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朝鮮戦争 - Wikipedia

朝鮮戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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韓国での表記
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各種表記
ハングル 한국전쟁/육이오 사변
漢字 韓國戰爭/六二五 事變
平仮名
(日本語読み仮名)
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片仮名
(現地語読み仮名)
ハングクチョンジェン/ユギオ・サビョン
ラテン文字転写: {{{latin}}}
ローマ字転写 Hanguk-jeonjaeng/6・25(Yugio) sabyeon
北朝鮮での表記
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各種表記
チョソングル 조국해방전쟁
漢字 祖國解放戰爭
平仮名
(日本語読み仮名)
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片仮名
(現地語読み仮名)
チョグッケバンジョンジェン
ラテン文字転写: {{{latin}}}
ローマ字転写 Chogukhaebang chŏnjaeng

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦、事実上終結)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。

目次

概説

韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、オーストラリアイギリスベルギー軍などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または志願軍。実質的には中国軍)が加わった。なお、日本では「朝鮮戦争」と呼んでいるが、韓国では韓国戦争韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、北朝鮮を支援した中国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカではKorean War (朝鮮戦争)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから別名アコーディオン戦争とも呼ばれる。

※本稿では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。

背景

米ソの半島分割占領

ヤルタ会談における英米ソ首脳
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ヤルタ会談における英米ソ首脳

1945年8月15日大日本帝国ポツダム宣言を受け入れて連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると、朝鮮半島日本ポツダム宣言に則り、朝鮮半島の統治権を放棄することとなり、朝鮮総督府の元、独立準備委員会の設立、朝鮮半島の速やかなる独立を計ったが、その後進駐してきた連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させれてしまう。

1945年8月15日大日本帝国ポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏することで、朝鮮半島は植民地支配から解放された。

日本の敗戦による解放は、与えられた「解放」であった。独立を目指す諸潮流のいずれかが主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった[2]。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[3]

朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ合衆国における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは共産主義者だったが、徹底して弾圧された。

朝鮮国内では、少なくとも戦時中の報道による情報だけでは敗戦がそのまま植民地からの解放を意味すると考える余地がなかったにもかかわらず、玉音放送によって「解放」のニュースがすぐに飛び交った。これに対して朝鮮人の対応は早かった。

国内では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは宋鎮禹が湖南財閥をバックに代表的な存在になった。にもかかわらず建国準備委員会は朝鮮においてもっとも広く組織された団体だった。

建国準備委員会は9月6日朝鮮人民共和国の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。李承晩が反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。

建国準備委員会が、実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮支配から撤退したあとに行政機構として機能したとする者もいれば、ある日突然当事者とされたことに対応してできた組織であることを強調し実際に朝鮮人民の意思は反映されなかった点を強調する者もいる。

38度線以北では関東軍の壊走によってソ連の進駐が予定よりも早く進んだ。各地で自発的に生まれたと言われている人民委員会は早々にソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が早すぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも、朝鮮人運動にはさまざまな潮流があったと言われているが詳しいことはわかっていない。

このようにして朝鮮国内の足並みがそろいきっていないなかに、アメリカに亡命していた李承晩や、重慶に亡命してた大韓民国臨時政府金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の金日成たちなど、さまざまな亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。

その後、信託統治案を巡る左右対立に、米ソの対立も反映され、結果的には、米軍占領下ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもソ連が推す金日成がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。

信託統治

1945年12月には、モスクワでアメリカ・イギリス・ソ連の外相会議が開かれ(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。戦時中のテヘラン会談では、ルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも20年から30年は信託統治するべきと主張していた。彼は終戦前に死に、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は座礁した。

米ソ対立

米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランスインドシナベトナムホー・チ・ミンらに率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も赤化が目前であった。これらの冷戦の激化は朝鮮半島にも暗い影を落とした。

北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月21日朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。

