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清 - Wikipedia

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(しん、英Qing Dynasty)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京瀋陽)→北京

満洲族愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語ダイチン・グルン(daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清と号した。

18世紀の大清
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18世紀の大清

目次

[編集] 清の歴史

中国歴史
東周
中華民国(台湾)
(参考:
台湾問題

[編集] 清の勃興

17世紀初頭にの支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。

[編集] 清の国号

ちなみに「後金」という国号を明側に警戒される(かつて漢民族のが女真族のによって南方に追われた)ことを恐れて、金と同音異字の「清」と改名したという説が行なわれているが、俗説である。現在の有力説によれば、五行説において明が表す「火徳」に替わる「水徳」を表す「」と、『周礼』で(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「」を組み合わせたもので、中原進出の意味を込めたものであるといわれている。また、「しん」という読み方は明の遺民や彼らの亡命を受け入れた日本の知識層による満洲族への蔑視に基づく読み方であり、本来は「ちん」と読むのが正しい読み方であるとも言われている。
※五行相克では、
 木徳→土徳→水徳→火徳→金徳→(木徳に戻る)
「水克火(水は火に克つ)」となる。

[編集] 清の中国支配

順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し、明の制度を取り入れて国制を整備した。

[編集] 清の最盛期

順治帝に続く、康熙帝雍正帝乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。

康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルチベットを服属させた。

また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。

こうして少数の満洲族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。しかし、一方で満洲族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と呼ばれる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉が一般家庭などで薬として食べられていたりと暗い面があったことを見落としてはならない(この凌遅刑を撮影した写真が今でも現存している)。

[編集] 半植民地化

乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見えはじめた。

イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州貿易を推進した。しかしイギリスは茶と代償に中国に輸出する商品を欠いたため、インドの植民地で栽培したアヘンを密売した。その結果次第にアヘン貿易が拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになったため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン貿易の取り締まりを開始した。

林則徐はイギリス商人らの阿片を没収して処分する強攻策を取ったが、かねて自由貿易を望んでいたイギリス政府はこの機会に武力で開港させる決意を固めて翌1840年アヘン戦争を起こした。強力な近代兵器をもつイギリス軍に大敗した清は、1842年イギリスと南京条約を結んで香港の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認を含む和約を認めた。

しかし、対中国貿易はこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実にアロー戦争を起こし、天津ら十一港の開港、公使の北京常駐、キリスト教布教の自由などを清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これにより外国商品の中国流入が進んだ。また、このときロシアに沿海州を割譲した。

この戦争と同時期には国内でも太平天国の乱が起こり(1851年 - 1864年)、清の支配は危機に瀕した。乱の末即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、王朝の根幹の制度を維持したままヨーロッパの技術を導入する洋務運動を開始した。

1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲した。

中国と書かれたパイが、列強により分割されている風刺画。人物は前列の左から、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、後列の手を挙げている人物は、清朝を示している。
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中国と書かれたパイが、列強により分割されている風刺画。人物は前列の左から、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、後列の手を挙げている人物は、清朝を示している。

[編集] 滅亡

1884年インドシナ半島植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を主張して清仏戦争(- 1885年)を起こすが、これによって冊封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年朝鮮東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が出兵すると、朝鮮を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを確認させられ、朝鮮に対する影響力も失った。

「眠れる獅子」と畏れられたアジアの盟主が、同じアジア人国家の日本にさえ敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴルトルキスタンロシア帝国長江流域をイギリス山東省ドイツ帝国福建省日本、華南をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは香港九龍半島威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島、ロシアが旅順大連租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点とした。アメリカ合衆国は国内の混乱から出遅れたため、これらの勢力圏は全て平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発した。

これに対し康有為梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を襲いつつ北京に進出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結んで屈服した。こうして中国の半植民地化はますます進んだ。

20世紀に入ると、日露戦争1904年 - 1905年)の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、清は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清打倒活動を広げていた。1911年、武昌での軍乱をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。

1912年1月1日南京中華民国が樹立した。北京の最後の皇帝溥儀(宣統帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。

[編集] 政治

[編集] 官制

清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。

それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。

その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。

中央には軍機処の他に六部・内務府(宮廷諸事)・宗人府(皇族・宗族の事務)・理藩院(藩部の統括。藩部については後述)・都察院(官僚の監察)・通政使司(上奏分の検閲)・大理寺(最高裁判所)がある。

地方は皇帝直属であると藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。

藩部はホンタイジが最初に内モンゴルのハルハ部を服属させた時に蒙古衙門(もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院と改名し、外モンゴル・新疆チベット青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。

省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省安徽省山西省山東省河南省陝西省甘粛省浙江省江西省湖北省湖南省四川省福建省広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省貴州省の18である。省の下に府・州・県がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府・知州・知県と呼ぶ。省の長官は巡撫と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。

満洲族の故地である満洲地方については省は置かずに、それぞれ黒竜江将軍(黒竜江省)・吉林将軍(吉林省)・盛京将軍(遼寧省)らに軍政を行わせて満洲族の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢民族の移住を禁止して、満洲族が漢民族に同化してしまわないようにした。

[編集] 満漢偶数官制

清の政治は圧倒的多数である漢民族を少数派である満洲族がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。中央の諸官のポストをそれぞれ満洲族・漢民族が同数になるように配置していく制度である。

