皇帝
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皇帝(こうてい、ラテン語: imperator,Caesar 英語: emperor ドイツ語: Kaiser ギリシャ語: Βασιλευς ロシア語: царь)は、君主の称号(君主号)の一種である。女性の場合、女帝、女皇などと言うこともある。なお、皇帝の后妃を皇后という。
国の上に立ち、多数の国々と諸民族を支配するという意味があり、皇帝の支配する国を帝国、皇帝を戴く君主政体を帝政と呼び、世襲の場合が多い。しかし、以上の諸点にはそれぞれ無視できない例外がある。
現代の日本語では、皇帝とは、東アジアで使われていた秦の始皇帝を起源とするものと、ヨーロッパで使われていた古代ローマのインペラトル、カエサルを起源とするのものとの2つ、及びこれと同等とみなされるものを指す。どういったものが同等かについて定まった基準はなく、時代により人により異なる。皇帝・帝国という概念を時代、地域に関わりなく当て嵌めていた時期もあったが、現在では無理に翻訳せずに元々の称号をそのまま使用する事が多くなっている。
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[編集] 東アジアの皇帝
[編集] 「皇」と「帝」
「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、人類最初の王を意味している。中国の伝説で最初に中国を支配したのは、三皇であるとされている。また、「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代では、この意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)である。ここから、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で「帝」が用いられるようになった。至上神という意味での「帝」は殷人が用いたものである。殷人は、祖先や太陽・月・山河などを神として崇めており、これらの神々の内、最高位にあるものを「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷の支配者は,亀卜(卜占の一種。甲骨文字参照)で「帝」の意志を知り、その意志に基づいた神権政治を行った。後に、至上神という意味での「帝」から受託されて人間界を支配している支配者のことも「帝」と呼ばれるようになった。
[編集] 「皇帝」の登場
史記等の伝統的な中国史の書物によれば、中国の君主の称号は次のようであった。五帝・夏・殷の君主は、皆「帝」と名乗った。「帝」はこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。周が殷を滅ぼした後、周の君主は「王」と名乗った。「王」もまたこの世に同時に1人しかいない至尊の称号であった。しかし、周王朝が衰えると、南方の楚が、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も、「王」の称号を使うようになった。このころになると、「王」は至尊の称号でなく、単なる君主の号となった。また、戦国時代の一時期、斉王が「東帝」、秦王が「西帝」と称したこともあったが、すぐに「王」の称号に戻した。このような背景から「王」の称号が価値を落としたと見て、秦の王・羸政が、他の王国を滅ぼした後、王を超えた称号として「皇帝」を名乗ったのである。これがいわゆる秦の始皇帝である。なお、考古学的知見などからは、殷の君主も「王」を称号としており、「帝」が君主の称号として用いられたことはないと考えられている。「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究から分かっている。
「朕」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は、「朕」という言葉を皇帝専用の言葉とした。他にも「制」・「詔」などの皇帝専用語も策定した。また、「王」の称号は用いられなくなった。
[編集] 皇帝の定着
