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硫黄島の戦い - Wikipedia

硫黄島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

硫黄島の戦い

浜辺に上陸した米軍海兵隊
戦争: 太平洋戦争
年月日: 1945年2月16日から3月26日
場所: 硫黄島日本
結果: アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国
指揮官
栗林忠道陸軍中将 ホーランド・スミス中将
戦力
20,933 70,000
損害
戦死 20,129(軍属82を含む)
捕虜 1,023
戦死 6,821
戦傷 21,865
硫黄島と日本本土の位置関係
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硫黄島と日本本土の位置関係
硫黄島の衛星写真(2000年)、左下が摺鉢山
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硫黄島の衛星写真(2000年)、左下が摺鉢山

硫黄島の戦い(いおうじまのたたかい/いおうとうのたたかい[1], Battle of Iwo Jima, 1945年2月16日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争末期に小笠原諸島硫黄島において日本軍アメリカ軍の間に生じた戦闘である。

1945年2月19日にアメリカ海兵隊の上陸が開始され、3月26日に日本軍の組織的戦闘は終結した。日本軍は20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死した。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘であった。

目次

[編集] 背景

硫黄島は、東京の南約1,080キロ、グアムの北1,130キロに位置し小笠原諸島に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの名称がつけられた。長径は北東から南西方向に8キロ未満、幅は北部ではおよそ4キロ、南部ではわずか800メートルである。面積は21平方キロ程度、最高点は島の南部にある標高169メートルの摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、水は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。

日本軍は1941年の開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方戦線と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の約2キロ北東に千鳥飛行場を建設し、航空兵1,500名および航空機20機を配備した。

1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領し、トラック島へ大規模空襲を行った。大本営カロリン諸島からマリアナ諸島小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良中将の指揮する第31軍が編成され、配下の小笠原地区集団司令官に栗林忠道中将が就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。

1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し、11月以降B-29による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし硫黄島は日本本土へ向かうB-29を無線で報告する早期警戒拠点として機能しており、またマリアナ諸島からの出撃では距離の関係上、護衛戦闘機が随伴できなかった。また、 日本上空で損傷を受けたり故障したB-29がマリアナ諸島の基地までたどり着けず海上に墜落することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月にはイスレイフィールドのB-29爆撃機11機が破壊され8機が大きな損害を受けた。

アメリカ統合作戦本部は、日本軍航空機のサイパンへの攻撃基地の撃滅、硫黄島レーダー監視所による早期警報システムの破壊、硫黄島を避ける為の爆撃機の航法上のロスの解消、損傷爆撃機の中間着陸場と長距離護衛戦闘機の基地として、硫黄島の占領を決定した。[2]フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定された。進攻作戦は「デタッチメント作戦」(Operation Detachment)と名付けられた。

[編集] 日本軍の防御計画

[編集] 地下陣地の構築

栗林中将は1944年5月に父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は硫黄島へ進攻すると判断し、無防備に等しかった硫黄島へ直ちに司令部および第109師団を移動させた。制空権制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であった。しかし栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。防御計画の第一歩として民間人の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった。

ペリリューの戦いでは、日本軍は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功したが、硫黄島の守備隊はこの戦術をさらに発展させた。全島の施設を地下で結ぶ全長28キロの坑道が計画され、設計のために本土から鉱山技師が派遣された。栗林中将は兵員に対して、時間の7割を訓練、3割を工事にあてるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため手工具で掘ることができた。また工事の遅れを無くすため作業中は一切の敬礼をやめるように命令するなど、指示は徹底していた。しかし地下工事は困難の連続だった。激しい肉体労働に加えて、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、摂氏30度から50度の地熱に曝され、連続した作業は5分間しか続けられなかった。また12月8日以降毎日続いた空襲のため、多くの人員を被害を受けた飛行場の修復に振り向けねばならなかった。

坑道は深いところでは地下12メートルから15メートル、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数キロに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。

栗林中将は島北部の北集落から約500メートル北東の地点に司令部を設置した。司令部は地下20メートルにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番めに高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、硫黄島の全火砲を指揮する街道長作大佐の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50メートル、幅20メートルの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20メートルの坑道がここに繋がっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカは鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2メートルもあった。

硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至るところにトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百メートルから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。

1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰をセメントと混ぜることでにより高品質のコンクリートができることがわかり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かないなどの理由で、結局坑道は全長28キロの計画のうち18キロ程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も僅かなところで未完成のままでアメリカ軍を迎え撃つことになった。だが戦闘が始まると地下陣地は所期の役割を十二分に果たすことになる。

[編集] 兵力の増強

日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて航空隊および地上整備員2,216名が到着した。

次に硫黄島に増強されたのは砲兵だった。1944年末までに75ミリ以上の火砲361門が稼動状態となった。内訳は320ミリ臼砲12門、150ミリ中迫撃砲と81ミリ軽迫撃砲65門、80ミリ以上の沿岸砲33門、および75ミリ以上の高射砲94門などであった。さらに200門を超える20ミリおよび25ミリ対空機関砲と、69門の37ミリおよび47ミリ速射砲が揃った。そして日本軍の新兵器、噴進砲(ロケット砲)70門も到着した。これは重さ90キロで射程2~3キロという20センチ弾と、7キロ以上の射程を持つ40センチ弾の両種で、発射後すぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた。これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する火力の4倍に達した。

さらに、北満駐屯ののち釜山へ移動していた戦車第26連隊が配備された。連隊長は男爵西竹一中佐で、兵員600名と戦車28両からなっていた。連隊は輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250キロの海上でアメリカの潜水艦「コービア」によって撃沈された。このときの戦死者は2名だけだったが戦車はすべて海没した。補充は12月に行われ最終的に22両が揚陸された。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、硫黄島の起伏に富んだ地形のためそれは困難だった。西中佐の熟慮の結果、戦車は固定砲台として使われることになり、車体を埋めたり、砲塔を分解したりするなどして、上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽された。

アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な妨害によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、栗林中将は陸海軍合わせて兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。

[編集] 日本軍の防御体制

栗林忠道中将

兵員が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は水際での抵抗は無意味だと考えていた。栗林中将の戦術は、太平洋戦争でこれまで日本軍が用いてきた島嶼防衛の戦術を根本的に革新したものであった。

  1. アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は上陸準備砲爆撃の間は発砲を行わない。アメリカの艦艇に対する砲撃は行わない。
  2. 上陸された際、水際では抵抗を行わない。
  3. 上陸部隊が一旦約500メートル内陸に進んだならば、元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、さらに、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。
  4. 上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。

栗林中将の採用した戦術は、持久抵抗によって上陸部隊をすり減らすことを狙ったものであった。火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧と弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。1945年1月に発令された最終作戦は、強力かつ相互に支援し死守するべき陣地の構築を要求したもので、大規模な逆襲、撤退、および万歳突撃はいずれも厳禁とされた。

防御準備の最後の数ヶ月間、栗林中将は、兵員の建設作業と訓練との時間配分に腐心した。訓練により多くの時間を割くため、北飛行場での作業を停止した。12月前半の作戦命令により、1945年2月11日が防御準備の完成目標日とされた。12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800トンを超える爆弾を投下したが、日本軍陣地には損害をほとんど与えられなかった。以降、アメリカ軍のB-24爆撃機がほぼ毎晩硫黄島上空に現れ、航空母艦と巡洋艦も小笠原諸島へ頻繁に出撃した。頻繁な空襲で作業は妨害され、守備隊も眠れぬ夜が続いたが、実質的に作業進行が遅れることはなかった。1月2日、十数機のB-24爆撃機が千鳥飛行場を空襲し損害を与えたが、栗林中将は応急修理に600名を超える人員と、11台のトラックおよび2台のブルドーザーを投入し、飛行場はわずか12時間後に再び使用可能になった。

1945年1月5日、市丸少将は指令所に海軍の上級将校を集め、レイテ沖海戦連合艦隊が壊滅したこと、そして硫黄島がまもなくアメリカ軍の侵攻を受けるだろうという予測を伝えた。2月13日、海軍の偵察機がサイパンから北西へ移動する170隻のアメリカ軍の大船団を発見する。小笠原諸島の日本軍全部隊に警報が出され、硫黄島も迎撃準備を整えた。

