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アドルフ・ヒトラー - Wikipedia

アドルフ・ヒトラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アドルフ・ヒトラー
Adolf Hitler
アドルフ・ヒトラー

ナチス・ドイツ 初代総統
任期: 1933年1月30日1945年4月30日
出生日: 1889年4月20日
生地: ブラウナウ・アム・イン
死亡日: 1945年4月30日
没地: ベルリン
配偶者: エヴァ・ブラウン
政党: 国家社会主義ドイツ労働者党

アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler, 1889年4月20日 - 1945年4月30日)はドイツ政治家国家社会主義ドイツ労働者党党首として極端な民族主義と反ユダヤ主義を掲げ、1933年首相となった。1934年ヒンデンブルク大統領死去に伴い大統領を兼務、総統と称した。侵略政策を進めたため第二次世界大戦を引き起こすこととなったが、ドイツの敗北が濃厚になる中で自殺した。「指導者原理」を唱え民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされる。

目次

[編集] 経歴

[編集] 出生

幼少時代
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幼少時代

1889年4月20日オーストリアドイツの国境に在る小さな町(オーストリア側の)、ブラウナウで税関吏の子として生まれる。父アロイスは小学校しか出ていなかったが税関上級事務官になった努力家であった(本来の姓はヒードラーであったが、父アロイスがヒトラーと改姓)。ヒトラー、ヒードラーなどの姓はドイツ人には極めて珍しいが、ヒドラ、ヒュードラなどの姓がチェコ人に見られることからチェコ系であるとされる。また、ヒドラチュクはウクライナ人に多い姓で、「ウク」で終わる形はウクライナの姓にしばしば見られる。

アドルフはアロイスの三番目の妻クララとの間に生まれた。血液型はA型。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(1882年 - 1955年1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)、同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イダ(1886年-1888年)、同母兄オットー(1887年 - 同年死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。

名前のアドルフは「高貴な狼」と言う意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。ドイツではアドルフはそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となった。しかし、戦後は一転して不人気な名前となる。

少年時代のヒトラーは成績不良で二回の落第と転校を経験をしており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの直感に頼り、努力が足りない」と評されている。1903年厳しかった父を亡くした後は学業を放擲し、画業に専念する。

[編集] 美術学生

ヒトラーが描いた絵
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ヒトラーが描いた絵

1905年実業学校を退学した後ウィーンで画家を志し、美術大学を受験するが二回とも失敗。教授に作品を見せたときには「君には建築家のほうが向いている」と助言を受ける。その画風は写実的だが独創性には乏しかったとされ、画題として人物よりは建築物や廃墟などの風景などを好んだ。

1907年には母を亡くしたが、ウィーンでの生活は両親の遺産や自作の絵葉書の売り上げなどによって比較的安定していた。このころのヒトラーは独身者むけの合宿所に住み、食費を切り詰めてでもオペラ座に通うほどワーグナーに心酔した。彼は毎日図書館から多くの本を借りては独学する勉強家だったと言われ、偏ってはいるものの歴史や哲学・美術などに関する豊富な知識と、ゴビノーやチェンバレンらの提起した人種理論や反ユダヤ主義などを身につけた。

かつて、歴史家の間では「ヒトラーは両親の遺産を食いつぶし、浮浪者収容所に入ることになった」という説が有力であったが、実際のところヒトラーが生活していた公共独身者合宿所はかなり贅沢な施設であった。歴史家が誤解した原因は、ヒトラーが自書「我が闘争」において若い頃に貧乏生活をしていたかのような描写をしたからと思われる。ヒトラーは若い頃の苦労を誇張するために「我が闘争」にこのような誇張した描写を入れたのであろうと考えられている。

[編集] 大戦とドイツへの移住

1913年オーストリア・ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住する。1914年に当局に逮捕されたが検査で不適格と判定され兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦にはオーストリア国籍のままドイツ帝国志願兵となり、西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊にて有能な伝令兵となった。負傷はしたが、1918年8月に一級鉄十字章を授与される。当時階級の低い兵卒に与えられることは稀であった。しかし当時のドイツは優秀な下士官の不足に苦しんでいたにもかかわらず、1914末に上等兵に昇進してからは一度も昇進することはなかった。彼の国籍や思想などが問題であったようである。

