ハル・ノート
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ハル・ノート(Hull note、正式にはOutline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)は大東亜戦争開戦直前の日米交渉において1941年11月27日になされたアメリカ側から日本側に提示され、最後となった提案のことであり、交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前から名づけられたものである。
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[編集] 概要
ハルノートでは、アメリカが日本と大英帝国、中国、日本、オランダ、ソ連、タイ、および合衆国の包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めている。概要は以下の10の項目からなる。
- アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する。(これに対抗する日独伊三国軍事同盟の破棄)
- 仏印からの日本の即時撤兵
- 日本の全ての中国及び印度支那から即時の撤兵 - 中国(原文China)が、日本の傀儡であった満州国を含むかには議論があり、アメリカ側は満州を除いた中国大陸を考えていたと言う説があるが、満州国は法律上、中国からの租借地であるという歴史があり、日本側も満州を含んだ中国大陸と考えていたようである。
- 日米が,(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中華民国以外の全ての政府を認めない
- 日本の中国大陸における海外租界と関連権益全ての放棄
- 通商条約再締結のための交渉の開始
- アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除
- 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
- 第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄
- 本協定内容の両国による推進
- 原文の和訳はウィキソース参照。英語原文は英語版ウィキペディア「Hull note」のページを参照
[編集] これに対する反応
条項を読めば判るとおり、日本側からみれば、提案をするだけで平和条約締結の約束はしておらず(具体的には日本と戦争中であった中国を含む包括的な条約であるため実現性が無い)、また、貿易条約再締結の交渉を始めるだけといったほぼ白紙に近い条件であった。一方で日本には、直ちに全ての軍事同盟を破棄させ、海外における権益の全てと、実質上、領土の3分の1を放棄させるという、極めて厳しい条件であった(原文参照のこと)。特に当時の日本政府が受け入れがたい条項と問題視したのが、上記項目3,4,9であり、これらの項目に関しての争いが日米開戦のきっかけとなったと言えよう。
日本側からみれば、それまでの交渉経緯で譲歩を示したとの認識であったことが、ハル・ノートでの中国に関する非妥協的提案が、態度を硬化させる一因であるともいわれる。後の東京裁判で、弁護人は、「もし、ハル・ノートのような物を突きつけられたら、ルクセンブルグのような小国も武器を取り、アメリカと戦っただろう。」と弁護している(また、判事であった、ラダ・ビノード・パールも後に引用している/中村粲 監修 『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 ISBN 4336041105)。
これについては、一つの交渉案としてアメリカが示したに過ぎないハルノートを、その内容の強硬さもあり、日本側は「最後通牒」と誤って解したために、12月1日の御前会議での日米開戦の決定を行うに至ったとの評価をする者もある。
ただ、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、フランクリン・ルーズヴェルトの意向もあり、急遽ハリー・ホワイト財務次官補がハル・ノートをより強硬なものに作り変えたため、ハルはこの提案を自身の意に反しており芳しく思っていなかったと後に述べている。また、米国政権はアメリカ人の交渉の常として、最初に強硬案を示し、そこから相手側の譲歩を引き出すという手段をとったものと考えられている。このことから、ハルノートが太平洋戦争の一つの直接の引き金となったことは、日米の文化が衝突した典型例と言う者もある。
また、イギリスのチェンバレンがヒトラーに対する緩和的な政策で挫折していた事により、アメリカ内での緩和政策に対する反発が高まっていたためだともされる。
[編集] 背景