始皇帝からはじめて二世皇帝、三世皇帝と続ける予定だったが、始皇帝の死後、反乱が相次いだため、秦の皇帝は二代で終わった。始皇帝から数えて3代目である嬴子嬰は、始皇帝死後の反乱のために、中国全土を支配することができなかったために、単に「王」と称した。始皇帝の死後、反乱を起こした者たちは、次々と各地で、「王」を称した。中でも、戦国時代の楚の末裔である懐王心は、項羽・劉邦などの助けもあり、秦を滅ぼしたあとに、各地に並び立った「王」よりも、1段上の称号として、「帝」の称号を名乗った。その後、義帝(懐王心)を殺した項羽は西楚の覇王を称した。項羽を倒した劉邦が前漢の「皇帝」に即位し、これより後の歴代の中国の支配者は、「皇帝」を名乗るようになった。そして、各地に「王」を任命した。以降、皇帝が王を任命するという図式が成立した。また、「帝」の称号は、「皇帝」の略として広く使われるようになった。
ただし唐代には高宗が皇后武則天の影響で「皇帝」ではなく「天皇」を称した時期もあった。
中華思想では皇帝は地上の支配者であり、周辺諸国の君主よりも上に立つものとされた。皇帝と周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。中華の秩序の上では近代的な国境という概念はなく、したがって皇帝の支配する領域という意味での「帝国」という言葉も使われなかった。
[編集] 皇帝の乱立
五胡十六国時代や五代十国時代のように中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。三国時代には中原を支配した魏のみならず、呉、蜀の君主もそれぞれ皇帝を称し、南北朝時代には2人以上の皇帝が同時に存在した。
軍事力に劣った北宋の皇帝は、北の異民族王朝である遼、金の君主を皇帝と認めた上で自らを格上(叔父と甥の関係、兄と弟の関係などと表現された)に位置付け、辛うじて面子を保たざるを得ず、東アジアにおける中国君主が地上の唯一の皇帝であるという理念を自ら覆した。金と南宋に至っては、南宋の皇帝のほうが格下という位置付けになってしまった。
また、日本の天皇のように中国の皇帝の冊封体制にない周辺国の君主は、自ら皇帝を名乗って、中国を除く周辺諸国に皇帝として振舞おうとした。朝鮮の高麗朝の草創期やヴェトナムの阮朝のように、中国王朝に朝貢しながら国内に向けては密かに皇帝を称することもあった。
近代には、日本と清との間で下関条約が締結された後の1897年、朝鮮国(李氏朝鮮)が、清の冊封体制から離脱したことを明らかにするために、王を皇帝に改め、国号を大韓帝国(1897年 - 1910年)とした例がある。
[編集] 日本の天皇あるいは皇帝
古代の日本は、中国皇帝の別名「天皇」を、君主の称号として和名の「すめらみこと」に当てた。歴史学者の間では、「天皇」という称号の出現は天武天皇の時代という説が有力である。日本が「天皇」という称号を持つに至った経緯は、607年聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙において、対等を表明するため「日出る処の天子」や「東の天皇」と語ったところに由来し、663年の白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れたことで、明確に唐と対等の独立国家であることを主張するためと考えられる。
養老令天子条において、「天子」及び「天皇」の称号とともに、皇帝という称号も規定されている。
日本政府は明治時代から第二次世界大戦終戦まで、世界の独立した君主国の君主を全て皇帝と呼称した。これは、漢字語の王や公は、天子たる皇帝に臣下の礼を取る属国の長という意味合いが強く、対等を建前とする、近代的外交関係においてふさわしくないと考えられたためであると思われる。また、対外向けの呼称としても、天皇の事を「皇帝」と称した。
ヨーロッパの言語では、中国の皇帝や日本の天皇の訳語にヨーロッパにおける皇帝を意味する語(英語の emperor やドイツ語の Kaiser など)が用いられる。江戸時代にはMikadoなどと表現されていたが、日英同盟(1902年)の覚書に「日本国皇帝」と表現されたことでemperorとなり、世界的に皇帝として天皇が認知されるようになった。ただし諸学者の中にはTennoをそのまま用いるものもある。なお、皇族は英語ではimperial Princesとなる。現在においても天皇がヨーロッパ諸国を訪問した際は、皇帝としての待遇を受けている。よって日本国は国際慣習法上、世界で唯一皇帝位を頂いている国であるといえる。
また明治から大正にかけては、外交文書に限らず国内向けの公文書においても「日本国皇帝」の称号が使われているケースがしばしばみられる。
