西ドイツ
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西ドイツ(にしドイツ、Westdeutschland)は、1949年から1990年までのドイツ連邦共和国の通称である。略称、西独。
1990年10月3日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)を併合、東西ドイツ統一により、この通称は使われなくなった。東西ドイツ統一まで首都はボンに置かれたが、統一後はベルリンに移った。ドイツ人は、かつての西ドイツを「ボン共和国(die Bonner Republik)」と呼ぶこともある。
[編集] 歴史
1945年5月に第二次世界大戦に敗北したドイツは、7月のポツダム会談によって米ソ英仏の四カ国による分割統治を受けることになった。しかし、イデオロギー対立による冷戦の開始と共に、米英仏とソ連は対立を深め、1949年9月に米英仏の西側統治諸州にボンを首府とする連邦共和国臨時政府が発足(アグナー大統領、アデナウアー首相)、10月にソ連統治諸州にドイツ民主共和国(ビーク大統領)が成立して、東西に二つの共和国が並び立つ事態となった。
西ドイツは1955年5月5日に主権の完全な回復を宣言し、ドイツ連邦軍を編成して再軍備を行い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。しかしながら米英仏の軍隊は、東ドイツに駐留したソ連軍同様に西ドイツへの駐留を続け、ドイツ再統一の直前まで四カ国はドイツに対し、実質的には完全な主権回復を許さなかった。
西ドイツは欧州経済共同体(EEC)や欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)などへの加盟を通じ、かつて対立した近隣諸国との経済協力や政治協調を進め、欧州の一員かつ中核メンバーとして受け入れられるようになった。またマーシャルプランによって急速に復興し、ヨーロッパのみならず世界有数の経済大国となった。一方、この過程で東ドイツとは徐々に経済格差が開いていった。
対東ドイツ政策では、1970年代以前はハルシュタイン原則に基づき、西ドイツがドイツ地域で唯一民主的に選出され、ドイツ人民を代表する正統性を持つ国家であると位置づけ、ソ連以外の国で東ドイツを承認して国交を持った国とは、国交を断絶する政策を採った。しかしこの原則は東ドイツが第三世界の多くと国交を結ぶ中で実効性を失った。1970年代初頭、東側諸国との関係改善を図るヴィリー・ブラント連邦首相の東方外交により、東西ドイツは相互承認へと進んだ。さらにモスクワ条約(1970年、ソビエト・西ドイツ武力不行使条約)、西ドイツ・ポーランド間のワルシャワ条約(1970年)、東西ベルリンの相互通行を促進する米ソ英仏の四カ国合意(1971年)、西ベルリンと西ドイツ間の通行を保障する通過合意(1972年)、東西ドイツ基本条約(1972年)と続いた諸条約は東西ドイツの関係正常化につながり、両国が同時に国際連合へ加盟する道を開いた。
東西冷戦の最前線に立つ国であったことからアメリカへの政治的・軍事的依存が高く、多くの米軍基地が国内におかれていた。また東ドイツとの対立から、再軍備直後の1956年以来、18歳から45歳までの男子国民に徴兵制が敷かれていた。しかしながら第二次大戦への反省から、西ドイツ時代のドイツ連邦軍の役割は抑制されたものであった。環境保護運動同様に反戦運動も盛んであり、1983年には、1979年調印の第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)にもかかわらず西ドイツに核ミサイルが持ち込まれたことを受けてヨーロッパ全土へ波及する大規模な反核運動が起こっている。
1989年のベルリンの壁崩壊以後、東西ドイツは通貨・関税同盟を1990年7月に結び、1990年10月3日のドイツ再統一を以って東西分断は終わりを迎えた。欧州の中央に強大な統一ドイツが誕生することに対する警戒心も周辺諸国にはあったが、東西ドイツ政府と米英仏ソ連合国との「ドイツに関する最終規定条約」(別名「2プラス4条約」)により統一後のドイツの地位確定と主権回復が合意された。
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