終戦の知らせを聞いたときには毒ガスによる負傷で野戦病院にいた。視力は間もなく回復したものの、喉の負傷による声の変化は戻らなかったため後の演説にみられるような独特の野太い声になった。『我が闘争』によればこのときヒトラーは祖国の誇りを取り戻すために政治家を目指すようになったという。

[編集] 政治活動

ヒトラーは敗戦後も軍の情報関係の仕事を続け、激増した新党の調査を担当していた。その一環として参加した「ドイツ労働者党」の集会で演説者をやり込めたのが党議長の目に留まり入党する。50人程度の小党であったがその理念に共感し、1920年には軍をやめ党務に専念するようになる。このころすでにヒトラーは演説者としての能力を認められており、軍からプロパガンダの講習を受けている(この講習会はドイツ国防軍第四集団、即ちバイエルン国防軍の情報課が企画したもので、反社会主義、民族主義の宣伝活動家の養成を目的としたものであった。ここでヒトラーは生まれて初めて大学の教室で右翼の大学教授や知識人の講義を聴くこととなった)。

このなかでもヒトラーの弁舌は興奮してくるとますます冴え、聞くものを引き込むヒトラーは優れたプロパガンダの才能の持ち主であった。その扇動的な演説によって多くの党員を獲得し、党の要人となったヒトラーは、退党をちらつかせるといった上層部への脅しによって独裁を認めさせ、党名を国家社会主義ドイツ労働者党と改め1921年7月29日その党首となる。そして、この頃の日本では、ヒトラーは「ヒットレル氏」として新聞報道で紹介されていた。

[編集] ミュンヘン一揆

1923年11月9日、党勢を拡大したナチ党はミュンヘンで政権の奪取をもくろみクーデターを起こす。これは前年にイタリアファシスト党が行ったローマ進軍をまねて行われたものだったが、警察・軍隊いずれの協力も得られず、州政府によって鎮圧された。この「ミュンヘン一揆」、あるいは「ヒトラー一揆」と呼ばれる事件によってヒトラーは逮捕され、ナチ党も非合法化される。逮捕の後禁錮5年の判決を受けランツベルク刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受け、この期間に課長ルドルフ・ヘスによる口述筆記で『我が闘争』が執筆されている。禁錮5年を宣告されたが1924年12月20日に釈放され、翌1925年2月27日にはナチ党を合法政党として再出発させた。また同1925年オーストリア国籍を捨てた。

[編集] 権力闘争

その後ヒトラーは合法路線で徐々に党勢を成長させる。当時のドイツは第一次世界大戦の賠償金負担と世界恐慌による苦しい経済状況が続き、大量の失業者で街は溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。その中でヴェルサイユ体制の打破を訴えアジテーターとしての才能を発揮したヒトラーは多数の支持を得て、党内左派(ナチス左派)最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利(粛清)した。共産党の排撃を訴え、ソ連のような事態を恐れる資本家からも援助を受けて力をつけたヒトラーは、1932年に正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬する。このときは、現役のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領に敗れたものの、30%の票を獲得しており、第二回の決選投票でも37%の得票を得た。

[編集] 総統就任

新内閣のメンバーとともに(1933年)
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新内閣のメンバーとともに(1933年)
ニュルンベルグで行われた党大会(1934年)
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ニュルンベルグで行われた党大会(1934年)

ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く国会議員選挙では単独過半数に至らなかったが、ナチ党を国会の第一党に押し上げた。議会の要請に従い、ヒンデンブルク大統領は1933年1月30日ヒトラーを首相に任命する。ヒトラーは1933年3月24日全権委任法」を制定、1934年6月30日には「長いナイフの夜」によって突撃隊の参謀長エルンスト・レームを初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清し、独裁体制を固める。

1934年6月14日には、自らの政権運営の手本としていたイタリア総統ベニート・ムッソリーニと初会見しているが、ヒトラーを新参者と見下していたムッソリーニは、このときヒトラーを「道化者」と評している。

1934年8月2日ヒンデンブルク大統領の死後、8月19日の国民投票によってヒトラーは、空席となった国家元首の大統領職を代行し、政府首班の首相職に就き、国民に従来通りに Führerと呼ぶことを求めた。

[編集] 経済政策

その後、1935年にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言し、経済大臣にヒャルマル・シャハトを任命し、シャハトはフランクリン・ルーズベルトニューディール政策に酷似した経済政策を実行する。クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、国家の総力を挙げた大々的な再軍備を開始するとともに、自動車産業(→フォルクスワーゲン)の育成、また公共事業としてアウトバーンの建設を行い、この一大事業で街中を埋め尽くしていた失業者はほとんどいなくなったと言われることもある。また、1936年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を開催し成功を収めている。