天皇が果たして西洋的な意味合いでの皇帝に適するかどうかは問題であるが、明治憲法下において複数の国を統治したこともあるため、適するという意見もある。
なお、韓国では政府の公式文書や外交時の儀礼的な場以外では、天皇をイルワン(日王、일왕)と、皇帝よりも格下の名称で呼ぶことが多い。一時はこれを見直そうという動きもあり、一部マスコミで「天皇」を使用したこともあったが、現在ではまた元の状態に戻っている。
[編集] ヨーロッパの皇帝
ナポレオン・ボナパルトが、1804年に国民投票によってフランス皇帝となるまで、ヨーロッパの皇帝の称号は(若干の例外を除いて)ローマ皇帝の後継者としての称号であった。ヨーロッパ諸国で皇帝を意味する単語は、ローマ帝国の支配者の称号が起源である。
[編集] ローマ帝国
帝政ローマの最高支配者となったガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)が、実質的な最初のローマ皇帝とされる(厳密には、「皇帝」ではなく「インペラトル」。この点については後述)。彼は大きな権威と権力を手中にしながら、共和政下のローマでは伝統的にネガティブなイメージを帯びていた「王」とは称さず、代わりに共和政時代から存在する官職や権限を一身に兼ねるという形をとった。そのため、ローマ帝権は多数の称号を身に帯びることになった。そのうち日本語で皇帝に当てられるのは、フランスなどで用いられた称号「アンプルール (empereur)」のもとであるインペラトルである。 ドイツやロシアなどで用いられた称号(カイザー、ツァーリ)のもとであるカエサルも皇帝の称号ではあったが,やがて帝位継承者の称号や副帝の称号となり、ついには単なる爵位になるというような変遷をしている。
インペリウム (imperium) は、字義通りには「命令権」、「支配」を意味し、王政期の王権に由来する概念であるが、法的には共和政のローマで高等政務官の有する軍指揮権を含んだ広範な権限を意味した。インペラトル (imperator) は字義通りには「命令者」を意味したが、軍の指揮をとる将軍を指す称号でもあった。したがって、共和制時代にはインペラトルが同時に複数存在することは正常な状態であった。これとは別に、共和政後期になると、ローマの広大強力な支配権力や支配領域を指してインペリウムというようにもなった。
このように、ローマのインペラトルとインペリウムは君主制を前提とするものではなく、また、語源は同じでも「帝国の支配者=皇帝」と対にして用いることを予定したものでもなかった。この特徴はローマ滅亡後の後代にも幾分か引き継がれ、皇帝のない国を帝国と呼ぶ用法や、人民投票による皇帝を生み出すことになった。
カエサル (caesar) は、ガイウス・ユリウス・カエサルの家族名だが、彼の姪の息子にして養子であるアウグストゥス(ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス)も当然カエサルとも呼ばれ、カエサルの名が代々の皇帝に受け継がれた。ここからカエサルという語が皇帝の意味に用いられるようになった。年代が進むにつれ、次期皇帝にはカエサルの名を贈るようになった。彼らはまた職務上インペラトルでもあり、ただ1人の最高権力者(つまり皇帝)がインペラトルになる慣行が、帝政初期に徐々に定着した。また、オクタウィアヌス以来の「尊厳なる者(アウグストゥス)」も「インペラトル」「カエサル」と並んで称号として用いられた。
ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、293年に広大な領土を東西にわけ、2人の正帝と2人の副帝が共同で統治する四分治制(テトラルキア)を導入した。ここで「インペラトル・カエサル」が正帝、「カエサル」が副帝の称号となった。以後、東西の帝国が統合したり分裂したりを繰り返し、395年にローマ皇帝テオドシウス1世が没すると、テオドシウスの長男アルカディウスが帝国の東の正帝に、次男ホノリウスが帝国の西の正帝になった。
東西のローマ帝国における皇帝については下で述べる。
[編集] 東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)
