連合国軍最高司令官総司令部
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連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ)とは、第二次世界大戦における連合国と大日本帝国の停戦合意に基づき、休戦条件であるポツダム宣言の執行のために日本国土の大部分を保障占領し、事実上の統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本では「GHQ」という通称が用いられている。
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[編集] 概要
[編集] 名称
名称については、軍という語を含ませず連合国最高司令官総司令部(れんごうこくさいこうしれいかんそうしれいぶ)もしくは連合国総司令部(れんごうこくそうしれいぶ)とされることもある。英語では、「General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers」(日本語では、「総司令部/ 連合国軍最高司令官」の意味)が正式な名称であり、略語であるGHQ/SCAP(ジー・エイチ・キュー・スキャップ)も用いられる。なお、日本国内では、単にGHQ(ジー・エイチ・キュー)と呼ばれることもあるが、GHQとは、総司令部(General Headquarters)のことであり、日本国外において「連合国軍最高司令官総司令部」を意味することは少ない。
[編集] 基本情報
日本がポツダム宣言を受諾した1945年(昭和20)9月から1952年(昭和27)4月28日の日本国との平和条約発効までおよそ6年9ヶ月の間、日本占領に当たる連合国軍(最大43万人)を統括し、日本の最高統治権限を与えられた。最高司令官はダグラス・マッカーサー陸軍元帥。1951年(昭和26)4月16日よりマシュー・リッジウェイ中将(就任直後に大将に昇進)。
連合国軍最高司令官総司令部の統治は、日本の政治機構をそのまま利用し、日本政府に指示・命令する間接統治であった。占領軍の命令の多くは1945年(昭和20)9月20日の勅令「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」に基づいていわゆるポツダム命令(ポツダム勅令。新憲法施行後はポツダム政令)などの形で公布・施行され、日本政府にとっては絶対的・超法規的な性格をもっていた。1946年(昭和21)2月には政策決定の最高機関として極東委員会が、4月には最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置されたが、実質アメリカによる統治という性格は変わらなかった。
日本はまず軍事機構と国家警察を解体され、続いて政治の民主化、それに伴う資本財閥の解体と農業改革を行い、国家を完全に改造した。この間、日本の内政は連合軍の影響下に置かれながらも日本政府が担ったものの、外交権は無かった。「敗戦国を戦勝国が完全に支配下に置き、統治を行うことは近代国家の時代に入ってからはなかったことである」とマッカーサーは述懐している。
[編集] 機構
総司令部本部は接収した第一生命相互ビルに置かれた。宮城を見下ろす形で堀沿いに建てられた第一生命ビルに本部を置くことは、連合軍が天皇のさらに上に君臨するという政治的意図が込められている(実際にはその立地上、連合軍による本社ビル接収を免れないことを承知していた第一生命が、総司令部に利用されれば丁寧に使われ、将来の接収解除後にも建物をそのまま利用できるという目論見から、積極的に総司令部として利用して欲しいと差し出したという記録がある。)。実は東京大学(本郷キャンパス)が司令部として接収されかけたが、時の総長が抵抗してやめさせたという逸話がある。
なお、当時の日本政府及び日本の報道機関は連合軍を「進駐軍(しんちゅうぐん)」と呼んで、占領に対する否定的なイメージの払拭に努めた。
連合軍とはいっても、ほとんどの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人で構成されていた。連合国軍最高司令官総司令部は、軍事部門である参謀部と専門部局である幕僚部から組織された。
- 参謀部