しかし、これらは担保なく札束刷っての自動車操業である他、軍需に依存した一時的な景気回復であり、戦争が絶対的な前提にあった。その為、国内外の専門家だけでなく、ナチスの幹部さえも第三帝国は限りがない戦争のせいで負けて滅ぶか、財政赤字で破綻して滅ぶかの何れかに至ると考えていた。また、ヒトラーは極単純な指示をシャハトに下しただけであり、政策自体はヒトラーが粛清したクルト・フォン・シュライヒャーが計画したものであった。ヒトラー自身の経済観は当時ドイツで主流であったマルクス経済学の経済原論などに影響を受けている[1]

[編集] ユダヤ人迫害と「生存圏の拡大」

ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和するものの、国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく。1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策が本格化してゆく。

また一方でスペイン内戦への介入、「ニュルンベルク法」制定、ラインラント進駐などの政策を実行し、合わせて日本とイタリアとの間に日独伊三国軍事同盟を結び、ヒトラーが唾棄していたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦に対抗するなど、ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった。その最終目的は『我が闘争』に示されたように東方における「生存圏」の獲得であった。その後周辺国の数回にわたる併合(1938年オーストリア1939年チェコスロバキア)を行う。これらのドイツの動きに対してイギリスやフランス、アメリカなどは懸念をするものの、直接的な軍事対立を避けるために事実上黙認していた。

[編集] 第二次世界大戦

強制移送されるユダヤ人
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強制移送されるユダヤ人

その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、ネヴィル・チェンバレン政権下においては軍備を整える時間稼ぎのため、ミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。このためヒトラーはチェコの実質的な併合などの領土拡張政策を推し進めることになる。

ヒトラーは更にポーランドに対して、ダンツィヒ自由市及び東プロイセンとの間の回廊地帯を要求したが、ポーランドは英仏の保証を受けて抵抗した。こうした中ヒトラーはソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の1939年9月1日ポーランド侵攻を開始したが、同9月3日にこれに対してイギリスとフランスはドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。1940年7月31日には国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。

ドイツ軍は空軍の支援の下機甲部隊を主力とした電撃戦によってポーランドをたちまち占領した。1940年に入ると、デンマークとノルウェーを相次いで占領し、更に西部ではベネルックス三国の制圧に続いてフランスを打倒してヒトラー自ら第一次大戦の降伏文書の調印場である因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との談判にのぞんだ。しかしイギリス侵攻はバトル・オブ・ブリテンでの敗北により果たせなかった。1941年にはユーゴスラビアとギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。同年6月22日に始まったソ連侵攻のバルバロッサ作戦においては12月にはモスクワまであとわずかのところまでに迫る勢いであったものの、補給難と冬の到来によってドイツ軍の戦力は限界に達し、後退を余儀なくされた。ヒトラーは陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任して自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁して、何とか戦線の全面崩壊は免れた。日本軍によるイギリス領マレー半島侵攻と、それに続くアメリカ、ハワイ真珠湾攻撃の直後の1941年12月11日の演説では「我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ。」と日本を賞賛し、日本に続いてアメリカに宣戦を布告した。また、1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示し、いわゆるホロコーストを本格化させた。

その後、開戦から3年目に入った1942年には、再び東部戦線と北アフリカでドイツ軍は攻勢に転じたが、やがて、東部戦線でのスターリングラード攻防戦アフリカ戦線でのエル・アラメインの戦いなどでの敗北により、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなり、1943年には東部戦線でのドイツ軍の最後の大攻勢であるクルスクの戦いでの攻勢失敗や、枢軸国の一員であったイタリア・バドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれた。ヒトラーは大戦末期は「狼の巣」と名づけた地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発による奇跡の大逆転を望む日々を過ごした。1944年には、ノルマンディー上陸作戦の成功による西部での第二戦線の確立と、東部戦線でのソ連の大攻勢(バグラチオン作戦による中央軍集団の壊滅)などにより、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。

1944年7月20日、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡・負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、エルヴィン・ロンメル元帥と、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥も、かかわりを疑われて自殺した。

ヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したエルヴィン・ロンメルエーリッヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グーデリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