アメリカは、中国での権益を確保するため、以前から日本と紛争状態にあった中国の蒋介石政権に多大な軍事援助を送っていた。さらに日本軍の北部仏印進駐を問題視したアメリカが、国内の日本資産凍結、石油等の対日禁輸といった制裁に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めた。また日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決を探って日米交渉を1年にわたって続けていた。交渉の背景として、当時の日米両国ともに国内世論が 強硬派・穏健派に分かれ、双方の政治的綱引きがあった。
この交渉に対する働きかけとして、アメリカ側に対して、アメリカ参戦を希望する国民党や英国の影響力が及んでいたことが指摘されている。
[編集] 中国の思惑・影響力
軍事的な問題で一時は妥協的案の提案に傾きかけたハル国務長官だが、日中戦争の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していた。当時既にアメリカは非公式ではあるが国民政府に対して軍事支援を行っていた。なお蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で働きかけていた。
[編集] 英国チャーチルの思惑
また当時は既にヨーロッパにてドイツとイギリスとの戦いが始まっており、ヨーロッパ戦線にて対独戦に苦戦していた英国チャーチル首相は、戦局打開の策としてアメリカの参戦を切望していた。英国が行った働きかけは判然としていないが、チャーチルの回想録では日米開戦の知らせを受け取ったときのチャーチルの欣喜雀躍ぶりが描かれている[1] 。
[編集] ソ連の思惑
独ソ戦を戦っていたソ連のスターリンにとっての悪夢は、ドイツと三国同盟を結んでいる日本が背後からソ連を攻撃することであった。当時、2面作戦をとる国力に欠いたソ連は、日本からの攻撃があるとドイツとの戦線も持ちこたえられずに国家存続の危機に陥ると考え、日本の目をソ連からそらせる為のあらゆる手を打った。米国に親ソ・共産主義者を中心に諜報組織網を築き、その一端はホワイトハウスの中枢にも及んだ。その最重要人物がハルノート作成に強く関わったハリー・ホワイト財務次官補である。日本を米国と戦わせることにより、日本がソ連に侵攻する脅威を取り除くことが一つの目的であった。[2]
また、日本にはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実を中心とする諜報組織網を築き、日本の目がソ連に向いていないかの情報を収集し続けた。
[編集] 日本の思惑
日本政府内では当初妥協派が優位であったが、この条件を提示されたことで、軍部の中に強硬意見が主流になり、それに引きずられた形で天皇も「開戦やむなし」となったとされる。海軍を中心にアメリカとの戦争には勝てない、とする意見があったが、ハルノートに書かれた条件を受け入れることが出来なかった陸軍がそれを強引に押し切り開戦に踏み切ったとの評価が一般的である。
日本側には戦略資源を得るための南方進出に対する経済制裁によって、資源を禁輸されて戦略資源の窮乏が予想されるところへ、強硬に全ての植民地を放棄せよというハルノートを提示されたので開戦に至ったと考えられている。 (実際には全ての植民地を放棄しろとは書かれていないと主張し、読み違いであるとする主張もある)
いずれにせよ、当時の日本政府が最後通牒であると受け取ったことは明らかであり、実際に、日本の総理大臣であった東条英機はこのように主張していた。「これは最後通牒です。」
[編集] その他
日本外交暗号の解読、日本兵を載せた船がインドシナに向かったとの誤報、日本側の攻勢準備行動の露呈があり、これらが決定打となってルーズベルトがハルに対し、日本により厳しい案を通知するよう指示したと日本では言われている。これに関連して、指示した日は日米の会談がある当日の朝であったことなどから、インドシナの出来事がおきなければ、より妥協的な案が示され、日米開戦が避けられたという意見もある。なお、インドシナに関する誤報は米海軍が意図的に事実と異なる報告を大統領にしていたという説がある。
この提案は日本への提示前に国務省によってまとめられたが、原案段階ではハル案とホワイト案があり、後者の原案を基にまとめられた。
[編集] 脚注及び参照
- ↑ ウィンストン・チャーチル, 『第二次世界大戦』, ISBN 4309462138 -- ノーベル文学賞受賞
- ↑ コミンテルン第6回世界大会綱領には、共産革命の実現のために帝国主義戦争にてブルジョワ国家を自己崩壊させ内乱を招くこと云々とあり、革命のために戦争をも利用せんとする謀略の意志が示されている。関連書籍:三田村,『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義』,1987,ISBN 4915237028
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- インターネット特別展 公文書に見る日米交渉(国立公文書館アジア歴史資料センター)
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