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ホロコースト - Wikipedia

ホロコースト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウの引込線に到着したユダヤ人他 1944年
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アウシュビッツ第二強制収容所ビルケナウの引込線に到着したユダヤ人他 1944年

ホロコーストとは、狭義にはナチ党政権下のドイツおよび、その占領地域においてユダヤ人シンティ・ロマ人エホバの証人などに対して組織的に行われたとされる絶滅計画を指す。 広義には虐殺一般をホロコーストと称することもある(が、元々ホロコーストという単語自体に虐殺などの意味は無い)。英語にては前者を定冠詞付き固有名詞の(The Holocaust)とし、後者を普通名詞の(holocaust)として区別される。

「全部(ὅλος holos)」+「焼く(καυστός kaustos)」に由来するギリシア語ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、「丸焼きの供物」を意味する。ここから派生した俗な用法として「火災による惨事」の意味があった。ヘブライ語では「オラー(olah)」だが、「ナチスによるユダヤ人大虐殺」を指す場合には惨事を意味するショアー(השואה)が用いられる。かつて英語では「ジェノサイド」などが用語として一般的だったが、1978年アメリカNBC系列で放映されたテレビドラマ『ホロコースト』(Holocaust)の題名から、定冠詞つきの「The Holocaust - 固有名詞」が「ユダヤ人大虐殺」を表す言葉として普及した。

目次

[編集] 概略

収容者達 1945年アウシュビッツにて
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収容者達 1945年アウシュビッツにて

1938年11月にドイツ全土とオーストリアでおきた水晶の夜(Kristallnacht)事件、1939年から1941年優生学思想に基づいて実行された安楽死政策T4作戦をホロコーストのはじまりと定義する歴史家は多い。その後、第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされる。ナチス党はとくにユダヤ人の殲滅政策(die Endlösung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」または die Reinigung, 「民族浄化」)を重要視して、約 500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされる。その一方で、「劣等民族」または「不穏分子」としてシンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人(300万人のキリスト教徒と300万人のユダヤ人)、セルビア人(50万から120万人)、ロシア人、スラブ人、知能障害者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされる。一部の研究者の中には、ユダヤ人の虐殺のみをもってホロコーストと呼ぶ者もいるが、実際にナチスによって殺害されたこれら少数民族の合計は、900万人とも1100 万人ともいわれる。当時のドイツは、未成熟な民主主義の結果、ナチス独裁政権を許した政治的には遅れた国であった。その反面、産業、技術、科学、教育などの各分野において、世界で最も進んだ国の一つでもあった。ホロコーストの最大の特徴は、これら最高の産業技術と組織力を駆使して、系統的かつ迅速に大勢の人を収容して殺害した点である。また、西ヨーロッパ諸国における「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施され、多数の民間協力者が存在したことも否定し得ない事実で、ヨーロッパ諸国に広く根付く反ユダヤ主義がホロコーストをこれだけ大規模にしたと言える。

当初ナチ党の対ユダヤ人政策で具体的に目指されたのはユダヤ人を強制収容所やゲットーなどに隔離し、ドイツの勢力圏外へ大量の強制移住によってを追放する計画であり、劣悪な輸送環境と移送先の過酷な気候によって大多数が死滅するだろうという漠然とした予測をもって立案されていた。しかしそれは1940年以降、対英仏・対ソ戦局の推移に伴って追放予定地がドイツ支配圏内に入るか移送自体が非現実的となり、ドイツ国外のゲットーへの隔離と1942年7月から開始された強制収容所に於ける奴隷労働を通した絶滅及び毒ガス一酸化炭素排気ガス等を用いた労働に適さない者への「間引き」、そして組織的殺戮へと計画は変更されたと言われている。

ナチス政権は、ベルゲン・ベルゼンをはじめとするドイツ国内の「強制収容所」の他に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所をはじめとする「絶滅収容所」をポーランド領内に建設し、ユダヤ人をこれらの「強制収容所」及び「絶滅収容所」に収容した。とりわけ「絶滅収容所」には、ユダヤ人の大量殺人を目的とする「ガス室」が設けられた。「ガス室」では、「ツィクロンB」と呼ばれる毒ガスを使って、約600万人(正確な数は分かっていない)ものユダヤ人が殺害されたとされる。ユダヤ人の遺体は焼却炉をフル稼働して焼却処分され、それに伴う死体運搬等の労働はユダヤ人が命ぜられた。遺体は全て焼却し残っていないとされる。

[編集] 絶滅収容所における大量虐殺までの経緯

[編集] 移送計画

18世紀以降、啓蒙主義の浸透によって解放されたユダヤ人の社会的地位向上と西欧社会への同化が進むにつれて、反ユダヤ主義は宗教的なものから人種的なものへと変質した。19世紀後半になると、ユダヤ人の同化と地位向上によってひき起こされた「ユダヤ人問題」の根本的解決を訴える論調が盛んになり、社会ダーウィニズムに基づく疑似科学的な人種論によって組織的なユダヤ人迫害への理論的な基礎が置かれた。

これらの論議においてはしばしばユダヤ人の辺境への追放が真剣に論じられ、マダガスカルをはじめギアナアラスカニューギニアなどに大量移住させることによってヨーロッパからユダヤ人を除く計画が立てられた。

これらの議論・運動は、ドイツ及びナチスに限定したことではなかったことは覚えておく必要がある。つまりイギリスやフランス、スペイン、ポーランド、ロシアその他、ヨーロッパの各国において見られ、特にポーランドなど東欧の反ユダヤ主義は残虐を極めた。ドイツはユダヤ人には比較的開放的で許容度も高かったため、ユダヤ人はドイツに多くなったとされる。