同年11月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、できたばかりの国際連合に提訴したものの、翌1948年2月8日朝鮮人民軍を創設し、2月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を宣言、アメリカはこれを激しく非難した。金日成は、3月には南半部への送電を停止(当時、南半部は電力を日本統治時代に山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件)。

分断の固定化と対立

李承晩(左)
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李承晩(左)
南北の分離独立

1948年8月13日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の国境となった。

その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者であるヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政をとき、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成した。

同じころ、地続きの中国大陸では国共内戦の末、毛沢東率いる中国共産党が勝利し、10月1日中華人民共和国が成立した。アメリカは蒋介石国民党を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んで援助を止めていた。南半部では11月国家保安法が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。

1950年1月12日、アメリカの国務長官ディーン・アチソンが「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン沖縄~日本~アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない。」と発言し(アチソンライン)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを西側陣営の南半部(韓国)放棄と一方的に受け取った。

アメリカは同月、韓国との間に米韓軍事協定を結んでいた。これは李承晩個人の逆恨み(彼は自称上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕されており、その際厳しい取調べを受けたと言う。しかし、後に釈放され、渡米している)に由来する、日本に対する報復的、敵対的行動(竹島領有宣言など)を行い、国家統一、軍の北進を訴える李承晩を押さえ込むもので、韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐ為、わずかな兵力しか許さないというもので、アメリカは北朝鮮の南進については楽観的で、むしろ韓国が北に攻め込むことを恐れていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、わずか5ヵ月後に大間違いであったことに気付かされる。

スターリンによる侵攻容認

これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、毛沢東が南進に積極的であるとスターリンに示したり、また逆にスターリンが積極的であると毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。

中華人民共和国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵略支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵略計画を知らされた事に不満の声もあった。

北朝鮮による侵攻開始

6月25日に、朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、南半部への侵攻を開始した。このことをまったく予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は大きなショックを受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けている。

戦争の経過

朝鮮半島を南北に移動する戦線
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朝鮮半島を南北に移動する戦線

北朝鮮の奇襲攻撃

開戦直前の南北の軍事バランスは、北の有利であった。韓国軍は全土で8個師団6万5000人程度で、米韓軍事協定によって重装備が全く施されていなかったのに対し、朝鮮人民軍は陸軍が歩兵2個軍団10個師団と、第二次世界大戦時最強のソ連製T-34/85戦車150両を配した第105戦車旅団で合計兵力18万3000人、海軍は艦艇30隻と兵力1万4000人、空軍は120機のソ連製戦闘機と兵力2万人で、総計すると約22万人に及ぶ軍隊に成長していた。

1950年6月25日午前4時、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。韓国では前日に陸軍庁舎落成式の宴席があり、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、李承晩への報告は、奇襲後6時間たってからであった。しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。

一方、米軍の連絡系統は俊敏に機能し、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、ミズーリ州にいたトルーマン大統領も24日午後10時に報告を受け、国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、彼の目は常に欧州へ向いていた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。大統領は米国市民の韓国からの退去と、マッカーサーに韓国軍への武器弾薬の補給命令、海軍第七艦隊の台湾への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切れなかった。

6月27日に安保理が開催され、北朝鮮の行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0で採択した。拒否権を持つソ連は、この年の1月から中国政府認証問題に抗議し、理事会をボイコットしていた。決議の後、ソ連代表のヤコブ・マリクは国連事務総長トリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンにボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気づいていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。

この間、韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都水原に遷都、ソウルは6月28日に陥落した。このソウル陥落の際、命令系統が混乱した韓国軍は避難民もろとも漢江にかかる橋を爆破した。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍は士気もさがり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。

韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、韓国軍は建国後に新たに編成された師団ばかりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の訓練が完了していなかった。また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装備は米軍から供給された物が中心であったが軍事協定によって重火器が不足しており、特に戦車を1台も装備しておらず航空機もほとんど装備していなかった。その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れとなった。

ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は何故か突然南進をやめ、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、今をもっても、なぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている(北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していたという一説もあるが、明確な根拠はない)。

