風船爆弾
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風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)において大日本帝国陸軍が用いた兵器である。「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。
当時、日本の研究員だけが発見していたジェット気流<偏西風>を利用し、爆弾を気球に乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲として爆撃を仕掛ける、というもので、千葉県一ノ宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸から大量に飛ばされた。
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[編集] 概要
満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、大日本帝国陸軍によって研究され、昭和19年(1944年)から実用化された。
生産個数はおよそ9300個。アメリカ合衆国本土に到達したのは9300個のうちおよそ1割強の1000個ほど(300ほどという説もある)である。危険の少ない地域の上空で飛来する気球をアメリカ軍戦闘機により簡単に射撃され爆破処分させられているものもある。
目的は「爆撃」であるが、あくまでも風任せの兵器のため実際の効果は微々たるもので、人的被害について唯一はっきりしているのは、オレゴン州での女性1人と子供5人がピクニック中に木に引っかかっている爆弾部分を触り、爆発して死亡した例だけである。この事件は第二次世界大戦中にアメリカ本土で死者がでた唯一の事例である。
ただ、プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり原爆の完成を遅らせたり(この件をアメリカ側はある程度重要視していた)、山火事を起こしたりと、人的被害以外では北米各地に効果が見られる。
このように効果こそ僅少であった。
なお、アメリカ軍はこの風船爆弾に残っていたバラスト砂から製造地及び発射地点を割り出し、その地を空襲の目標地にしたり、先述のプルトニウム製造工場の件で原子爆弾投下を急いだことなどもあったため、風船爆弾は日本にとって皮肉にも敗戦を早める要因の一つとなった。
[編集] 製造
材質は和紙とコンニャク糊で、薄い和紙を5層にコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化し直径10mほどの和紙製の風船を作成、それに水素を充填し、自動的に高度を調節する装置(高度が低くなると、バラスト嚢を落とし高度を上げる)で高度を維持しつつアメリカ大陸を目指すよう設計された。
当時、東京有楽町に存在した日本劇場(日劇、現在跡地は商業ビル「マリオン」となっている)でも製作されたという話はよく知られている。これは気球を天井から吊り下げて行う満球テスト(水素ガスを注入して漏洩を検査する)のために天井が高い建物が必要とされたためで、日劇の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館などでも製作が行われた。主に動員された女子学生によって作業が行われている。
[編集] 兵装
風船爆弾の装備においては少数ながらバリエーションがあり250Kg爆弾一発と焼夷弾四発を配した前期型、爆弾二発の初期改良型、焼夷弾の性能を上げた物などが有る。
[編集] その他
- 当時、この攻撃を知ったアメリカ陸軍の一部は、「この風船爆弾にもし生物兵器が詰められていたら」と比較的危険視していた。そのため防毒マスク、防護服を着け着地した不発弾を調査している。
- 発射地点は割り出せたものの、アメリカは当時ジェット気流の存在を知らなかったため、どうやって気球を日本からアメリカまで到達させたのかはわからなかった。
- アメリカ陸軍は風船爆弾による被害を隠蔽、情報操作していた。これはアメリカ側の戦意維持と、日本側に戦果が分からないようにするためであった。
- 製造中の事故により、6名が死亡している。
- 気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤を特定することはできなかった。
- 風船爆弾を迎撃するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像がある。
- 先述の女子学生の中には紙の扱いによって指紋が消えたという話が残っており、長時間労働であった事がうかがえる。
- 風船爆弾の材料としてコンニャク芋が軍需品となったため、おでんのネタからコンニャクがなくなった。
- 第一派によるアメリカ本土爆撃の後、焼夷弾と爆弾を廃し兵士数人を搭乗させた物を混ぜた第二派、第三派が計画されていたが、効率が悪すぎる事と食料などの問題が発覚したため実行はしていない。