ヒトラーは、しばしば政治上・経済上の必要性を重視するあまり戦略的に意味のない地域の確保にこだわったり、無謀な拠点死守命令を出したりして敗北の原因を作った。また形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係が険悪になった。しかし、最後の声明に到っても戦争に負けた原因を国防軍にあるとして非難した。

[編集] 敗北・自殺

ベルリンの国会議事堂に突入したソ連軍
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ベルリンの国会議事堂に突入したソ連軍
ヒトラーの死を伝えるアメリカ軍の新聞
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ヒトラーの死を伝えるアメリカ軍の新聞

1944年12月からのアルデンヌ攻勢ではヒトラーの賭けは一時的には成功したかに見えたが、結局はドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった。その後ライン川を突破されたドイツ軍は、ヒトラーの命により3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量を前に失敗する。この主要戦線から離れた所で行われた無意味な作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、アルベルト・シュペーア軍需相は聞き入れずほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。

1945年4月29日に、ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と結婚式を挙げる。その翌日、総統官邸地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。ヒトラーの地位の後継は遺言によって、大統領職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党首にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名している。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用いたが(毒を仰いだという説もあり、真相は不明)、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れたヒトラーの遺体は140ℓガソリンをかけて焼却されたため、死亡は側近らの証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった(この数年後ヒトラーの遺灰はソ連の飛行機によって空中散布された)ため西側諸国には疑わしい部分が残り、後に「同盟国である日本に潜水艦で逃亡した」、「戦前から友好関係を保っていたアルゼンチンチリなどの南米諸国に潜水艦で逃亡した」というようなヒトラー生存説が唱えられる原因となった。また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、英米軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった。そのため、米英ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。

敗北が迫ると、ヒトラーは七年戦争におけるフリードリヒ大王ブランデンブルクの奇跡を引き合いに出して、最後まで勝利を信じて疑わなかったという。また、晩年のヒトラーはパーキンソン病に罹患していたことが知られている。

[編集] ヒトラー生存説

ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチ高官がUボートを使用したり、バチカンなどの友好国の協力を受け、イタリアやスペイン北欧を経由してアルゼンチンチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。 アメリカやイギリスなどの西側諸国もその可能性を本気で探ったものの、後に正式に否定されている。

それらの噂には、まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命したという説や、アルゼンチン経由で戦前に南極に作られたナチスの探検基地まで逃げたという突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。 この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。 またヒトラーは死ぬ間際(いつ死んだかは正確ではないが)に、「第二のヒトラーは腹の真ん中に黒点を持つ男だ」といわゆる自身の生まれ変わりを仄めかすような発言をしたという逸話がある。

[編集] 我が闘争

ナチズムの聖典というべきヒトラーの著書『我が闘争』はナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。このなかでヒトラーはアーリア民族の人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いており、後に同盟をくむ日本もまた二流民族として扱われていた(詳細は下記参照)。現在のドイツでは『我が闘争』は反ナチ法(扇動法)に基づき発禁本のリストの中に入っている。独の哲学者、ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーのマッチョ的な完全支配のような考えを、「力こそがすべて」という本書から誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘される。

但し、ヒトラー自身は、後に「既に過去の著作物であり、必ずしも現状とは一致しない」旨のメモ類を残しているらしいが、ナチス政権時のサーキュレーション数字からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが終始確認されている。

[編集] ヒトラー=ユダヤ人説

ヒトラーの父アロイスの出生には不明な点があり、ヒトラー=ユダヤ人説の根拠となっていた。手塚治虫のフィクション漫画『アドルフに告ぐ』では物語のメインテーマとなった。異母兄アロイスII世の子パトリック・ヒトラーが英米のマスコミにアロイスの父親がユダヤ人である可能性があると吹聴したことに原因であると思われる。ヒトラー自身もこのことをかなり気にして、当時ヒトラーの顧問弁護士であったハンス・フランク(後のポーランド総督)に調査を命じている。フランクの調査によると、アロイス・ヒトラーは1837年6月7日マリーア・シックルグルバーの私生児としてグラーツで生まれているが、マリーアの奉公していたユダヤ人フランケンベルガーはアロイスが14才になるまで養育費を支払っていたとされ、ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人フランケンベルガーだったのではないかと疑っていた。しかしグラーツ大学教授プレラドヴィクの戦後の研究によると、この地方に1956年以前にユダヤ人が居住していたという記録はなく、ヒトラーの祖父がユダヤ人だった可能性はないとされ、現在ではヒトラー=ユダヤ人説は否定されている。