米軍の出動

前線を視察するマッカーサー
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前線を視察するマッカーサー

マッカーサーは6月29日に専用機「バターン号」で水原に入り、自動車で前線を視察したが、敗走する韓国軍兵士と負傷者でひしめいていた。彼も70歳を超えていたが、自ら戦場を歩き回った。マッカーサーは派兵を韓国軍と約束し、その日の午後5時に東京へ戻った。彼は本国の陸軍参謀総長に在日米軍4個師団の内、2個師団を投入するように進言したが、大統領の承認は得ていなかった。さらにマッカーサーは、本国からの回答が届く前に、B-29を日本から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港空襲した。トルーマンはマッカーサーに、1個師団のみ派兵を許可した。

このとき、米陸軍の総兵力は59万2000人だったが、これは1941年の半分に過ぎなかった。第二次世界大戦に参戦した兵士はほとんど退役し、5年の平和によって多くの兵士は実戦を経験していなかった。

一方の韓国軍は、7月3日蔡秉徳日本陸士49期卒・元日本陸軍少佐)が参謀総長を解任され、丁一権(日本陸士55期)が新たに参謀総長となり、混乱した軍の建て直しに当たっていた。しかし、派遣された米軍先遣隊は7月5日烏山の戦いで敗北した。

国連軍の苦戦

アメリカ軍兵士
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アメリカ軍兵士

6月27日国連安保理は韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心としてイギリスオーストラリアなども加わった国連軍を結成した(詳しい参戦国は後述する)。朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には国連軍ではなく、多国籍軍の一つである。

しかし、準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や政治犯などを多数殺害した(保導連盟事件)。この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い(離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は解放記念日の8月15日までに統一するつもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。

仁川上陸作戦

マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、数度にわたる牽制の後の9月15日仁川に国連軍を上陸させる事に成功した。大きな転換点の1つとなる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)である。これに連動したスレッジハンマー作戦で国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。度重なる攻勢によって限界に達していた北朝鮮軍は敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪回した。この時敗走した北朝鮮兵の残党が韓国内でゲリラ化し、国連軍は悩まされた。

38度線越境と中国参戦

10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中国に参戦を要請。中国の国務院総理(首相)周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告。だが10月9日には国連軍も38度線を超えて進撃した。

これまで参戦には消極的だった中国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。なお、「志願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍彭徳懐を司令官とし、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。

10月20日、国連軍は北朝鮮の臨時首都・平壌(※北朝鮮は、1948年~1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧、敗走する北朝鮮軍を追い、中国軍の派遣に気付かずになおも進撃を続けた。先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれた。だが、10月から朝鮮への進入を開始した中国軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、38度線近くまで潰走した。

初のジェット機同士の空中戦

MiG-15bis(ポーランド製のLim-2)
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MiG-15bis(ポーランド製のLim-2)
F-86A
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F-86A

また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15が投入され、アメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のF-84F-80との間で史上初のジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。MiG-15は当初、国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化していたF-84やF-80に対しても有利に戦いを進めていた(俗に言う”ミグ回廊”の形成)が、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機F-86Aを投入した。

初期のMiG-15は機体設計に欠陥を抱えていたこともありF-86に圧倒されたものの、改良型のMiG-15bisが投入されると再び互角の戦いを見せ始める。それに対しアメリカ軍も改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入し再び優位に立った。最新鋭機であり、数がそろわなかったF-86の生産はアメリカ国内だけでは賄いきれず、隣国カナダカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。

なお、北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国軍パイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したといわれている。貧弱な訓練しか受けられないまま参戦したこれらの北朝鮮軍に対し、十分な訓練を受けたアメリカ空軍のF-86が北朝鮮軍のMiG-15を圧倒し、最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になった(この撃墜率には諸説あり、アメリカでは以前この倍以上の撃墜率が主張されていた。一方ロシアでは2対1の損失であったとされているが、いずれにしてもF-86の圧勝に終わった)。