[編集] アメリカ軍の上陸計画

ホーランド・M・スミス海兵隊中将
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ホーランド・M・スミス海兵隊中将
デタッチメント作戦第一計画
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デタッチメント作戦第一計画

1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将はデタッチメント作戦の準備を発令した。参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であった。硫黄島派遣軍総司令官に第51任務部隊司令官リッチモンド・ターナー海軍中将が任命され、第53任務部隊、戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊、上陸部隊である第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵隊中将)がその指揮下に入った。また硫黄島の戦場にはジェームズ・フォレスタル海軍長官自らの同行視察が予定された。

上陸部隊は第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)だった。第3海兵師団はブーゲンビル島の戦いやグアムの戦いで既にその名を知られていた。1944年秋の時点ではまだグアムにあり、残存日本軍の掃討作戦に従事していた。上陸第1波は第4、第5海兵師団(第26連隊を除く)で、硫黄島東海岸に対して第4海兵師団が右側、第5海兵師団が左側に並んで上陸し、第3海兵師団はDデイ+3日まで沖合いで予備兵力として残るとされた。作戦計画は、橋頭堡の迅速な確保と、第5海兵師団には南の摺鉢山、第4海兵師団には右側面の元山周辺の速やかな占領を要求していた。もし両地点の占領に手間取れば、両方向から砲撃を受けて上陸部隊に多数の死傷者が出ると予想された。

東海岸には不利な寄せ波の可能性があったため、西海岸へ上陸する代替計画も立てられたが、北北西の季節風によるうねりの危険性もあり、実行される可能性は低かった。東海岸は摺鉢山から北東へ伸びる約3キロの海岸だった。アメリカ軍はこれを500ヤード(457.2メートル)ごとに7つの区画に分割し、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区と名づけた。

第5海兵師団は、第28海兵連隊が一番西側にあたるグリーン区に上陸し摺鉢山へ進撃する。その東側には第27海兵連隊が上陸し西海岸まで到達、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進する。第26海兵連隊は予備兵力とされた。第4海兵師団は、第23海兵隊がイエロー1区とイエロー2区に上陸し、千鳥飛行場を占領して北東へ進撃、元山飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧する。第25海兵隊はブルー1区に上陸後、千鳥飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達する。第24海兵隊はDデイ初日は予備とされた。

1945年2月16日、作戦開始を控えた記者会見でスミス中将は説明した。「攻略予定は5日間、死傷は1万5千を覚悟している。」

[編集] 参加兵力

[編集] 日本軍

  • 陸軍 (総兵力 13,586名)
    • 小笠原兵団(第109師団、兵団長:栗林忠道中将、参謀長:高石正大佐、師団司令部附:大須賀応少将
      • 独立歩兵第17連隊
      • 歩兵第145連隊 (連隊長:池田益雄大佐)
      • 混成第2旅団 (旅団長:千田貞季少将、旅団司令部附:厚地兼彦大佐、旅団司令部附:堀静一大佐)
        • 独立歩兵309大隊機関銃中隊 (中隊長:阿部武雄中尉) - 阿部中隊長は捕虜となるが、戦後、硫黄島協会常任理事となり、戦没者の慰霊に奔走する。
        • 旅団野戦病院 (病院長:野口巌軍医大尉) - 4月16日に患者を伴い米軍に投降する。
        • 旅団砲兵 (隊長:街道長作大佐)
      • 独立歩兵第309大隊
      • 戦車第26連隊 (連隊長:西竹一中佐
  • 海軍 (総兵力 7,347名)
    • 第27航空戦隊 (司令官:市丸利之助少将
    • 硫黄島警備隊 (司令:井上左馬二大佐
    • 南方諸島海軍航空隊
    • 第204設営隊大隊

