読売ジャイアンツ
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読売ジャイアンツ(よみうりジャイアンツ、Yomiuri Giants,読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。また、その運営会社の事。商号は株式会社読売巨人軍。日本に現存する中で最も歴史の長いプロ野球球団である。
本拠地以外の主催試合に関しては、読売ジャイアンツ主催試合の地方球場一覧を参照。本拠地以外の主催試合(オープン戦)に関しては、読売ジャイアンツ主催のオープン戦使用球場一覧を参照。
チーム名 | 読売ジャイアンツ |
加盟団体 | セントラル・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍) |
創設年度 | 1934年 |
チーム名の遍歴 | 大日本東京野球倶楽部(1934年) →東京巨人軍(1935年~1946年) →読売ジャイアンツ(1947年~) |
フランチャイズ | 東京都 |
本拠地 | 1軍:東京ドーム 2軍:読売ジャイアンツ球場 |
収容人員 | 45,600人(東京ドーム) |
オーナー | 滝鼻卓雄 |
親会社 | 読売新聞グループ本社 |
監督 | 原辰徳 |
タイトル | リーグ戦:39回 日本シリーズ:20回 |
(優勝年度) | (リーグ戦) 1936秋、1937春、1938、1939、1940、 1941、1942、1943、1949、1951、 1952、1953、1955、1956、1957、 1958、1959、1961、1963、1965、 1966、1967、1968、1969、1970、 1971、1972、1973、1976、1977、 1981、1983、1987、1989、1990、 1994、1996、2000、2002 (日本シリーズ) 1951、1952、1953、1955、1961、 1963、1965、1966、1967、1968、 1969、1970、1971、1972、1973、 1981、1989、1994、2000、2002 |
目次 |
「巨人」について
過去にチーム名を東京巨人軍としていたことや、マスコミがそう呼称していた事情から「巨人」という略称が一般的に浸透している。なお2002年より運営会社名は「株式会社読売巨人軍」となっている。日本野球機構やセントラルリーグのオフィシャルウェブサイトなどでも略称に基本的に「巨人」が使われていること(一部ページでは読売となっている)から他球団とはその略称の設定の仕方が違うものの読売ジャイアンツの略称は「巨人」であるのが一般的と考えるのが適当である。
しかし読売ジャイアンツ以外の球団はいずれもチーム名の一部が略称となっており、他球団に倣った現在のチーム名に則した略称は「読売」が当てはまる。Wikipediaの百科事典という性質上では他球団に倣った「読売」のほうが知識に乏しい読者に対してもわかりやすく、また「読売」という略称はドラフト会議など一部の公的な場でも使用することがあり「読売」と略しても読売ジャイアンツを指すことは容易に理解できる。
上記より表中などやむをえず略称を用いる場合は「読売」とするか、「巨人」という略称を使用する場合は詳しくない利用者の混乱を避けるため「他球団の略称方法と異なるが「読売ジャイアンツ」は「巨人」という略称でこれを指すのが一般的であるためここではそれに従う」と当該記事で必ず明記するのが望ましい。また本文中など特に略称を用いる必要がない場合には略さずに「読売ジャイアンツ」とするか「ジャイアンツ」と書くのがわかりやすい。やむを得ず「巨人」という略称を使用する場合は表中と同様に上記を明記する方が望ましい。ここでは表中では巨人を用い、文中では特に必要が無い限り「ジャイアンツ」で統一する。
球団の歴史
1リーグ時代
1934年11月2日、アメリカメジャーリーグ選抜軍が来日し、全日本軍と親善試合を行い大盛況を博す。アメリカのプロフェッショナル野球を目の当たりにした市岡忠男・浅沼誉夫・三宅大輔・鈴木惣太郎の4人が、メジャー選抜軍を招待した読売新聞社の正力松太郎社長にプロ野球球団結成を働きかけ、同年12月26日に大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が誕生。全日本軍の選手を中心に結成された。(なお、日本のプロ野球球団としては、過去に日本運動協会、天勝野球団が設立されたことがあり、大日本東京野球倶楽部は日本初のプロ野球球団ではない。しかし両球団が関東大震災の影響などにより興行として長く続かず、最初に球団として本格的に成立したのが大日本東京野球倶楽部であったことと、ジャイアンツがプロ野球界をリードする状況が続いたため、日本初とする誤った見解が広まってしまった。ウィキペディア日本語版メインページの12月26日付「今日は何の日」でも、「日本初のプロ野球球団」と誤った記述があった。より正確に表現するならば、「現存するプロ野球球団として日本初」とするべきだろう。)
戦前期
1935年2月14日、第1次アメリカ遠征に出発。チーム名を「東京ジャイアンツ」として米国内を転戦した。帰国後、1936年に東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称。同年2月14日、第2次アメリカ遠征に出発。この年より日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人はアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。この夏季大会で惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。1936年の秋季大会は勝ち点で大阪タイガースと同点になり洲崎球場で優勝決定戦が開催、2勝1敗でタイガースを下し公式戦初優勝球団に輝いた。これ以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし第1次黄金時代を築いた。なお、1937年と1938年には2リーグ制導入以後スタートした今日の日本シリーズに相当する年間総合優勝決定戦(7戦4勝制)が行われ、タイガースに2年連続で敗退しているが、この時は春と秋のリーグ戦がおのおの独立したシーズンと見なされているので、1937年春と38年秋のリーグ優勝も通算のリーグ優勝の回数にカウントされている。
戦後期
1946年のリーグ戦再開より再び参加。1947年読売新聞社が正式に経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称。ニックネームを導入し、読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭に苦戦を強いられるが、監督・三原修の復帰や「赤バット」の川上哲治や千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手を呼び戻すことによりチーム体制を整えた。また1948年オフには南海の別所毅彦を引き抜き物議を醸した。1リーグ最後の1949年に優勝を奪還。
セ・リーグ結成
1949年シーズンオフ、読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入に巨人は強硬に反対。このことがきっかけとなり、巨人・阪神タイガース・中日ドラゴンズ・松竹ロビンスなどからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、毎日・南海・阪急ブレーブスなどからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。
水原監督政権
リーグ分立1年目の1950年こそ優勝を逃すものの、同年に復帰した水原茂を監督に据えた翌1951年からは、この年獲得した与那嶺要の活躍もあり、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。
1954年の2位を挟んで、1955年から1959年まではセ・リーグ5連覇。しかし1956年、1957年、1958年の日本シリーズでは、元巨人の三原脩監督率いる西鉄ライオンズとの因縁の対決で3年連続して敗退。1959年にはリーグ優勝は果たしたものの、日本シリーズでは南海ホークスに4連敗。さらに1960年には三原が監督となった大洋ホエールズに6年連続最下位からの優勝を許し、水原監督は勇退した。この間、1958年に長嶋茂雄、1959年に王貞治がともに大きな期待を背負って入団。長島は、質の高いプレーと観客の目を意識したパフォーマンスを見せ、1年目から期待以上に活躍した。
川上監督政権
1961年、川上哲治監督が就任。川上は就任1年目にして見事に日本一を達成。その後、1963年にも因縁の西鉄を破って日本一に。1964年は王貞治がシーズン記録となる55本塁打を記録。この頃には王と長島はON砲と呼ばれ、実力・人気ともに特別な存在となっていた。また1965年には、球界一の投手であった金田正一が同リーグの国鉄から移籍入団している。
日本シリーズ9連覇(V9)
1965年から1973年までは日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的にV9(ブイナイン)と呼ばれる。この記録に次ぐ日本シリーズ連覇は巨人(1951年から)・西鉄(1956年から)・阪急(1975年から)・西武(1986年からと、1990年から)の3連覇であり、他球団の追随を許さない大記録となっている。
巨人は1970年代からのカラーテレビ普及による野球中継開始も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものとして「巨人、大鵬、卵焼き」と並び称せられた。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集めた。
V9の要因にはまず、長島・王という主力選手の存在が挙げられる。V9の間、最優秀選手を王は5回、長島は3回受賞している。また、川上監督や牧野茂コーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術=スモールボールを取り入れ、先進的で緻密な野球が実践されたのも効果的であった。さらに、王と長島以外にも、金田・堀内恒夫・高橋一三などの投手や、森昌彦捕手、土井正三・黒江透修内野手、柴田勲・高田繁外野手など質の高い選手がそろっていた。
V9時代後半は長島など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。そして1974年、中日に20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逸す。この年を最後に川上監督が勇退し、長嶋・黒江・森も現役を引退した。
第1次長嶋監督政権
1975年、前年に引退した長嶋監督が就任。しかし開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、球団史上初の最下位を経験。全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、10月15日には広島東洋カープの胴上げを本拠地・後楽園で許すという屈辱的な1年だった。1976年には日本ハムファイターズから張本勲、太平洋クラブライオンズから加藤初をトレードで補強し、前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす(同一監督での最下位の翌年の優勝は史上初)。しかし日本シリーズでは上田利治監督率いる阪急ブレーブスに3勝4敗で惜しくも敗れる。1977年、王貞治が通算本塁打数の世界新記録を樹立。チームも2年連続でリーグ優勝を果たすが、日本シリーズではまたも阪急に敗れた。