膠着状態に

戦時下の韓国国民
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戦時下の韓国国民

MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回し、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや壊滅し、2月までに忠清道まで退却した。だが近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていた中国軍は度重なる戦闘ですぐさま消耗し、攻撃が鈍り始めた。

それに対し国連軍はようやく態勢を立て直して反撃を開始した。3月14日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となる。マッカーサーは第二次世界大戦以前に日本が一大工業地帯として築いた中国東北部(満州)をB-29とB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために補給路を無効化するために放射性物質の散布まで検討された(原子爆弾を使おうとしたともされる)。しかし、中国本土攻撃や、中国共産党と対立していた台湾の国民党軍の朝鮮半島への投入など、戦闘状態の解決を模索していた国連やワシントンと政治的に対立する発言が相次ぎ、戦闘が中国本土まで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることをことを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを解任し帰国させた。

停戦

この後、ソ連の提案により停戦が模索され、1951年7月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。1953年に入ると、米国では1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死に、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。

7月27日板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。(調印者:金日成・朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐・中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク・国際連合軍司令部総司令官。李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった。)しかし、板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。なお、その後両国間には中立を宣言したスイススウェーデンチェコスロバキアポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が置かれた。中国義勇軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958年10月26日に完全撤収した。

板門店
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板門店

犠牲と影響

ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約20万人、米軍は約14万人、国連軍全体では36万人が死傷した。一方、米国の推定では、北朝鮮軍が約52万人、中国義勇軍は約90万人が死傷したとされており、毛沢東国家主席の二人の息子も戦死した。一般市民の犠牲者は100万人とも200万人とも言われ、一説には全体で400万人の犠牲者が出たとされる。

また、夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された、というような離散家族が多数生まれた。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となったうえ、その後双方の政権(李承晩金日成)が独裁政権として安定することとなった。

また、一度戦火を交えてしまったために両国とも互いの主権を認めず、北朝鮮の地図では韓国が、韓国の地図では北朝鮮地区が自国内として記載されている(行政区分や町名、施設のマークなどは記載されておらず、日本地図で言う竹島北方領土のような状態である)。ここが分断されながらも戦火を交えることがなかったこともあり、相互に主権を確認し、国交樹立、国際連合加盟まで至った東西ドイツとの決定的な違いである。

現状

南北の緊張は2000年南北首脳会談でアピールされたように、停戦当初に比べれば多分に緩和されたが、双方の和解は行われておらず、未だに準戦時体制である。従って国際法上では未だに「休戦」つまり戦争は継続中であり、一時戦闘を中止しているだけと言う事で、戦争は終結していない状態である。

政治状況

韓国

韓国は停戦後、政治の混乱によって復興が遅れたが、朴正煕大統領米国日本から多額の援助を獲得して以来、急速な復興と成長を成し遂げ、『漢江の奇跡』と称された。朴の政治手法は開発独裁と呼ばれるものであったが、彼以降の30数年で、アジア有数の工業国となり、北朝鮮との経済格差は朴の時代に2倍、全斗煥の時代には3倍に開いた。全の時代には独裁に対抗する市民や学生らの運動が高まり、政治的民主化が促進された。ソウルオリンピック1988年)に成功した時点の北との経済格差は4倍に拡大した。その後も深刻な経済危機を克服して、日本とともにFIFAワールドカップ2002年)の開催を実現するまでに国際社会の信用を獲得している。また、長らくソウル北部は侵攻に備えて発展から取り残されてきたが、緊張緩和によって急速に住宅地として整備されている。また、戦車の侵攻を防ぐ目的で設けられていた戦車止めも取り壊されつつある。一方、男子には一定の徴兵期間が義務として設けられているほか、数ヶ月に一回は各地方・都市で空襲に備えた民間防衛訓練(民防)が行われている。