また、父アロイスの父と母クララの祖父は同一人物で、二人はおじと姪の関係(近親交配)であったが、戸籍上はアロイスの父の弟がアロイスの父であったため結婚が許された。クララは六人の子供を生んだが四人が幼いうちに死亡した。

[編集] ヒトラーと反ユダヤ主義

ヒトラー本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された生粋の反ユダヤ主義者と見なされる傾向が強い。しかし、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつ反ユダヤ主義に心酔したのか判断するのは難しい。

ヒトラーの母親を治療した医師はユダヤ人であった。この医師は手厚く保護され、外国に解放された。

ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン時代に反ユダヤ主義者になったと見られているが、ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。また、ヒトラーを鉄十字章叙勲のために推薦した上官もユダヤ人であった。戦後ヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人もユダヤ人で、ヒトラーはユダヤ人管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていた。党勢の拡大とともにヒトラーはそのアパートを引き払った。しかし、管理人夫婦は「名誉アーリア人」として保護されている。[要出典]

第二次大戦中にある貴婦人が、ユダヤ人が次々と逮捕されて列車に詰め込まれていることについて、ヒトラーが知らないところで行われていると信じ、ヒトラーに善処を訴えたところ、ヒトラーは激怒して「その問題にあなたが口を挟む権限はない」と言い、その貴婦人は二度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。

[編集] 女性関係

ヒトラーは死の直前まで結婚しなかったが、それは政治家として女性からの支持を得るには独身のほうが都合がよいと考えていたためだという。ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人とみなした。ヒトラーからアプローチをうけたと称する女性も少なくないが、ヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ・ブラウンのみである。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月はじめのことで、ナチ党専属写真師ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。しかし結婚を望むエヴァにヒトラーは応えなかった。1932年11月1日エヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密におさまった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後二人の関係はいっそう深まった。エヴァは正式な結婚をあきらめ、愛人としてひたすらヒトラーを待つ生活を忍ぶことになる。この関係は生涯続き、ベルリンの陥落が間近に迫ったときもエヴァはヒトラーの元に留まっている。1945年4月29日結婚し翌日自殺したが、周囲の人々にはとうとう結婚できた自分の幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。

また、第一次世界大戦の時、部隊の駐屯地であったフランス北部で現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたとの説もある。30年ほど前、テレビ番組に出演するためにその男性は来日している。第二次世界大戦時はゲシュタポの監視に置かれたが経済的に支援を受けたと主張していた。真偽のほどは不明である。

ヒトラーは女優グレタ・ガルボのファンで、ガルボの映画を官邸でよく鑑賞していた。

作曲家リヒャルト・ヴァーグナーの息子ジークフリートの未亡人ヴィニフレート・ヴァーグナーと恋愛関係にあったとも言われる。実際、ヒトラーとヴィニフレートが結婚するとの噂が何度も流れた。ヴァーグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けたバイロイト音楽祭は国家行事化していた。

[編集] 日本観、日本人観

日本人は『我が闘争』内において、二流民族として「模倣のみに優れ、反映によってのみ輝く月のような存在」として「太陽のごとき」アーリア民族の下に置かれている、所謂月光文化として日本を述べている。ただしこの評価は、第二次世界大戦以前の有色人種に対する欧米の指導者の考えとしては特別酷いものではない。この記述は戦前戦中の日本の版では削除されている。

日本に日独防共協定(後の日独伊三国同盟)の提携を申し込んでおきながら無断で独ソ不可侵条約を結ぶなど、日本を軽視していたとも取れる政策もとっている(これには反発もあったが、当時から日本国内にはソ連を含めた四国同盟を結ぶべきだという主張もあり、後に日ソ中立条約が結ばれている。もっとも、日ソ中立条約締結の2ヵ月後に独ソ戦が開始された)。

日独防共協定が締結されると、ヒトラーは日本人を「東方アーリア人」と呼び、アジア人の中で特別な存在、ドイツ人に近い存在と位置づけるようになった。ヒトラーやローゼンベルクが説いたナチスの人種主義では、あくまで純血と注意した上で、古代インドのアーリヤを高く評価しており、カーストをMadrasisから純血を守る方法としている。またヒンドゥー教に強い影響を受けていることからチベットもアーリヤとしている。