1978年オフ、当時、法政大学の江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる(最終的には1979年シーズン開幕直前に、江川が一旦阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく)。1980年、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸を喫する。その責任を取り、長嶋監督が退任。また王も現役を引退、球団は大きな転換期を迎えた。
藤田・王監督政権
1981年、藤田元司監督、王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチによるトロイカ体制が誕生。中畑清、原辰徳、篠塚利夫、西本聖ら若手が台頭、4年ぶりのリーグ制覇を果たす。日本シリーズでも日本ハムファイターズを破って日本一に輝く。1983年にもリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは西武ライオンズとの激闘の末、3勝4敗で敗れる。その後1984年から1988年までの5年間は王監督が指揮をとるが、1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは1983年のリベンジ再びと期待されたが、西武に2勝4敗で敗退。1988年からは本拠地を後楽園球場から東京ドームへ移転するが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響き2位に転落し、優勝した中日に12ゲームという大差をつけられる。王監督はフロントから責任を取らされる形でこの年限りで辞任。
1989年、藤田監督が復帰。チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を果たす。同年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫して窮地に追い込まれるが、近鉄の加藤哲郎が「シーズン中より楽に投げられました」と述べた主旨のヒーローインタビューとその後にインタビューアーの「ロッテ(その年のパ・リーグ最下位)よりも(迫力がなかった)?」との質問に、加藤が「そうですね」と答えたことから「巨人はロッテよりも弱い」と報道されたことで選手が奮起。そこから一気に4連勝し、大逆転で17回目の日本一に輝く。1990年は斎藤雅樹の2年連続20勝もあり2年連続のリーグ優勝を果たすが、日本シリーズでは工藤公康、秋山幸二、清原和博らを擁する西武を相手に4連敗と惨敗を喫する。1991年は4位、1992年は2位と2年連続V逸。この年限りで藤田監督が勇退し、球団はまたしても転換期を迎えることになった。
第2次長嶋監督政権
1993年には長嶋監督が復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を獲得。また、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドを獲得し3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが打撃陣の不振から3位に終わった。オフに看板打者の駒田徳広がFAで横浜ベイスターズへ移籍。逆に中日ドラゴンズの落合博満がFA移籍し、横浜を自由契約になった屋鋪要も獲得した。1994年はオフに獲得した落合を4番に据え前半は投打ともに他のチームを圧倒したが、8月以降失速し、最大で10ゲーム差をつけた2位中日に終盤に追いつかれてしまう。そして、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は注目されてマスコミでも大きく報道され、長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で逃げ切り、リーグ優勝を達成。その後、日本シリーズでは、それまで1度も倒せなかった宿敵の西武ライオンズを4勝2敗で破り、18回目の日本一に輝く。
1995年は近鉄バファローズの阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島東洋カープの川口和久、ヤクルトスワローズの広澤克実をFAで獲得、また同じヤクルトスワローズを自由契約となったジャック・ハウエル、ミネソタ・ツインズのシェーン・マックを潤沢な資金力で獲得したものの低迷、首位を走るヤクルトとの逆転を目指し、長嶋監督は「メークドラマ」と呼んで選手の奮起を促した。しかし逆転はならずヤクルトに優勝をさらわれてしまう。1996年は前半こそ首位の広島に苦戦を強いられたが、シーズン中に補強したマリオ・ブリトーが後半に抑えとしてフル回転の活躍を見せ、リーグ史上最大の11.5ゲーム差(最大時)を跳ね返してリーグ優勝を成し遂げた。前年の雪辱を果たしたことから、「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。同年のオリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズでは3連敗から1勝した時点で「メークドラマ再び」と期待されたが、第5戦に敗れた。
1997年に西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強力な長距離コンビとして期待された。この際、清原と入れ替わるように落合が日本ハムファイターズに移籍。また、近鉄の石井浩郎を石毛博史と吉岡雄二との交換で獲得。フロント批判から千葉ロッテマリーンズを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得したが、主力選手に故障者が続出したことから4位と低迷。同年オフにはドラフトで高橋由伸を獲得し、主力投手の木田優夫を野村貴仁との交換トレードでオリックスに放出。また、日本ハムを自由契約になった金石昭人を獲得した。1998年は横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、バルビーノ・ガルベスの危険球退場、趙成ミンの右ひじ痛などが響き3位に終わる。同年オフにはドラフトで上原浩治、二岡智宏を獲得。守備・走塁から西武を解雇されたドミンゴ・マルティネスを獲得した。1999年は中日との激しい首位争いを繰り広げるが、村田真一や広澤の離脱で前半は波に乗れず、後半は巻き返すも清原の離脱で2位に終わる。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。
2000年は、FA宣言をしていた福岡ダイエーホークスの工藤公康と広島の江藤智を獲得。シーズンでは投打ともに圧倒して2位中日に8ゲーム差をつけてリーグ優勝。9月24日の優勝決定戦では、9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放って優勝を決めるなど派手な野球を見せ、1994年、1996年に続き中日の前で胴上げを行った。また日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9の主軸を担った王貞治が1995年から率いるダイエーで、「ON監督対決」として全国的に大いに盛り上がった。シリーズは、序盤こそ2連敗からのスタートだったが、その後一気に4連勝し、本拠地東京ドームで19回目の日本一を達成した。2001年は大野倫+金銭でダイエーから吉永幸一郎を獲得。また逆指名で阿部慎之助が入団し、村田真一との正捕手争いが激化した。結局は阿部が正捕手を掴んだものの経験不足は否めず、ヤクルトと終盤まで優勝を争ったものの2位に終わった。また同年限りで長嶋監督は勇退し、終身名誉監督に就任した。
第1次原・堀内監督政権
2002年、原辰徳監督が就任。原は1年目にしてセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武ライオンズを相手に球団史上初の開幕4連勝のストレート勝ちで20回目の日本一に輝くという、非の打ち所のない優勝を達成した。シーズンオフに不動の4番打者である松井秀喜がFA権を行使してニューヨーク・ヤンキースへ移籍。2003年は、松井に代わる大砲としてロベルト・ペタジーニをヤクルトから獲得したものの、守備位置の問題や投手補強不足が原因で3位に終わる。シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神タイガースに15.5ゲーム差をつけられる惨敗であった。そして9月26日、原は監督を辞任した(コーチ人事についてフロントとの対立があったとされている)。
2004年からはV9時代のエース堀内監督が指揮。ダイエーから小久保裕紀、近鉄からタフィ・ローズを獲得するなどの大型補強を敢行し、かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などの他球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋茂雄終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録(それまでのプロ野球最高記録は1980年の近鉄バファローズの239本、セ・リーグ最高記録は1985年の阪神タイガースの219本であった)を樹立する。しかし、投手陣の崩壊、本塁打ばかりで機動力がなくつながらない打線、育たない若手、外国人補強の失敗など課題が山積。成績は前年と同じ3位だった。逆にチーム本塁打が12球団中最下位(111本)であった落合博満監督の中日ドラゴンズが、12球団で唯一のチーム防御率3点台(3.86)に加え、シーズン失策がわずか45(新記録)という守り勝つ野球を見せて優勝したことは、実に象徴的な出来事であった。一方、近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題で球界に激震が走る中、球団スカウトが行った明治大学・一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉オーナーが辞任。ただし、翌2005年には会長に復帰している。
2005年はポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、主力選手の成績不振による序盤からの低迷や、それに伴う観客数や視聴率の低迷、一部放送局による延長の時間短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送、兄弟会社の日本テレビでも中継の延長が中止され、さらには打ち切りを決行するなど、人気凋落に拍車が掛かっている。この年から始まった本拠地での観客動員数の実数発表でも、阪神より少ない日も珍しくなくなった。結果として球団史上ワースト記録の80敗とチーム防御率3年連続4点台を喫し26年ぶりの5位となった。この年開幕からシーズン終了まで一度も5割に到達できなかったのは12球団のなかでも巨人だけという(他の11球団はどの球団もシーズン中に最低でも1度は5割以上の成績を記録していた。ただ他球団の中には1試合消化時点のみ貯金あり=違いは開幕に勝ったかどうかだけの球団もある)実に30年ぶりという珍記録であった。この記録を始めこの年は最下位になった30年前に喫した数々の不名誉な記録に並ぶ、或いは更新するなどと70年以上に及ぶ球団史上でも稀に見るシーズンになった。