北朝鮮

北朝鮮は金日成が国内派閥の粛清を進めて、個人崇拝を強化した独裁政権が確立し、政治の安定が図られた。中ソ対立のあおりを受けて自主を掲げる主体思想を前面に掲げた国づくりを目指したが、対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを繰り返し、しばしば外国民の拉致を行った。冷戦終結による東欧革命ソ連崩壊、金日成死去と立て続けに国家を揺るがす事態に遭遇した。息子の金正日は一党独裁(朝鮮労働党以外にも政党はあるもののそれらは衛星政党である)による権力の世襲を行い、「先軍政治」と呼ばれる軍優先の社会を作り出した。政権初期の自然災害によって飢餓が生じたが有効な手立てを打てず、餓死者などが数多く出たと考えられている。2000年ごろから中国を手本にした改革を行っているが、かえって貧富の格差が広がった。また、偽札や覚せい剤の製造など国家ぐるみの犯罪と人権蹂躙を諸外国から非難されている。

軍事バランス

韓国

韓国軍の装備はF-16戦闘機K1A1戦車等、いくつかの問題点も残るもののおおむね現在の西側先進国の水準である。徴兵制である為、人員上の問題はない。ただし、韓国首都ソウル軍事境界線に近く、北朝鮮から侵攻しやすいほか、軍事境界線の北側からでも北朝鮮が保有しているスカッドミサイルや長射程砲の射程内に収まる事が弱点である。

男子に対してのみ一律の徴兵制が強制されている。この為に国外逃亡や良心的兵役拒否が後を絶たない。2004年には有名芸能人が徴兵忌避をしていた事が発覚した。韓国プロ野球リーグ全選手の一割以上に及ぶ51名の選手が警察の捜査対象となった徴兵忌避問題も発生した。


北朝鮮

北朝鮮の軍備はソ連からの供与時代のものが主で、現世代のものは経済的失敗や、ロシア資本主義化によりほとんどないと言う。2003年3月に公海上でアメリカ空軍のRC-135Sミサイル監視機「コブラボール」を2機のMig-29戦闘機が追尾する事件が発生したが、北朝鮮で動かせるMig-29はこれが最大限であろうと推測されている。各国の偵察衛星にも写る北朝鮮機はMig-15のような古典機ばかりで、部品調達の問題もあり実戦には耐え難い状況である。車両も同様で、一世代前のT-72でさえ満足に配備されておらず、大戦後第1世代であるT-54が主力で、一部にはT-34も残っているといわれる。

万一、戦闘状態が再燃した場合、ゲリラ戦術を取ってソウル周辺の短期間・限定的な戦闘に持ち込めれば北朝鮮がやや有利であるが、逆に中~長期・総力戦状態に移行した場合、韓国が圧倒的有利である。中国あるいはロシアが北朝鮮を支援する可能性も多分に残っている一方、両国とも対米全面戦争を行う力はもっておらず、例え韓国側が先制攻撃したとしても介入は極力避けるという推測もある。また、中国にとっては、北朝鮮が崩壊して韓国によって朝鮮半島が統一されてしまうと、米国の軍隊ならびに基地が北京と目と鼻の先まで近づくことになり、安全保障上ならびに台湾海峡の軍事バランスにも大きな影響を与える可能性が高いのみならず、大量の難民が鴨緑江を超えて自国内に流入する恐れもあり、体制維持を望んでいると思われる。

参戦国一覧

その他

日本への影響

朝鮮戦争は、第二次世界大戦終結後アメリカを中心とした連合国の占領下にあった日本の政治・経済・防衛にも大きな影響を与えた。

政治的、防衛的には北朝鮮を支援した共産主義国に対抗するため、日本の戦犯追及が緩やかになったり、日本を独立させるためのサンフランシスコ平和条約締結が急がれ、1951年9月8日日米安保条約と共に締結された。さらに警察予備隊(のちの自衛隊)が創設されたことで事実上軍隊が復活した。

