ハインリヒ・ヒムラー
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ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler, 1900年10月7日 - 1945年5月23日)はドイツの政治家。親衛隊全国指導者(独:Reichsführer-SS,略号:RFSS,英: National leader of the SS、親衛隊長官、SSライヒ指導者とも訳される)彼は親衛隊とドイツ警察機関全てを統括し、ホロコーストを率先して実行した。ヒムラーは1,100万人にも及ぶユダヤ人、ロマ、ポーランド人、カトリック聖職者、ロシア人捕虜の虐殺に責任を負う。
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[編集] 生い立ち
ヒムラーは1900年10月7日にミュンヘンの教育監督官(Oberstudiendirektor)の次男として生まれた。ハインリヒという名前は、父ゲープハルトが家庭教師を務めたバイエルン王家の王子ハインリヒにちなむ。ヒムラーはカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。彼は海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず、1918年に士官候補生としてバイエルン王国の第11歩兵連隊に入営した。士官候補生課程修了前に敗戦を迎えたためヒムラーが前線に立つことはなかった。
1919年4月にヒムラーは右翼団体ラウターバッハ義勇軍に加わってクルト・アイスナー率いるミュンヒェン・レーテ共和国の打倒に参加した。1919年10月、ミュンヒェン工科大学で農学を学ぶ。1922年に学位を取得してヒムラーは農薬や肥料を扱う会社の研究員となるが、数ヶ月で退職する。翌1923年には国粋主義団体「アルタマーネン」に参加。ここでヒムラーは国粋主義に加えて反ユダヤ主義、生存圏、後のナチ党時代に連なる思想基盤を形成した。団体を通じてエルンスト・レーム率いる帝国軍旗団に参加、続いて1923年8月に国家社会主義ドイツ労働者党にも入党した。
[編集] ナチ党黎明期における活動
ヒムラーは1923年9月6日のミュンヘン一揆でレームに従って帝国軍旗団(de)の旗手として行進している。まだ党員歴が浅かったため一揆の失敗後も逮捕を免れた。
ナチ党が活動禁止された間、ヒムラーはエーリヒ・ルーデンドルフの後援を受けたダミー団体「国家社会主義解放運動」に参加し、1924年の国会議員選挙では友人のグレゴール・シュトラッサーの選挙運動に活躍している。1925年にナチ党が再建された後はシュトラッサーの秘書になり、ウンターバイエルンのオーバープファルツ大管区指導者代理となった。その後オーバーバイエルン‐シュヴァーベン大管区指導者(de)代理、親衛隊全国指導者代理、全国宣伝指導者代理などを務め、1929年1月6日親衛隊全国指導者に任じられる。当時、彼はまだ突撃隊上級大佐であった。
[編集] 親衛隊全国指導者
ヒムラーが親衛隊全国指導者となった時、親衛隊はいまだ突撃隊の下部組織に過ぎず、隊員も280名だけであった。ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、翌1930年9月には早くも隊員数2,700に達した。この頃より突撃隊幕僚長(Stabchef der SA)のレームと党指導部の軋轢が始まる。ヒムラーの親衛隊は突撃隊に対抗する道具としてヒトラーの興味を惹き、後にヒトラー個人に忠誠を誓う警護隊という性格が強められていく。1931年にはヒムラーは党内諜報機関として親衛隊保安部 SD (de) を設け、ラインハルト・ハイドリヒを責任者に据える。
1932年1月25日ヒムラーはミュンヒェンにある党本部(褐色館)の警備を任された。1932年12月親衛隊の隊員は50,000を超え、ヒムラーは親衛隊をヒトラー個人の護衛以外にも民族主義的政策の推進の中核として位置づけるようになり、新規隊員には「アーリアの支配民族」の血統証明が厳しく求められるようになった。
ナチ党が政権を奪取した1933年3月には政治的敵対者を収容するダッハウ強制収容所が建設され、ヒムラーは運営を管轄した。1933年4月1日反中央政府志向の強いバイエルン州政府の首相ハインリヒ・ヘルドの失脚を受けてヒムラーは州政治警察長官になった。その後、強制同一化(de)によって各州の自治権を取り上げ、1934年1月プロイセン州とシャウムブルク‐リッペ州を除く全国の警察権はヒムラーが掌握することになった。
当時、突撃隊は貴族階級が牛耳る国防軍に取って替わる第二革命を唱え、合法的な政権奪取を目指して既存政治勢力と妥協を図る党指導部との緊張を益々高める。1934年4月20日プロイセン州政府の内務大臣ヘルマン・ゲーリングは反乱等に備えてヒムラーをプロイセン州秘密警察局の局長に任命した。ヒムラーは警察権力と情報収集能力の向上・集中に努める。1934年6月30日の長いナイフの夜では潜在能力を遺憾なく発揮し、ヒムラーの親衛隊はレームほか突撃隊内の反党分子とその他潜在的な敵性分子をもこの機に一挙に葬り去る。親衛隊はこの後突撃隊から独立した党内組織として認知される。このようにヒムラーは着々と党内権力を拡大していった。
[編集] 警察権力の掌握と統合
1936年6月17日、ヒムラーはドイツ警察機関の最高責任者になり、秩序警察(通常の犯罪捜査)と保安警察(政治警察)に分け、1939年9月27日に国家機関の保安警察(秘密警察局と刑事警察局)を党機関の親衛隊保安部SDと統合し、国家保安本部を設け、ラインハルト・ハイドリヒをトップに据える。ヒムラーは要人の監視・諜報も行い、戦争計画に批判的な陸軍総司令官のヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner von Fritsch)上級大将を同性愛の醜聞で失脚させたり、海外でもトハチェフスキー元帥を初めとするソ連軍の首脳部が粛清されるよう謀略工作をした。
[編集] ヒムラーとホロコースト