- 第1部(G1 人事担当)
- 第2部(G2 情報担当)
- 第3部(G3 作戦担当)
- 第4部(G4 後方担当)
- ※特に諜報・保安・検閲を任務とする第2部(G2)が大きな発言権をもっていた。占領中に起きた数々の怪事件は、G2とその下にあったいくつもの特務機関(キャノン機関など)が関与したとも囁かれている。
- 幕僚部
- 民政局(GS:Government Section 政治行政)
- 経済科学局(ESS:Economic & Scientific Section 財閥解体など)
- 民間情報教育局(CIES:Civil Information & Educational Section 教育改革など)
- 天然資源局(NRS:Natural Resources Section 農地改革など)
- ※特に民政局(GS)が「非軍事化・民主化」政策の主導権をもっていたが、GSにはルーズベルト政権下でニューディール政策に携わっていた者が多数配属されており、日本の機構改造のために活動した。上記は中枢部分で、1946年1月段階では11部局、最終的には14部局まで拡大している。また、GSと参謀部G2は日本の運営において対立し、GSが片山・芦田内閣を、G2が吉田内閣を支えており、政権交代や贈収賄の要因にはGSとG2の闘争があったとも言われる。
[編集] 政策
総司令部の最大の目標は、世界の脅威となる日本の軍事力を解体することであり、軍国主義を廃した民主的な国家を作ることにあった。マッカーサーはこれを『上からの革命』と称した。また、彼は後に、当初は日本を工業国から農業小国に転換し、米国の市場とするつもりだったと述べている。
[編集] 戦争犯罪人の逮捕
連合軍は占領直後から、日本の戦争指導者の検挙に取り掛かかり、東條英機元首相を含む数十名を逮捕した。彼等はA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により処罰され、東條以下7名を処刑、多数を禁固刑などに処した。
[編集] 情報統制
総司令部が政策として最初に行ったことは検閲であり、日本政府による検閲は禁じた一方で、1945年(昭和20年)9月に発した、いわゆる「プレス・コード」によって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、戦中の米軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害について知らせるものは、ラジオ・新聞・雑誌他、一般市民発行の本に至るまで厳しく取り締まり、情報を統制した。娯楽としての映画や音楽にも、総司令部の意図的な政策が取り入れられ、自由・民主的なものを推奨した。
- また、昭和20年10月2日日付のGHQ/SCAPの一般命令第四号「戦争への罪悪感に関するプログラム」(War Guilt Information Program -- 厭戦工作)によって、新聞とニュース番組を通じて日本軍の戦時中の非道を繰り返し報道させ、国民の戦意を全く喪失させると共に、国民の贖罪意識を増幅させることに成功した[要出典]、とされる。戦前・戦中の事後検閲に対しこちらは事前検閲である。この命令の存在は、江藤淳によって発掘されるまで、まったく日本人には知られていなかった。なお、この「命令文書」とされるものは現在まで原本が明示されず、プログラムが実際に存在したかについても疑問が残る。
[編集] 非軍事化
『国民主権』、『基本的人権の尊重』という民主主義の基本をそなえると共に、『戦争放棄』をうたった憲法(日本国憲法)を製作し、日本政府に与えた(日本の戦争放棄は幣原喜重郎首相も考えていたと、マッカーサーは記録している)。また、天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止、軍国主義教育の廃止を行い、明治からの社会思想を解体した。同時に軍国主義的活動をしていた政治家、軍人、思想家など20万人を公職追放し、思想面での矯正を図った。
この工作の段階で、民政局は能や歌舞伎といった日本の伝統的な娯楽文化を、封建的であり、過去の遺物として禁止しようと計画していたが、知日派の局員の働きによって回避されたと言う話もある。
[編集] 民主化