またユダヤ人自身も19世紀後半から隆盛を迎えたシオニズムに基づく独自のパレスチナ移住(植民)運動を展開した。これら運動はナチ党政権成立後の1933年以降統一され、ドイツ系ユダヤ人全国代表部によってさらに進められた。イギリス支配下のパレスチナへの移住は「アラブの反乱」が起きた後の1937年まで制限されておらず、ユダヤ人移住制限措置が取られた後も不法移民は絶えなかった。ナチ党政権成立から第二次大戦勃発までに十数万人以上のユダヤ人がパレスチナに移住している。ナチ党の理論指導者の一人であるアルフレート・ローゼンベルクは1937年の著書Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten(p.153)の中で、「ドイツのユダヤ人の集団が毎年パレスチナに移送されるであろう、そのためにシオニズムは強力に支援されねばならない」と述べている。

[編集] ゲットーへの収容

1939年9月のポーランド侵攻直後から、「ユダヤ人問題」の直接的解決が実行され、まずユダヤ人をゲットー(ユダヤ人街)への囲い込みが始まった。翌1940年11月には400,000 人が住むワルシャワ・ゲットーが壁と有刺鉄線で囲まれて交通が遮断され、1942年7月からゲットー住民の強制収容所移送が始まり、1943年4月19日より親衛隊少将ユルゲン・シュトロープの指揮下、ワルシャワ・ゲットー蜂起 (en)に対する掃討作戦が行われる。ゲットーへの囲い込みから収容所移送までの間に移住計画や収容所建設など親衛隊当局による絶滅の準備が行われたが、劣悪な衛生状態と食糧事情から既にこの期間に多くの犠牲者が出ている。また、シンティ・ロマ人(ジプシー)の放浪が禁止されて登録とゲットーへの囲い込みが行われたのもこの期間であった。

[編集] マダガスカル計画の破棄

1940年6月頃、ドイツのフランスに対する勝利の後、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ)B4課(ユダヤ人問題担当)課長の親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンは、フランスからのマダガスカルの割譲を見越した国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒの命令によってユダヤ人のマダガスカル移住計画を作成したが、「あしか」作戦の失敗によって英本土占領の見込みが失われ、移送のための船舶・航路の確保は絶望的となったためこの計画は廃棄された。これ以降「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従ってユダヤ人は、生産活動にとって無価値な老人、女子、子供は移送の後に殺害され、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。

[編集] ヨーロッパ東部における組織的殺戮

このような計画とは別に、独ソ戦の開始の翌日1941年6月23日以降、進撃するドイツ軍に続きハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツ・グルッペン)が占領地域に展開してラトヴィア人、リトアニア人、ベラルーシ人の現地補助警察に支援され、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。この一連の作戦において最も悲惨な例が1941年9月29日・30日に起きたキエフ近郊のバビ・ヤールでの移住するとの布告で集められたユダヤ人の大量殺害である。 入り組んだ地形を利用して先頭で行われる殺害を隠蔽し、長い列になったユダヤ人37,000 人がアインザッツ・グルッペンによってこの2日間で次々に射殺されたが、それ以降も同地は1943年8月まで使用されている。

銃撃に依る大量殺害は銃撃する親衛隊員に過重な精神的な負担を負わせることとなった。このことから、その他の方法が考案され、1941年9月3日、アウシュヴィッツ第一収容所でソ連兵捕虜に対して毒ガス・ツィクロンBによるガス殺が初めて行われたとされる。

また、戦線の後方でのこれらのことは、悲惨な出来事を見聞きしたドイツ国防軍上層部、あるいはショル兄妹事件のように一般のドイツ兵の中にも政権に対する疑問を拡大させることになった。

[編集] ヴァンゼー会議

1942年1月20日、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒによってベルリンの高級住宅地アム・グローセン・ヴァンゼーにある邸宅(現在ヴァンゼー会議博物館)で関連部局の次官級会議が開催され、「ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決」について討議された。アドルフ・アイヒマンの作成したとされる議事録によると、会議でヨーロッパに住むユダヤ人11,000,000の数がハイドリヒによって確認され、その「最終的解決」なるものが決定された。 議事録には直接的に殺戮を意味する表現は全く使われていないが、その他のナチ党関連文書においても使用されている「強制移住」、「特別措置」などの語を大量殺戮を意味する隠語と解釈するのが通説である。ただし、この会議に関する公式文書は存在しない。

[編集] 絶滅収容所

ドイツ国内には既に戦前からダッハウやザクセンハウゼンなどの強制収容所が存在したが、それらの収容所は当初は比較的小規模であり政治的敵性分子や西側の捕虜などが比較的多く収容されていたが、後に収容者たちの労働によって拡張され、ユダヤ人だけでなく、ロマ人その他の人々が雑多に収容され、収容者はのべ20万人を越える。ダッハウはとくに、薬草農園労働と、生体医学実験で有名である。同地には43年に「バラックX」と呼ばれる死体焼却炉付ガス室が建設されたが完成せず、実用には至らなかった、と言われる。しかし、このことはガス処分がなかったことを意味するのみで、墓地その他の調査によれば、実験による感染、郊外での銃殺などにより、労働強制収容所だったはずのダッハウから数万人の組織的大量虐殺(ホロコースト、ただしユダヤ人以外をも多く含む)が始まった事実は揺るがない。 絶滅を目的とした収容所としては1942年からアウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、マイダネク、ベウジェツ、ソビブルなどの収容所が次々と完成しゲットーや占領地域から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。アウシュヴィッツ強制収容所には大規模な軍需工場が付置され、多くの付属収容所を従えた一大生産基地を形成していた。その他の多くの収容所は僻地に建設され収容者数も多くなかった。ラインハルト作戦と呼ばれるポーランド=ユダヤ人絶滅作戦に沿って作られた収容所ではほぼ全員が直接ガス室に送り込まれたとされる。とくにトレブリンカの犠牲者は群を抜いて多く、およそ900,000人がそこで殺されたと言う。