また、坂本龍馬について、当時の一般的な日本人よりも精通していたという。1939年2月28日にベルリンの国立博物館で開催された日本古美術展を見学した。この時ヒトラーは平清盛像に非常に関心を寄せたと言われている。

後に太平洋戦争が勃発した際には、「真実と正義の歴史を持つ誇り高き民族」にまで持ち上げられていた。しかしこれは国民向けの戦意高揚の為という見方もある。香港シンガポールが陥落したときには遺憾の意を表し、日本外務省を混乱させた。これは民族的にも近いとしていたイギリスがアジアの国である日本軍によって簡単に敗北した事に対しての嘆きにも近いと言える。

自殺する直前ヒトラーは「日本はドイツの全ての歴史において最良の同盟国である」と残している。これは過去の戦争の歴史において幾度となく同盟国の裏切りによって敗北したドイツにとって、ドイツが敗北するその日まで同盟関係を続けた唯一の国である日本に対しての評価とも言える。

[編集] 人物像

[編集] 体格

ヒトラーは自分の身長(173センチ)が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていたとされる。また、ナチスの幹部になるには「アーリア人的容姿」の要項を満たしていななければならなかったため、親衛隊高官は2メートル近い者を含む長身が多く、会話をする時は憂鬱な気分になっていたという。(ただし、ヒトラーの従僕であるリンゲはそのことを否定している。)また、現実のナチス高官は理想的なアーリア人種の体格とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とは、ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)とある。

当時のドイツ人全体の平均では必ずしもヒトラーは小柄ではなかったが、「チビのチョビ髭」というイメージがチャップリンの映画『独裁者』以降定着した。なお、ヒトラーはチャップリンの映画『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は遺されていない。

また、ヒトラーには睾丸が一つしかなかったといわれるが、ヒトラーの主治医はこれを否定した。

ヒトラーは碧眼で少年時には金髪であったが、成長すると髪の毛は黒色になったという説がある。また、遺伝的に薄毛で、前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。

テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている。(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。

[編集] 食生活

また、母がタバコ嫌いだった為か、自らはタバコを吸わず健康に気を遣い、部下やナチス高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙するよう勧めるほどであったという。女性を含め、ヒトラーの部下や周辺人物の殆どが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙するのは厳禁であった。さらに父が酒好きで酒場で卒中をおこして死亡した為か、飲酒も殆どしなかった。偏愛した姪のゲリの自殺後は専ら菜食主義であったが、戦時中には菜食主義団体を弾圧するなどしたため、菜食主義者の系譜には連ならない(歴史学者 Rynn BerryHitler: Neither Vegetarian Nor Animal Lover には否定されている)。

身の回りの女性や子供に対しては親切で寛容であったという。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれていた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。

[編集] 愛犬家

ヒトラーが犬好きであったのは有名である。第一次世界大戦に従軍した時、戦場でテリア犬を拾い、フクスルと名付け、餌を与え芸を仕込むなど可愛がった。その後、フクスルの芸に惚れ込んだ鉄道員によりフクスルは盗まれた。

政治家に転身後もヒトラーは数頭の犬を飼っている。大成した後のヒトラーの愛犬はアルザス犬のブロンディーである。ブロンディーは1945年4月末、ヒトラーの妻エヴァが使用する毒薬の効能確認として薬殺された。死体はヒトラーと共に焼かれた。

[編集] 関連項目

[編集] ヒトラーを演じた俳優

[編集] 映画

他、下記作品でもヒトラー役の俳優が出演する。

  • 『ファーザーランド/生きていたヒトラー』(クリストファー・メノール監督。原題:FATHERLAND)
  • 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(スティーヴン・スピルバーグ監督。原題:Indiana Jones and the Last Crusade)
  • 『ベルリン陥落』(ミハイル・チアウレリ監督)
  • 『ヨーロッパの解放』(イーゴリ・スラブネヴィチ監督)

[編集] 舞台

[編集] ヒトラーを取り扱ったドキュメンタリー

[編集] 参考文献

  • ヒトラーのテーブル・トーク 上・下(三交社)
  • わが闘争 上・下(角川文庫

[編集] 外部リンク

首相
ドイツの首相
1933年-1945年
先代:
クルト・フォン・シュライヒャー
次代:
ヨーゼフ・ゲッベルス
総統
ドイツの大統領
1934年-1945年
先代:
パウル・フォン・ヒンデンブルク
大統領
次代:
カール・デーニッツ

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