民主国家にするための国民の改造として、「婦人参政権」「労働組合法の制定」「教育制度改革」「圧政的な法制度の撤廃」「経済の民主化」の5大改革指令を発し、日本政府に実行させた。労働組合はすぐに解禁され、男女同権論に基づく婦人参政権は直後の衆議院選挙から実行された。圧政的といわれた治安維持法と特別高等警察は廃止、経済民主化の為に三井・安田・住友・三菱の4大資本財閥を解体した。さらに、地方自治法が制定され、都道府県知事は選挙によって選出されるようにしたことで、中央集権から緩い地方分権へと移行させた。警察も、それまでの国家警察から、地方自治体の影響下に置かれた地方警察へ組み替えられた。
[編集] 農政
農地改革によって大地主から強制的に土地を買い上げて小作人に分配した。これは、大地主に経済的に隷属する状況から小作人を解放し、民主主義を根付かせることに寄与した半面、大規模農業事業を難しくさせ、農業の国際競争力は戦前よりもさらに弱まった。
[編集] 教育改革
教育方針は連合国側で矯正させ、教育基本法を制定させて、6・3・3・4の学校制度を新設し、全体主義の根本とされた教育勅語は廃止させた。教育使節団が2次に亘って来日し、これらの事業を完成させた。
[編集] 非共産化と再軍備
国内経済の疲弊から社会主義が流行し、労働運動は非常に盛り上がったが、ソビエト連邦との対立、いわゆる冷戦が激しさを増すと、共産党の勢力拡大が恐れられた為、対日政策の方針転換が行われて、日本列島を『反共の防波堤』にする計画が進み、共産主義者の追放(レッドパージ)を行い、軍国主義者の公職追放を解除した。また、工業の早期回復による経済的自立が求められた。朝鮮戦争勃発によって連合軍の一部が朝鮮半島に移ると、日本国内の軍事的空白を埋める為、警察予備隊の創設と海上保安庁の強化を実施して、日本の再軍備を行った。これらによって、日本との早期講和を行い、主権回復させて自力で防衛させることとなり、日本国との平和条約および日米安全保障条約の発効に至った。
GHQ/SCAPによるこれらの政策は、後に良くも悪くも論じられるが、日本が主権回復した後も、日本の国家の形態や日本人の精神・思想に多大な影響を及ぼし続けている。
[編集] 対日講和
日本政府は敗戦によって軍人や強硬派政治家・官僚が失脚し、吉田茂(外務大臣、後首相)など国際協調派が主導権を握った。吉田らは健全な戦後復興のために、高額賠償金の支払いや領土分割を回避する「寛大な講和」を勝ち取ることを考え、日本政府が「よき敗者」として振舞うことに注力し、非軍事民主国家建設によって国際的な評価を得るべく、連合国軍の政策はほぼ忠実に実行した。また、イタリアなどの枢軸諸国が早期講和によって賠償や領土割譲を要求されたことから、講和を急ぐことは「寛大」を勝ち得ないと判断し、占領期間を引き延ばしながら、連合国に対して日本が有利になる時期を見計らった。
一方、冷戦の激化により、日本との講和も米国とソ連の間で、主導権をめぐる駆け引きの対象となり、同時に非武装を国是とした日本の防衛をどうするかが大きな課題となった。米国内では、国防省は日本への軍の継続駐留を企図して、国務省主導の講和計画に反対した。日本政府は米国に対し、米軍の継続駐留・将来の日本の再武装を確認する取り決めを行い、見返りに米国の信託統治(後の分離独立を企図)下にある沖縄・奄美・小笠原に対する日本の潜在的主権を認め、「賠償請求権の放棄」「領土保全」「日本防衛の日米協力」を柱とした米国主導による「対日講和7原則」が決定した。
講和会議には英仏蘭の要求によって、各国の旧植民地も参加した一方、内戦で立場が微妙な「中国」(中華民国或いは中華人民共和国)と「朝鮮」(大韓民国或いは朝鮮民主主義人民共和国)は招かれず、ソ連は米国主導・中国不参加に不満を持ち、講和阻止の活動を行った。また、旧植民地の東南アジア数カ国は、独立後の財源を確保するべく、「日本による侵略の被害者」を訴えて、賠償権放棄に反対したため、日本は2国間交渉によって賠償に応じ、国際社会に謙虚さをアピールした。
これらの結果、講和条約には会議参加52カ国の内、調印式典をボイコットしたソ連など3国を除く49カ国が調印し、対日国交回復した。条約により、日本は朝鮮半島の独立を承認、台湾・澎湖諸島の放棄、樺太・千島列島の放棄、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島の米国による信託統治の承認、東京裁判の結果の承認を行った。同時に日米安全保障条約に調印して米軍の国内駐留を承認し、台湾の国民政府を承認する日華条約を締結することで反共の姿勢を打ち出し、正式に西側陣営に組み込まれた。