収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、またしばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビブルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖されてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所もアウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。900,000 人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠は殆ど隠滅されていたと言われる。

[編集] 犠牲者の数

収容所の犠牲者たち
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収容所の犠牲者たち

犠牲者について正確な資料が残されていないため、特に後期の犠牲者の数を推測するのは困難である。なお、ユダヤ人の定義は国や時代によって異なることに留意すべきである。

出身地域別のユダヤ人犠牲者数は: ドイツ;165,000、オーストリア;65,000、フランスおよびベルギー;32,000、オランダ;10,000以上、ギリシャ;60,000、ユーゴスラヴィア;60,000、チェコスロヴァキア;140,000以上、ハンガリー;500,000、ソ連;2,200,000、ポーランド;2,700,000。このほかにルーマニア・トランスネストリアにおけるポグロムや特別行動部隊の掃討作戦による被害者200,000以上、アルバニアノルウェーデンマークイタリアルクセンブルクブルガリアなどからも収容所に移送されたユダヤ人がいた。(BENZ,Wolfgang. Der Holocaust. C.H.Beck 1995)

  • シンティ・ロマ人;250,000人
  • 同性愛者;10,000から25,000人
  • 精神障害者・重病人など;20,000から30,000人 (Wikipedia:en)
  • エホバの証人:10,000 人

合計すると1,100万人前後(ユダヤ人600万人、非ユダヤ人500万人)となっている。


[編集] ホロコースト否認(ホロコースト否定)説

  • ホロコースト否認(否定)説の歴史、進展、方法に関する詳しい説明は「ホロコースト否認」の記事を参照

第二次世界大戦における連合国の戦時宣伝に由来するホロコースト物語については、事実関係の不明確さや疑わしさからその実在が疑問視する研究が行われおり、この立場を「ホロコースト否認(否定)(en)」という。あるいはより広い意味を包含する目的で「ホロコースト修正主義(en)」という言葉も用いられ、一般にホロコースト否認(否定)論者もこの呼び方を好む傾向がある。

似た用語に歴史修正主義(en)があり、「ホロコースト否認」や「ホロコースト修正主義」という用語とは関連して認識されている。「歴史修正主義」という用語には一般に受け入れられている定義がなく、「新しく発見されたより正確で偏見の少ない情報によって歴史的事実を再考する正当な学究的用法という意味」と「政治的目的が優先した誤った推論による小細工という軽蔑的な意味」の対立した2つの概念が並立しているためである。

  • 1948年、レジスタンス活動家としてブッヘンヴァルト及びドーラ強制収容所に収容された経験をもつ社会主義者で歴史家のポール・ラッシニエは、著書Passage de la Ligneの中で「ホロコースト生存者」の証言に疑義を呈した。今日、ラッシニエは「ホロコースト修正主義の父」と称されている。
  • 1973年、アウシュヴィッツで空軍部隊将校として勤務した経歴のある西ドイツのシュテークリッヒ判事は、ホロコースト絶滅物語を検証するDer Auschwitz-Mythosを刊行したが、発禁となる。
  • 1978年、Institute for Historical Review(歴史見直し研究所)設立。
  • 1978年、フランスの『ル・モンド』紙でロベール・フォーリソンが「ガス室」に関する記事を発表し、「フォーリソン事件」が起こる。
  • 1988年、アウシュヴィッツのガス室についての実地検証、『ロイヒター報告』。
  • 1993年、アウシュヴィッツのガス室について化学的検証を行なったゲルマー・ルドルフによる『ルドルフ報告』。
  • 2000年、The Revisionist創刊

ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されているが、人種差別禁止法を名目に「ホロコースト否定」を取り締まる国もある。国際人権規約批准国では、B規約20条2項「国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」を根拠とする以外に、基本的人権たる表現の自由を制限することが難しい。このため、ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることが多い。2005年11月にオーストリアにおいてホロコーストの事実性を否定してきたイギリス人の歴史家デイヴィット・アーヴィングが「ナチス政策の正当化とホロコースト否定のため」逮捕された例もある。

2004年にはイスラエルで、外国に対して「ホロコースト否定論者」の身柄引渡しを要求できる「ホロコースト否定禁止法」が制定された。 『エルサレム・ポスト』(2004年7月20日)の伝えるところでは、ユダヤ人のホロコースト犠牲者は1,000,000 人に満たないという内容の博士論文を書いたことがある「ホロコースト否定論者」・パレスチナ解放機構の事務局長アッバス(前首相)を標的として極右政党国民連合が提出した法案であった。ただし、これはイスラエル支持国であるアメリカ合衆国日本に対して要求されることはまず無い。アメリカの援助がなければイスラエルはやっていけなくなるし、ユダヤ・キリスト教・イスラームのいずれにも属さない日本を攻撃すると、地理的には近いが中東アラブとイスラエルの対立には傍観的な東南アジア諸国がすべて反イスラエルで固まってしまうためだ。

一方イスラム世界では、アッバスに限らずホロコーストに対するユダヤ人への同情論が、結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコーストを否定又は過少評価しようとする意見も根強く、2005年にイランアフマディネジャド大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けている。

1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法130条第3項で禁じられており、ドイツ語版ウィキペディアホロコーストノートページでは一番上にこの警告が掲げられている(オーストリアにも同様の法律がある)。しかし、それは同時に国家による言論弾圧に対する嫌悪感を生み出す事につながっている。

[編集] 論争

上記のホロコースト否定の立場から、「収容所においてガス室などによる組織的殺戮はなかった」と主張するホロコーストへの懐疑論が唱えられている。著名なものを以下に示す。