東ローマ帝国では皇帝の称号は王朝の交代はあったものの、1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)が滅びるまで代々受け継がれた。東ローマ帝国では、7世紀以降公用語がラテン語からギリシア語となり「皇帝」を表す称号として、元はアケメネス朝・ササン朝のシャーを指したギリシア語である「バシレウス(バシレイオスと表記することもある。古典ギリシア語読み。中世ギリシア語の読み方ではヴァシレフス。なお古代ギリシャ時代には単なる「王」を示す単語だった)」という呼び方が用いられた(それまではラテン語の「インペラトル カエサル」が引き続き使われていた)。
これは、7世紀の皇帝ヘラクレイオスが628年にササン朝ペルシャ帝国を降して首都コンスタンティノポリスへ凱旋した時に「キリスト教徒のバシレウス」と名乗ったことによる。この「バシレウス=シャー」には、「諸王の王(ペルシャ語の「シャーハンシャー」、ギリシア語の「バシレウス・バシレオーン」)」という意味を含んでおり、ローマ帝国の皇帝であると同時にペルシャの「諸王の王」である、という宣言であった(尚樹啓太郎著 東海大学出版会『ビザンツ帝国史』より)。これによって東ローマ帝国の皇帝には、古代のローマ皇帝とは異なって「君主」としての意味が強くなり、これは西欧の皇帝にも大きな影響を与えた。またキリスト教化の進行によって、皇帝は「神の代理人」という位置付けがされ、宗教的にも大きな権威を持つ存在となった。
ただし、一方では帝位の正統性は「元老院・軍隊・市民の推戴」によって示される、という古代ローマ以来の原理も残され(例えば皇帝の即位式の際は、「軍隊が、民衆が、元老院が帝位に就けと要求しているのだ」、という歓呼がされた)、帝位は必ずしも世襲されるとは限らなかった。この辺りに東西の文明が融合した東ローマ帝国の特徴を見ることが出来よう。
他に皇帝の称号としては「アウトクラトール(単独の支配者、専制君主を意味するギリシア語。既に6世紀からインペラートルに相当する称号として、ギリシャ語版の勅令で使われていた)」、「セバストス(尊厳なるもの。ラテン語のアウグストゥスに相当)」などが用いられた。
東ローマの皇帝は、西ローマ帝国が滅亡した際ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが西ローマ皇帝の位を東ローマ皇帝ゼノンに返還していたため、西ローマ帝国の滅亡後は名目上では全ローマ帝国の皇帝であった。この経緯もあってか、イタリアやイベリア半島の一部にまで及んだ東ローマ帝国の勢力が後退した後も、唯一の正統なローマ皇帝として単に「ローマ人の皇帝」と名乗り、「東ローマ皇帝」という呼び方は使われなかった。
また、後にフランク王カールやブルガリア王シメオン、ドイツ(神聖ローマ帝国)の王たちが「ローマ皇帝」を名乗った際は、東ローマ皇帝は彼らを「皇帝」としては認めるが「ローマ皇帝」としては認めない立場をとり、あくまでも自分だけが唯一のローマ皇帝であると主張した。
この他にも東ローマ帝国を一時滅ぼした第4回十字軍が建国したラテン帝国や、それによって亡命した東ローマの皇族達が建てたニカイア帝国・エピロス専制侯国・トレビゾンド帝国の君主も東ローマの正統な後継者であることを示すために「皇帝」を称した(エピロスは一時期のみ)。
[編集] 西ヨーロッパ
[編集] カール大帝の「西ローマ帝国」
476年に西ローマ帝国が滅びた後の西ヨーロッパに対しては、前述のように東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスにいる皇帝が全ローマ帝国の皇帝として宗主権を主張し、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリアやイベリア半島の一部を東ローマ帝国が征服した。
このため、西ヨーロッパ諸国やローマ教皇はコンスタンティノポリスにいる皇帝の宗主権を認め、その臣下とならざるを得なかった。(ヨーロッパにおいて、王が皇帝よりも格下であるという認識は、この時に生まれた)ゲルマン人に布教を進めてローマ教会の勢力を拡大し、「大教皇」と呼ばれた6世紀末のグレゴリウス1世でさえも、それは同じであった。実際、7世紀の教皇マルティヌス1世のように、教義をめぐって対立した東ローマ皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処せられた者もいたほどであった。
しかし7世紀以降、東ローマ帝国はイスラム帝国やブルガリア帝国などの攻撃を受けて弱体化したためにイタリアでの覇権を維持できず、またローマ教会とは聖像破壊問題などの教義の問題や教会の首位をめぐるローマとコンスタンティノポリスの争いなどで対立を深めるようになった。このためローマ教会は、東ローマ帝国に代わる新たな後ろ盾を必要とするようになった。