主権回復した日本は、国際連合に加盟する為、ソ連との国交回復を1956年(昭和31)11月に実現させ、ソ連の承認を受けて同年12月18日に国連へ加盟、国際社会へ復帰した。その後は軍事的な対米従属の下で経済的繁栄を目指し、1980年代には先進主要国の一つとなった。同じく占領され、同時期に経済的繁栄を手にした西ドイツの主権回復は1955年、ソ連との和解は1970年、国連加盟は1973年であり、また講和会議は行われていない。
[編集] 連合国軍最高司令官総司令部と日本の年表
- 凡例
- 月日 GHQ/SCAPと直接日本に関係のある出来事、日本国内の出来事。
- 月日 直接日本には関係しない世界の出来事。
[編集] 1945年(昭和20年)
- 8月14日 日本が降伏の旨を中立国を通じて通告し、勅語を発布する。
- 8月15日 国民に向けての玉音放送。支那派遣軍と南方軍がこれに抗議。アメリカ合衆国軍は攻撃停止。鈴木貫太郎内閣総辞職。
- 8月16日 日本政府、陸海軍に停戦を命じる(中国大陸では9月半ばまで中国軍と戦闘続く)。ソビエト連邦軍がヤルタ協定に基づいて南樺太へ侵略を開始し、日本軍抗戦(停戦令出る)。
- 8月17日 東久邇宮稔彦王内閣成立。天皇、支那派遣軍と南方軍に停戦の勅旨。連合軍の許可を得て皇族をサイゴン・シンガポール・南京・北京・新京に派遣。
- 8月18日 ソ連軍が千島列島へ侵略を開始。占守島で日本軍交戦(21日停戦令出る)。満州国消滅。
- 8月19日 関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始。フィリピンに停戦命令が届く。河辺虎四郎参謀次長と米サザランド参謀長による降伏手続打合せの会合がマニラで行われる。
- 8月26日 終戦連絡中央事務局設置。このころ、満州での戦闘が終わる。
- 8月28日 テンチ米陸軍大佐以下150名が横浜に初上陸し、横浜に連合軍本部を設置。以後、全国で人員と物資の上陸相次ぎ、占領兵力は最大で43万人となる。
- 8月30日 アメリカ合衆国陸軍マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に到着。車両で横浜に入る。
- 9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。朝鮮の日本軍に対し、北緯38度を境に対米ソ降伏を命令。台湾は中華民国、旧満州国と千島列島・南樺太はソビエト連邦、南洋諸島はアメリカがそれぞれ占領および武装解除。東南アジア植民地は宗主国が復帰。
- 9月3日 フィリピンの日本軍降伏。重光・マッカーサー会談により間接統治の方向性を確認。
- 9月5日 第88回帝国議会臨時会議を召集。ソ連軍が歯舞諸島までを占領(後に北方領土問題となる)。瀬島龍三など関東軍首脳部がハバロフスクへ送られ、将兵57万人がシベリア抑留となる。
- 9月6日 帝国議会がマッカーサーに対し「天皇と日本政府の統治の権限は貴官の下に置かれる」と通達。
- 9月8日 連合軍、東京に進駐する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。
- 9月10日 「言論の自由に関する覚書」発令、連合軍が検閲を始める。『在日朝鮮人連盟』中央準備会が設立される。
- 9月11日 マッカーサー、東條英機らA級戦犯容疑者39人の逮捕を命令(東條、自決に失敗)。
- 9月13日 大本営を廃止。
- 9月15日 東京・日比谷の第一生命相互ビル(現、DNタワー21、第一・農中ビル)を接収。
- 9月16日 連合軍本部が横浜から第一生命相互ビルに移転。
- 9月17日 マッカーサー、東京の本部に入り、日本占領が順調なことから「占領兵力は20万人に削減できる」と声明(米国の許可無く発言し、トルーマン大統領が疑念を抱く)。
- 9月19日「日本の新聞に対する編集規準(プレス・コード)」が出される。
- 9月20日 緊急勅令『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件』公布、即日施行。