ロイヒター・レポート
1988年に「虚偽の報道」罪で裁判にかけられていたエルンスト・ツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒターに依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。ただし、このレポートに対しては「ロイヒターは工学の学位を持たず、また実績においても、彼は専門家としての能力に欠ける」との批判がある。実際、裁判でもロイヒターは証言をしたものの、彼が工学修士ではなく哲学修士であること、ビルケナウのガス室に関する資料を十分に読むことなくレポートを書いていることを指摘され「専門家による証言」とは見做されなかった。
ルドルフ・レポート
1993年には、当時マックス・プランク研究所で化学による博士課程にあったゲルマー・ルドルフルドルフ・レポートがロイヒター・レポートと同様の結論を提示した。反駁の試みとしてはインターネット上で発表された Richard J. Green のものがあるが、内容は政治的な面についてのものである。化学の学位を持つ者による学術的反論はほぼ皆無とされる。というのも、レポート内でルドルフは『化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできない』という主張をしており、化学的な論争を回避しているからである。ゲルマー・ルドルフは採取したサンプルの分析依頼のために無断でマックス・プランク研究所の名前を使用したため、同研究所を解雇されている。
ヴァルザー論争
1998年フランクフルト書籍見本市の平和賞受賞講演で、作家のマルティン・ヴァルザー (Martin Walser) はホロコーストがドイツ人に対して「道徳的棍棒」として使われていると述べて「ヴァルザー論争」が起こった。
『マルコポーロ』事件
日本では、1995年医師の西岡昌紀の「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を掲載した『マルコポーロ』誌が廃刊になったマルコポーロ事件がある。内容自体は上記のロイヒター・レポートやルドルフ・レポートと同一である。

