ベニート・ムッソリーニ
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ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini, 1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家。ファシスト党の党首でありファシズムの創始者として知られる。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
1883年7月29日、イタリアのフォルリ近郊のプレダッピオという小村に生まれた。鍛冶屋の父、アレッサンドロと小学校教師の母、ローザ・マルトーニの長男であった。父がバクーニン主義的なアナキスト系の社会主義者だったため多くの影響を受けたという。父は彼をメキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・ファレスにちなんでベニート、親しく、尊敬していた国際主義的な革命家、アミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、バクーニンの腹心でもあり後にイタリア社会党の創設者、アンドレア・コスタにちなみ、アンドレアと名付けた。
父は教養はあったが商売人としての才能がなく、家系は貧しかった。ムッソリーニは粗食であったと言われるが、それは貧しい少年時代に身についた習慣だった。9歳のときに厳格なカトリック寄宿学校に入学、この学校では生徒の身分ごとに待遇が異なっていたらしく、彼はここで初めて社会の不公平さを実感したという。彼は学校の規則をよく破り、乱暴で学校で暴力事件をおこしたこともあり、危うく退学になりかけたが、どうにか卒業できた。卒業後は学校の教師を目指して師範学校に入学する。ここでもまた暴力沙汰をおこしていたが、成績は非常によかった。また体格がよくスポーツもよく出来た。
[編集] 青年時代 - 社会主義者時代
1901年に師範学校を卒業。臨時教師の職に就くが狭い地方に閉じこもっているのがいやだったらしく早々に切り上げてスイスへ出稼ぎに行ってしまった。スイスでの生活はうまくいかず、浮浪者の罪で国外追放されるが、その後も何度もスイスへ入国している。そのスイスで亡命社会主義者と接触。1904年にイタリア社会党に入党し農民扇動者として度々当局に拘束されながらもイタリア社会党内でやがて頭角を現し、1911年~12年のイタリア-トルコ戦争に対する反戦活動や改良主義批判が認められて党中央の日刊紙『アヴァンティ!』(前進)の編集長に抜擢された。
彼はしだいに階級闘争よりも民族主義的な国民の団結こそが社会に階層を越えた繁栄をもたらすと考えるようになり、戦争がイタリア人に強い民族意識をもたらす事になると考えていた。第一次世界大戦が勃発すると反戦を主張する社会党に反して強く参戦を主張した。フランスの資金援助を受け日刊紙『ポポロ=ディタリア』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開したため、社会党を除名された。社会党を除名された後も、左派勢力の一員であるという立場は暫く維持し「革命的参戦運動ファッショ」、「国際主義参戦ファッショ」と革命や国際主義という名を冠した組織で参戦運動を展開。これが戦後の「戦闘者ファッショ」の土台となる。
他の参戦論者達の例に習い、ムッソリーニもイタリアの参戦後兵士として従軍した。彼は自分から望んで最前線に配属され軍曹まで昇進したが手榴弾の爆発に巻き込まれ重症をおいその後遺症に一生悩まされることになった。大戦後のイタリア国内の混乱と社会主義運動の高揚に危機感を抱き、復員軍人や旧参戦論者を結集し、1919年3月23日にミラノで「戦闘者ファッショ」を組織し社会党や共産党と対立し武力をともなった衝突を繰り返した。
1920年9月の革命勢力の退潮に乗じたムッソリーニは黒シャツ隊と呼ばれる行動隊を駆使して勢力を伸ばし、1921年までにイタリア北部および中部で勢力を拡大し組織は25万人の規模に膨張し選挙に参加して議会で35議席を獲得するまでになった。
[編集] ローマ進軍まで
1921年11月のローマ大会で国家ファシスタ党にファッショを改組して統領に就任した。ついで1922年10月28日に始まる数万人のファシスト武装隊のローマ進軍を背景として、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニに組閣を命じ、以後1943年までの約20年にわたるファシスト政権時代に入る。スペインでは失敗したファシストによる立憲君主制維持は、ここイタリアでは成功したのである。
[編集] 首相時代
1923年の選挙法改正し選挙で25%以上の得票率を得た第一党が議会の議席の3分の2を獲得するとして権力を集中し強化した。1925年の労働組合の解散・言論出版取締令の制定した。1926年にムッソリーニ暗殺未遂事件が多発したため首相の暗殺未遂には死刑を適用するようになった。
1927年には控訴が認められない国家保護特別裁判所を設置し政敵、特に共産党を弾圧した。こうして独裁政治の基礎が固められ、1928年9月、大評議会が国家の最高機関として認められ、権力がムッソリーニに集中。独裁体制が完成した。
かれはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱え、古代ローマ帝国の復興をめざしたが、1929年の世界恐慌の波及による社会経済の混乱を打開するために着手した膨張主義政策の第一歩は1935年10月3日に開始したエチオピア侵略であった。ちなみにエチオピア戦争の際、イタリアは当時でも禁止されていた毒ガス兵器を使用した。このことを国際連盟で追及されると、イタリアは「エチオピア人は文明人と認められない」という理解に苦しむ理由で反論したという。
国内は世界最高の経済成長を記録し、一時過剰であったストライキが衰退し、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して特にマフィアの活動は押さえ込まれ、犯罪件数は減少した。そのため、民主主義国家の人々の中にもムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者と称える動きがあり、チャーチルも偉大な指導者の一人と高く評価していた。
しかし独裁政治により、国民は生活が統制され、言論も制限されるようになった。しかしナチス・ドイツやソビエト連邦に比べれば統制はずいぶん緩いものであった。
[編集] 対外戦争
ドイツのアドルフ・ヒトラー総統との関係では、1934年7月25日のドルフース首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニはブレンナー峠にイタリア軍を集結して反対意志を示したことや、ヒトラーと会見した際に「あんな奴は嫌いだ」と述懐していることで明らかなように、最初は決して友好的とはいえなかった。
しかし、エチオピア戦争を契機として、親イギリス派の反対を退けて対ドイツ接近政策に転換。1936年7月18日に発生したスペイン内乱にも介入した。1939年5月22日、ムッソリーニは女婿のチャーノ外相の反対を無視して鋼鉄協約と呼ばれる独伊軍事同盟を締結し、ドイツへの従属関係を深めた。この為ムッソリーニは、ミュンヘンのドイツ人からイタリア大管区長(ガウライター)と皮肉られることになる。
フランスの敗北が決定的になった1940年6月10日、イタリアはイギリス・フランスと開戦、同年9月27日に日独伊三国同盟を調印してドイツと日本の密接な関係を確認したが、ギリシャへの侵攻にも失敗するなど、ムッソリーニの軍事指導は振るわず、日ましに不利になった戦局を前にして国民の離反は増大した。1943年7月、連合国軍のシチリア上陸を契機として支配層内部のムッソリーニ批判が顕在化し、ムッソリーニは軍部のみでなく、ファシストの指導者のなかでも孤立していることが明白になった。
[編集] 逮捕から死まで
古参ファシストの一人でもある元駐英大使のディーノ・グランディ伯爵は王党派でもあり、ドイツとの同盟と対イギリス戦争に反対する有力者であったが、7月25日、ムッソリーニの責任を追及した大評議会はグランディの動議を可決し、ムッソリーニは失脚、同日逮捕された。
後任として国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の任命したピエトロ・バドリオ元帥の新政府は9月8日に連合国に無条件降伏した。幽閉中のムッソリーニは同月12日にムッソリーニへの友情を持ち続けていたヒトラーの命を受けたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニーに救出され、一時、北イタリアにナチスの支援を受けた“イタリア社会共和国”の樹立を宣言したが、1945年4月、連合国軍の進撃を避けスイスに脱出する途中、コモ湖畔の小村でレジスタンス運動のパルチザンに発見され、同月28日に銃殺された。その死体は同行していた愛人クラレッタの死体とともにミラノの広場にさらされた。
[編集] ムッソリーニ時代の軍事
独裁権を握ったムッソリーニは軍備の拡張を大いに進めた。大空中艦隊構想や大型戦艦建造の着手、陸軍装備の増強などである。当時イタリアは第一次世界大戦で培った経験があり、またムッソリーニ自身も革命を成功させたという自負があり、イタリアの軍備は目まぐるしく増強されたが、イタリア軍は装備面、人材面でも実に質が悪く、その事実は第二次世界大戦序盤の諸戦闘で早くも露見したのであった。
しかしながら、戦果を挙げた部隊も多く、どの戦線でも敗北したかのように伝えられているが、決してそうではなかった。
[編集] 人柄・性格・家族
ムッソリーニは行動的で粗野な反面、繊細な神経の持ち主で、他人を信用せず、友人も作らず常に孤独であった。その反面女性関係は派手で、関係を持った女性は数百人に上るという。その最期の時も傍らには愛人クラレッタ・ペタッチがいた。また大変な勉強家で、英仏独語をマスターしたほか、ブランキからシュティルナーまで哲学・思想・芸術にも造詣が深く、かなりの教養の持ち主であった。
他にも愛人は数多くいたものの、妻ラケーレとの間には3男2女をもうけた。長女のエッダは友人の息子でもあるガレアッツォ・チャーノと結婚した。長男のヴィットーリオは父健在時からジャーナリストとなった。三男のロマーノは戦後、ジャズピアニスト・ジャズ評論家として活躍し、2006年2月に死去した。
ロマーノはソフィア・ローレンの妹アンナ・マリア・シコローネと結婚して、女優で国会議員となったアレッサンドラをもうけている。
[編集] 語録
- 社会主義とは、ペテンであり、喜劇であり、幻想であり、ゆすりである。
- 他人を信じることは良いことだが、信じないのはもっと良いことである。
- 血のみが歴史を前進させる。
- 人々は自由に飽き飽きしているというのが真実である。
[編集] 書籍
- ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』(中央公論社)