- 9月27日 昭和天皇、マッカーサーを訪問(2人並んだ写真が新聞に公開され、国内に衝撃を与える)。日本の漁獲水域を指定、いわゆるマッカーサー・ライン(北緯45度東経145度から北緯45度30分東経145度、歯舞諸島を避けて東経150度、北緯26度東経150度、北緯26度東経123度、北緯32度東経125度、対馬を経て北緯40度東経135度、北緯45度東経140度を結ぶ線内)。
- 9月29日 内務省による検閲制度の廃止を指示。
- 9月30日 占領軍、「朝鮮人連盟発行の鉄道旅行乗車券禁止に関する覚書」を通達。
- 10月1日 占領軍、「連合国、中立国、敵国の定義に関する覚書」を通達。朝鮮・台湾など旧植民地出身者が日本国籍から離脱。
- 10月2日 連合国軍最高司令官総本部(GHQ/SCAP)設置。一般命令第四号「戦争への罪悪感を植えつけるプログラム」(Warguilt information program)を発するが、日本側には知らせず。
- 10月4日 自由の指令(「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」人権の確立、治安維持法の撤廃、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放)発令、内務大臣山崎巌の免職要求。東久邇宮内閣はこれを不信任と受け翌5日総辞職。
- 10月9日 幣原喜重郎内閣発足。
- 10月10日 徳田球一ら共産党員など政治犯10数名が釈放。人民大会がデモ行進と総司令部前で万歳。
- 10月11日 女性の解放と参政権の授与、労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止、学校教育の自由化、秘密警察制度と思想統制の廃止、経済の集中排除と経済制度の民主化を指示。
- 10月15日 治安維持法の廃止。国内の日本軍、武装解除を完了。
- 10月20日 日本共産党が機関紙「赤旗」再刊。
- 10月24日 国際連合憲章によって国際連合が発足する。
- 11月2日 日本社会党結党。
- 11月6日 日本自由党結党(旧政友会系)。持株会社解体令(三井、三菱、住友、安田の四大財閥を解体するという政府案をGHQ/SCAPが承認、いわゆる「財閥解体指令」)。
- 11月16日 日本進歩党結党(旧民政党系)。
- 11月18日 天皇資産凍結の指令。
- 11月30日 陸軍省・海軍省を廃止。
- 12月1日 第一復員省(旧陸軍省)・第二復員省(旧海軍省)が発足。日本共産党が第4回党大会を開催。
- 12月6日 近衛文麿や木戸幸一など民間人9人の逮捕を命令。
- 12月7日 いわゆる農地解放指令(農地の小作人への分配)。
- 12月9日 農地改革を指示。
- 12月15日 神道指令を指示(国教分離)。外部リンク国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並に弘布の廃止に関する件
- 12月16日 近衛文麿自殺。
- 12月18日 日本協同党結党。幣原内閣、衆議院を解散。
- 12月22日 昭和天皇が史上初の記者会見。
[編集] 1946年(昭和21年)
- 1月1日 天皇神格否定の勅諭。(「新日本建設に関する詔書」)
- 1月4日 軍人・戦犯・軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示。
- 1月25日 幣原首相、マッカーサーと会談。
- 2月1日 毎日新聞が政府の新憲法草案をスクープ(GHQの反応を見る為にわざと流したとの説もある)。
- 2月2日 ソ連が全樺太と全千島列島の領有を宣言。
- 2月3日 マッカーサー、民政局長コートニー・ホイットニーに自作の憲法案のメモを渡し、憲法モデルを作成するよう命じる。
- 2月13日 ホイットニー局長、新憲法モデル文章を吉田茂らに見せる。
- 2月19日 昭和天皇が川崎市・横浜市の市民を訪問。以後、全国を訪問する。
- 3月5日 第1次アメリカ教育使節団来日。
- 3月6日 日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇、主権在民)を公表。
- 3月22日 日本政府の行政区域を対馬、種子島、伊豆諸島までに限る(北緯30度以南の南西諸島と小笠原諸島を分離して米軍統治下に置く)。