2005年シーズン中から勃発したストーブリーグでは、来季以降は初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターを招くことも水面下で検討されていたが、この考えが表面化すると「打倒巨人」を掲げてきた者を監督とすることと球団出身者のみを監督とする伝統を崩すことに一部のファン、OBなどが反発。これを受けて星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。
現在
2005年10月5日、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表。堀内は成績不振の責任を取って、任期を1年残しての退任。原監督は「子供のこともあり、これ以上単身赴任を続けられない」として福岡ソフトバンクホークスを退任した投手コーチ・尾花高夫を王監督からの直々の打診もあり招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より古巣広島東洋カープに戻っていた打撃コーチ・内田順三を復帰させた。原監督と尾花コーチはチームの方向性を若手中心として、ドラフトで辻内崇伸、福田聡志、栂野雅史、越智大祐といった若手有力投手を獲得した。しかし同時にFA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)、オリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル(旧登録名:JP)といった即戦力投手を獲得。野手では、金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)、更に前年30本塁打を放ちながらも自由契約となっていた李承燁(同)を獲得。
清原・ローズを解雇、江藤を豊田のFA補償で西武に放出。原は2005年にワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスばりの「スモール・ベースボール」を掲げており、その方針に従った選手の入れ替えがなされ、開幕ダッシュに成功したものの、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手にけが人が続出したため失速。6~7月には8連敗、10連敗、9連敗を立て続けに喫し、順位は急落、一時は最下位に転落してしまった。結局4位に終わり、球団史上初の4年連続優勝失敗、2年連続Bクラスとなった。
近年の補強傾向
チーム成績が放映試合の視聴率や新聞の売上に直結しているため、好成績を目指して投入される資金額は大きい。またマスコミを親会社に持っていることや、チームの人気が高いことから補強に関する報道も多い。
FA制度が導入された1990年代後半から、「巨人軍」「長嶋茂雄」というブランドの求心力と多額の資金攻勢でFA宣言した他球団の4番・エースを集めている。チームの補強策の一環であり、4番を集めるというのは当時の長嶋監督の「ホームランをたくさん打って子供たちに夢を与えたい」という方針でもある。だが実際には、落合博満と小久保裕紀以外は期待はずれの成績に終わっている(その原因については、他球団よりもエースといわれる投手との対戦率が非常に高い巨人での活躍が難しいことのほかにも、巨額の複数年契約で甘やかしているせいとも、「巨人軍」のブランドの重みにプレッシャーを感じるからだとも言われている)。メリットとしては実績充分の選手を擁して優勝を狙う体勢を常に整えていることやライバル球団の戦力補強阻止、ライバル球団から主力を引き抜くことでそのチームを弱体化させられることだが、デメリットとしては
- 他球団の戦力(ほとんど同ポジション)を集めることによる内部崩壊(一塁手を例にすると、落合にはじまり、広澤克実、石井浩郎、清原和博、ロベルト・ペタジーニなど。つまり「補強」ではなく「補充」にしかなっていないのが現状である)。
- 他球団では怪我人や主力の引退等が出た場合に穴を埋める新人プレーヤーが出現することが多いが、FAで戦力を埋めてきたために若手の出場機会がなく世代交代が進まなくなった。
- 若手が多数在籍しているファームも「他球団の一軍よりも良い」という12球団随一の待遇と環境なので、出場機会を求めて移籍を申し出る選手がいない。
またFA制度・逆指名ドラフトとジャイアンツ優位といえるシステムをなかば強引に構築したが、勝率・優勝回数とも前述したシステム構築前とほとんど変わらないどころか、近年はむしろ悪くなっており、ファンのチーム戦略への不満を増長している(旧来の戦略と併せて有効に活用しているのは、現在では阪神やソフトバンク(ダイエー)が挙げられる)。こういった傾向は、近年の観客動員数や視聴率の低迷の原因とも言われている。また、フリーエージェント選手の乱獲などが他球団ファンの強い反発を生む要因ともなっている。また、こうしたFA制度が近年鰻登りとなっている選手年俸の高騰を招き、チームが主力選手を維持できなくなる元凶となっている。 そこで、こういう補強に危機感を持った若手選手(特に野手)が必死に練習し、ハングリー精神を生み出している一面もあり、2006年に原監督が復帰後は、これまでの巨砲主義路線への反省もあって先述のような「スモール・ベースボール」路線を打ち出した事もあり、若手起用が見込まれている。しかし、現状はうまくいっておらず、若手育成が順調に進み、新陳代謝が順調な他球団と較べると、明らかに選手が育っていない。更に、いわゆるFAや金銭トレードによる外様起用の濫発が、これらの選手の活躍のチャンスを悉く摘み取っている現状もあり、若手選手らのモチベーション低下を招いている、と指摘されている。FA選手獲得による選手譲渡や他球団とのトレードには伸び盛りの若手を出すことも多く、球団OBは苦言を奏している。
第二次長嶋監督時代以降の主な戦力補強
- 1994年 - 落合博満(一塁手)【中日→FA】
- 1995年 - 広澤克実(一塁手)【ヤクルト→FA】
- 1995年 - 川口和久(先発投手)【広島→FA】
- 1996年 - 河野博文(中継ぎ投手)【日本ハム→FA】
- 1997年 - エリック・ヒルマン(先発投手)【ロッテ→自由契約】
- 1997年 - 清原和博(一塁手)【西武→FA】
- 1997年 - 石井浩郎(一塁手)【近鉄→交換トレード】
- 2000年 - 江藤智(三塁手)【広島→FA】
- 2000年 - 工藤公康(先発投手)【ダイエー→FA】
- 2002年 - 前田幸長(中継ぎ投手)【中日→FA】
- 2003年 - ロベルト・ペタジーニ(一塁手)【ヤクルト→自由契約】
- 2004年 - 小久保裕紀(三塁手)【ダイエー→無償トレード】
- 2004年 - タフィ・ローズ(外野手)【近鉄→自由契約】
- 2006年 - 野口茂樹(先発投手)【中日→FA】
- 2006年 - 豊田清(抑え投手)【西武→FA】
- 2006年 - ジェレミー・パウエル(先発投手)【オリックス→自由契約】
- 2006年 - 小坂誠(遊撃手)【ロッテ→金銭トレード】
- 2006年 - 李承燁(一塁手)【ロッテ→自由契約】
- 2006年 - 小関竜也(外野手)【西武→自由契約】
- 2006年 - 木村拓也(外野手)【広島→交換トレード】
- 2007年 - 大道典嘉(外野手)【ソフトバンク→無償トレード】
- 2007年 - 谷佳知(外野手) 【オリックス→交換トレード】
- 2007年 - 小笠原道大(一塁手、三塁手)【日本ハム→FA】
- 2007年 - 吉武真太郎(投手)【ソフトバンク→小久保の移籍による譲渡】
- 2007年 - 門倉健(投手)【ベイスターズ→FA】
チーム成績・記録
チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
試合、勝敗、勝率に関する記録
- 優勝 39回(日本記録)
- (1936年秋、1937年春、1938年秋、1939年~1943年、1949年、1951年~1953年、1955年~1959年、1961年、1963年、1965年~1973年、1976年~1977年、1981年、1983年、1987年、1989年~1990年、1994年、1996年、2000年、2002年)
- 日本一 20回(日本記録)
- (1951年~1953年、1955年、1961年、1963年、1965年~1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年)
- 最多連続優勝回数 9回(日本記録)
- (1965年~1973年)
- Aクラス
- (1936年~1946年、1948年~1949年、1950年~1961年、1963年~1974年、1976年~1978年、1980年~1990年、1992年~1996年、1998年~2004年)
- Bクラス
- (1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年、2006年)
- シーズン最多勝利 92勝(1955年)
- シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日~8月3日)
- シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
- シーズン最多連敗 11連敗(1975年9月4日~11日)
- シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
- シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
- シーズン最低勝率 .382(1975年)
- 通算試合 8602試合(日本記録・2リーグ制以降7381試合)
- 通算勝利 4917勝(日本記録・2リーグ制以降4134勝)
- 通算敗戦 3424敗(2リーグ制以降3014敗)
- 通算引分 261引き分け(2リーグ制以降233引き分け)
- 通算勝率 .589(日本記録・2リーグ制以降.578)(2005年までの数字に基づく)
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
- 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
- 最長試合時間 5時間42分(2004年8月20日対広)
- 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対神)
チーム打撃記録
- 通算本塁打 8268本(日本記録・2リーグ制以降7829本)
- シーズン最多得点 738得点(2004年)
- シーズン最多安打 1332本(2004年)
- シーズン最多2塁打 221本(1953年)
- シーズン最多3塁打 57本(1946年)
- シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本記録)
- シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本記録)
- シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
- シーズン最多打点 719打点(2004年)
- シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
- シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
- シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
- シーズン最多四死球 591個(1950年・日本記録)
- シーズン最多三振 1083三振(2004年)
- シーズン最高打率 .292(1952年)
- シーズン最低打率 .208(1943年)
- ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中、1948年10月16日対陽)
- ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対陽)
- ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対陽・日本記録)
- ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対急、1957年8月27日対洋)
- ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤ、1984年9月4日対中、1985年6月28日対神)
- ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対陽)
- ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対陽)
- ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西、1951年9月12日対国)
- ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
- ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本記録)
- ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中)
- ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対神)
- イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤ6回・日本記録)
- イニング最多安打 10本(1941年5月11日対急4回、1951年8月8日対広7回)
- イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対陽5回・日本記録)
- イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対急3回・日本記録)
- イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対洋4回、1987年5月12日対神7回、1999年7月31日対広1回、2000年6月21日対中7回)
- イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対陽5回)
- イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤ6回・日本記録)
- イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対鯱1回)
- イニング最多犠打 3犠打(多数)
- イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
- イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中5回)
- イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対神2回)
- 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横8回)
- 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日~1981年9月20日)
- 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対神4回~6月8日対中7回)
- 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広2回・日本記録)
- 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広1回、1四球を挟む)
- 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中6回~7月16日対洋1回・日本記録)
- 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日~5月12日、開幕からの連続記録)
- 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広2回~7回)
- 最多連続本塁打 3人(通算5度)
- 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
- 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国2回、1964年4月7日対国9回)
- 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日~8月9日)
チーム投手記録
- シーズン最多被安打 1427本(2005年)
- シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
- シーズン最多与四死球 529個(1978年)
- シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
- シーズン最多失点 737点(2005年)
- シーズン最高防御率 1.38(1943年)
- シーズン最低防御率 4.80(2005年)
- ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広)
- ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大)
- ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広)
- ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対洋、1994年8月13日対神
- ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広、2003年6月11日対ヤ、2003年9月16日対中)
- イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
- イニング最多被本塁打 3本(多数)
- イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広)
- イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対神3回、2005年4月6日対横6回)
- イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中6回)
- 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
- 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日~6月22日)
- 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日~9月2日)
チームの特徴
- ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツから取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
- 1953年、ニューヨーク・ジャイアンツを真似てチームカラーをオレンジと黒とし、翌年にはYGマークも登場した。1960年はカラーテレビ用として、帽子のつば、胸のロゴ、背番号の3箇所が赤いユニフォームが使用された。1992年まではユニフォームの色も黒とオレンジの組み合わせだったが、長嶋茂雄が監督に復帰した1993年に、黒からミッドナイトブルー(濃紺)に変更され現在に至る。また「GIANTS」のロゴは第1次長嶋監督時代の期間(1975年~1980年)はサンフランシスコ・ジャイアンツにあやかった細長いタイプのローマ字デザインであったが、1981年からの第1次藤田監督時代移行は球団創設時代からのデザイン(早稲田大学のユニフォームと同じ書体であるため、一般に「早稲田文字」と言われる)に戻し現在に至る。ただ2006年からはユニフォーム製作会社の変更もあり、ロゴデザインが花文字に変更される。またホーム用は「GIANTS」の胸の表記は一貫して変更は無いが、ビジター用は以前の「TOKYO」から2002年7月より「YOMIURI」に変更。2005年はシーズン開始から帽子と同一のYGマークを左胸部に付けるデザインになったが、翌2006年からは1952年以来54年ぶりに胸ロゴが「GIANTS」に戻され、同時に地色が黒に変更される(なおパンツの色は白で、上下の色が異なるユニフォームはジャイアンツ史上初である)。また2006年は日曜日・祝日のホームゲーム限定で、ロゴデザインが右上がりの筆記体のユニフォームを身に纏う。
- 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団である(創立時に監督を務めた藤本定義もプロ経験はないので他球団OBではない)。一度監督を経験した者の再任はないという内規があったが、1989年に藤田元司が2期目の監督に就任したことで破られた。
- 巨人といえば優勝争いの常連・強豪というイメージが強く、1949年のセ・リーグ成立以降、1950年から2005年の55回のうちリーグ制覇は実に30回にのぼりそのイメージの正しさを物語っている。日本シリーズ9連覇(V9)を達成した1973(昭和48)年以降でさえ32年間でセ・リーグ制覇11回(そのうち日本シリーズ制覇は5回)と黄金期を過ぎてからでも実に3分の1以上にのぼる。しかしその間は日本シリーズで連覇をしたことが一度もない。また、セ・リーグ連覇も1990(平成2)年が最後でその翌年から現在に至る16年間、一度も達成していない。ただその間セ・リーグ連覇したのは1993(平成5)年のヤクルトのみである。