1939年10月7日ドイツ民族性強化委員に就任し、アーリア人の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の植民・強制移住政策を推し進めた。1939年から1940年にかけて占領下ポーランドに特別部隊を派遣してユダヤ人を含むポーランド住民を大量殺害させた。バルバロッサ作戦が発動された後、親衛隊の国家保安本部はアインザッツグルッペン(移動特別部隊)をソビエトロシア奥深く進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量殺害した。1942年1月20日、ハイドリヒはベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級会議を主催して、ユダヤ問題の最終的解決について各官庁の分担範囲を決定した(ヴァンゼー会議)。ユダヤ人はヨーロッパ各地からポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室で大量殺害されるようになった。アイヒマン親衛隊中佐は列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与した。
[編集] 軍司令官として
ヒムラーは自身の軍隊を持とうともした。ヒトラーは国家唯一の軍事組織である国防軍の外に親衛隊に軍事組織の設立をヒムラーに許す。当初、数個連隊規模の親衛隊特務部隊は、1940年に武装親衛隊に名を換えて終戦時には90万の兵力を数えるまでになった。しかし武装親衛隊の兵員の大半はドイツ人ではなく、共産主義国家ソ連との戦いを「反共」のスローガンの下十字軍になぞらえてヨーロッパ各地から募集した外国人であった。1944年2月には国防軍情報部 (Abwehr) のヴィルヘルム・カナリス海軍大将の失脚に伴って Abwehr も国家保安本部に吸収し、軍事情報部(Militärabteilung des RSHA)とする。さらに1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の後、陸軍を信用できなくなったヒトラーは国内予備軍司令官兼陸軍装備責任者 (Chef der Heeresrüstung und Befehlshaber des Ersatzheeres) の地位をヒムラーに与える。実務を代行したのはハンス・ユットナー (Hans Jüttner) 親衛隊大将である。陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用はこの時から陸軍の手から親衛隊に委ねられる。1944年12月2日に待望のヴァイクセル軍集団司令官としてベルリンに迫る赤軍を迎え撃つが、軍隊の指揮経験のないヒムラーはまともな作戦指揮ができず、ヴァイクセル軍集団は大敗を喫し敗走した。
[編集] 和平交渉・捕虜・自殺
1945年春にはヒムラーはドイツの最終勝利の確信を失っていた。これは専属マッサージ師のフェリックス・ケルステンや国家保安本部の国外諜報部門の第VI局のトップであるヴァルター・シェレンベルク等との会話から伺い知れる。ナチ政権が存続する条件で、英米との単独講和する必要があると認識をしていた。同年3月にヒムラーは、ヒトラーの後継者を名乗り、デンマークの国境の近くでスウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドット伯爵の仲介で英米連合軍と和平交渉を始めようとする。ヒムラーは、アメリカとイギリスがドイツ軍の残存兵力と共にソ連と戦うことを望み、西部戦線における講和を策動する。これは1945年4月28日ベルリンの総統地下壕のヒトラーの知るところとなり、ヒトラーは激怒してヒムラーの連絡将校のフェーゲライン親衛隊中将を即決裁判で銃殺に処してヒムラーの全官職を剥奪し、逮捕命令を出した。当時の彼の官職は親衛隊全国指導者、ドイツ警察長官、内務大臣、国民突撃隊最高司令官であった。
ヒムラーのベルナドット伯爵との交渉は失敗した。彼は何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。これ故に敗戦が間近くなると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠は我が誇り」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最期の命令である。ヒムラーは自身も野戦憲兵のハインリッヒ・ヒツィンガー曹長に身を偽り、髭をそり、眼帯をつけ、数人の副官と逃亡し、捕虜としてイギリス軍のリューネブルク捕虜収容所に潜り込んだ。だが1945年5月23日、収容所の取調べで自ら「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗り、政治的交渉を行おうとした。しかしながら認められず、全裸にされ身体検査を行われた際に軍医が口の中を調べようとしたところ、奥歯に隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛み砕いて自殺した。遺体はリューネブルクの森に埋められた。
[編集] 外部リンク
- http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Personenregister/HimmlerH.htm
- http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HimmlerHeinrich/
- Biografie bei Shoa.de
- http://www.fdk-berlin.de/forum2000/filme/himmler.html
- http://www.kueste.vvn-bda.de/grab.htm
- Biografie Himmlers und weiterführende Links
- Heinrich Himmler und die Schwarze Sonne
- 親衛隊全国指導者
- 1929 - 1945
-
- 先代:
- エアハルト・ハイデン
- 次代:
- カール・ハンケ
- 内務大臣
- 1943 - 1945
-
- 先代:
- ヴィルヘルム・フリック
- 次代:
- ヴィルヘルム・シュトゥックアルト