- 4月10日 新選挙法に基づく衆議院議員総選挙。投票率73パーセント、自由党が第一党となるも過半数に届かず。加藤シヅエ・山口シヅエ・戸叶里子・松谷天光光・近藤鶴代ら、日本初の女性国会議員が39名当選。
- 4月17日 幣原内閣、新憲法草案を発表。
- 4月22日 幣原内閣総辞職。
- 4月29日 天皇誕生日にA級戦犯29名を起訴。
- 5月1日 11年ぶりのメーデー。およそ100万人が集まる。
- 5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷。
- 5月19日 宮城(皇居)前で25万人が飯米獲得人民大会を開催(食糧メーデー、プラカード事件)。共産党・社会党がデモ隊をつれて吉田を訪問。デモ隊一部は皇居内に侵入。翌日、マッカーサー声明「暴民デモ許さず」。
- 5月22日 吉田茂内閣(自由党)成立。
- 6月15日 第一復員省と第二復員省が統合して復員庁となる。
- 6月19日 国連原子力委員会でソ連代表が核技術の廃絶を提案。
- 6月20日 衆議院に新憲法草案を提出。
- 6月22日 日本の漁獲域を拡張(歯舞諸島の東の東経150度から北緯45度東経165度、北緯24度東経165度、北緯24度東経123度を結ぶ線内)。
- 6月25日 衆議院本会議に憲法草案が上程。
- 11月3日 日本国憲法公布。
- 12月18日 ワシントンの極東委員会、日本の労働運動16原則を決定(占領目的を阻害する労働運動の禁止)。
- 12月21日 南海地震が発生。四国沿岸などを津波が襲い、1443名が死亡。
[編集] 1947年(昭和22年)
- 1月1日 吉田茂、労組運動者を「不逞の輩」と非難。
- 1月11日 全官公庁労組共闘委員会(組合員260万)4万人が皇居前でデモ。委員長伊井弥四郎がゼネスト決行宣言。
- 1月18日 伊井、ゼネスト決行を2月1日と発表。
- 1月31日 マッカーサー、二・一ゼネスト中止命令。伊井、NHKでスト中止を発表(後に占領政策違反で逮捕)。共闘委員会解散。
- 2月10日 イタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが連合国と講和。各国が領土割譲と賠償を認める。
- 3月 トルーマン大統領、「共産主義との対決」を宣言し、米ソ対立が表面化。
- 3月17日 マッカーサー声明「日本の軍事占領は速く終わらせ、対日講和を結んで総司令部を解消するべき。講和は1年以内が良い。」対して国務次官ディーン・アチソン「日本より欧州が先」。
- 3月31日 吉田内閣、衆議院を解散。
- 4月22日 第一回参議院議員選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。
- 4月25日 衆議院選挙。社会党が第一党になるも過半数に届かず。当選者の半数弱が新人で、田中角栄、中曽根康弘、鈴木善幸らが初当選。
- 4月 独占禁止法公布。
- 5月 総司令部内に賠償局を設置。
- 5月 GHQ、日本政府に対し「帝国」の語の使用を禁じる。
- 5月2日 外国人登録令(朝鮮人、台湾人などが外国人となる)。
- 5月3日 日本国憲法施行。
- 5月20日 第一回特別国会召集。吉田内閣総辞職。
- 5月24日 社会党書記長片山哲がマッカーサーを訪問し、片山がキリスト教徒であること喜ぶ声明。また片山に「日本は東洋のスイスとなるべきだ」と言い、「東洋のスイスたれ」が流行する。
- 6月1日 片山哲内閣(社会党・民主党・国協党連立)成立。
- 7月 極東委員会、対日政策指導原則を発表。
- 7月11日 マッカーサーの進言により、米国政府が連合国に対し、対日講和会議の開催を提案。
- 7月12日 欧米16カ国のパリ会議開催(マーシャル・プラン受け入れ決定)
- 7月13日 マッカーサー声明「日本処理の基本的な方針である軍の撤廃と非武装化は完全に達成されており、向こう100年間、日本は近代戦を行うための再軍備はできないだろう。」米本国の欧州重視に反発した模様。
- 7月22日 ソ連が米国提案の対日講和会議に反対。
- 9月 カスリーン台風の被害甚大。
- 10月26日 刑法を改正。
- 12月22日 民法を改正。
[編集] 1948年(昭和23年)
- 1月6日 米陸軍長官ロイヤル、演説中「日本を反共の壁にする」と発言(反共・封じ込め政策開始)。