経済的には、国連軍の中心を担っていたアメリカ軍が武器の修理や弾薬の補給・製造を依頼したことから、工業生産が急速に伸び好景気となり、戦後の経済的復興に弾みがついた。日本では以後、このような状態をさして特需と呼ぶようになる(詳細は朝鮮特需を参照の事)。

また、戦火を逃れるため日本に流入した難民は20万~40万人とも言われる。

日本特別掃海隊

朝鮮戦争には、進駐軍の指示により、日本の海上保安庁掃海部隊からなる特別掃海隊も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。

派遣の経緯

開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始しており、これを認めた米国海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じた。ところが、国連軍編成後も国連軍掃海部隊は極わずかであった。

元山上陸作戦を決定した国連軍は、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を求めることに決める。10月6日米極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の掃海艇使用について、文書を以て指令が出された。

1945年9月2日の連合国最高司令官指令第2号には、「日本帝国大本営は一切の掃海艇が所定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷連合国最高司令官の指定海軍代表者により指示せらるる所に従い除去せらるべし。」とあり、進駐軍の命令により海上保安庁は朝鮮水域において掃海作業を実施する法的根拠は一応存在していた。

もっとも、朝鮮水域は戦闘地域であり、そこで上陸作戦のために掃海作業をすることは戦闘行為に相当するため、占領下にある日本が掃海部隊を派遣することは、国際的に微妙な問題をはらんでいた。また、国内的には、海上保安庁法第25条が海上保安庁の非軍事的性格を明文を以て規定していることから、これまた問題となる可能性があった。そこで、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗のE旗を掲げることが指示された。

吉田茂首相の承認の下、米国海軍の指示に従い、10月16日に海上保安庁は掃海部隊を編成した。 戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、大東亜戦争後の我国の初めての参戦となった。 しかし、国会承認もなしに掃海艇を派遣していた事実が明るみになると、憲法上の兼ね合いから当時の国会において問題となった。

部隊編成

特別掃海隊の編成は次の通りである。

  • 総指揮官:田村久三(航路啓開本部長、元海軍大佐
  • 第1掃海隊指揮官:山上亀三雄運輸事務官(第7管区航路啓開部長、元海軍中佐
  • 第2次第1掃海隊(11月15日編成)指揮官:花田賢司運輸事務官
  • 第2掃海隊指揮官:能勢省吾運輸事務官(第5管区航路啓開部長、元海軍中佐)
    • MS03艇長:大西慶治
    • MS06艇長:有山幹夫
    • MS14艇長:石井寅蔵
    • MS17艇長:松本嘉七
  • 第2次第2掃海隊(10月25日編成)指揮官:石野自彊運輸事務官
  • 第3掃海隊指揮官:石飛矼運輸事務官(第9管区航路啓開部長、元海軍中佐)
  • 第4掃海隊指揮官:萩原旻四運輸事務官(第2管区航路啓開部長)
  • 第5掃海隊(10月29日編成)指揮官:大賀良平運輸事務官(元海軍大尉

元山掃海作業

日本掃海隊は10月10日に元山沖に到着した。10月12日午前から掃海作業に着手し、眼前で米軍の掃海艇2隻が蝕雷によって沈没する光景を目撃しつつも、3個の機雷を処分する。米艦隊の陸上砲撃のため10月16日まで掃海作業は中断され、再開された10月17日に日本掃海艇MS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名(烹炊長中谷坂太郎)及び重軽傷者18名を出した。触雷を回避するために日本隊は前進任務部隊指揮官スミス(Allan E. Smith)米国海軍少将に作業手順の改善を要求した。喫水の浅い小型艇(en:LCVP)が先行して海面近くの機雷を掃海した後、掃海艇が進む方式を採るよう求めたのだ。しかしスミス少将からの「指示に従わねば砲撃も辞さない」旨の指示を受け(解雇/fireを砲撃と誤訳した説あり)、能瀬隊のMS3隻は日本帰投を決定する。能瀬隊は10月20日に下関に到着した。

