大政翼賛会
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大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社である。
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[編集] 概説
近衛文麿公爵らが構想し、新体制運動の結果発足し、国民動員体制の中核組織となる。総裁は内閣総理大臣。中央本部事務局の下に下部組織として道府県支部、大都市支部、市区町村支部、町内会、部落会などが設置される。
1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会を除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。もっとも、議院内の会派は旧来のまま存続し、また、大政翼賛会自体は公事結社であるため政治活動は行えず、関連団体である翼賛議員同盟などが政治活動を行った。これは、「バスに乗り遅れるな」という言い回しで知られるが、解散した各政党や内務省等も大政翼賛会内における主導権を握るため協力的な姿勢を執ったものの、団体内は一枚岩ではなく、一国一党論者の目指したものとは大きく異なっていた。
このように大政翼賛会を中心に大東亜戦争下での軍部の方針を追認し、支える体制を翼賛体制という。1942年6月23日には大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団の6団体を傘下に統合した。その後、1945年3月に護国同志会、6月に本土決戦に備えた国民義勇隊結成により解散となった。
[編集] 性質
大政翼賛会は政党であるのかないのか、という疑問はその誕生時から存在した。「一国一党(あるいは組織)の強力な政治体制を目指す」という主張は、ナチ党、ファシスト党(あるいは公言はされなかったがソビエト連邦共産党)を理想の形態と考える勢力からしばしば語られたが、これに対しては「大日本帝国憲法は天皇親政を旨とするものであって、首相を指導者とした一国一党組織は国体に反する」とする立場(いわゆる「観念右翼」)からの「幕政論批判」が存在した。
この対立は、設立過程では充分に解消されず、大政翼賛会の発会式(1940年10月12日)では、政治組織であれば当然あるべき綱領・宣言の類は、首相であり翼賛会総裁の近衛の口からは発表されなかった。
その後、1941年(昭和16年)2月に、治安維持法上の政事結社ではなく、公事結社として認定されて政治活動が禁じられる。そして、同年4月に政治団体化を目指していた近衛公爵側近の有馬頼寧伯爵が事務総長を引退するなど、やがて次第にその性格は政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに縮退していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。
[編集] 翼賛選挙
1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年の「衆議院議員任期延長ニ関スル法律」(昭和16年法律第4号)によって1年延長の措置がとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあったが、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。そこで内務省のいわゆる「革新官僚」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導(表向きは「大政翼賛会」)による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい議会制度を確立するという、自由選挙に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、1942年に選挙が実施されることとなった。1942年2月23日には元首相の阿部信行を会長に戴いた翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者を選考・推薦していった。この選挙は翼賛選挙とも呼ばれる。
推薦を受けた候補者は軍部や大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。もっとも、全ての都道府県で等しく選挙干渉がなされたわけではない、とする研究も存在する。
協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、83.2%(全国平均・普通選挙開始以来最高)という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は381人が当選。その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、彼らの中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の公職追放令により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。
[編集] 翼賛議会
翼賛選挙の後の5月20日翼賛政治会(翼政会)が結成された。翼賛政治会には刑事事件で起訴された8名を除く全ての衆議院議員が参加した。この議会は「翼賛議会(よくさんぎかい)」と称されて、名実ともに一党支配の政治体制が完成された。だが、戦況悪化とともに非推薦議員を中心として同会の行動に反旗を翻す議員が続出して、同会の内部の脆さが露呈した。また、軍部と結んで国政の主導権を取ろうとする翼政会指導部の方針に対して、支持母体である大政翼賛会や翼壮が反対したために民衆に対する影響力も低下した。1945年3月11日には岸信介が結成した「護国同志会」に移行。このため、軍部は同年3月30日に護国同志会他諸団体を強制的に統合して大日本政治会(日政会)を結成させた(6月13日に翼賛会と翼壮は解散され、日政会に正式に統合される。なお、翼壮の政治部門以外は直後に成立した義勇兵役法によって国民義勇隊に統合された)。だが、この強制的統合は3団体の関係者の反感を買って却って機能低下を招いた。
日本の敗戦後、9月14日に大日本政治会は解散したが、日政会に所属していた議員の大半が11月に日本進歩党を結成した。そのため進歩党は今日では「日政会の後身」と評価されている。だが翼賛選挙で協議会推薦で当選した候補が中心となって結成された政党なので、進歩党は翌1946年の公職追放令で所属議員273名のうち実に259名が追放され大きな打撃を受けた。
[編集] 歴代総裁
[編集] 関連事項
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