大川周明
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大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、戦前の代表的な右翼思想家の一人。
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[編集] 出自
山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。「特許植民会社制度の研究」で法学博士(1926年取得)。東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務の後、拓殖大学教授。
[編集] 戦前の活動
大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。
ルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介した人物でもある(「三重国家論」として翻訳)。
[編集] 東京裁判
太平洋戦争終戦後、A級戦犯として起訴される。東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。
大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり(軍人は坊主頭)、「インダー、コメンジー!(ドイツ語で「インド人よ来たれ!」、アメリカもインディアンを侵略したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(英語で「これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」と奇声を発するなど、少し常軌を逸した行動をとった。
翌日の法廷で、オーストラリアのウェブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、大川を裁判から除外した(この時下記のように脳梅毒に罹っていたためである)。
[編集] コーラン翻訳
大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。のち精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院に入院継続させられた。入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後、まもなくして松沢病院を退院した。
[編集] エピソード
大川は、極東裁判が始まった時から、「すべて茶番なんだ、こんなもの裁判じゃない」と周囲に漏らしていたなどといわれ、現在でも詐病説が絶えない。
ちなみに、のちにイスラーム研究者となる井筒俊彦に、精神的にも物質的にも援助をしていたのが、大川周明だった。
[編集] 代表的著作
- 『復興亜細亜の諸問題』(1922年、中公文庫)
- 『日本精神研究』(1924年)
- 『特許植民会社制度研究』(1927年)
- 『国史読本』(1931年)
- 『日本二千六百年史』(1939年)
- 『米英東亜侵略史』(1941年、第一書房)
- 『回教概論』(1942年、1991年に中公文庫から刊行)
- 『古蘭』(1950年)
- 『安楽の門』(1951年)
- 『大川周明全集』(1961年-1974年)
[編集] おもな研究書
- 松本健一『大川周明』(岩波現代文庫)
- 大塚健洋『大川周明』(中公新書)
- 『大川周明日記』(1986年)
- 『大川周明関係文書』(1998年)
- 佐藤優『日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、2006年、ISBN 409389731X)