[編集] アメリカ軍

  • 硫黄島派遣軍 (総司令官:リッチモンド・ターナー海軍中将、次席指揮官:ハリー・ヒル海軍少将)
    • 第51任務部隊 (司令官:リッチモンド・ターナー海軍中将)
    • 第53任務部隊 (司令官:ハリー・ヒル海軍少将)
    • 第54任務部隊 (司令官:バトラム・ロジャース海軍少将)
    • 第58任務部隊 (司令官:マーク・ミッチャー海軍中将)
    • 第56任務部隊 (司令官:ホーランド・スミス海兵隊中将)
      • 第5水陸両用軍団 (指揮官:指揮官:ハリー・シュミット海兵隊少将、参謀長:ウイリアム・ロジャー海兵隊准将、総兵力 61,000名)
        • 第3海兵師団 (師団長:グレーブス・エルスキン海兵隊少将、第9、21連隊、第12砲兵連隊、第3戦車大隊)
        • 第4海兵師団 (師団長:クリフトン・ケーツ海兵隊少将、第23、24、25連隊、第14砲兵連隊、第4戦車大隊)
        • 第5海兵師団 (師団長:ケラー・ロッキー海兵隊少将、第26、27、28連隊、第13砲兵連隊、第5戦車大隊)

[編集] 戦闘の経過

[編集] アメリカ軍の上陸

米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島1945年2月17日
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米軍の上陸前の攻撃が行われている硫黄島
1945年2月17日
硫黄島に向かう米第4海兵師団(1945年2月19日)
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硫黄島に向かう米第4海兵師団(1945年2月19日)
摺鉢山付近の海岸に向かう米軍1945年2月19日
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摺鉢山付近の海岸に向かう米軍
1945年2月19日
迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT
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迫撃砲および重砲の攻撃により擱座したLVT

1945年2月16日、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結、激しい爆撃と艦砲射撃を開始した。海兵隊側は当初10日間の準備砲爆撃を求めていたが、艦隊側は沖縄上陸作戦などの事後の作戦の都合から硫黄島のみに過剰な戦力の投入はできないとして、準備砲爆撃の期間を3日間に短縮した。これは上陸後の海兵隊の苦戦の一因とされている。日本軍では、摺鉢山の火砲が海上を砲撃し一部の艦艇に損傷を与えたが、これは陣地の場所を教えたようなものであった。アメリカ軍は発射地点へ艦砲射撃を集中し、摺鉢山の主要な火砲は全滅した。砲撃で煙が舞い上がり、島は粉々に吹き飛んでしまうかのようだった。あるアメリカ兵は戦友に尋ねた。「俺達用の日本兵は残っているのかな。」[3]

19日、午前6時40分に戦艦の艦砲射撃が始まり、8時05分にB-29爆撃機120機による爆撃に交代、8時25分から9時まで再度艦砲射撃が続いた。9時、第4、第5海兵師団の第1波が上陸を開始した。水際での日本軍の抵抗はなく、海兵隊は円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進した。だが日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていたのである。午前10時過ぎ、日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせた。たちまち第24、第25連隊は25パーセントの死傷者を出し、戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が破壊された。これほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は太平洋ではそれまで例がなかった。硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕を掘ることもできなかった。19日だけで海兵隊は戦死501名、戦傷死47名、負傷1,755名という損害を受けた。

夕方までに海兵隊30,000名が上陸し、それまでの島嶼作戦で日本軍の常道だった夜襲と万歳突撃とを待ち構えた。日本軍は来なかった。日本軍が実施したのは少人数による手榴弾を使った襲撃と夜間砲撃というハラスメント(嫌がらせ)攻撃だった。アメリカ軍が浜辺に集積していた物資の多数が攻撃により炎上し、海兵隊は休息を奪われた。

[編集] 摺鉢山の戦い

20日、準備砲爆撃の後、海兵隊1個連隊が摺鉢山へ、3個連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進した。海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、摺鉢山と栗林中将の司令部との連絡線が遮断された。摺鉢山の斜面は1メートルごとが戦闘の連続だった。砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進した。日本軍では摺鉢山の守備隊長の厚地兼彦大佐が戦死、市丸少将は大本営へ報告を送った。「本戦闘ノ特色ハ敵ハ地上ニ在リテ友軍ハ地下ニアリ。」

