旅順
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旅順(りょじゅん、リュイシュン)は中華人民共和国東北部の遼寧省にあった都市、及び軍港の名前である。遼東半島の最西部(突端部)にあり、天然の良港として知られてきた。現在は隣接する大連市に編入され、旅順口区となっている。
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[編集] 歴史
近代に入るまで、目立った歴史は記されていない。1858年から1860年まで戦われたアヘン戦争時、イギリス海軍のアーサー中尉指揮するフリゲートが寄港したことで、ポート・アーサー(Port Arthur, Порт-Артур)の名称が欧米に知られるようになった。
1878年に清の北洋艦隊の根拠地となる。日清戦争中の1895年には日本陸軍に占領された。この際、風刺画家として知られるフランス人従軍記者ジョルジュ・ビゴーが、日本軍が行った旅順虐殺事件を記録、国際問題となった。下関条約で旅順を含む遼東半島は日本に割譲されることに決まったが、三国干渉によって中止となる。1900年の北清事変ののち、ロシアの租借地となり、ロシア海軍の東洋艦隊の根拠地として、軍港・要塞として開発された。
日露戦争においては日本軍による旅順港閉塞作戦及び旅順攻囲戦が起こった。市郊外の丘陵である203高地などでの激戦の末、最終的に日本軍が莫大な損害の後に勝利し、1905年1月に旅順を占領した。日本は同年のポーツマス条約において清に対する租借権を正式にロシアから引き継いだ。その後、関東州として権益を有した日本の軍事的拠点となる。
第二次世界大戦末期の1945年、ソ連軍が侵攻し旅順を占領したのちは、ソ連海軍の太平洋艦隊の軍港として中華民国に認めさせた。1950年に隣接する大連と金州と合併、旅大市となり、1955年に中華人民共和国に返還される。1981年に現在の市名である大連に改称され、大連市旅順口区となった。
[編集] 現状
現在、旅順口区は506平方キロの面積を持ち、21万人の人口がいる。大連は中国の改革開放路線のトップランナーとして重要な国際都市であるが、旅順口区は中国海軍の重要な軍港のため、市の中心部などは外国人の立ち入りが規制されている。一方、203高地や水師営会見所(旅順攻囲戦でロシア軍のステッセル司令官が日本軍の乃木希典大将に降伏した場所)などは観光地として開放され、日本人観光客も訪れている。
[編集] 関連記事
フィンランドのトゥルク(フィンランドの旧首都)には、ポート・アーサーという地区がある。
日露戦争当時、フィンランドはロシア皇帝が統治するフィンランド大公国であり、独立(民族運動)の機運が高まっていた。また、日本はフィンランドの独立活動家などへ武器の輸出を行っていた。旅順における、日本の勝利は当時のフィンランド人へ大きなニュースとして伝わり、この地域を拠点に独立運動が始まっていた。
現在でもフィンランドの学校の歴史学習では、日露戦争、旅順攻囲戦などの事柄をフィンランド独立と絡めて教えている。尚、日本がフィンランド独立の為に武器援助を行った大砲が今でもトゥルク市のトゥルク城に展示されている。
[編集] 関連項目
- 旅順要塞
- 旅順要港部
- 満州国・関東州の高等教育機関