10月20日に石飛隊のMS5隻は元山沖に到着し、同地に残存していたPS3隻を同隊に編入して掃海作業を行う。

結局、元山における日本特別掃海隊は、10月10日から12月4日までの掃海作業において、能瀬隊が処分した3個を含め計8個の機雷を処分する成果を挙げた。

元山以外の掃海作業

  • 仁川掃海作業
    10月7日に下関を出港した山上隊は10日に仁川港外に到着し、掃海作業を行う。同隊は11月1日に海州を出発し、3日に下関に帰投した。
  • 鎮南浦掃海作業
    11月7日に、鎮南浦掃海任務隊(アーチャー(Stephen M. Archer)米国海軍中佐)に、日本の石野隊が加わる。鎮南浦における第2掃海隊は2個の機雷を処分する成果を挙げる。石野隊は中国人民志願軍の侵攻間際まで活動を続けた。
  • 群山掃海作業
    萩野隊は10月17日に下関を出港し、19日に群山に到着して、掃海作業を実施する。萩野隊は3個の機雷を処分する成果を上げる。MS30号が座礁して沈没するが、死傷者はなかった。

派遣後

12月15日、米国極東海軍司令官は文書を以て掃海作業の終了を指示する。これにより日本特別掃海隊は解隊される。

特別掃海隊は、1950年10月から12月15日にかけて、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分する成果を挙げる。

この作業により、海運と近海漁業の安全確保を得たと同時に、アメリカが制海権を確保する為に役立ち、後の朝鮮戦争の戦局を左右する事になる。しかし、極秘である筈のこの作戦はソ連や中国からの情報提供を受けた日本社会党日本共産党にすっぱ抜かれ、第10回国会以降吉田茂首相への攻撃材料となった。

なお、米国海軍の指示に従わず帰投した能勢事務官は1951年1月に運輸事務官を退職することとなるが、1952年7月に海上保安官として採用され、同年8月西部航路啓開隊司令に任じらる。その後は、海上自衛隊に入隊し横須賀地方総監部副総監等を歴任し、昭和34年に退官する。

また、第5掃海隊指揮官の大賀良平運輸事務官は、その後も海上警備隊員警備官海上自衛官に進み、昭和52年に海上幕僚長となる。

注釈

  1. 「国際内戦」と呼ぶ論者もいる(小此木政男、他)。
  2. 金九は「解放」のニュースに接して激しく嘆き、自ら独立を勝ち取ることができなかったことが今後長きに渡って朝鮮半島に苦しみをもたらすだろうと述べたと言われている。
  3. 李景珉『朝鮮現代史の岐路』平凡社選書<164>、1996年。

関連項目

関連作品

参考文献

  • 大久保武雄『海鳴りの日々-かくされた戦後史の断層』海洋問題研究会、1978年。
  • 神谷不二『朝鮮戦争』(中公新書)
  • 佐々木春隆『朝鮮戦争 韓国編』上中下(原書房)
  • 陸戦史研究普及会『朝鮮戦争』全10巻(原書房)
  • A・V・トルクノフ『朝鮮戦争の謎と真実』(草思社)
  • 和田春樹『朝鮮戦争全史』(岩波書店)
  • 朱建栄『毛沢東の朝鮮戦争-中国が鴨緑江を渡るまで』(岩波現代文庫)
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫)
  • 赤木完爾編『朝鮮戦争-休戦50周年の検証・半島の内と外から』(慶応義塾大学出版会)
  • 軍事史学会編『軍事史学 特集朝鮮戦争』第36巻1号通巻141号(錦正社)
  • 萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文春文庫)
  • 白善ヨプ『若き将軍の朝鮮戦争』(草思社)
  • 『歴史群像シリーズ 朝鮮戦争』上下(学研)
  • 葉雨蒙『黒雪 中国の朝鮮戦争参戦秘史』(同文舘)

外部リンク

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