797年、東ローマ帝国で皇帝コンスタンティノス6世の母エイレーネーがコンスタンティノスを廃位し、自ら女帝として即位するという事件が起きた。これを機に、ローマ教皇レオ3世は「コンスタンティノスの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えた」として、800年に国力の伸張著しいフランク王国の国王カールに「ローマ帝国を統治する皇帝」の称号を与えた。これがカール大帝である。
以後、西ヨーロッパの皇帝は西ローマ皇帝の後継者、キリスト教の守護者の意味を持つようになる。また、本来ローマ皇帝は「元老院・市民・軍隊」によって選ばれるものだったのだが(東ローマ帝国では最後までその建前が守られた)、カール大帝の戴冠の経緯は、ローマ教皇が皇帝の任命権を主張する根拠ともなった。
[編集] 神聖ローマ帝国
カール大帝以降の帝位はやがて途絶えてしまっていたが,962年にドイツ王オットー1世は、ローマ教皇ヨハネス12世から皇帝の冠と称号を受けた。ここに復活した帝国は、大空位時代を経ていわゆる神聖ローマ帝国となる(なお、実際の称号は「皇帝」や「尊厳なる皇帝」などであって、「神聖ローマ皇帝」と称したことはない)。以後、皇帝の称号を帯びるためにはローマ教皇の承認を得なければならなくなった。しかし、時代が進むにつれ、帝国は諸侯のゆるい連合体に変化し、皇帝の権力も弱まっていった。
1356年にカール4世は金印勅書を発布し、選帝侯がドイツ王、ひいては皇帝を選出するようになり、ローマ教皇の干渉を受けなくなるようになった。1438年にハプスブルク家のアルプレヒト2世が選出されてからは、1人の例外を除いてハプスブルク家が皇帝位を独占するようになり、皇帝は帝国の最有力諸侯であるオーストリア大公のハプスブルク家が帯びる名誉称号に近いものになった。特に三十年戦争以後は、各諸侯領はほとんど独立国家同然となり、皇帝とは名ばかりの存在になっていった。このころには「ドイツ人の帝国」もしくは単に「帝国」と名乗ることも多かった。皇帝も、ローマ皇帝ではなくドイツ皇帝と称するようになる。1806年、フランツ2世が帝国の解散を宣言して、神聖ローマ帝国は名実共に滅びた。
[編集] 近代の皇帝
[編集] フランス皇帝ナポレオンと「ローマ皇帝」の消滅
フランスでは革命以後、ナポレオン・ボナパルトが勢力を強め、1804年には、議会の議決と国民投票によってフランス皇帝ナポレオン1世となった。
ナポレオンの皇帝即位により、カール大帝以来の「全キリスト教世界の守護者」「ローマ皇帝の後継者」としての皇帝の意味はほとんどなくなった。1804年に神聖ローマ皇帝フランツ2世は自身をオーストリア皇帝フランツ1世と称し、1806年には神聖ローマ皇帝を辞した。これにより西ヨーロッパの伝統的な理念に基づく皇帝は消滅し、ナポレオンが没落した後も蘇ることは無かった。やがてオーストリア帝国はハンガリーとの同君連合に再構成され、オーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生した。
[編集] 19世紀の皇帝と西ヨーロッパ的皇帝の消滅
19世紀には皇帝ナポレオンにならって中南米に新興の皇帝が生まれた。ハイチでは1804年の独立時にジャン=ジャック・デザリーヌが、1849年にはフォースティン=エリ・スールークがそれぞれハイチ皇帝に即位し、特にスールークはクーデターで打倒されるまで「フォースティン1世」として圧政を敷いた。メキシコではアグスティン・デ・イトゥルビデが1822年に皇帝に即位したが、翌年に廃位された。1864年には、ハプスブルク家のマクシミリアン大公が、メキシコへ干渉したフランス皇帝ナポレオン3世によってメキシコ皇帝マクシミリアン1世に担ぎ上げられたが、在位わずか3年で革命軍によって捕らえられ、処刑された。
ブラジルでは、1831年にポルトガル王ジョアン6世の息子ペドロが、ポルトガルから独立したブラジル帝国の皇帝ペドロ1世となった。1889年、その子ペドロ2世のとき革命が起き、共和制になった。
ヨーロッパでは、1852年から1870年まで、ナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオンがフランス皇帝ナポレオン3世を称し、帝政を敷いた(フランス第二帝政)。また、1871年には、オーストリアを除くドイツを統一したプロイセンの国王ヴィルヘルム1世が、ドイツ皇帝を兼ね、ここにドイツ帝国が成立した。
