南雲忠一
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南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年3月25日 - 1944年7月8日)は、日本海軍の軍人、海軍大将。山形県米沢市出身。米沢尋常中学興譲館を経て、海兵36期。
[編集] 経歴
旧米沢藩士の次男としてうまれる。
水雷戦術の第一人者として知られ、軽巡那珂、重巡高雄の艦長や軍令部の参謀、課長、海軍大学校教官などを歴任。艦隊派(軍縮条約反対派)の論客としても名を馳せ、山本五十六や井上成美と激しく対立している。
開戦時は第一航空艦隊司令長官。1941年12月8日未明(現地時刻は7日朝)にハワイオアフ島真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾る。 その後は南方方面の攻撃を担当しており、インド洋での戦闘等での勝利によりイギリス東洋艦隊の母港を後方に下げることに成功した。
1942年6月6日 ミッドウェー海戦に参加(赤城に座乗)。しかし作戦内容がアメリカ軍に事前に察知されていた事もあり、主力の空母4隻を失う大敗を喫する。作戦失敗後の処遇は山本五十六連合艦隊司令長官預かりとなり、山本は復仇の機会を与えるとして1942年7月14日 空母機動部隊として再編成された第三艦隊司令長官に南雲を充てた。
南太平洋海戦では機動部隊を率いて敵空母ホーネットを撃沈、久しぶりの勝利を収めることになる。この海戦においてはミッドウェーでの敗戦を教訓とし、第二艦隊を前衛に配置して敵の攻撃を引き付け、第二次攻撃隊は爆装雷装を行わない状態で待機させるなどの対策も講じていた。このときは戦力的には日本側が優位であったが、空母2隻を損傷し、熟練搭乗員や幹部搭乗員を多数失ったため、本土に戻らざるを得なくなっている。
海戦後に呉鎮守府司令長官を経て第一艦隊司令長官に転出。第一艦隊は1944年2月25日に解隊されたため、南雲は最後の第一艦隊司令長官となった。
1944年3月4日に中部太平洋方面艦隊司令長官としてサイパン島に着任したが、発令時に既に死を覚悟していたと言われている。同年6月15日にアメリカ軍がサイパン島に上陸してくると迎撃戦闘の指揮にあたり、約20日間の抗戦の末サイパン島守備軍は玉砕、南雲も戦死した。戦死時の状況には諸説あり、7月6日に同艦隊参謀長の矢野英雄少将らと自決あるいは同日の最後の突撃に参加して重傷を負い自決したとも、7月8日に参謀長の介錯により自刃とも言われる。享年57。
死後海軍大将に昇進。
[編集] 評価
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の主将として余りに有名な提督であり、その功罪については論議の絶えない人物でもある。彼に対する一般的な評価としては、人命を重視し味方に損害を被らないようにする戦闘を行うのには優れていたが、従来の戦闘とは桁違いのテンポで進んでいく航空戦に対応できず、ミッドウェーの敗戦を招いた、という少々辛めのものが多い。よく言及されるものとして、以下のような評が挙げられよう。
- 真珠湾攻撃において、第三次攻撃を実施すべきであるという第二航空戦隊司令官山口多聞少将の進言を退け第三次攻撃を実施しなかった。
- インド洋作戦において、山口司令の「敵機来襲の恐れあり」の進言に対し「総員飛行甲板に集合!空中戦見学の位置につけ」の命令を出した。直後のミッドウェーの大敗北を招く事になる慢心が既に現れている。
- ミッドウェー海戦において、武装転換命令をたびたび行った。また、敵機動部隊発見の報に接した時も、陸上施設攻撃用の装備のままで直ちに敵空母戦力を攻撃すべきだという山口多聞の進言を退けた。これが敗北の主因である。
- 南太平洋海戦において、旗艦である空母「翔鶴」が被弾・損傷すると翔鶴艦長有馬正文の進言を退け戦場を離脱した。後の指揮を委譲された第二航空戦隊角田覚治司令の積極勇猛な攻撃命令(攻撃圏外からの発進命令は有名であり、また彼は帰還した攻撃隊に再攻撃を命じてもいる)と比較すれば、艦隊保全を優先し過ぎた指揮は退嬰的である。
しかしこれらに対しては以下の反論もあり、従来の南雲評は一方的に過ぎるとの見方もある。