- 初代マスコットはミスタージャイアンツ。長嶋茂雄が「ミスタープロ野球」と呼ばれているのは、敬意の他にこのマスコットと混同しないという目的も当初あったが現在ではそう呼ばれることが自然となっている。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。
- 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの11年間の長きにわたり使用された。
- 3代目は1992年から今日まで使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。
- 2006年からエンブレムが変更、「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
- アンチ派を増やした事件は大小合わせると数多く、新評論の「巨人軍非栄光の歴史」(平成3年石川隆太郎・著作)などでも明らかなように別所引き抜き事件や湯口事件、江川事件、桑田裏金事件(「さらば桑田真澄、さらばプロ野球」〔中牧昭二著・リム出版〕で触れられている金品要求疑惑や登板日漏洩疑惑などは社会的に大きく取り上げられた)、杉山直樹の婦女暴行事件、岡島秀樹の酒気帯び運転、上原浩治が人身事故を起こしながら重傷の被害者を放置し車にこもり続けた事件(上原は「(被害者を)轢いてはいない」と主張したが、轢いていたことがすぐに明らかになった)などは野球ファン以外にも知られる。また、ほぼヤクルトへの逆指名が決まっていた高橋由伸が突然一転して巨人へ逆指名した事件にはおよあそ60億といわれるブラックマネーが飛び交ったといわれている。このような嫌疑がかけられている逆指名では他に上原浩治、二岡智宏などもそうであり、それこそ一場靖弘への栄養費どころではない額面が疑われている。尤も、一場靖弘への栄養費が明るみに出たとき、各マスコミはこれを機に時の渡邉恒雄オーナーに疑惑を持ちかけたが、彼は「政治や法律の話なら受ける」と言って、全て白を切り通した。
- 人々の間で呼び方がそれぞれ違うが、野球ファンの間では「巨人」がよく用いられる。また一部ファン(読売ジャイアンツファンを含め)は「巨人」という略称は他球団における球団名の略称法と異なるため特別な印象を与えると考えて「読売」を用いることもある。最近のマスコミはニックネームを使う傾向があり、「ジャイアンツ」と呼ぶことが多い。新聞紙上では、「G」というアルファベット1文字で読売ジャイアンツを表わすことが多い(たとえば「G打線快調」など)。
ユニフォーム等のスポンサー
- ユニフォーム袖(2軍限定) - コナミ
- 公式戦主催ホームゲームは全試合を「伊藤ハムシリーズ」と題して開催し、「小さな時からジャイアンツ・小さな時から伊藤ハム」を合言葉に、東京ドームの1・3塁側1階席と2階席の仕切りにある広告看板に伊藤ハムの商品の広告看板を掲げている。かつては中畑清らをCMモデルに起用した。(1986年までは明治製菓がそれを担当し、「Meijiチョコレート」などの看板を掲げていた)
歴代本拠地
- 1937年~1987年 - 後楽園球場
- 1988年~ - 東京ドーム(都市対抗野球が行われる際には別の球場で)
- 尚、巨人は1988年から2005年まで東京ドームでは公式戦、日本シリーズの両方で1度も敵将の胴上げを許していなかったが,2006年10月10日、ついに中日・落合監督の胴上げを許した。(ただし、ビジターの試合では1988年以降では公式戦では1995年に神宮球場でヤクルト野村克也監督、2005年に阪神甲子園球場で阪神岡田彰布監督、日本シリーズでは1990年に西武球場で西武森祇晶監督、1996年にグリーンスタジアム神戸でオリックス仰木彬監督の胴上げを許している)
- 2軍の本拠地は読売ジャイアンツ球場(東京都稲城市と神奈川県川崎市の都県境にある)。
歴代監督
- ※太字は優勝達成監督。
- 1934年~1935年 - 三宅大輔、浅沼誉夫 ※1
- 1936年 - 浅沼誉夫
- 1936年~1942年 - 藤本定義
- 1943年 - 中島治康(第1次)
- 1944年~1946年 - 藤本英雄
- 1946年~1947年 - 中島治康(第2次)※2
- 1947年~1949年 - 三原脩 ※3
- 1950年~1960年 - 水原茂
- 1961年~1974年 - 川上哲治
- 1975年~1980年 - 長嶋茂雄(第1次)
- 1981年~1983年 - 藤田元司(第1次)
- 1984年~1988年 - 王貞治
- 1989年~1992年 - 藤田元司(第2次)
- 1993年~2001年 - 長嶋茂雄(第2次)
- 2002年~2003年 - 原辰徳(第1次)
- 2004年~2005年 - 堀内恒夫
- 2006年~ - 原辰徳(第2次)
- ※1 ここから東京巨人軍
- ※2 ここから読売ジャイアンツ
- ※3 1949年は4月15日まで指揮、7月23日に復帰するまでは中島治康が代行
永久欠番
- 1:王貞治(1989年~)
- 本塁打世界新記録(756本)の功績を称え、決定。
- 3:長嶋茂雄(1974年~)
- 第二次監督時代の2000年から2年間復活した。
- 4:黒沢俊夫(1947年~)
- 現役中に腸チフスで死去。球界初の永久欠番。
- 14:沢村栄治(1947年~)
- 太平洋戦争で戦死。戦後今泉勝義と坂本茂がつけていた。
- 16:川上哲治(1965年~)
- 引退後もつけていたが、背番号を77に変更したことを機に決定。
- 34:金田正一(1970年~)
- 移籍入団選手としては唯一の永久欠番。
欠番
- 55松井秀喜(2003年~)
- 現・ニューヨーク・ヤンキース。巨人の4番を長く不動のものとした。
完全試合・ノーヒットノーラン達成者
読売ジャイアンツでは球団史上2人の投手がこれまでに完全試合を、 9人の投手が延べ12回ノーヒットノーランを達成している
完全試合達成投手
年月日 | 選手名 | スコア | 相手 | 球場 |
1950/06/28 | 藤本英雄 | 4-0 | 西日本 | 青森 |
1994/05/18 | 槙原寛己 | 6-0 | 広島 | 福岡ドーム |
ノーヒットノーラン達成投手
年月日 | 選手名 | スコア | 相手 | 球場 |
1936/09/25 | 沢村栄治 | 1-0 | 阪神 | 甲子園 |
1937/05/01 | 沢村栄治 | 4-0 | 阪神 | 州崎 |
1937/07/03 | ヴィクトル・スタルヒン | 4-0 | 後楽園イーグルス | 州崎 |
1939/11/03 | 中尾輝三 | 1-0 | 東京セネタース | 後楽園 |
1940/07/06 | 沢村栄治 | 4-0 | 名古屋金鯱軍 | 西宮 |
1941/07/16 | 中尾輝三 | 3-0 | 名古屋金鯱軍 | 後楽園 |
1943/05/22 | 藤本英雄 | 3-0 | 名古屋金鯱軍 | 後楽園 |
1952/07/26 | 大友工 | 17-0 | 松竹 | 大阪 |
1967/10/10 | 堀内恒夫 | 11-0 | 広島 | 後楽園 |
1968/05/16 | 城之内邦雄 | 16-0 | 大洋 | 後楽園 |
1970/05/18 | 渡辺秀武 | 2-0 | 広島 | 後楽園 |
1976/04/18 | 加藤初 | 5-0 | 広島 | 広島 |
参考記録
1971/09/06 | 菅原勝矢 | 4-0 | ヤクルト | 神宮 |
7回表1死降雨コールドゲームの為、セ・リーグ参考記録
史上初のノーヒッター
ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍(当時)から誕生した。巨人軍の当時の豪腕投手だった沢村栄治が1936年9月25日に甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成したもので、沢村はこの後あくる1937年5月1日に洲崎で開かれた春季戦・タイガース戦、更に1940年7月6日に西宮で開かれた名古屋戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎(広島)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。
完全試合
日本プロ野球において完全試合を達成した選手はわずかに15人。1936年から職業野球連盟に加盟しているジャイアンツでも完全試合を達成したのはわずかに2人だけである。
日本球界初の完全試合を決めたのは藤本英雄。1950年6月28日、青森球場で開かれた西日本との一戦で自身2度目(戦前の1943年にも名古屋戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本球界初の大偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかったこともあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割くことが出来ず、写真も掲載されないという何とも寂しい結果となった。
そして20世紀最後の完全試合を決めたのが槙原寛己である。1994年5月18日に福岡ドームで開かれた広島戦。ジャイアンツ創設7000試合目の公式戦となった記念の試合で、槙原はそれに花を添える史上15人目、1978年の今井雄太郎(阪急)以来のパーフェクトを達成。現役引退後、TBS解説者として出演する際は「ミスターパーフェクト」として紹介されている。
歴代の球団歌・応援歌
読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。
- 初代「巨人軍の歌(野球の王者)」1939年発表(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而)
- 2代目「巨人軍の歌」1949年発表(作詞:西条八十、作曲:古関裕而)
- 3代目「巨人軍の歌(闘魂こめて)」1962年発表(作詞:椿三平、補作:西条八十、作曲:古関裕而)
曲名に関しては読売ジャイアンツ公式HPの年表に準じて巨人軍の歌で統一し、括弧内に通称を記載する。初代巨人軍の歌の作詞・作曲コンビは、阪神タイガースの応援歌「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」も作っている。
本拠地東京ドームの最寄り駅であるJR水道橋駅では同駅の開業100周年を記念して2006年7月4日から同年シーズン終了(予定)まで、発車メロディに「闘魂こめて」を流すようになった。
出来事
結成当初の対外試合
チーム結成当初は、まだ職業野球のクラブチームがジャイアンツ1チームしか存在しなかった。その為1935年は上半期をアメリカ合衆国遠征、後半は日本国内の社会人チームとの対戦に割り当てて、長期間にわたる遠征をこなすことになった。
まず、アメリカ遠征。2月(まだこの時は「大日本東京野球倶楽部」)に当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発。当時日本とアメリカはフェリーで2週間以上の期間を要したので、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。
