沖縄返還
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は、沖縄は潜在的な日本の主権は認めながら、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年(昭和27年)4月28日に発効した。そこで、アメリカは「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなどの、一定の自治は認め、琉球の名称が復活した。しかし最終的な意思決定権はアメリカが握ったままだった。朝鮮戦争、ベトナム戦争がおこりアメリカは施政権下においての琉球自治から基地としての重要性の方向に変わっていく。その間にも、沖縄の各地にアメリカ軍基地・施設を建設し、また、アメリカ兵による事故・事件が頻発しては、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、住民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、また、このころから住民は、アメ日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45年)に予定される安保延長と共に、沖縄の本土復帰を緊急の外交課題とした。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。
1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした二件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄住民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。
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[編集] 返還へ
1969年(昭和44年)の日米首脳会談で、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、屋良や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。
また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため、沖縄県民は「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つようになったという意見もあるが、それが沖縄県民以外の日本国民の税金であることも注意しなければならない。
[編集] 返還後の沖縄
返還後は道路・病院・学校など公共投資に力が入れられ、県民の生活水準は大きく向上した。1978年(昭和53年)7月30日には車両が左側通行に切り替えられ(730)、本土同様の道路交通法が適用されるようになった。また、復帰に伴って自衛隊が置かれたが、「日本軍の再来」という反発も強く、一部自治体では自衛官の住民登録を拒否するという事態も起こった。自衛隊配備当時は抗議行動や一部市民や左翼系活動家による隊員募集事務所への落書きやシャッターの破壊なども繰り返されたが、自衛隊の離島における緊急時の住民輸送などの活動で沖縄の「自衛隊アレルギー」は今日ではかなり薄らいでいる。
一方で米軍基地依存の経済体質は相変わらずで、有力な地場産業が順調に育たず、公共土木事業依存が強まった。那覇周辺に人口が集中し、離島は過疎に悩むことになる。
[編集] 課題
沖縄返還は実現したものの、課題は多く残されている。2005年現在も在日米軍の面積の23.4%が沖縄県に集中し、沖縄本島の19.3%が基地に占められる(県全体の基地の割合は10.7%)。たびたび引き起こされるアメリカ兵による事件が日米地位協定によってうやむやにされることも県民感情を逆撫でする。1995年の沖縄米兵少女暴行事件の際は大規模な抗議行動が行われた。宜野湾市市街地にある普天間基地を移転する計画もあるが、進展していない。
復帰時に経済の「本土並み」がスローガンとして掲げられたが、観光産業と公共事業を中心とした建設業の振興が中心で、製造業があまり発展しなかったこともあり、県民所得が(フランスの国民所得より高いものの)全国最低のままである。
かつての本土復帰運動と同時に、琉球独立運動が存在した。米兵による少女暴行事件が起きたときは、一部で琉球独立論が叫ばれた。ただし、2005年に琉球大学法文学部の林泉忠助教授が行った調査によると、独立の是非を問う質問に「独立すべき」と答えたのは24.9%にとどまった。
[編集] 関連項目
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