吉田茂
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吉田 茂(よしだ しげる、明治11年(1878年)9月22日 ‐ 昭和42年(1967年)10月20日)は大正・昭和期における日本の外交官・政治家。
内閣総理大臣(45・48 ‐ 51代)。外務大臣。衆議院議員(7期)。貴族院議員(1期)。従一位大勲位。
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[編集] 概要
[編集] 生い立ち
- 1878年(明治11年)9月22日、 竹内綱(現・高知県宿毛市出身の自由民権運動家)の5男として東京神田(現・東京都千代田区)に生まれた。
- 1881年(明治14年)8月、旧福井藩士で横浜の貿易商・吉田健三の養子となる。
- 1906年(明治39年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業。9月、外交官及び領事官試験合格。
[編集] 外務官僚時代
- 1906年(明治39年)11月、外務省に入省。領事官補として天津で勤務。
- 1907年(明治40年)、奉天領事館に勤務した。
- 1909年(明治42年)、牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに勤務。
- 1912年、帰国した。その後天津総領事、奉天総領事を経て田中義一内閣の下で外務事務次官、駐伊大使、駐英大使等を歴任した。
- 外務省時代の吉田の行動を見てみると、田中義一内閣で森恪(政務次官)とともに外務次官を務めてその外交政策を支えるなど、その立場は「英米協調派」ではなく、有田八郎らと同じ「アジア派」に属すると言われている。だが、イギリスのネヴィル・チェンバレンとは個人的に親しく、政治思想的にはナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父である牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」と看做された。二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使として日英の和平を目指すが、本国の情勢を無視した和平案ばかり提出し英国側からはさめた目で見られていた。日独伊三国同盟に反対していた。
- 1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。
- 帰国後は対米強硬策をとる近衛文麿内閣に突然書簡で総辞職を要求した。東条英機内閣が成立すると東郷茂徳外相に対し、幣原喜重郎と協議して決めた和平案を提出するが、和平がならないとみると東郷に閣内不一致で総辞職に持ち込むよう要求したが東郷はきかなかった。
- 太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)。宇垣一成を首相に担ぎ出し皇道派と提携させ早期終戦を計画するも中野正剛の自殺や宇垣の非協力的態度からこれを諦めた。
- ミッドウェー大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが木戸幸一に握りつぶされる。東条英機重病の噂が流れると殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討、吉田自身が外相となる皇道派内閣を計画するが、海軍の不協力と皇道派はソ連を刺激するという反対にあい挫折。書生として吉田邸に潜入したスパイによって1945年2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束されるも40日後に仮釈放、後に不起訴とされた。これは吉田と懇意の間柄だった阿南惟幾陸相による裁断の結果だと言われている。
[編集] 第二次世界大戦後
- 重光葵の後をうけて東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣となり、つづく幣原喜重郎内閣においても外相を務めた。外相在任中の1945年12月には、貴族院議員に任命された。公職追放となった鳩山一郎の要請で急遽日本自由党の総裁となった。
- 1946年5月、首相に就任し第1次吉田内閣を組織した。選挙を経ていない、非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)では最後の首相である。
- 1947年5月、日本国憲法の発布にともなう第23回総選挙では、日本国憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、竹内綱の選挙区であった高知全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は、第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず、吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという「憲政の常道」を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い下野した。こうして初の社会党政権である片山哲内閣が成立したが、長続きせず、続く芦田均内閣も1948年、昭電疑獄により瓦解した。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し第3次内閣を発足させた。
- 朝鮮戦争の勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結、同日日米安全保障条約を結んだ。以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などあった。
- 1954年12月7日に内閣総理大臣と自由党総裁を辞任した。日本で5回の内閣総理大臣になったのは今日でも吉田茂ただ1人である。ちなみにこれに次ぐのが伊藤博文であり、伊藤は4回組閣している。
[編集] 首相辞任後
- 1955年の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党する。
- 1962年皇學館大學総長就任。
- 1963年10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。
- 1964年、日中貿易覚書にともなう中共との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた台湾を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により、大勲位菊花大綬章を受章。
- 1967年(昭和42年)10月20日、死去。
- 1967年10月31日、第二次世界大戦後初の国葬が日本武道館で執り行われた。戒名は叡光院殿徹誉明徳素涯大居士。墓所は港区の青山霊園。
[編集] 吉田学校
[編集] 人格・言動