- 1月26日 帝国銀行椎名町支店で行員12名が殺害され、18万円(当時)が強奪される(帝銀事件)。
- 2月10日 片山内閣総辞職。
- 3月10日 芦田均内閣(民主党・社会党・国協党)成立。
- 4月 祝祭日のみ日章旗掲揚を許可。
- 4月8日 東宝が1200人の人員整理を発表。15日から労組が撮影所に篭城(東宝争議)。
- 4月28日 夏時間が導入される。
- 5月 海上保安庁を設置。
- 6月 マッカーサー、共和党の予備選挙に惨敗し、大統領候補から外れる。
- 6月28日 福井地震が発生。3736名が死亡し、戦災から復興しかけた福井市は再度壊滅した。
- 7月31日 政令201号発令(公務員の団体交渉権・スト権を否定)。
- 8月19日 13日の東京地裁仮処分を受けて東宝争議に米軍介入(「来なかったのは軍艦だけ」とまで評された)。
- 9月9日 朝鮮半島北緯38度以北に朝鮮民主主義人民共和国成立。
- 10月7日 芦田内閣、昭和電工事件の影響で総辞職。
- 10月19日 第二次吉田茂内閣(民主自由党)成立。
- 11月12日 東京裁判が25人に有罪判決。うち板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、東條英機、広田弘毅、武藤章、松井石根が死刑。
- 11月30日 政令201を受け国家公務員法改正(公務員のストライキを禁止)。
- 12月7日 芦田元首相を贈収賄容疑で逮捕。
- 12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。
- 12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換する)。
- 12月23日 吉田内閣、衆議院解散(なれあい解散)。同日、東条英機ら旧指導者7人を処刑。
[編集] 1949年(昭和24年)
- 1月1日 GHQ、日章旗の自由掲揚を認める。
- 1月1日 年齢のとなえ方に関する法律施行、書類に用いる年齢が数え年から満年齢へ変わる。
- 1月23日 衆議院総選挙。民主自由党が大勝利、共産党躍進。池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男ら、高級官僚の大量政界進出。
- 2月16日 第3次吉田内閣(民主自由党)成立。
- 3月1日 GHQ/SCAP経済顧問ジョゼフ・ドッジ、超均衡予算、補助金全廃、復興金融金庫の貸出禁止など、収支均衡予算の編成を指示(ドッジ・ライン)。
- 4月23日 1ドル360円の単一為替レート設定、25日より実施。
- 6月1日 電波三法が施行。民間へ電波が開放される。
- 7月6日 下山事件(国鉄総裁怪死)
- 7月15日 三鷹事件(国鉄無人電車暴走)
- 8月17日 松川事件(国鉄列車脱線転覆)
- 9月15日 シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表。(詳細はシャウプ勧告を参照)
- 9月21日 日本の漁獲域を東へ拡張(北緯40度東経165度、北緯40度東経180度、北緯24度東経180度、北緯24度東経165度の線内)。
- 11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
- 11月3日 湯川秀樹がノーベル物理学賞受賞。
[編集] 1950年(昭和25年)
- 1月 地方政治が占領軍政から離れる。
- 2月14日 ソ連が中華人民共和国と同盟条約を締結し、条文で日本を仮想敵国と名指しする。
- この頃、日本との講和を推進する米国務省と、米軍の日本駐留を継続するために日本再独立に反対する米国防総省が対立。
- 4月25日 池田勇人蔵相が白洲次郎らと共に税法問題交渉のため渡米。ジョセフ・ドッジと面談し、講和後の米軍駐留を日本から提案する旨を通達(池田ミッション)。
- 5月12日 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)。
- 6月6日 マッカーサー、日本共産党中央委員24名を公職追放。
- 6月16日 国家地方警察本部(後の警察庁に相当)、全国のデモ・集会禁止令。
- 6月25日 朝鮮戦争勃発(- 1953年)。在日占領軍が韓国を支援するため出動し、日本が前線基地となる。