第一次世界大戦の終結と共に、敗戦国であったドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国では革命が起きて帝政が倒れた。また後述するロシア帝国でも、いわゆるロシア革命によって帝政が崩壊したためにヨーロッパでは皇帝は1人もいなくなり、ローマ帝国以来のヨーロッパにおける皇帝の歴史は幕を閉じた(インド皇帝を兼ねていたイギリス国王を除く)。
[編集] 東ヨーロッパ
この地域の皇帝概念は東ローマ帝国を経由してローマ帝国のそれを受け継いだものである。なお、前述のように東ローマ帝国では皇帝は「バシレウス」と称し、「カエサル(中世ギリシャ語ではカイサル)」は副皇帝を示す言葉だったのだが、何故か東ヨーロッパのスラヴ系の言語では、皇帝を指す言葉として「カエサル」由来の「ツァーリ」を用い、東ローマの皇帝をツァーリと呼んでいた。
[編集] ブルガリア帝国とセルビア
東ローマ帝国以外では、920年にブルガリア王シメオンが東ローマ帝国征服を狙って「ブルガリア人とローマ人の皇帝(ツァーリ)」を称し、以後、第一次ブルガリア帝国(920年 - 1018年)と第二次ブルガリア帝国(1188年 - 1396年)を通じて、皇帝という称号が使われた。また14世紀のセルビア王国の王ウロシュ4世(ステファン・ドゥシャン)も東ローマ帝国の征服を企図して、1345年に「セルビア人とローマ人の皇帝」と称した。
[編集] ロシア帝国
15世紀にルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国のイヴァン3世は、皇帝を意味する称号「ツァーリ」を使い始めた。ツァーリとはラテン語のカエサルに由来し、つまり皇帝を意味する。1453年にオスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア・パレオローグと1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、ロシアが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。
その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。
ただし、それ以前にもルーシの人々は、モンゴル帝国の王族バトゥが創始したキプチャク汗国(1224年~1502年)のハンをも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公のツァーリ称号の主張は、東ローマの継承と同時にキプチャク汗の支配の継承を意図するものであったとみる説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァーレヴィッチ。当時のロシアの用語例では、キプチャク汗の血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィッチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをキプチャク汗(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。
ロシアの君主は、ピョートル1世時代の1721年、「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国と称したが、「ツァーリ」の称号も引き続き用いられた。
[編集] 東アジアの皇帝とヨーロッパの皇帝
東アジアとヨーロッパの直接交流は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが漢の皇帝に使者を送ったのが最初であるが、この際に漢の側ではアントニヌス・ピウスの事を「大秦王安敦」と記している。ローマ皇帝であっても王扱いだった訳である。むろんその頃の中国は「皇帝は地上に一人のみ」の時代であったので無理は無いのであるが。またローマ帝国の側でも当時は「プリンキパトゥス(元首制)」の時代であり、皇帝が王より格上などという認識も存在しなかった。