21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸する。同日、千葉県香取基地から「彗星」12機、「天山」8機、零戦12機(「彗星」12機の直掩機)の計32機からなる、日本本土から初めて出撃した神風特別攻撃隊第二御盾隊が、途中、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入し、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母サラトガ」大破炎上などの戦果を挙げた。混乱したアメリカ艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む。」と発信。その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。その後も、日本軍は陸攻部隊や陸軍の「飛龍」による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施した。この光景は、日本軍硫黄島守備隊にも目撃されている。

22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。摺鉢山山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込むなどして攻撃した。日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。

23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲揚した。12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールがその瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。アメリカ海兵隊は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたのだが、硫黄島の戦いは水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのだった。フォレスタル海軍長官は海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたスミス中将へ語った。「これで海兵隊も500年は安泰だな。」[4]

[編集] 元山周辺の戦い

フォレスタル海軍長官は本国へ戻っていったが、硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していった。24日、アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊司令官の長男、アレクサンダー・ヴァンデグリフトJr.中佐も重傷を負う。24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進した。前進速度は時速10メートル。市丸少将はアメリカ軍の戦術をこう報告している。「さながら害虫駆除のごとし。」[5]26日夕刻、元山飛行場は陥落した。

2月26日にはアメリカ海軍建設部隊により、確保された部分で観測機の使用が可能となり、3月初めには飛行場の機能が殆ど完成した。そして3月4日、東京空襲で損傷したアメリカ軍のB-29爆撃機ダイナ・マイト号が、両軍砲火の中緊急着陸に成功し、補修と燃料の補給を受た。これが、硫黄島に着陸した最初のB-29である。

元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していた。混成第2旅団はもともと練度の低い寄せ集め部隊であったのだが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練のもとで強兵に生まれ変わっていた。元山正面の守りは堅く、アメリカ軍は「肉挽き器」と呼んで恐れた。だが混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていた。5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移す。7日、第3海兵師団がアメリカ軍としては異例の払暁奇襲を断行、中央突破に成功し日本軍を島の北部と東部に分断した。

[編集] 組織的戦闘の終結

水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、兵士は渇きに苦しんだ。暗夜に雨水を求めて地下坑道を出た兵士の多くは戻ってこなかった。14日、栗林中将を支えてきた歩兵第145連隊長池田大佐が軍旗を奉焼する。いよいよ最後の時が来た。16日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送った。「物量的優勢ヲモッテスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ、克ク健闘ヲ続ケタルハ小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ・・・然レドモ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪エザル所ニシテ、幾重ニモオ詫ビ申シ上グ・・・。」

17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達する。この日、同日付けで陸軍大将に昇進した栗林中将から、指揮下の各部隊へ最後の指令が送られた。「一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ。二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス。三・・・。四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ。」

戦車隊を率いていた西中佐は火炎放射器によって負傷してもなお戦い続け、19日頃戦死したとされるが正確な最期は未だ分かっていない。26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけた。市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて出撃した。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」(ルーズベルトは4月12日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる。)

日本軍の最後の攻撃によってアメリカ軍では53名が戦死、119名が重傷を負ったとされる。栗林大将の最期の模様は正確には分かっていない。栗林大将は階級章を外していたため、戦闘後の海兵隊の探索では遺体を見つけることはできなかった。

これ以後組織的な戦闘は終結した。しかし、その後も生き残った日本兵が地下坑道に潜伏し、一部は終戦を知らずに抵抗を続けた。終戦から4年後の1949年1月1日、最後の日本兵2名がアメリカ軍に投降した。

[編集] アメリカ軍完全占領発表

3月6日、機能を回復した硫黄島の飛行場に最初のP-51戦闘機部隊が進出した。3月15日(日本時間)、アメリカ軍は硫黄島を完全占領したことを発表した。

[編集] 大本営発表

3月21日大本営発表。「3月17日夜半、壮絶ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」大本営は玉砕を1か月後に公表した。

[編集] 影響

アメリカ海兵隊戦争記念碑
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アメリカ海兵隊戦争記念碑
「硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。」 - チェスター・W・ニミッツ海軍大将