この時、先発隊で渡米していた鈴木惣太郎マネジャーは「『大日本東京野球倶楽部』では長ったらしいから何か簡単な名前が思いつかないだろうか」と、現地マネジャーのフランク・オドゥールに相談する。すると「ジャイアンツとヤンキースのどちらかはどうだろう。アメリカではどちらも人気があるチームだから(ニューヨークのチーム)」と提案。鈴木は「ヤンキースは日本語で適当な言葉が見当たらない。ジャイアンツなら巨人。これならいけるだろう」ということでジャイアンツのチーム名はこうして決まった。
チームは2月27日(現地)にサンフランシスコ湾に到着し、全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という超異例の過密日程を戦った。主な対戦相手は大リーグのマイナークラスのチーム。最初は物珍しかったためファンも大勢駆けつけたが、試合の不甲斐なさから徐々にファンが激減。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。それでも75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は無事終了した。このアメリカ遠征では日本独特の文化を出そうということで選手の背番号はなんと漢数字(例えば沢村栄治だと十七=17)を使用した。ところが漢字文化のないアメリカ人にはさっぱり分からず、「あのプラス(+=10)とマイナス(-=1)は何を意味するんだ?」という疑問が後を絶たなかったといわれる(なお日本初の職業野球リーグが始まった1936年度も春季にアメリカ遠征を行ったため、4月からの最初の公式戦は出場しなかった)。
選手らは帰国後夏休みを挟んで9月6日から今度は日本の社会人野球チームとの親善試合をこなすことになる。この国内巡業も原則的にはファン確保の名目で1日2試合のダブルヘッダー開催が多く、後座試合として巨人軍選手による紅白戦が開かれた。この国内巡業の試合は40試合行い36勝3敗1引き分け。圧倒的な実力を見せたが、社会人チームに3敗したことが響いたのか、三宅大輔監督は解任されてしまった。ちなみに3敗のうちの2敗は東京鉄道局から喫しており、三宅解任後はこのチームの監督をしていた藤本定義が後任として迎えられた。
職業野球連盟所属チーム同士の初対戦
1936年2月9日に、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った始めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。なお、日本で初めてのプロチーム同士の対戦は日本運動協会対天勝野球団であるが両球団は現在の日本野球機構とは無関係なプロチームであったため、知名度に乏しく、しばしば誤った記述が見られる。
提訴したためにV逸
第二次世界大戦が終わった翌年の1946年、日本プロ野球は1944年以来2年ぶりに公式戦を再開したが、兵役についていた選手たちが元の球団に復帰するかどうかで揉め事があった。当時は「元いたチームが敗戦前に解散していれば元のチームに戻る必要はないが、元いたチームが敗戦後も解散せずかつチームから何らかの形で給与を受けていた場合は、敗戦前に所属していたチームに復帰しなければならない」という決まりがあった。
しかし巨人からはヴィクトル・スタルヒンと白石敏男が、阪神からも藤井勇が、球団の許可なくパシフィックへ入団してしまった。これによりパシフィックは連盟から問題が解決するまで3選手の出場を禁止するように言い渡されたが、藤本定義監督は3選手を5月下旬に行われた4試合に出場させてしまった。このことで巨人と阪神はパシフィックを提訴した。
提訴が受け入れられ、3選手が出場した4試合は全て0-9でパシフィックの敗戦となったが、パシフィックの実際の勝敗は1勝3敗であった。その1勝はこの年巨人と優勝争いをしていた近畿グレートリング(現:福岡ソフトバンクホークス)から上げたものだったため、ライバルに1勝をプレゼントしてしまう結果となった。最終的に1ゲーム差でグレートリングが優勝し、同率でプレーオフとなるはずが提訴をしたために優勝を逃した。
日本シリーズ終了後にペナントレース
1955年、この年のペナントレースは大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ(ジャイアンツ優勝)、更にその後にも日米野球・ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあってそれらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。
なおジャイアンツは以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。
- 1937年秋季は10月27日の東京セネタース戦がきっかけとなる。
1-2とリードされた9回裏1死1・3塁のジャイアンツの攻撃で、水原茂の打球は投手ゴロ。投手→二塁手→一塁手と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・苅田久徳が「一塁走者の平山菊二が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。
ジャイアンツはこの判定を不服として日本野球連盟に提訴(プロ野球初の提訴試合)。11月30日の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、12月9日に中止が決定した。 - 1949年は2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・大映戦・阪神戦各1試合、大陽戦3試合)を未消化のまま終了した。
- 1951年は120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日を持って打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。
- 1953年も国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、更には日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームとニューヨーク・ジャイアンツ)が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。
- 2004年はオリックスと近鉄の合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合)がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。
史上初の2日またぎ
1961年9月7日に開かれた対国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は3塁コーチャーズボックスに入っていた砂押邦信監督に促されてホームに向って走る。この後ジャイアンツは土屋はラインアウトだったと主張し、一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が走塁妨害を主張、判定が覆ってホームインが認められることになり、両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、試合が再開されたのは24時前で、試合終了は結果的に9月8日の0:11となり史上初の2日間またぎの試合となった。
2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で1990年-2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。
後楽園シリーズ(1981年)
1981年の日本シリーズでは、大沢啓二監督率いる日本ハムファイターズと対戦。同じ後楽園球場を本拠地にするチーム同士の対戦であり、史上初めて全試合同一球場で行われたシリーズとなった。東京ドーム移転後も2003年までは同一球場シリーズが開催される可能性があったが、2004年に日本ハムが本拠地を札幌に移転したため、今後行われる見込みはない。 ちなみに第1戦の始球式は東京決戦にちなみ、当時の東京都知事・鈴木俊一が行なった。 ちなみに、両球団は同日にリーグ優勝。巨人の祝勝会のわずか55分後に日本ハムがの祝勝会が行われ、報道陣は大忙しだった。 なお、この時、球場に詰め掛けた巨人:日本ハムのファン比率は9:1で巨人が全戦ホームの状態だった。
疑惑のホームラン
1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、篠塚利夫が内藤尚行から放った打球が、1塁塁審を務めていた大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日のスポーツニュースではこの打球のVTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは外野線審を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。当判定を下した大里審判員は、同年審判員を引退し審判指導員の道を歩んだ。
1年間に8点差を2度逆転される
1999年は中継ぎ投手の不振や村田真一捕手の負傷もあり、4月9日の横浜戦と4月28日のヤクルト戦では一時8点リードしながらともに逆転負けした。 ほか、1991年7月19日の中日戦でも8点差を逆転されている。この時には中村武志に8回に代打同点満塁、10回にサヨナラと2打席連続本塁打を打たれて敗れた(ナゴヤ球場の「8点差からの大逆転」も参照のこと)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
巨人 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 |
横浜 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | X | 13 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ヤクルト | 1 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 10 |
巨人 | 4 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 |
球団史上初の3連続引き分け
2005年、交流戦のオリックス6回戦(5月29日)から日本ハム5回戦(6月1日)まで、プロ野球7度目、球団史上初の3試合連続引き分けを経験した。
オリックス戦は初回に小久保裕紀の3ランで先制しながらも追加点が奪えず、7回に追いつかれて3-3。札幌に舞台を移した日本ハム戦は両日とも23時前までもつれ込む大接戦となった。初戦は日本ハム投手陣が13被安打・11四死球と乱調だったもののジャイアンツ打線も18残塁の拙攻で4-4、2戦目は守護神・木佐貫洋が最終回にセギノールに1発を浴びて追いつかれ、5-5の引き分けに終わった。
この3戦ではいずれもリードしながらも追いつかれ、また同点となった後は勝ち越し点を奪えずと、図らずも2005年のジャイアンツの拙攻と中継ぎ抑えの弱さを露呈することとなった。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
巨人 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
