バーナード・モントゴメリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バーナード・ロー・モントゴメリー、初代アラメイン子爵(Bernard Law Montgomery, 1st Viscount Montgomery of Alamein, 1887年11月17日 - 1976年3月24日)は、「モンティ Monty」の愛称で呼ばれたイギリス軍人。
彼は1887年にロンドンで英国国教会牧師の息子として生まれた。ロンドンのセント・ポール・スクール卒業後サンドハースト王立陸軍士官学校に入学。1908年に同校を卒業し王立ウォーウィックシャー連隊に歩兵中尉として任官した。第一次世界大戦前はインドで勤務し、大戦勃発後はフランス、ベルギーで従軍。1914年10月に負傷し帰国、療養する。1916年に戦線復帰し1918年には第47ロンドン師団の参謀将校として後方勤務となる。
大戦終了後は軍に残り、1926年にはキャンバレーで教官となる。1938年10月には陸軍大将に昇任、パレスチナに赴任、続いてトランスヨルダンに赴任する。
第二次世界大戦が勃発すると指揮官としてフランスに赴任する。彼は第2軍団を指揮したがナチス・ドイツのフランス侵攻でダンケルクから撤退することとなり、1940年6月1日に帰国する。7月には第5軍団指揮官、翌1941年4月に第12軍団指揮官、12月には南東軍指揮官となる。
1942年8月18日、ウィンストン・チャーチル首相はモントゴメリーをクルード・オーキンレック大将の代わりとして北アフリカ戦線における第8軍団の指揮官に任命する。モントゴメリーはエル・アラメインの戦いにおいてエルヴィン・ロンメル指揮下のドイツ・アフリカ軍団を打ち破りエジプトから退却させた。
アイゼンハワーの指揮下1943年彼は連合軍のシチリア島進攻(ハスキー作戦)を率いた。この作戦では彼と第7軍を率いるアメリカ陸軍のジョージ・パットン将軍との個性が衝突した。彼らはお互いに戦闘に関する報道の中心になることを望んだ。
シシリー戦役後、モントゴメリーはイタリア本土上陸まで第8軍を指揮した。その後オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)の計画立案のため彼は英国へ呼び戻された。ノルマンディー進攻に先立ってモントゴメリーは、第21軍集団の指揮官となりヨーロッパ戦における連合軍の布陣を指示した。D-デイ後アイゼンハワーがフランスにやってきて連合軍総指揮官となるまで彼は連合軍の地上軍を全て指揮した。ノルマンディー上陸作戦における彼の指揮能力に関しては、彼の立案をあまりにも厳密で想像力に欠けるとした多くの批判者によって非難された。ドイツ国防軍の指揮官達は彼のことを過度に用心深く習慣に捕らわれすぎるとしでジョージ・パットンよりも危険ではないと見なした。彼はエル・アラメインの時のように、綿密に計画され圧倒的な兵力を用いた作戦に於いて最も成功した。
戦争を通してモントゴメリーの激しい性格は、連合軍総司令部にしばしば亀裂を生じさせた。最も顕著な例は、アイゼンハワーがマーケット・ガーデン作戦を採用させられたことであった。同作戦はアルンヘムでの英第1空挺師団の壊滅に結びついた。この計画が初めて示されたとき、ある将軍は「君は遠すぎる橋に行こうとしているように見える。」と語った。
必ずしも偉大な将軍ではないが、モントゴメリーは少なくとも有能な将軍の一人として見なされるべきである。彼はそのスタッフから大きな信頼を得た。彼らは戦後にイギリスの歴史家リチャード・ホームズがモントゴメリーを批判したときも大きな情熱で彼を弁護した。
1945年1月7日、モントゴメリーは記者会見を開きバルジの戦いにおける連合軍の勝利に関する記事へのクレームを行った。これは論争を引き起こし、彼が自らの軍の投入を押しとどめたと感じたアメリカ人達の憤慨を引き起こした。
彼は1946年に新設された初代アラメイン子爵となった。彼は1946年から1948年までドイツ駐留英国陸軍総参謀長を務め、1948年から1951年まで西欧同盟軍最高司令官会議議長、1951年から1958年に退役するまで北大西洋条約機構軍副司令官を務めた。
彼が英国陸軍参謀総長時代の機密書類によって、人種的偏見を抱いていたことが1999年に明らかとなった。その当時彼は英国の政策に反する自らの見解を語らないよう強いられ、その指示に従うかを調べるために職員が割り当てられた。
彼は1976年に死去し、ハンプシャー州ビンステッドの聖十字架教会墓地に埋葬された。