その他、ユダヤ人絶滅を明記した命令文書が存在しない、ニュルンベルグ裁判で拷問や脅迫を用いて得られた証言に矛盾がある、などが否定的根拠として良く挙げられる。

[編集] 「ホロコースト」の疑問点

以下に、ホロコースト修正論と定説側の主張を併記する。

マイダネク強制収容所跡地にあるモニュメント。この巨大な丸屋根の下には周辺で発見された人間の灰が大量に保存されている。
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マイダネク強制収容所跡地にあるモニュメント。この巨大な丸屋根の下には周辺で発見された人間の灰が大量に保存されている。
ハインリヒ・ヒムラーからアドルフ・ヒトラーへの報告書第51号(1942年12月)。南ロシア地方、ウクライナ地方、ビャウィストク地方。 「無法者の協力者や容疑者」として4ヶ月の間にユダヤ人だけで363,211人が「処刑」されている。この書類はホロコーストで行われた大量虐殺行為に対してヒトラーの共謀と是認があったことの証拠として提出されたもの。この類の証拠で他に有名なものの一つに、ルブリンの親衛隊少佐ヘルマン・ヘフレ(Hermann Höfle)によってベルリンの親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンに宛てて1943年1月11日付けで送られているヘフレ電報がある。ヘフレ電報では、ラインハルト作戦(en)の最初の年である1942年にルブリン(マイダネクMajdanek)、ベウジェツ(Bełżec)、ソビブル(Sobibór)、トレブリンカ(Treblinka)の4箇所の強制収容所で合計1,274,166人が死亡したことが報告されている。この電報は2000年にイギリスのキュー(Kew)にある第二次世界大戦の資料を保管している公文書庫で発見された。ヘフレ電報にある数字は1943年1月18日に親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーによって下された命令により統計局のリヒャルト・コルヘア(Richard Korherr)が作成して同年3月に発表されたいわゆるコルヘア報告(Korherr Report)の内容と調和していることが分かった。ヘフレ電報の画像については英語版ウィキペディアにあるヘフレ電報(en)やラインハルト作戦(en)の記事を参照。一方、ワルシャワ強制収容所の存在もソ連支配下にあったポーランドでは民主化まで隠匿されていた(それは、収容されていたポーランド人のほとんどが自由ポーランド政府の支持者だったからであった)。このワルシャワ強制収容所はワルシャワとその周辺に配置された絶滅収容所群の総称であり、20万人のポーランド人がドイツの手によって殺害されたとされる。これは「衝撃的」な新事実、すなわち「ポーランド人に対するホロコースト」の典型例として詳細な調査が開始されている。今後もドイツの行った犯罪は次々と暴かれていくと予想される。
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ハインリヒ・ヒムラーからアドルフ・ヒトラーへの報告書第51号(1942年12月)。南ロシア地方、ウクライナ地方、ビャウィストク地方。 「無法者の協力者や容疑者」として4ヶ月の間にユダヤ人だけで363,211人が「処刑」されている。この書類はホロコーストで行われた大量虐殺行為に対してヒトラーの共謀と是認があったことの証拠として提出されたもの。この類の証拠で他に有名なものの一つに、ルブリンの親衛隊少佐ヘルマン・ヘフレ(Hermann Höfle)によってベルリンの親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンに宛てて1943年1月11日付けで送られているヘフレ電報がある。ヘフレ電報では、ラインハルト作戦(en)の最初の年である1942年ルブリン(マイダネクMajdanek)、ベウジェツ(Bełżec)、ソビブル(Sobibór)、トレブリンカ(Treblinka)の4箇所の強制収容所で合計1,274,166人が死亡したことが報告されている。この電報は2000年にイギリスのキュー(Kew)にある第二次世界大戦の資料を保管している公文書庫で発見された。ヘフレ電報にある数字は1943年1月18日に親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーによって下された命令により統計局のリヒャルト・コルヘア(Richard Korherr)が作成して同年3月に発表されたいわゆるコルヘア報告(Korherr Report)の内容と調和していることが分かった。ヘフレ電報の画像については英語版ウィキペディアにあるヘフレ電報(en)やラインハルト作戦(en)の記事を参照。一方、ワルシャワ強制収容所の存在もソ連支配下にあったポーランドでは民主化まで隠匿されていた(それは、収容されていたポーランド人のほとんどが自由ポーランド政府の支持者だったからであった)。このワルシャワ強制収容所はワルシャワとその周辺に配置された絶滅収容所群の総称であり、20万人のポーランド人がドイツの手によって殺害されたとされる。これは「衝撃的」な新事実、すなわち「ポーランド人に対するホロコースト」の典型例として詳細な調査が開始されている。今後もドイツの行った犯罪は次々と暴かれていくと予想される。
  1. 毒ガス」で死んだ死体も、その解剖記録も存在しない。発見された遺体は発疹チフス等の伝染病によって死亡したもので、毒ガスによって殺害されたと断定された遺体は一体たりとも確認されていない。これはアメリカ軍とともにドイツのダッハウなど約20の収容所に入り、遺体を実際に検分した唯一の法医学者チャールズ・ラーソンが宣誓証言している。定説は、この点について、同様証拠隠滅の時間的余裕を指摘する。絶滅収容所の稼働は連合軍到達前に打ち切られ、要員は施設を破壊して撤退した。当然、ガス殺した死体を残す理由はなく、確認された死体とは、取り残され伝染病で死亡した収容者のものと記述される。くわえて、ラーソンは実際には「ダッハウで私が個人的に検死した被収容者のうち、こうしたやり方(ガス殺)で殺された被収容者は、かなり少なかったと思う」と述べたのであり、毒ガスによって殺害された遺体が一体もないとは言っていない。また、隠蔽の間に合わなかったマイダネクでは、ガストラックとともに、一酸化炭素中毒で死亡した死体がポーランド-ソ連特命委員会によって確認されている。
  2. 隠蔽したとしても、焼却処分したはずの数百万人分もの人間の灰が発見されていない。灰については、主に川に流したと言うのが定説となっている。アウシュヴィッツに至っては沼沢地に面しており、捨て場には困らない。また、埋設された灰の堆積層も発見されている。ちなみに、人間一人を焼却して灰にすると、靴箱一杯分程度の量になる。この点について、両者に意見の相違はない。ただ、償却処分に必要な労力、時間をドイツが確保できたか、また確保する価値や必要性があったかは疑問である。
