植民地
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植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。殖民地とも表記する。古くは古代ギリシアや古代ローマなどにも見られるが以下では近世以降について扱う。 近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にある領土を植民地という。
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[編集] 概要
植民地獲得の動機・要因には、主に以下のようなものがある。
- 本国に隣接した地域への領土拡大
- 本国民を移住させるための開拓地獲得
- 宗教的使命による布教地拡大
- 本国や既得植民地、海上交通路の防衛のための要塞や緩衝地確保
- 天然資源や労働力、市場の確保
- 他国の植民地とされる前に勢力圏として確保
植民地の統治形態には、(ア)本国は外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領、(イ)現地の王や族長を通じて支配する間接統治、(ウ)本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治、などがある。また(エ)本国は外交、防衛のみを担当し内政は現地住民によって構成される政府・議会に委ねる自治植民地もあるが、この場合その参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されるのが通常だった。一般的に植民地統治が継続する中で(ア)→(イ)→(ウ)→(エ)の変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を失っていく傾向にある。
植民地における主権は領有国が有するが、特殊な形態として租借地や租界、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがあった。
植民地では先住民の反乱や独立運動を抑圧するために、本国とは異なった法律が施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは別個の法的身分に編入され、参政権や基本的人権の保障が制限された(イギリス国民や本項目の日本の植民地を参照)。
現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、国連総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域にケイマン諸島などがある。
逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、西ドイツの植民地支配を受けていると主張する人もいる。
あるいは、少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われている地域を通俗的には植民地と呼ぶこともある。
[編集] 植民地支配に対する評価
1960年に国連総会で決議された植民地独立付与宣言によって植民地支配が暫時消滅すべきものとされたが、かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であった。今日では、旧植民地国側では当然被害、搾取の時代として否定される傾向にあるが、旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域に齎した善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配が住民に与える文化的、心理的ダメージを重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。
[編集] ヨーロッパ諸国
マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。
[編集] スペインとポルトガル
ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。
ポルトガルとスペインの領域を分けたのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。
ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。17世紀に入り、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。
スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが、勃興するイギリス帝国の経済支配下に置かれ、さらに王朝交代によりその支配力は急激に弱体化した。1810年に至ると、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じ、独立を試みる。植民地当局に対し、現地生まれのクリオーリョはその後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。
[編集] イギリス
イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸に植民し、ニューイングランド植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社はインドの諸勢力を巧みに操ってインドに植民地を広げる。七年戦争ではフランスと争い、カナダを獲得、インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。
19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することになる。その植民地はあまりにも多くてすべてを列挙することはできないが、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。また1997年には香港を中華人民共和国に返還している。
ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。
[編集] フランス
フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府が強行した核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のシラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を強行、今も解放闘争が続いている。
[編集] オランダ
オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれる。20世紀に入っても東インド植民地(インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行った。
20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っている。
[編集] その他のヨーロッパ諸国
- ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていたが第一次世界大戦敗北により喪失した。
- イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失した。
- ベルギーはベルリン会議の決議としてベルギー領コンゴ(ザイール共和国、のちのコンゴ民主共和国の領域)を保持していた。1908年にベルギー国王の私有地であるコンゴ自由国からベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。1960年にコンゴ共和国として独立。コンゴの東に隣接するルワンダ・ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)は第一次世界大戦後に獲得した植民地である。
- デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつてはデンマーク領であった。大航海時代には、デンマーク海上帝国として、デンマーク領西インド諸島、インドのニコバル諸島に植民地を保有していた。後に前者はアメリカ合衆国、後者はイギリスに売却された。植民としてよりも海運業が盛んだった。
- スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。植民よりも貿易に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会におけるスウェーデン社会は深く浸透しており、その影響力は非常に大きい。1784年には、フランスから西インド諸島の小島を買取り、西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖されている。若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系の住民が多い。
- ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。また南極の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。
- プロイセン公国(ドイツ帝国の前身)は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わる。
なお、オマーンも17世紀にはインド洋に海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)やパキスタン沿岸のグワダルを保有した。
[編集] アメリカ合衆国
アメリカはイギリスから植民地13州を割譲されて独立したが、その後もイギリス・フランス・スペイン・メキシコから植民地や領土を割譲されまたは買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収、ハワイを併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、キューバやフィリピンを植民地化した。もっとも、キューバはすぐに独立させ、フィリピンも1944年に独立させることを約束していた。
アメリカは植民地を直接経営するよりも、独立した国家を間接的に支配することを好んだ。建国の成り立ちからして、アメリカには他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多い。しかし、帝国主義の時代の波に乗り遅れるわけにも行かないため、こういうことになった。米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治・経済的に影響下に置いた。これは直接には植民地としていないが、「経済植民地」とでもいえる状態に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送るなど、主権を無視した内政干渉を繰り返した。この体制は、中米において現在も変わっていない。フィリピンは第二次世界大戦後に独立、 ハワイは州に昇格して連邦を構成し、戦後に日本から獲得した南洋諸島も北マリアナ諸島を除いて独立した。なお、中米にはプエルトリコが、自治領として存続している。プエルトリコもマリアナも、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの治下にとどまっている。
[編集] ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)
ロシアは15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧した。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。
東方の併合が済むと、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は第一次世界大戦によってドイツ、日本などとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅んだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国が、新たに連邦に加盟した。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然であった。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。
[編集] 日本
日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もある。 しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的である。
- 台湾(下関条約による割譲)
- 南樺太(ポーツマス条約による割譲)
- 関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
- 朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
- 南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。
- ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入された。
日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかである。(1を参照)。 法令による規定を見ても(1)内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、(2)外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと(3)樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について植民地と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかが議論の遡上にのぼることはほとんどない。ただし、それ以外の論壇誌やインターネット上のウェブサイト等における主張などでは同年代に植民地と呼ばれた地域とはその内実が異なる(欧米のそれが非人道的、非合法、収奪的であるのに対し日本のそれは人道的、合法、恩恵的である、など)という認識から植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もある。
また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もある(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。
[編集] 中国
中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)などを中華民国から継承したが、これらの地域は法制上は完全に他の中国省区、内地と同格であり、住民は中華人民共和国公民としての完全な公民権を享有しているという点からは植民地とは言い難い。しかしながら、これらの地域では独立運動の弾圧や民族文化の抑圧が行われているため、通俗的には植民地であるという理解がなされることが多い。特に「東トルキスタン」やチベットには、その傾向が強く、チベット亡命政府や東トルキスタン亡命政府などの独立や自治を目指す諸団体は中国の植民地支配という表現を好んで使用している。チベットは、現在も強権的な独立気運の封じ込めが継続しており、植民地支配からの独立という論理を以って解釈するケースもある。
[編集] イスラエル
イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である、と主張する者もいる(エドワード・サイードなど(?)。反論もある)。第一次世界大戦にオスマントルコが敗北すると、中東・アラブ地域は新たにイギリス・フランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナは委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパやアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。
アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。
また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに入植する場合あり、パレスチナ問題を複雑にしている。
[編集] 関連項目
- アフリカ分割
- 海外領土・自治領の一覧
- 大英帝国
- ポルトガル海上帝国
- オランダ海上帝国
- フランス植民地帝国
- 侵略
- 脱植民地化
- 植民地主義
- 奴隷貿易
- アメリカ帝国
- 帝国
- ヴァイキング
- 民族紛争
- アメリカ大陸諸国の独立年表
- アジア・アフリカ諸国の独立年表
- レジスタンス運動
- 東インド会社
- P&O