を負うべき事実が存在しないのであるから、天皇の戦争責任自体を問うことが設問としてなりたたない。また、第三の立場の場合でも、日本が戦争に敗れて蒙った被害を国としての損失という面から考えると、当時の日本の国の主権者は国民や人民ではなく天皇であり、損失を負ったのは国民でもあるがその最大の被害者は天皇自身であったという考え方が発生するので、天皇の戦争責任という概念は確立しにくい。
したがって、天皇の戦争責任を議論するためには、戦争について第一か第二のような見解に立っていることが前提となり、一定の歴史的な見解を共有するものの議論ということになる。逆に、第一または第二の立場で戦争責任を考えれば、戦争当時の日本では国家主権は天皇に存し、日本国内でも外国でも天皇は日本の元首であり最高権力者であると認識されていて、戦争を始めとするすべての政治的な決定は天皇の名のもとで下され、遂行されたという歴史的事実から、天皇にまったく戦争責任がなかったとする主張がある。だが、当時の大日本帝国憲法では天皇の政治的無問責が規定されており、天皇に関して法的責任は問えない。そのため、天皇の戦争責任を肯定する意見からは、法的責任ではなく道義的責任という観点から責任を問おうとしている。
[編集] 戦争裁判における天皇の免罪
戦後、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判では、昭和天皇を訴追する動きもなかったわけではないが、早い時期にそのような動きは撤回され、天皇は裁かれないことになった。また、戦争直後には昭和天皇が退位するという選択肢もまったく検討されなかったわけではないが、歴史的には昭和天皇は天皇の地位にとどまり戦後の象徴天皇制が維持されることになった。このような一連の措置こそが、天皇の戦争責任を歴史的な研究課題として今日まで未解決のまま残した決定的な原因であるといえる。しかも、この措置は戦争責任に関する議論によって決定されたものではなく、多くは冷戦に向かう戦後政治の中で、日本を西側陣営に引き込もうとするアメリカなどの西側連合国の政治的な動機により採られたものだったと考えられている。
[編集] 天皇の戦争責任を否定する論法
およそ、ある組織が犯罪により、あるいは過失等によって何らかの損害を生じさせる原因となった場合には、それが組織の末端の個人の独断によるものでなく、組織全体をかけて遂行した行為によるものであれば、組織の長が何らかの責任を問われないことは、合理的には説明できないので、天皇の戦争責任の問題は結局のところ、戦争責任の存在を認めた上で、どのような論法で天皇の戦争責任を否定するのかという議論がその大半を占めているといえる。実際に、日本政府は1952年のサンフランシスコ講和条約で自国の戦争に責任を負うべきものがあることを承認した上で、国際社会に復帰したのであるから、その上で天皇に戦争責任がないことの説明が必要になった。
まず、昭和天皇の人格的な高潔さと平和主義的な思想が語られた。たとえば、マッカーサーとの会見で、戦争責任は日本国民にではなく、すべて自分にあると述べたという説が語られ、また日米開戦を決定した御前会議の後に、戦争を厭う和歌を詠んだなどという逸話は、このような雰囲気を代表するものである。
また、戦前の国家体制における天皇の位置、特に意思決定における天皇の役割に関する議論があり、今日ではこの議論が天皇の戦争責任の否定論の主流になっている。つまり、戦前の国家意志決定過程では、天皇には、まったく権限がなく、意思決定は重臣達の会議によって行われていたのだから、天皇には戦争責任がないとするものである。この主張は、実際には歴史的な事実として実証されたものではない。現実に、昭和天皇はその戦前の治世において少なくとも三度は、自ら意思決定をして国のあり方を動かしたといわれる。第一は、張作霖爆殺事件後に時の首相田中義一を叱責して内閣を瓦解させたこと、第二は二・二六事件で反乱軍の積極的な鎮圧を要求したこと、第三は終戦の決断である。
[編集] タブー化
このように、天皇の戦争責任は戦後における未解明の問題として残されているが、戦後の日本でこのテーマを研究したり、討論することが自由に認められてきたわけではない。むしろ、強い圧力によりこの問題はタブー化され、その傾向は強まっているように見える。1988年に天皇の戦争責任について市議会で答弁した、時の長崎市長・本島等が銃撃された事件はその事実を強く物語るものであるといえる(菊タブー)。