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘である。2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのは3名のみであった。第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた痛手のために沖縄戦には参加できなかった。

硫黄島の奪取によってアメリカ軍は日本本土空襲の為の理想的な中間基地を手に入れた。終戦までの間に2,251機のB-29が硫黄島に不時着。その全てが技術的な問題を抱えていたわけではなかったと思われるが、それにしても延べ2万名以上の乗員の生命が救われたとされている。アメリカ陸軍航空空軍の中で実際に爆撃機を運用していた各爆撃兵団の司令官達は、単発戦闘機の長距離護衛を面倒なお荷物としてかなり低く評価していたが、現実的には双発の邀撃機の活動を昼間は不可能にしたばかりか、日本軍戦闘機の邀撃を困難にした。活動を本格的に活発化させたアメリカ軍各爆撃兵団は、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施し、あわせて約10万人の市民の生命が奪われた。なお硫黄島を基地とする長距離戦闘機P-51の護衛がついたのは、東京空襲の後の横浜空襲からであり、横浜空襲ではアメリカ側戦闘機3機の損失に対して、日本軍側が戦闘機26機を失ったとされる。

第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の4分の1以上が硫黄島侵攻部隊のために与えられた。アメリカ海軍はいくつかの艦船に「イオージマ」と命名している。アーリントン国立墓地の近くに位置するアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものである。

1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」[6]

[編集] 硫黄島の戦いを題材とした作品

[編集] 戦史書

  • 防衛研修所戦史室、『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』、1968年
  • Alexander, Col. Joseph H., USMC (Ret). Closing In: Marines in the Seizure of Iwo Jima, Marines in World War II Commemorative Series, History and Museums Division, United States Marine Corps, 1994.(米国公刊戦史)
  • Bartley, Lt.Col. Whitman S., USMC. Iwo Jima: Amphibious Epic, Marines in World War II Historical Monograph, Historical Section, Division of Public Information, United States Marine Corps, 1954.(米国公刊戦史)
  • 武市銀治郎、『硫黄島―極限の戦場に刻まれた日本人の魂』、大村書店、2001年、ASIN: 4756330150

[編集] ノンフィクション

  • 上坂冬子、『硫黄島いまだ玉砕せず』、文藝春秋、1993年、ISBN: 4167298112
  • 栗林忠道、吉田津由子・編、『「玉砕総指揮官」の絵手紙』、小学館、2002年、ISBN: 4094026762
  • 堀江芳孝、『闘魂 硫黄島―小笠原兵団参謀の回想』(文庫)、光人社、2005年、ASIN: 4769824491
  • 梯久美子、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』、新潮社、2005年、ASIN: 4104774014
  • 津本陽、『名をこそ惜しめ 硫黄島 魂の記録』、文藝春秋、2005年、ASIN: 4163241507
  • 栗林忠道、半藤一利、『栗林忠道 硫黄島からの手紙』、文藝春秋、2006年、ASIN: 4163683704
  • 留守晴夫、『常に諸子の先頭に在り―陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』、慧文社、2006年 ASIN: 4905849489
  • ジェイムズ・ブラッドリー/ロン・パワーズ、島田三蔵(訳)、『硫黄島の星条旗』、文藝春秋、2002年、ISBN: 4167651173
  • ジェームズ・ブラッドレー、大島英美(訳)、『父親たちの星条旗』、イースト・プレス、2006年、ASIN: 4872577302

[編集] 映画

[編集] ドラマ

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. 硫黄島の読み方は、戦前から「いおうじま」「いおうとう」の2種類が存在していた。旧陸海軍は「いおうとう」を使っていた。今日では「いおうじま」が国土地理院地形図での表記となっている。アメリカ軍によるIwo Jimaの呼称は、旧海軍作製の海図のローマ字表記に基づくと考えられる。出典:小笠原諸島地名事典 Place Names
  2. CLOSING IN: Marines in the Seizure of Iwo Jima
  3. 『父親たちの星条旗』
  4. CLOSING IN: Marines in the Seizure of Iwo Jima
  5. 『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
  6. 硫黄島協会
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