ヨーロッパ的な意味での「皇帝」を、東アジア的な意味での「皇帝」と同格とみなし、そう翻訳したのは、江戸時代の新井白石が最初である(西洋紀聞より)。ただ新井白石の場合、日本の天皇も中国の皇帝と同格とみなしており、その自らの思想に裏付けを与える意味でも、中国の皇帝と同格の存在が他にもいたほうが都合がいいという事情もあったものと思われる。
[編集] その他の地域の皇帝
[編集] ペルシア帝国
イスラム化以前にメソポタミア・イランを支配したアケメネス朝・ササン朝のシャーも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「大王」「帝王」といった訳のほうが多いようである)。パルティアやペルシアの君主は「諸王の王」という称号を用い、通常の「王」より格上であると称していた。
[編集] イスラム圏
イスラム世界の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していたカリフ、スルタン、シャー(パーディシャー)を皇帝にあてることが多い。これに対して、マリクには王、アミールには首長の語が定訳とされ、皇帝と訳されることはあまりない。
なお、オスマン帝国の歴代スルタンの中でも東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世や、最盛期のスルタンであるスレイマン1世は東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝。「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている(講談社選書メチエ 新井政美著『オスマンvs.ヨーロッパ―〈トルコの脅威〉とは何だったのか』より)。
[編集] インド
イギリスの王は、ムガール帝国を植民地にした際、インド帝国皇帝を兼任する形にした。このインド皇帝位はインド独立時に返上された。なお、イギリス帝国とは、16世紀から20世紀半ばまでのイギリスの広大強力な支配圏を指したもので、インド皇帝位に直接由来するわけではない。古代インドにおいては直訳すると「大王の王」となる独自の皇帝号「マハーラージャディラージャ」も存在していた。
[編集] 南アメリカ
ヨーロッパ人が訪れる以前の南アメリカの先住民が築いた国家のうち、インカ帝国とアステカ帝国は、いつくかの諸国を征服・支配し、広大な領土を持ち、国家連合・連邦のようなものを形成しており、それぞれ「帝国」と呼ばれている。従ってインカ帝国の君主「サパ・インカ」とアステカ帝国の君主には、「皇帝」の語を当てる事になる。しかしアステカ帝国の場合、広大と言っても現在のメキシコの領域内に過ぎず、またトラスカラ王国という同格のライバル国家も存在した事から、「アステカ王国」と呼ばれる事も多々あり、その場合は君主も「アステカ王」と呼ばれる。
[編集] アフリカ
西アフリカのガーナ、マリ、ソンガイの各君主を皇帝と訳すことがある。王とすることも多い。
エチオピアでは1974年に皇帝ハイレ・セラシエ1世が革命で廃位されるまで帝政が敷かれ、皇帝が専制君主として統治していた。
また中央アフリカ共和国の大統領だったジャン=ベデル・ボカサ(ボカサ1世)が1976年に皇帝を称し、国名を中央アフリカ帝国としたが、1979年のクーデターにより皇帝ボカサは失脚し、中央アフリカは共和制に復帰した。
[編集] プロトコール(国際儀礼)上の皇帝の地位
外交儀礼(プロトコール、国際儀礼)においては、国際的な慣行により皇帝が最上位という扱いがなされている。
皇帝・女帝・天皇(emperor、empress)>ローマ教皇(Pope) > 国王・女王・スルタン(king、queen、sultan) >首長、公など(Emir、Prince、Duke)>共和国の元首
※ローマ教皇は「バチカン市国国王」と「ローマ・カトリック教会の長(宗教上のトップ)」とを兼任しているため諸国の王より格上とされている。また、天皇は外交上「日本国皇帝」とされており、現在この「皇帝」の地位を持つのは日本国天皇のみである。
[編集] 自称皇帝
[編集] ニックネームとして
スポーツ界では一流、特に世界最強クラスで圧倒的な実力を持ち君臨する選手に、尊敬と畏敬の念を込めて「皇帝」との愛称が付く場合もある。
[編集] 皇帝と呼ばれる選手
- フランツ・ベッケンバウアー(サッカー選手)
- ミハエル・シューマッハ(F1ドライバー)
- エメリヤーエンコ・ヒョードル(総合格闘家)
- ハイレ・ゲブレセラシエ(陸上長距離)
(例外として選手ではないが)
- シンボリルドルフ(競走馬)