清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲族だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。

[編集] 兵制

兵制は満洲族の軍制である八旗制度を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、物の役には立たなくなっていた。

その後白蓮教徒の乱苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。

その後の太平天国の乱に際しては湘軍・淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を初めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。

[編集] 経済

清の社会は基本的に明を引き継いでおり明清帝国と呼ばれる事もある。

明代後期から出現した郷紳層による地方支配、外国産のの流通による経済の発達、東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。

[編集] 農業の発展と人口爆発

北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、康熙帝期の1700年に1億5千万、乾隆帝期の1770年から80年にかけて2億8千万、19世紀前半に4億を突破した(数字は全て推定)。

この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシサツマイモ落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢民族が進出できるようになった。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢民族の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まりきらず、明代から出現していた華人が激増する事になる。

これらの漢民族の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル族・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲族の保護の意味から漢民族の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢民族の農地が広がることになる。

[編集] 税制

清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。

[編集] 商業

明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物綿織物に加えての加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。

そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接にかかわり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。

[編集] 文化

順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。

上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの偉大な文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があったことは忘れてはならない。

[編集] 思想

厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。

これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが代のものである。

考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。この事には明代末期に伝えられた西欧の知識により、中国の思想を絶対視する事に対する疑問が生じた事によると思われる。

また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名である。

しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。

[編集] 文学

清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必ずしも必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛びぬけた天才・名作は無い。

一方、明代から引き継いで小説戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。

現代中国で普通話と呼ばれる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と東北地方の語彙が混り合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。

[編集] 美術

絵画の分野ではイエズス会ジュゼッペ・カスティリオーネによってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。

陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。

瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。

[編集] 国際関係

[編集] 前期

清朝はすでに満洲時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球マカオポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許した。特にタイアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、中国商船の長崎貿易は許されていた。欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。

北辺ではシベリアに進出したロシア満州北部に迫り、ネルチンスク条約キャフタ条約によって中露国境が定められた。

[編集] 後期

19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争アロー号戦争(第2次アヘン戦争)、清仏戦争(ベトナム宗主権を巡る)、日清戦争(朝鮮宗主権を巡る)、義和団の乱が起こり、清朝はイギリスに香港島を割譲したのを始め九龍・新界租借地、威海衛租借地、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権、ドイツに膠州湾租借地、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲した。また上海にも共同租界やフランス租界が設置され、列強の中国侵略の足場となった。

[編集] 清の皇帝

  1. 太祖(ヌルハチ(奴爾哈赤) 在位1616年 - 1626年
  2. 太宗(ホンタイジ(皇太極) 在位1626年 - 1643年)ヌルハチの子。
  3. 世祖順治帝(フリン(福臨) 在位1643年 - 1661年)ホンタイジの子。
  4. 聖祖康熙帝(玄燁 在位1661年 - 1722年)順治帝の子。
  5. 世宗雍正帝(胤 在位1722年 - 1735年)康熙帝の子。
  6. 高宗乾隆帝(弘暦 在位1735年 - 1795年)雍正帝の子。
  7. 仁宗嘉慶帝 在位1796年 - 1820年)乾隆帝の子。
  8. 宣宗道光帝(旻寧 在位1820年 - 1850年)嘉慶帝の子。
  9. 文宗咸豊帝(奕 在位1850年 - 1861年)道光帝の子。
  10. 穆宗同治帝(載淳 在位1861年 - 1875年)咸豊帝の子。
  11. 徳宗光緒帝(載 在位1875年 - 1908年)道光帝の孫。同治帝の従兄弟。
  12. 恭宗宣統帝溥儀 在位1908年 - 1912年)道光帝の曾孫。光緒帝の甥[1]

[編集] 清の皇帝の姓

皇帝の姓を愛新覚羅(あいしんかくら)という。本来の満洲語ではaisin gioro(アイシン・ギョロ)と発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。

[編集] 清の元号

清は、一世一元の制踰年改元制を明から引き継いだので、元号は各皇帝につき一つずつである(在位中に改めて大清皇帝に即位し改元したホンタイジは例外)。順治帝以降の入関後の各皇帝は廟号諡号をもって呼ばず、その皇帝の時代の元号に「帝」をつけて呼ぶことが慣例になっている。

  1. 天命1616年 - 1626年
  2. 天聡1627年 - 1636年)(大清皇帝に即位し崇徳と改元)
  3. 崇徳1636年 - 1643年
  4. 順治1644年 - 1661年
  5. 康熙1661年 - 1722年
  6. 雍正1723年 - 1735年
  7. 乾隆1736年 - 1795年
  8. 嘉慶1796年 - 1820年
  9. 道光1821年 - 1850年
  10. 咸豊1851年 - 1861年
  11. 祺祥(1862年予定)(一旦公布されたが、辛酉政変のため改元前に同治と変更された)
  12. 同治1862年 - 1875年
  13. 光緒1875年 - 1908年
  14. 宣統1909年 - 1912年

[編集] 脚注

  1. 「恭宗」は2004年に贈られた廟号であるが、公式なものではない。

[編集] 参考文献

  • 増井経夫『大清帝国』(講談社学術文庫、2002年)ISBN 4061595261 - 『中国の歴史 第7巻 清帝国』(講談社、1974年)を改題、文庫化

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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