[編集] 『戦後』の始まり
- 首相になったのは、半ば騙された形での総裁就任からであった。公職追放で日本自由党の人材は枯れに枯れ、戦後政治を左翼に渡すわけにはいかないという危機感もあり、ピンチヒッターとして吉田に白羽の矢を立てたのだった。目論見が判明した瞬間は、党から首相就任を告げられた際である。当然吉田家は大混乱に陥った。
- 吉田家の主治医をしていた武見太郎が党に猛抗議すると共に、吉田に対して「あなたには首相は無理だ、あなたは政治家ではなく外交官だ」と説得し、辞退するよう迫った。娘・和子も、父親のかんしゃく持ちを心配していた。だが吉田には密かに信念と自信があった。彼は大英連邦史に精通し、特にアメリカ独立戦争敗退後のイギリス研究をライフワークとしていた。戦後日本をこの知識に賭けるチャンスがやってきた、そう確信し、武見と和子に言い放った言葉が、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」。
安全と繁栄、最強の国際基軸、目指すのは日本版ウィーン体制 ─ この瞬間から、日本の戦後史は始まった。
[編集] 孤独なるサイン
- 日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を団長とする派遣団を結成したが、その中には側近池田勇人もいた。彼もまた、日米協調派だった。出発前から全面講和派や平和主義者に総攻撃され、さすがの吉田も疲弊していた。
- 講和条約調印後、吉田は池田を呼びつけ、「君はついてくるな」と命じた。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さん、というのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じく全権委員でもある池田は憤慨し、半ば体当たりで吉田のタクシーに体を割り込ませて乗車。向かった先はゴールデンゲートブリッジ、プレサリオ将校クラブの一室。ここで、マスコミもテレビカメラも傍聴も無く日米安全保障条約調印が行われるのだったが、吉田はそこでも池田らを部屋から追い出し、ついに一人でサインした。彼らを日米安保否定派の攻撃から守るためだった。
[編集] 分割統治案
- 首相在任中に示された連合国(アメリカ・ソ連・中国・イギリスら)による分割統治案に対し、吉田は「冗談じゃありませんよ」の一言で一蹴、拒否したという。連合国と敗戦国である日本の能力には大きな差があるものの、吉田のこの一言が、日本の領土分断の危機を回避するのに一役買った、とする見解もある。
[編集] マッカーサーとの関係
- 連合国総司令官マッカーサーと初対面した時、葉巻きタバコをすすめられたが「それはマニラでしょう?私はハバナしか吸いません」と断り、評価されたという。このエピソードは、マッカーサーに葉巻を勧められた吉田が、懐から日本の紙巻タバコ「光」を取り出して「私はこれしか吸わないのです」と言った、という話に改変され、第2次内閣での解散・総選挙の際、吉田が「贅沢をしない、国産品を愛用する愛国者」であることを示すエピソードとして、吉田の率いる民主自由党の候補者によって喧伝された。
- 吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任されるまで親密であった。前述のエピソードに示されているが、吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」(good loser)としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。
- 一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。
- 復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは重病を患っており来日出来なかった。マッカーサーはオリンピック以前に死去し、吉田はその葬儀に参列した。
[編集] ユーモア
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。有名な例として、以下のやりとりがある。
- 知人であった寺内正毅(田中義一とする説もある)が首相になった時、祝いを述べに行った吉田は寺内から総理秘書官就任の要請を受けた。だが、吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。
- 昭和天皇から血色がいいねと言われた際に、吉田の返答は「わたしは人を喰っていますので」。
- ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人が「いない」と言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
- 名ヴァイオリニストのユーディ・メニューインが来日公演を行った際、日比谷公会堂で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、「大変立派なピアノ演奏でした」と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判されたが、その日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えず、逆に伴奏のピアノ演奏の方が立派だったので、吉田はむしろ音楽がわかる人間だったようだ。
- 皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)と返答した(それに対して皇太子からは吉田さんのようにはいかないと応じ苦笑したとされる)。
- 憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ(General Head Quarters)というが、実は、『Go Home Quickly』の略語だというものもあるくらいだ。」と、吉田らしい辛辣な皮肉をこめた答えを返した。
- 単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼ってるだろう?」と持ちかけ、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。だが30年後に思いやり予算問題が出現。
- GHQに提出した統計資料の数値が根拠に乏しくマッカーサーの怒りをかった事があった。それに対して、「統計がまともに取れるくらいなら、あなたの国とあんな無謀な戦争はやらなかったでしょう」と返した。これにはマッカーサーも苦笑するしかなかったという。
- 晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり(天皇)陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。
[編集] 性格
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。
