嵯峨浩
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嵯峨 浩(さが ひろ、1914年4月16日 - 1987年6月20日)は、愛新覚羅溥傑の夫人で、侯爵嵯峨実勝と尚子夫人の長女。
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[編集] 生涯
天皇家に繋がる名門華族・嵯峨家(旧姓・正親町三条家)の令嬢として生まれ、少女時代は母方の実家・濱口家で何不自由なく優雅に育つ。天真爛漫で活発な性格であると同時に、生まれついての気品と美しさを兼ね備えていた。また油絵を愛し、女子学習院高等科卒業後は画家になる夢を持っていたが、軍部が満州支配のために仕組んだ縁談により、1937年に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑と結婚した。
政略結婚でありながらも、ひと目見たときから心を奪われた溥傑を一途に愛し続ける。しかし、華族の姫君、皇弟の妻という華やかな立場から一転、終戦後の混乱に巻き込まれて夫と離れ離れになりながら、幼い娘・嫮生と共に、動乱の中国を流浪する。帰国のために中朝国境を目指して移動するがその途中では通化事件に遭遇し、そこで八路軍に拘束される。ハルピンに連行される途中の朝鮮族自治区の首都延吉で婉容皇后の死を目睹する。その後ハルピンでは開拓団員になりすまし脱出を試みるが、逮捕されてしまう。北京に移送され、溥傑の父・醇親王と再会を果たす。戦犯として南京に身柄を移されるが裁判にはかけられず、1947年上海からの引き上げ船に乗って日本に帰国した。
日本に帰国後は長女慧生と再会し、次女嫮生とともに東京で暮らすが、帰国から10年後の1957年には慧生が伊豆天城山で心中事件で早世してしまう。
しかし、慧生が周恩来に出した手紙がきっかけで撫順の収容所にいる溥傑との文通が許され、1961年に特赦となった夫溥傑と北京で再会し、以後北京に居住する。1987年死去。遺骨の一部が、曾祖父の中山忠光が祀られている山口県下関市の中山神社内に作られた愛新覚羅社に溥傑の手によって納められた。
[編集] 著書
著書に「流転の王妃の昭和史」がある。
[編集] ドラマ化
京マチ子の主演で舞台化。
溥傑の自伝「溥傑自伝‐満州国最後の皇弟を生きて」とあわせてテレビ朝日によって「流転の王妃・最後の皇弟」というドラマも制作された。
このドラマで浩を演じたのは常盤貴子。 ちなみにこのドラマの公式サイトによると、浩の実孫と常盤貴子はかつて同じ学校の同級生だったそうだ。
[編集] 外部リンク
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