- 真珠湾への第三次攻撃については、既に奇襲ではなく強襲となった可能性が高く味方の損害を避けた有る意味適切な判断と考えることもできる。また、それ以前に第三次攻撃自体が綿密な計画なしに実行し得たのか、とする疑問もある。航空の専門家とされていた参謀長草鹿龍之介少将(実際には航空機ではなく飛行船の専門家だったとも言う)が「手練の一撃を加えれば残心することなく退くべし」という一撃思想を強く持っていたこともあり、航空に疎いと自覚していた南雲提督がその意見を尊重したとも考えられる。更に、事前に山本五十六から「空母は一隻も損傷させずに持ち帰ってくれ」と指示されていた、という説もあり、これも影響しているかも知れない(通説では、山本の指示は全滅をしても真珠湾を叩くという趣旨のものであった。この項要出典)。確かに、再攻撃を行ってハワイ近海に留まれば、所在不明のハルゼーの機動部隊に発見され、攻撃を受ける可能性は上昇していたであろう。
- インド洋作戦での見学命令については、出典が一部著作に偏っており詳細については不明。
- ミッドウェー海戦での指揮については、山口提督の進言をそのまま実行した場合攻撃隊が壊滅的な被害を受けていただろうとの指摘がある(珊瑚海海戦時に戦闘機隊の護衛無しで攻撃隊を出した結果攻撃隊が大被害を受けており、艦攻・艦爆の脆弱性が既に暴露されていた)。その場合、日本海軍の空母飛行隊は南太平洋の航空消耗戦を待たずして崩壊していたと考えられる。ミッドウェーでは、機材はともかく人員的な損失はさほど多くなかった。
- 南太平洋海戦において、有馬艦長の進言は「損傷した翔鶴を前進させて囮とし、敵の攻撃を誘引させよ」とのものだった。これを実行した場合、戦果はそのままに翔鶴を喪失していた可能性が高く、却って被害が増えていたと考えられる。なお、この場の先任指揮官は南雲ではなく近藤第二艦隊長官だった。
戦前の部内での評価は「勇猛かつ決断力に富んだ将来の海軍を背負う人」というものであった。水雷戦隊を率いる姿と言動は颯爽としたもので、真珠湾攻撃時の飛行隊総指揮官であった淵田美津雄中佐は「南雲中将は、大佐時代から第1水雷戦隊司令官時代までは、いわば満点を与えられるほどの人物であった」と語っている。もっとも、その後の作戦指揮に関しては「溌剌颯爽たりし昔日の闘志が失われ、何としても冴えない長官であった。早くも耄碌したのではなかろうかと感ずる程であった。作戦を指揮する態度も退嬰的であった」(戦後にハワイ作戦を評した発言であり、戦争中の発言でないことに留意)と、辛辣極まりない評価を下してもいる。
水雷畑が長いこともあり、艦隊の運用については非常に優れており、急造の機動部隊を大過なくハワイに導いた手腕についても評価すべきとの意見もある。また、ミッドウェー海戦においては鈍重な旗艦「赤城」の操艦を青木艦長に替わって自ら行い(咄嗟に「操艦貰うぞ」と指示したという)、魚雷8本を回避してみせた。これには源田実航空参謀も舌を巻いたという。旗艦とはいえ直接の操艦は艦長の職掌でありこれは明白な職掌干犯ではあるが、一面で生粋の艦隊派提督の面目躍如とも言えるかもしれない。
彼の決断力を示す逸話として、真珠湾攻撃時、思いのほか海が荒れ、雷撃隊の発艦が危ぶまれるほどだったが(航空参謀は発艦の中止を進言していた)、そのとき彼が「お前たち、このローリングでも魚雷をかかえたまま、みごと発艦できるか」と隊員たちに聞き「やれます!」との返事に対して「よし、わかった」と言い、草鹿参謀長に、「参謀長、いいではないか、出してやろう」と言ったという。この逸話から見て取れるように、彼は決断力に優れていたが、逆に考えると、一度決断したものは他の人の進言を聞き入れない、とも見ることができるであろう(山口少将の進言を退けているのも、こういった彼の気質から来るものなのかもしれない)。
一般に航空戦に関しては無知とされているが、軍令部で航空戦教範が編纂された時には起草委員に名を連ねており、海軍部内では全くの素人という評価をされていた訳ではないと思われる。水雷屋から航空畑に進んだ士官も多かったことから、ハンモックナンバーによる評価だけでなくある程度適性を見込まれて機動部隊指揮官となったとの見方も成り立つだろう。ただし、開戦早々に序列を飛び越えてニミッツを対日戦のトップに据えた米海軍の柔軟性とは比べるべくもなく(彼はハルゼーの1年後輩であった事は有名である)結果を鑑みれば南雲はむしろ第2艦隊など巡洋艦や駆逐艦で編成された高速水上部隊の指揮官としておいた方が真価を発揮し得たとも考えられる。その意味においては、ついに時と場所を得なかった、とも言える。