  3. ヒトラーやその他のナチスの有力者によるユダヤ人の物理的絶滅文書命令が発見されていない。定説側は、ヒトラーの命令書が存在しないことを認めつつ、提出された報告書や電話記録、多くの証言の存在を指摘する。
  4. 絶滅計画には予算が計上されてない。加えて連合軍はドイツ政府・ドイツ軍の交信記録をすべてチェックしたが、秘密の無線通信やオフレコの会話でさえ絶滅計画に関したものは何も残っていない。定説側は、「絶滅計画に関するもの」の定義が恣意的で、トートロジーに陥っていると批判する。なお、予算は SS の独立採算性であったとされている。資金源はユダヤ人等からの没収財産。ただし、この資金繰りは決して楽ではなかった。この点については、両者が自説の論拠として用いる。
  5. 証拠が発見されないのは、ナチスが徹底的に隠滅工作を行ったせいだとされるが、敗戦間際の混乱期にそこまで完璧な隠滅工作(数百万人分の死体もしくは焼却灰を痕跡もなく処分する等)ができたのか。以前から周到な隠蔽の準備がなされていたのなら、ドイツは最初から戦争に敗れるつもりだったということになる。定説では、ナチスは最初から隠蔽するつもりであったとされる。負けると考えて居なくとも、その様な事実が発覚すれば、劇的なプロパガンダに利用されることは明らかである。戦時中になされていたのは、隠蔽の「準備」ではなく、「隠蔽」そのものとなる。
  6. 戦時中、連合軍機が上空から収容所敷地内を撮影した航空写真には、一枚も遺体を焼却していたとされる焼却炉からの煙が写っていない。定説側は、アウシュヴィッツへの偵察飛行が1944年4月4日、5月31日、6月26日、8月25日、9月13日の5回しか行われていない点を指摘する。その撮影範囲に焼却炉が入っていたか、その時焼却炉が動いていたか、そして煙が撮影できる環境にあったかは偶然に左右される。同時に、8月25日には列車からガス室(修正論では死体置き場とされる)へと誘導されていく、百人余りの人間が写っている事が、証拠の一端として提示される。なお、連合軍機が撮影の目的としたのはアウシュヴィッツ第3収容所にある合成燃料の工場であり、写真に写っている煙突は遺体焼却炉のものではない。
  7. いわゆる「ガス室」には、青酸ガスの使用に不可欠である、換気システムが設置されたという証拠がまったく存在しない。定説は、設計図を提示して、換気システムの存在を指摘する。また、換気システムを備えないガス室もあったが、ガスマスクを着けた死体搬出者(ゾンダーコマンドと呼ばれる、労働用ユダヤ人が担当。絶滅収容所の生存者はほとんどが脱走に成功した彼等)の健康被害を考慮しなければ、ガス室の運用は可能と指摘する。また、そのガス室以外としてのその部屋の存在理由が見つかっていない。しかし、ガスマスクを装着した作業者は無事で済むだろうが、この方法では屋内にガスが漏洩する危険性がある。
  8. 収容者を計画的に殺害するつもりなら、製造にコストが掛かり使用者にも多大な危険が及ぶ毒ガスを使わなくとも、巨大な空間にを充満させて溺死させる等、別の方法をとれば安全・簡便でコストも掛からない。物資の欠乏に悩まされていたドイツがなぜこのような方法を採らなかったのか。定説は、巨大なプールを用意し、「シャワーを浴びさせる」と言うような嘘の使えないこの方法を、非現実的であると指摘する。なお、一酸化炭素はディーゼルエンジンを改良(通常の用法では改悪)して不完全燃焼させることで、青酸ガスは安価に量産されていたツィクロンB(殺虫剤)を用いることでコストの問題を解決しようとし、成功したと史料を提示する。前者について、ドイツは産油国ではなく、石油燃料は極端に不足していたからディーゼルエンジンを使ったはずがないとの反論もあるが、石油不足が深刻になったのは大戦末期になってからのことである。ナチスは大戦初期においてアメリカから石油を輸入しており、さらにルーマニアやハンガリーの油田を確保していた。東部戦線での燃料不足は、主に補給線が伸び切っていたことに由来するのであって、石油そのものがなかったわけではない。後者に関しても、既にドイツは二度の大戦を通じてマスタードガスサリンといった神経ガスを開発しており、こちらの方がコスト的に効率が良いとの見方がある。しかしマスタードガスは効果がでるまでに時間がかかる上、使用したあと除去するのが難しく、サリンにいたっては量産体勢が整っていないなどの問題があるため、現実的ではない。ツィクロンBの殺傷力は極めて高く、たとえばアウシュヴィッツで消費されたツィクロンBのうち、ガス殺に使われたのは全体のわずか10%であったが、それでも十分に目的を果たすことができた。
  9. アウシュヴィッツ強制収容所ではチフスが流行していたため、殺虫・殺菌のためのマイクロ波殺菌装置が配備されていた。本気でユダヤ人を絶滅させるなら、収容所に入れた後、殺虫・殺菌なんてせずに放っておけば簡単に全滅させられる。それどころかドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出している。定説側は、「死ぬまで放っておく」ための監視等に必要な労力を指摘する。実際それに近い状態だった、ワルシャワゲットーでは絶望的蜂起が発生し、ドイツ軍と町に大きな被害を出した。また、ヒムラーの命令は、労働用のユダヤ人に関するものである。シンドラーが「ただで使える労働力」としてユダヤ人に目を付けた事からも解るとおり、財界は低コストのユダヤ人労働力を欲していた。第三帝国も、その内部は間違っても一枚岩ではない。ホロコーストとて、様々な軋轢を逃れられないと言うわけである。
  10. 1943年2月からドイツ降伏まで、全ての収容所で赤十字の監督が許可されていた。これによって囚人の待遇が全て赤十字によってチェックされるようになった。そして赤十字の報告書には1943年から1944年の間ですら、重労働者は最低でも一日に2,750 kcalを摂取していたと記されている。そして国際赤十字委員会は、連合軍が無差別爆撃で援助物資を届けることを妨害していることに不満を訴えていたが、赤十字の訴えは連合国に無視される。1948年の赤十字の報告書には、中立の立場である赤十字が「ユダヤ人の大量死は連合軍の無差別爆撃が原因である」という結論を出している。定説側は、まず、赤十字が立ち入りを許されたのは、連合国の捕虜収容施設であった点を指摘する。そして、彼等はきちんと扱われていた。一方で、赤十字が調査不十分とガス室の存在を疑っていたこと、戦後SSの医師が安全な所だけを見せる「見学ツアー」が組まれていたと証言している事を挙げる。また、前述された「赤十字の報告書」の存在を主張したのは Richard Verrall という人物であり、ネオナチ関係者である。1988年トロントのツンデル裁判において赤十字のチャールズ・ビーダーマンは、赤十字の報告書は通常の捕虜収容所に関するものであり、絶滅収容所とは関係がないと証言している。