- 7月 小倉で朝鮮派遣を控えた黒人米兵達が完全武装で集団脱走。強姦や略奪を繰り返すが、全員が憲兵に逮捕され、戦線に送られた(ほぼ全員が戦死したという)。情報統制の結果、ほとんどの日本国民が事件を知らなかった。
- 7月8日 マッカーサー、吉田首相に警察力強化(警察予備隊7万5000名の創設と海上保安庁8000名増員)を求める書簡を送る。
- 7月24日 GHQ/SCAP、共産党幹部逮捕と新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。共産党書記長徳田球一、中国へ亡命。
- 8月10日 警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。
- 8月23日 警察予備隊第一陣7000名が入隊。
- 8月27日 第2次アメリカ教育使節団来日。
- 9月14日 トルーマン大統領、対日講和と安全保障条約交渉の開始を指令。
- 10月 海上保安庁が朝鮮半島に特別掃海隊を派遣(国民には秘匿)。
- 11月10日 NHK東京テレビジョン実験局、テレビの定期実験放送を開始。
- 11月24日 米国政府、「対日講和7原則」を発表。日本への請求権放棄と、日本防衛を日米共同で行う旨を明記。
[編集] 1951年(昭和26年)
- 1月 マッカーサー、日本政府に再軍備の必要性を説く。
- 4月11日 マッカーサー、朝鮮戦争で旧満州空爆を巡りトルーマン大統領と対立し更迭される。
- 4月16日 マッカーサー、アメリカへ帰国。マシュー・リッジウェイ中将が第二代最高司令官に就任(就任後に大将へ昇進)。
- 4月24日 国鉄桜木町駅で電車火災事故。死者106名(国鉄戦後五大事故)。
- 9月1日 日本初の民間放送ラジオ局、中部日本放送と新日本放送(現毎日放送)開局。
- 9月8日 サンフランシスコで日本国との平和条約を調印。続いて日米安全保障条約に調印。
- 12月25日 ラジオ東京(現東京放送)が開局。
[編集] 1952年(昭和27年)
- 1月18日 韓国が一方的に海洋主権宣言を発表(李承晩ライン)。
- 1月23日 国会中継放送が始まる。
- 2月28日 日米行政協定締結。
- 4月9日 もく星号墜落事故。
- 4月25日 漁獲水域指定(マッカーサー・ライン)を廃止。
- 4月26日 海上保安庁に海上警備隊が置かれる。
- 4月28日 日本国との平和条約が発効、日本主権回復。GHQ/SCAPの占領が終わる。
- 48カ国と講和し国交を回復する。
- 日本は北緯29度以南の南西諸島と小笠原諸島を残存主権を保持しつつもアメリカの信託統治に置くことを認め、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾、南洋群島を放棄(1953年に奄美諸島、1968年に小笠原諸島、1972年に南西諸島が日本に返還された。また、ソ連に占領された北方領土は放棄していないと主張している)。
- 占領軍のうち米軍は安保条約に基づいて駐留継続(在日アメリカ軍へ衣替え)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 国立国会図書館「テーマ別調べ方案内」:連合国最高司令官総司令部
[編集] 関連文献
- 荒敬 『GHQトップ・シ-クレット文書集成』全20巻 柏書房
- 荒敬・内海愛子・林博史編 『国立国会図書館所蔵GHQ/SCAP文書目録』 蒼天社出版、ISBN 4-901916-12-2
- 竹前栄治・中村隆英監修、天川晃他編 『GHQ日本占領史』 日本図書センター、ISBN 4-8205-6528-1
- 竹前栄治 『戦後労働改革 GHQ労働政策史』 東京大学出版会、ISBN 4-13-051020-7
- 櫻井よしこ 『GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く』 小学館、ISBN 4-09-402886-2
- 甲斐弦 『GHQ検閲官』 葦書房、ISBN 4751206044
- 占領史研究会編著 『GHQに没収された本 総目録』 サワズ出版、ISBN 4-87902-023-0
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