五・一五事件
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五・一五事件(ご いちご じけん)は1932年5月15日に起こされた日本の大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校が、突如首相官邸に乱入、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅内閣総理大臣を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。
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[編集] 犯行背景
時代は1929年の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している最中であった。1931年には石原莞爾率いる関東軍の一部が暴走して満州事変を引き起こしたが、政府はこれに引きずられる形であった。犬養政権は金輸出禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年2月の総選挙で大勝をおさめた。一方、犬養は満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。しかし、1930年ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は以前から若槻襲撃の機会を狙っていた。ところが、民政党は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死してしまった。この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。つまり、本来ならば犬養は殺されるはずではなかったが間違って殺されることになったのだ。
また、犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らなかったと思われる。不況以前、大正デモクラシーといった民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義など革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたことも事実のひとつである。
本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用しているものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も事情を知らない部下を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。同じ軍人が起こした事件でも、実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いのが二・二六事件であり、これに対して殺人テロの色彩が強いのが本事件である。
本事件は、昭和天皇の勅令により、失敗に終わったとするのが、定説である。しかし、これによりこの後、斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。しかし実態は両内閣共に立憲民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが立憲政友会の総裁を暗殺した後、民政党寄りの内閣が誕生するというのは皮肉であった。また、犬養の死が満州国承認問題に影響を与えたという指摘もある。
なお、事件当時チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって標的から外された。
[編集] 「話せば分かる」
時の首相犬養毅が殺害された。「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りは有名ではあるが、決して犬養毅が最後に言った言葉ではない。“「話せば分かる」「問答無用」”というのは、この時代の政治や民間の護憲運動、武力より言論で戦うべきだという運動の高まりから生まれた言葉である。だが儒学の博識でもあった犬養自身は一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったとされる。
犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に支障をきたす恐れがあるため、犬養を見つけ次第射殺する計画であったようだが、三上隊(表から突入)と黒岩隊(裏から)が首相官邸に突入した際、三上隊が首相と出くわし、射殺しようとしたところ、犬養自ら応接室に案内し、そこで自身の考えやこれからの日本の在り方などを三上隊の将校たちは聞かされることになった。しかし、黒岩隊の突入により犬養は銃撃されてしまい、顎とこめかみに弾丸を受けた。高齢でしかも頭部に銃弾を浴びながらもしばらく息があり、その後すぐに駆け付けた家族・側近の前で、凶弾に臥した犬養は「今の若造を連れて来い。俺が話をしてやるから。」と言い残し、絶命した。
「話せば分かる」「問答無用」という言葉は時代が生んだ産物であり、現在はこの言葉だけが先走りして、史実を知るものは少ない。
[編集] 言論界の沈黙と菊竹六鼓
この事件に中央紙の「朝日」「毎日」は、事件を報道したが、その姿勢は弱腰であり「暴挙反対」の論陣さえ張らずに旗を巻く結果となった。その原因については村山龍平、本山彦一といった創業者が勅撰貴族院議員といういわば「議会人」であったにも関わらず、その首脳部は「テロの標的」となる事を恐れたとする説が根強い。この弱腰は後に情報局や同盟通信社の悪謀に乗ぜられる「新聞統制」となって顕れる。この「モノ言うべからず」の風潮に逆らう形で僅か十数万部の地方紙にすぎなかった「福岡日日新聞」(新聞統制により「西日本新聞」となる)は余りに有名な「首相、凶手に斃る」に始まる一大キャンペーンを張る。この中心となったのが菊竹六鼓である。今日までほぼ新聞界以外には無名でありつづける菊竹(その生涯は肉体的・精神的・経済的な苦しみや病苦の一生であった)を「信念の人」と呼ぶ向きは多い。
[編集] 裁判
海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締規則・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。
民間人に対する言渡刑は非常に重かった。
[編集] 関係者
[編集] 首相官邸側
- 犬養毅 - 首相・死亡
- 警備の警官のうち1名死亡 1名重傷
[編集] 加害者側
[編集] 首相官邸襲撃グループ
- 三上卓 - 海軍中尉で妙高乗組・反乱罪で有罪(禁錮15年:出所後、右翼活動家となり、三無事件に関与)
- 山岸宏 - 海軍中尉
- 村山格之 - 海軍少尉
- 黒岩勇 - 予備役海軍少尉・反乱罪で有罪(禁錮13年)
- 野村三郎 - 陸軍士官学校本科生
- 後藤映範 - 陸軍士官学校本科生
- 篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生
- 石関栄 - 陸軍士官学校本科生
- 八木春男 - 陸軍士官学校本科生
[編集] 牧野内大臣襲撃グループ
- 古賀清志 - 海軍中尉・反乱罪で有罪(禁錮15年)
- 坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生
- 菅勤 - 陸軍士官学校本科生
- 西川武敏 - 陸軍士官学校本科生
- 池松武志 - 元陸軍士官学校本科生
[編集] 立憲政友会本部襲撃グループ
- 中村義雄 - 海軍中尉
- 中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生
- 金清豊 - 陸軍士官学校本科生
- 吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生