  11. アウシュヴィッツでは囚人同士の結婚式が認められていた。産科病院に3,000 人の出産記録があり、託児所には母親が子どもを預けることができた。定説側は、アウシュヴィッツが絶滅収容所と強制収容所、捕虜収容所までを兼ね備えた、複合施設であった点を指摘する。なお、産科病院とは正式な施設ではなく、病棟の中でストーブに近い位置にあった場所を囚人たちがそのように使っていたというだけである。収容所では1943年5月ごろまで、新生児は直ちに溺死させられていたが、囚人の1人で助産婦のStanislawa Leszczynskaが新生児を殺害せよとの収容所側からの命令を拒否し、妊婦の出産を成功させていた。出産記録にある3000人とは、彼女が分娩した新生児のことである。
  12. SSがユダヤ人を虐待することは犯罪だった。アウシュヴィッツ収容所では親衛隊員すべてが「私はいかなる囚人も傷つけたり殺害することを許されない」という内容の宣誓書に署名させられた[1]。ブーヒェンヴァルト収容所司令官のカール・コッホは、殺人等の罪状により1943年にSS判事コンラート・モルゲンに死刑を宣告されている。定説側は、犬猫の殺処分を行う保健所職員が収容動物を虐待すれば、当然に処分されることを指摘する。また、この部分についても、労働力として収容されていたユダヤ人の存在を想起すべきだと主張する。なお、否定派がよく例示に挙げるカール・コッホは、同僚のSS隊員を殺害した罪で処刑されているのであり、そもそもユダヤ人への虐待とは関係がない。
  13. 複数の証言間での矛盾がひどすぎる。死体を焼いた燃料、ツィクロンBを投入してから死体を取り出すまでの時間などが証言間であまりにもバラバラである。さらに証言の中には、物理的にありえないような事象や、世の中に存在しないような収容所に対する証言、証言で語られているガス投入口が現地に存在していないなどの、膨大な矛盾が存在する。定説側は、このような証言の矛盾は全体からすれば些細な内容であり、ホロコーストの実在に疑問符を付すには及ばないと指摘する。たとえば、平時に起きた1つの事件であっても、当事者の証言が細部で矛盾を起こすのはよくある話であり、それらの矛盾を理由として証言全体を虚偽とすることはできない。また、証言者の中には刑事告訴を受けていない(つまり証言を強要されていない)SS隊員や、非ユダヤ人の収容者が数百人おり、国籍も民族も地位も異なるこれらの証言者が同時に偽証していると考えるのは不合理である。
  14. ユダヤ人であっても、第三帝国に忠誠を誓うものであればナチス高官になれた。これはヒトラーが提唱した「理想的なアーリア人」像と差別されていない、つまりゲルマン民族と条件は変わらなかった。実際に「ダビデの星」をつけた武装SS高官の写真が何枚も残されている。これに対する定説側の主張としては、これらのユダヤ人が意図的に他の(反ドイツ的とされる)ユダヤ人とは区別された、伝統的なドイツ系民族の家系でもある、ナチスに莫大な献金をしたなど。また、1943年以降の武装集団指揮官としての人材の確保が優先されたという主張もある。
  15. 「ダビデの星」については、特に第三帝国のみにおいて使われたものではなく、宗教や民族の問題から、特に「死亡時の供養、埋葬方法の区別」として、これらを分類する為の手法は他の国家でも採られていた。主に軍隊内で兵士に義務付けられるが、ドイツによって空襲の行われたイギリスでも一時期、一般市民にも装着が義務付けられていた。身元不明の戦没者の葬儀を一律に行うのはイスラエルのような単一宗教国家か、共産主義国家のいずれかである。
  16. ツィクロンBを屋内で使用した場合には生成されるはずのプロシアンブルーがガス室の壁面から検出されない。ただしプロシアンブルーが生成されるのはツィクロンBから発生した青酸ガスの濃度が高く、他にガスを吸収する物質が室内にない場合であり、人間を詰め込んだ上でツィクロンBを使用するガス室はこれに該当しない。なお、ツィクロンBの本来の用途はダニやシラミなどの駆除であったが、人間を殺害するには、その本来の用途より低濃度のガスで十分な効果があったとされる。
  17. 移住計画を破棄した上の絶滅計画であったのなら、杉原千畝が咎められた理由が曖昧になってしまう。アジア人国家である日本に脱出されたところで構わないはずなのだ。これに対する定説側としては、労働力の流出を阻止する必要があった、杉原を咎めたのは日本政府の判断であってドイツの要請ではない、など。
  18. 終戦直後にはガス室の代名詞だったダッハウ収容所は、実は絶滅収容所では無かった事が判明している。絶滅収容所とは、ガスによる大量虐殺が行われた大規模な収容所を示す言葉であり、ダッハウはそれに該当しなかった。ただし、ガス室自体は存在し、実験的に小規模なガス殺は行われていたとされる。また、ダッハウでは餓死や銃殺により数万の人間が死亡しており、「死の収容所」であるという事実に違いはなかった。
  19. 本当に数百万人分もの人間を焼却処分にして灰にしたとすると莫大な燃料が必要だが、戦争でエネルギーが不足している時期に土葬にせず、このようなエネルギーの無駄遣いを何の為に行ったのか説明がつかない。定説側は、このような意見はナチスという組織の政治的目的を忘れていると指摘する。ナチスが戦争を始めた主な目的はドイツ人の生存圏拡大と「劣等人種」と定義された民族・集団を抹殺することである。つまりナチスの価値観では抹殺という行為には意味があり、この目的のためにエネルギーを費やすことは無駄遣いではなかった。また、遺体の焼却に使われたのは主に木材と廃油であり、廃油は強制収容所に建設された工場から廃棄物として得られる。つまり、焼却処分にさほどコストはかからなかった。
  20. 殺されたユダヤ人の人数がおかしい。アウシュヴィッツでのユダヤ人死者が400万人だとされていた時も600万人殺されたと発表されている。しかし現在のアウシュヴィッツ博物館の公式発表は、ここでの殺戮はユダヤ人と非ユダヤ人を合わせて100万人ほどに下方修正されている。ということは本来なら600万-300万で、全体としては300万人になっていないとおかしい。また、600万人殺されたと言われるが、その600万人を算出した一次史料は全く不明である。定説側は、このような疑問は単なる調査不足であると指摘する。600万人という一般に知られた数字は、ニュルンベルク裁判でのヴィルヘルム・ヘットル親衛隊大尉の証言に由来する。彼によると、約200万人が特別行動部隊(en)によって射殺され、400万人が絶滅収容所で殺されたという。のちに英米で組織された調査委員会が、戦前戦後の人口統計を用いてユダヤ人の犠牲者を算出したが、この結果は5,721,500人であった。