- 1947年(昭和22年)、GHQにより公認された労働組合がストライキを乱発し、政治闘争路線を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(参照 - 二・一ゼネスト)。
- 保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせた迷言であった。
- サンフランシスコ平和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を一蹴したのであった。
- サンフランシスコ平和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれるなどした。当の吉田も後に回顧録(吉田茂『回想十年』)で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と語っている。
- 上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
- 吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて天皇から注意を受けたことがある。
- 1952年に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたことがある。
- 1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨み、昭和天皇に自ら「臣・茂」と称した。
- これら吉田の行動は、当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画で大勢の漫画家が、辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
- 駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
- 首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
- 血液型はO型。
[編集] 一族
[編集] 家族・親族
- 実父・竹内綱(実業家、政治家)
- 実母・瀧(実業家・藤田九平の娘)
- 実兄・明太郎(実業家、政治家)
- 養父・吉田健三(旧福井藩士、実業家)
- 養母・士子(佐藤一斎(儒学者)の孫娘、士族・東京府官吏・佐藤新九郎の娘)
- 岳父・牧野伸顕(旧薩摩藩士、政治家、伯爵、大久保利通の三男)
- 妻・雪子(二男三女を産む)
- 長男・健一(英文学者)
- 次男・正男(東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任)
- 長女・桜子(夫・吉田寛(外交官)。吉田寛は岸信介・佐藤栄作兄弟とは従兄弟にあたり、元外相松岡洋右の甥にあたる)
- 三女・和子(夫・麻生太賀吉(実業家、政治家)和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり2人の仲人をつとめた)
- 孫・麻生太郎(実業家、政治家)
- 孫・寛仁親王妃信子
- 孫・野田昌宏(小説家、翻訳家)
[編集] 系譜
- 吉田氏
竹内庄右衛門━━綱 ┣━┓ 瀧 ┃ ┃ 吉田健三……茂 ┏健一 ┣━━┣桜子 雪子 ┣正男 ┣江子 ┗和子 ┏太郎 ┣━━┣泰 麻生太賀吉 ┣雪子 ┣旦子 ┗信子 ┃ 三笠宮寛仁親王
[編集] 略歴
[編集] 経歴
- 明治11年(1878年)
- 9月22日 出生(父・竹内綱、母・瀧)。
- 明治14年(1881年)
- 8月 吉田健三・士子と養子縁組。
- 明治27年(1894年)
- 明治28年(1895年)
- 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学。
- 明治29年(1896年)
- 明治34年(1901年)
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)
- 2月 奉天在勤。
- 明治42年(1909年)
- 12月 大使館三等書記官・イタリア在勤。
- 大正元年(1912年)
- 8月 安東領事。
- 大正5年(1916年)
- 8月 二等書記官・米国在勤。
- 大正6年(1917年)
- 7月 文書課長心得。
- 大正7年(1917年)
- 2月 済南領事。
- 大正8年(1919年)
- 2月 第一次世界大戦講和会議随員。
- 大正9年(1920年)
- 5月 大使館一等書記官・英国在勤。
- 大正11年(1922年)
- 3月 天津総領事。
- 大正14年(1925年)
- 10月 奉天総領事。
- 昭和3年(1928年)
- 7月 外務次官就任。
- 昭和5年(1930年)
- 12月 イタリア大使。
- 昭和11年(1936年)
- 4月 イギリス大使。
- 昭和14年(1939年)
- 3月 退官。
[編集] 政歴
- 昭和20年(1945年)
- 昭和21年(1946年)
- 昭和22年(1947年)
- 4月25日 第23回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・日本自由党公認)当選。
- 昭和24年(1949年)
- 1月23日 第24回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・民主自由党公認)2期目当選。
- 昭和27年(1952年)
- 10月1日 第25回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由党公認)3期目当選。
- 昭和28年(1953年)
- 4月19日 第26回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由党公認)4期目当選。
- 昭和30年(1955年)
- 2月27日 第27回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由党公認)5期目当選。
- 昭和33年(1958年)
- 5月22日 第28回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由民主党公認)6期目当選。
- 昭和35年(1960年)
- 11月20日 第29回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自民党公認)7期目当選。
- 昭和37年(1962年)
- 4月 皇學館大学総長。
- 昭和38年(1963年)
- 二松学舎大学舎長
[編集] 引退後
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
内閣総理大臣 | ||
第44代 幣原喜重郎 |
第45代 1946 ‐ 1947 |
第46代 片山哲 |
内閣総理大臣 | ||
第47代 芦田均 |
第48・49・50・51代 1948 ‐ 1954 |
第52代 鳩山一郎 |