鈴木貫太郎内閣
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鈴木貫太郎内閣(すずきかんたろうないかく)は、1945年4月7日に第42代内閣総理大臣鈴木貫太郎によって組閣された内閣である。
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[編集] 概要
小磯内閣の崩壊後、後任首相の人選は難航した。内府木戸幸一は陸軍を押さえるためにも引き続き陸軍から首相を選出することを主張し、阿南惟幾陸軍大将を持ち出そうとしていた。重臣の多くは、近衛文麿の意向により枢密院議長であった鈴木を推す。ただ一人、東條英機のみが畑俊六元帥陸軍大将擁立を求めた。これもやはり陸軍統制を考えてのことである。重臣会議の席上、東條は「陸軍軍人でなければ、陸軍はそっぽを向くであろう」と主張し、岡田啓介に「そっぽを向くとは何事か」と詰め寄られ、主張を取り下げた。結局、平沼騏一郎が正式に推薦し、鈴木に大命が降下した。
宮中に参内した鈴木は辞退する旨を繰り返すが、昭和天皇貞明皇太后による異例の就任依頼を受け、就任組閣を行う。鈴木はかつて侍従長として天皇の側にあり信任も篤かったため、天皇の本心が終戦にあることを即座に感じ取る。就任演説では「国民よ我が屍を越えて行け」と咆哮する主戦派を演じつつ、背後では終戦工作に奔走した。その一例が阿南の陸相起用である。阿南は強硬論を唱え、本土決戦を盛んに主張していたが、その実、彼は鈴木が侍従長時代に侍従武官としてコンビを組んでいた間柄である。阿南は鈴木の考えを汲み、当時参謀本部総長であった梅津美治郎と二人三脚で、「強硬論を声高に主張して陸軍の過激派中堅幹部を押さえつつ、最高戦争指導会議などでは最終的には首相の言い分を飲む」という腹芸を行った。
ポツダム宣言の受諾と、返信の文面をめぐって阿南と海相米内光政がやりあう一面もあったが、これも言わば見せかけに過ぎず(阿南が辞表を提出した場合、陸軍は後任を推薦してくることは考えられず、内閣不一致で総辞職となることは避けられなかった)、天皇の暗黙の意向通り終戦内閣として8月17日に役目を終えた。
在任 : 1945年(昭和20年)4月7日~同8月17日。
[編集] 閣僚
- 広瀬豊作(官僚:大蔵省)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 阿南惟幾(軍人:陸軍大将[陸士18期])
- 1945年4月7日~1945年8月14日
- 阿南の死後8月15日より総辞職の8月17日まで陸相欠員のはずであるが臨時代理・事務摂行等不明。
- 米内光政(軍人:海軍大将[海兵29期])(小磯内閣から留任)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 松阪広政(官僚:司法省)(小磯内閣から留任)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 太田耕造(貴族院所属:無所属倶楽部)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 石黒忠篤(貴族院所属:無所属倶楽部)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 豊田貞次郎(予備役海軍大将[海兵33期])
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 運輸通信大臣 - 1945年5月19日廃止
- 豊田貞次郎(軍需相兼任・予備役海軍大将[海兵33期])
- 1945年4月7日~1945年4月11日
- 小日山直登(貴族院所属:無所属・実業家、鉄鋼統制会理事長)
- 1945年4月7日~1945年5月19日
- 運輸大臣 - 1945年5月19日設置
- 小日山直登(貴族院所属:無所属・実業家、鉄鋼統制会理事長) - 運輸通信相から転じる
- 1945年5月19日~1945年8月17日
- 男爵鈴木貫太郎(首相兼任・予備役海軍大将[海兵14期])
- 1945年4月7日~1945年4月9日
- 東郷茂徳(外相兼任・貴族院所属:無所属倶楽部・元官僚:外務省)
- 1945年4月9日~1945年8月17日
- 岡田忠彦(衆議院:大日本政治会)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 桜井兵五郎(衆議院:翼賛政治会)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 国務大臣
- 左近司政三(予備役海軍中将[海兵28期]・貴族院所属:同和会)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 国務大臣(情報局総裁)
- 下村宏(貴族院所属:研究会)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 国務大臣
- 安井藤治(予備役陸軍中将[陸士18期])
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 迫水久常(貴族院所属:無所属)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
- 村瀬直養(貴族院所属:研究会)
- 1945年4月7日~1945年8月17日
[編集] 政務次官
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[編集] 外部リンク
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