立証責任に関しては、悪魔の証明参照

[編集] ホロコースト産業

1996年、スイスの主要銀行に対し、ホロコースト犠牲者のものとされる休眠口座に眠る預金の返還を求めるユダヤ人の集団訴訟が起こされた。ドラミュラ大統領兼経済相はこれを「ゆすり・たかり」と非難し、後に謝罪を余儀なくされる。1998年、休眠口座の調査は続行中だったが、銀行側が今後支払い要求に応じないことを条件に12億5千万ドルを支払うことで政治決着した。2001年10月13日、英紙タイムズはスイスの独立請求審判所による調査の結果を報じた。休眠口座の総額は6千万ドル程度に過ぎず、ほとんどは少額で、処理した10,000 件近い請求のうち確認できた口座は200件だった。ユダヤ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインは、このようなユダヤ人団体の行動を、ホロコーストを利用して利益を得ているものとして批判する『ホロコースト産業』を著した。彼はユダヤ人団体からホロコースト否定論者とされ非難を浴びた。

[編集] ホロコーストに関する最新の展開

[編集] ナチス・ドイツ公文書の一般公開

ナチスの強制収容所などにおける実態が詳述されたドイツの公文書が一般公開されることが決まった。この文書は最大5000万件にも達する膨大なもので、アメリカポーランドドイツイスラエルを初めとした11か国と赤十字国際委員会(The International Committee of the Red Cross 、略称ICRC)[2]がドイツ中部のバド・アーロルゼン(Bad Arolsen)にある国際追跡サービス( en)という名前の公文書館で共同で管理している。

管理されている公文書にはナチス・ドイツによって強制収容所で迫害されたり虐殺された人々約1750万人の個人情報が、収容された経緯やその後の処置なども含めて詳しく記載されているものがあるという。

同公文書館に保管されている公文書はナチス・ドイツの行為の直接被害を受けた者あるいはその遺族だけが特別に閲覧を許されてきた。同公文書館には毎年15万件もの問い合わせがあったというが、一般には閲覧できる資料が限られていたため、ホロコーストの全容を解明したいと望む研究者や歴史家にとっては調査の大きな障害となっていた。

ドイツ政府は国家賠償問題が新たに発生することを懸念して、プライバシー保護を建前としてこれまで一般公開を拒んできたが、その他のITS管理者、つまり関係10か国と赤十字国際委員会は一般公開を希望していた。これまで続けられてきたアメリカやフランスなど関係国の圧力と、戦後60年という歳月が流れた事実が、ドイツがこの膨大な公文書の一般公開を受け入れることになった要因となったとされる。

2006年5月16日ルクセンブルクで開催されたドイツを含む関係国11か国とICRCによる年次総会で一般公開に関する合意が得られた。今後協定の変更作業や各国議会の承認などの法的手続きが行われるため、実際の公開は2007年半ばになるものと見られている。

一般公開が実現すれば、研究者や歴史家によってユダヤ人やポーランド人、ドイツ人政治犯など合計約600万人が犠牲になったとされるホロコーストの全容解明が劇的に加速するものと思われる。これは立場・主張を問わず、全ての研究者が待ち望んでいることであろう。

[編集] イスラム世界

2006年12月にはイランでホロコーストをイルラエルなどの捏造だと考える世界の歴史研究者が集まり会議が開かれた。この席でアメリカやヨーロッパ諸国は言論を弾圧しデマで真実を覆い隠しているとの非難声明が出された。このようにイスラム世界ではホロコーストは作り話であるとの認識が定着している。

[編集] ホロコースト関連作品

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

  • 『ホロコースト 戦争と家族』

[編集] 書籍

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 参考文献

  • ゲッツ・アリー著、山本尤・三島憲一訳、『最終解決』、法政大学出版局、1998年12月、ISBN 4588006223
  • 大澤武男著、『ヒトラーとユダヤ人』、講談社、1995年5月、ISBN 4061492497
  • 梶村太一郎ほか著、『ジャーナリズムと歴史認識』、凱風社、1999年12月、ISBN 4773624035
  • 金子マーティン編、『「ジプシー収容所」の記憶』、岩波書店、1998年8月、ISBN 4000233327
  • 木村愛二著、『アウシュヴィッツの争点』、リベルタ出版、1995年6月、ISBN 4947637331
  • マーチン・ギルバート著、滝川義人訳、『ホロコースト歴史地図 1918-1948』、東洋書林、1995年4月、ISBN 4887210817
  • グイド・クノップ著、高木玲・藤島淳一訳、『ホロコースト全証言』、原書房、2004年2月、ISBN 4562037261
  • 栗原優著、『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』、ミネルヴァ書房、1997年3月、ISBN 4623027015
  • ルーシー・S.ダビドビッチ著、大谷堅志郎訳、『ユダヤ人はなぜ殺されたか』、明石書店、1999年6月、ISBN 4750311685
  • 永岑三千輝著、『独ソ戦とホロコースト』、日本経済評論社、2001年1月、ISBN 4818813214
  • 永岑三千輝著、『ホロコーストの力学』、青木書店、2003年8月、ISBN 4250203263
  • 永岑三千輝著、『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆1941-1942』、同文館出版、1994年9月、ISBN 4495860518
  • ゲルハルト・シェーンベルナー編、栗山次郎ほか訳、『証言「第三帝国」のユダヤ人迫害』、柏書房、2001年7月、ISBN 4760120939
  • チャイヤ・シュトイカー、エリザベート・グッテンベルガー著、金子マーティン編訳、『ナチス強制収容所とロマ』、明石書店、1991年12月、ISBN 4750304026
  • ティル・バスティアン著、星乃治彦ほか訳、『アウシュヴィッツと「アウシュヴィッツの嘘」』、白水社、1995年11月、ISBN 4560028923
  • フィリップ・ビューラン著、佐川和茂・佐川愛子訳、『ヒトラーとユダヤ人』、三交社、1996年4月、ISBN 4879191302
  • ラウル・ヒルバーグ著、望田幸男・原田一美・井上茂子訳、『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』、柏書房、1997年11月、ISBN 4760115153
  • ノーマン・G.フィンケルスタイン著、立木勝訳、『ホロコースト産業』、三交社、2004年12月、ISBN 4879191582
  • リチャード・ブライトマン著、川上洸訳、『封印されたホロコースト』、大月書店、2000年5月、ISBN 4272530356
  • マイケル・ベーレンバウム著、石川順子・高橋宏訳、『ホロコースト全史』、創元社、ISBN 4422300326
  • マイケル・R.マラス著、長田浩彰訳、『ホロコースト』、時事通信社、1996年9月、ISBN 4788796317
  • マルセル・リュビー著、菅野賢治訳、『ナチ強制・絶滅収容所』、筑摩書房、1998年3月、ISBN 4480857508
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