オリックス | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 |
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
巨人 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
日本ハム | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 |
- 6月1日(札幌ドーム)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
巨人 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 |
日本ハム | 0 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 5 |
取り消された本塁打
2006年6月11日、交流戦のロッテ最終戦(第6戦)で李承燁の本塁打が取り消されるという前代未聞の珍事が発生した。3回表2死得点1-1の同点の場面、一塁に走者小関竜也を置いて、李承燁が渡辺俊介投手から右中間席へホームランを打ち、勝ち越しかと思われた。しかし打者走者生還後、渡辺が投球する前に今江敏晃三塁手が「一塁走者の小関が三塁を空過し本塁に生還した」として三塁触塁のアピールプレイを行い、これが西本欣司三塁塁審に認められ小関選手はアウトとなった(野球規則7.10)。これにより本塁生還前に3アウトになったため李の得点は認められず、記録上はシングルヒットとされた(野球規則7.12)。ホームランで打者走者がベースを空過しためアウトとなったことはあるが、走者が空過したためヒットとされたのはプロ野球史上初の出来事である。原辰徳監督はこの裁定に関して抗議を行ったが西本塁審が「踏んでいないという絶対的な自信がある」と発言した為、激しい抗議を行わなかった。
翌6月12日にジャイアンツは該当シーンのビデオ(テレビ局の撮影映像)を公開し、「踏み忘れの判定は明らかな誤審だった」「(絶対的な自信があると言った西本)塁審は、ベースを踏んだ右足のかかとの位置からかなり後方に立っていた」(外部引用)としてセントラル野球連盟に対して口頭で抗議を行ったことをを明らかにした。6月13日には抗議書と映像の記録されたDVDも提出のうえ審判技術の向上とビデオ判定導入を文書で要望し、同時に口頭で記録の訂正を求めた。会見で公開された映像を受けて「小関ベース踏んでいた」「小関の無実証明」「三塁ベースを踏んでいるようにも見える」などと報道された。6月19日に連盟より回答が示され、その中で連盟は「審判員の判断に基づく裁定は最終のものである」(野球規則9.02(a))ことと野球規則内に映像での判定の規定が無い事から「検証結果に論評すべきでない」と回答が示され、誤審かどうかについてはコメントを避けた。また「映像で確認した場合」に「当該ジャッジと変わっていることもあるのは残念ながら事実」ではあるが野球は肉眼によって裁定される競技でありその原則は守られるべきである、としてビデオ判定導入については考えていない、とした。球団は再度抗議書を提出したが同様の回答が再度示され、それ以上の抗議は見送られた。また、2007年よりオープン戦で本塁打に特定して、ビデオ判定を導入する(テスト)事が決まった。
キーワード
「紳士」
正力松太郎オーナーが「巨人軍は紳士たれ」という言葉(遺訓〔巨人軍憲章とも呼ばれる〕のうちの1つ。残りは「巨人軍は常勝たれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」)を残したようにジャイアンツ選手は社会人、人間として模範となることを求められており、テレビ出演や試合の移動の際はスーツ姿にネクタイが義務付けられてきた。また、髭を生やす事も禁止されており、大洋時代は「ライオン丸」と形容される顎髭がトレードマークのシピン、北海道日本ハム時代、髭がトレードマークだった小笠原道大には、「無理強いをするつもりは無い」と、認めていたがジャイアンツ移籍後は髭を剃った。しかし同じく髭がトレードマークの屋鋪要が横浜から移籍してきた時は条件付き(活躍する事)で認めていた。
読売ジャイアンツの球団運営会社
ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(因みに筆頭株主は京成電鉄。東芝、阪神電気鉄道、東京急行電鉄、吉本興業がこれに続いていた)。1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2ヶ月で読売興業に吸収されている。1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(旧有楽町そごう*―現ビックカメラ有楽町店)や旧読売新聞東京本社跡地にあるプランタン銀座店ビルの保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」(1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社(旧:中部本社)と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」(第2期)の称号が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。
当初の背番号
戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって背番号を決めていた。
例えば1936年夏季の場合、1番・田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・中島治康、4番・永沢富士雄、5番・伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の筒井修、7番は背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、青柴憲一(13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。ちなみに、秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。
選手が増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。
カラーテレビ用ユニフォーム
1957年、ジャイアンツオーナーを兼任する正力松太郎が会長を務める日本テレビがカラーテレビ試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためにジャイアンツのユニフォームを変更した。
最初の変更は1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された(南海ホークスとの日本シリーズでは元のユニフォームが使用された)。
次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでのジャイアンツのチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。
しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、三宅大輔は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また小西得郎も「クリーブランド・インディアンスかミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。
このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(ちなみにカラーテレビが普及するきっかけとなったのは1964年の東京オリンピックである)。
三本柱
藤田元司は投手陣を中心に守備力を重視した野球を展開し、通算7年間の監督在任中に4度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。この藤田野球に欠かせない存在だったのが「三本柱」といわれる、3人のローテーション投手である。
1981年からの3年間で中心となったのは江川卓、西本聖、定岡正二。西本は松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同い年の定岡、法政大学から入団した江川と肩を並べるまでに成長した。定岡は1985年の引退までに51勝、江川は1987年の引退までに135勝、西本は中日ドラゴンズに移籍する1988年までに126勝(最終的に165勝)の成績を残している。
1989年からの4年間で中心となったのは斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄。斎藤は安定感、槙原は球威、桑田は投球術と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。斎藤(180勝)、槙原(159勝56セーブ)は2001年に揃って引退したため、現役は桑田(172勝)のみである。
主催試合開催方法関連
地方球場開催
かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に北海道シリーズ(円山、旭川、札幌ドームでの2-3連戦)、九州シリーズ(平和台、北九州、福岡ドーム、熊本などでの2-3連戦)は毎年、更に隔年で北陸シリーズ(金沢、富山県営、富山市民(アルペンスタジアム)、福井などでの2-3連戦)、東北シリーズ(盛岡、仙台、郡山などでの2-3連戦)を率先的に実施してきた。 しかし近年は東京ドームの試合を中心に編成したため(ドーム開催のほうが観客収入が多いことと移動を減らして選手の負担を減らそうとするフロントの考えと思われる)、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止、更に北海道や九州のシリーズも会場を1ヵ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。それが災いして、ファン離れが深刻になってしまった。そこで、2005年度は地方都市の開催を進めることになり、仙台での15年ぶりの復活開催や、長野、長崎での公式戦初開催(長野県では過去に松本で開催した事例あり)など地方開催を再び増やすことになった。特に長崎では伝統の一戦・阪神タイガースとの試合を編成したが、これは1日移動日を挟んで東京ドームでもう1試合を開催する変則2連戦となった。
2006年は55年ぶりとなる秋田での開催のほか、福島、熊本等で開催された。2007年は初の神戸市・スカイマークスタジアムでの開催のほか、ひたちなか・長崎などでの開催が予定されている。
大阪ドームでの主催ゲーム
関東以東の球団が近畿圏各地でホームゲームを行う機会は1952年にフランチャイズが確立してからは稀で、確立当初、球場難等を理由に西京極、大阪などでいくつかのチームが試合をした事例がある程度だ。特に1955年の大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の大映が京都太秦に撮影所を持っていた事も関係している)。
ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻め)となる試合が稀にあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は殆どなかった。しかし1997年に大阪ドーム(京セラドーム大阪)が竣工し、その年には読売新聞大阪本社の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは1999年と2001年以後は毎年1-2試合開催している。2001年以後は東京ドームで開く都市対抗野球の開催時期が8月下旬-9月初めに移動したためによる処置。しかし2006年は4月に開催され、2007年も4月に開催予定。
また公式戦ビジターゲームは相手のホームチームのフランチャイズ以外(つまりビジターの地方ゲーム)での開催はしばらく無かったが、ここ数年は静岡草薙球場での横浜戦など地方ビジターゲームも行なわれる。
ホームでのデーゲーム開催
東京ドームでのデーゲーム開催の恒常化も検討されている。これまで後楽園時代は頻繁に日曜日のデーゲームを開催されていたが東京ドームが開業1988年以降はゴールデンウィーク期間中や開幕シリーズなどで部分的にデーゲームをした事例はあるもののビジターゲームも含めてデーゲームで開催されることは殆どなく上記の地方球場開催の減少も影響し、ナイター設備がない円山球場での北海道シリーズ(現在は札幌ドームで行われる)と消化試合程度だった(2002年度の札幌ドームでの北海道シリーズはワールドカップサッカー日韓大会=札幌ドームも会場の一だった=のテレビ中継の関係で3試合ともデーゲーム開催だった。また2004年9月23日の横浜スタジアムでの横浜戦もデーゲームで開催された)。しかしファン離れが深刻になってきていることを踏まえて、春季の試合を中心に年間6-7試合程度を日曜日のデーゲーム開催で対応することでファンの更なる増加を目指そうという考えを示しており以下のような活動が認められる。
2005年は東京ドームでの日曜日のホームゲームのうち、5試合(5~6月の交流試合(日本版インターリーグ)3試合、セントラル・リーグ2試合)の試合開始を17時からのトワイライトゲーム(ナイトゲームは18時開始)、また5月5日の横浜戦は14時からのデーゲームとした。また、ビジターゲームでは5月1日の広島戦(広島市民球場)と、9月17・18日の横浜戦(横浜スタジアム)2試合の週末の3試合がデーゲームで開催された。
2006年は全てのホームゲームで試合開始を18時のナイターに戻すことになった。一方ビジターゲームでは広島、横浜戦に加え、ナゴヤドームでの中日戦についても、一部土・日開催分に関してはデーゲームで行った。対象となるのは横浜戦3試合(4月16日、9月16日、17日)、広島戦2試合(7月8日、9日)、中日戦4試合(4月8日、9日、6月24日、25日)の9試合。これは、テレビ中継を行う放送局のゴールデンタイムの定時番組枠確保という狙いもある。
キャンプ期間中のファンサービス
2005年度の宮崎キャンプで様々なファンサービス事業を実施した。内容は以下のとおり。
- 会場に訪れるファンのためにその日の練習プログラムを紹介する「ジャイアンツ新聞」を毎日配布。
- OBの長嶋一茂、宮本和知、水野雄仁の3氏が宮崎県内の小学校を訪れてトークショーを行った。
- 週末と祝日には全国各地の小学校をテレビ電話やインターネット回線の中継で結んで選手とのふれあいトーク会を開催した。
- 練習開始前・終了後にグラウンドをファンに開放し、選手とのサイン・握手会なども開いた。
ただしこれらのイベントに参加できたのは「ジャイアンツ拳」と呼ばれるジャンケンに勝ったファンだけだったため、参加できなかった大半のファンからは不満の声が上がった。また一部の選手(特に主力の生え抜き選手)が昨年までと同様にファンサービスに努めようとしなかったために懸念されていたファン離れに拍車をかけ、同じ宮崎市内の生目の森運動場で開催していた福岡ソフトバンクホークスよりキャンプ期間中の観客動員を下回るという事態になってしまった。
応援スタイル
ジャイアンツを応援する際、私設応援団である東京読売巨人軍応援団の先導により、声援とメガホンで応援する、他球団と同様の一般的なスタイルとなっている(一時は、千葉ロッテマリーンズの応援に習い、メガホンを使用せず、声と手拍子だけで応援しようとしたが、浸透しなかった)。また他球団の選手、チーム自体への野次は殆ど言わないし、野次を言うことを好まない人が多い。これは私設応援団が掲げている「ジャイアンツファンたるもの、選手同様紳士であれ」というモットーが浸透している為と思われる。また相手チームの選手でも、今までジャイアンツで功績を収めた選手が出場する際(例:現在中日ドラゴンズに所属している川相昌弘)や、相手チームの選手が好プレイをした際に、その選手に対し拍手が沸き起こったりする(2004年に行われたヤンキースとの交流試合の際、相手チームの選手であるにも係らず、松井秀喜の応援を行ったりもした)。その為、ジャイアンツファンは大人しい、お人好しと見られることがある。
応援時の格好は他球団同様、ホーム、ビジター用のユニフォームやシャツを着ることが多いが、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ・選手(特に松井秀喜)のユニフォームやシャツ、松井が所属しているニューヨーク・ヤンキース(松井のロゴが入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていても非難されない(ジャイアンツがヤンキースと提携していることも、非難されない要因の1つと考えられる)。
1999年頃よりG-FREAKSによって導入された応援方法のオリジナリティについてマリーンズファンとジャイアンツファンで議論されている。「マリーンズの応援スタイルは、サッカー・メジャーリーグベースボールなど数々の応援スタイルを流用して独自に再構成したものである。ジャイアンツの応援スタイルは、マリーンズの応援スタイルをそのまま活用したものが少なくない。」という主張が多い。
テレビ中継関連
主催試合のテレビ中継を巡って
長年、主催試合のテレビ中継は読売系の日本テレビによる独占状態が続き(但し1959年6月25日の天覧試合・阪神戦だけNHK総合テレビジョンとの併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを生み出す土壌を生成していた。
しかし、1993年にJリーグが誕生した事などから巨人ファン人口自体が減少傾向に入った事や、読売グループの総帥・渡辺恒雄の手法に対する批判から古来からの巨人ファンが少なからず離れて行った事に加え、巨人の成績低迷に合わせて中継の視聴率が低迷していることを受けて、2001年に読売側がNHKに対して試合の完全放送を提案。2002年から年間10試合程度を総合テレビで地上波独占放送、また年30試合程度をハイビジョンテレビで中継することを受諾した。
しかし、2004年の球界再編や更なるテレビ視聴率の低下などから日テレによる民放独占から他局での中継譲渡も検討されるようになり、2005年5月21日開催の東京ドーム・日本ハム戦の試合が日テレ以外で初めてテレビ朝日から全国中継された。更に2006年には日テレの主催マッチの中継は63試合(地方開催分を含む)にとどまり、残り10試合(全て東京ドーム開催分)はNHK総合で5試合、テレビ朝日で3試合(2005年も1試合のみ中継)、更に以前から主催試合中継が懸念されたフルネット系列局が少ないテレビ東京で2試合(BSジャパン同時中継により、系列局のない地域でも衛星受信機かケーブルテレビで視聴可能)が割り当てられ、日テレ独占状態がついに完全崩壊したこととなる。
また、以前からキー局の巨人戦中継枠のうち一部を地元球団の試合に差し替えて中継する準キー局もあるが(在阪局による阪神タイガース戦や、中日新聞が大株主の在名局による中日ドラゴンズ戦中継など)、近年では地方都市に本拠を置く球団の試合を地元テレビ局が巨人戦を差し替えて中継する例も急増している。日本の野球ファン全体が「巨人一辺倒」から「地元球団重視」へとシフトしている傾向が伺える。
テレビ中継の延長オプション行使
概ね1980年代に入ってから、ジャイアンツ戦が絡む試合の大半(優勝決定後の消化試合は除く)は最大で30分延長のオプション(初期のテレビ朝日の中継では一定時間が経過すると試合展開の如何に関係なく自動的に30分延長となったが、現在は延長中でも試合が終了すればその時点で中継も終わる。ただし5分単位)にすることが恒例とされた。しかし、近年低下傾向であった視聴率が2005年度シーズンに於けるチームの低迷で更に低下したことで各テレビ局は以下の対応を行った。
フジテレビは2005年8月4日放映の広島東洋カープとの対戦から最大延長を15分(21:09まで)に短縮し、1ヵ月後の9月からは延長の廃止を決定した。それに追随してTBSも2005年8月17日の中日ドラゴンズ戦からやはり延長オプションを30分から15分に縮小した。そして読売新聞系のテレビ局である日本テレビもついに8月9日からの横浜ベイスターズ戦から延長時間の見直しを行うことにし、30分延長の短縮は原則しないが、試合の展開で一方的な大差がついた場合は定時、または延長途中での打ち切りも行うことにした。だが延長中止の基準がきちんと確立されているとは言えず、ジャイアンツリードの試合が打ち切られたケースもある。
2006年には開幕当初から2005年から引き続き延長時間を15分と設定している試合がある。同年も視聴率の低迷は続き6月は日本戦以外の2006 FIFAワールドカップの試合中継の視聴率でも、プライムタイムに中継されていたプロ野球の視聴率を上回ることが度々起こった。視聴率低迷を受けてフジテレビは7月のジャイアンツ戦中継の延長時間の取り止めを表明し、併せて地上波中継取りやめを表明した(後述)。 また、7月6日には日本テレビが「延長の可能性あり」と発表しつつも中日ドラゴンズ戦の野球中継延長を取りやめ、それ以降の試合中継でも試合内容には関係なく延長は行われなかった。8月1日に日テレは「巨人の優勝の可能性が低いことや、中継後のレギュラー番組を楽しみにしている視聴者への配慮などを総合的に判断した(同局総合広報部)」としてテレビ中継の延長を原則行わないことを決め、同日の阪神タイガース戦から実施した。
野球中継をしなかった場合の番組視聴率を下回ることもある野球中継の視聴率の低下と中継延長により21時台以後の番組の遅延から視聴者離れが深刻になることも挙げられることを踏まえ、今後も視聴率の低迷が続けば延長或いは中継自体が縮小になる可能性があり、一部ではジャイアンツ戦中継の完全撤廃の検討も期待されている。
中継の取りやめ
2005年9月2日にフジテレビ・テレビ新広島で放送の広島戦は「編成上の都合」で広島=生放送と東京=深夜枠での録画中継とローカル中継に留めた。これは本来7月10日開催予定だった試合が雨で中止になりその予備日としてこの日に組み込まれたものの、スポンサーとの折り合いが付かなかったためであるが、しかしこの日のレギュラー番組が平均15%を超える人気番組+金曜エンタテイメントの内容が2夜連続である為中継は避けたいという判断が働いたという見方もある。またテレビ朝日でも同9月8日にゴールデンタイムで放送する予定であったヤクルトスワローズ戦を急遽深夜枠での放送に切り替えるという、初めての事例が発生した。さらに9月19日からのヤクルト3連戦は試合展開に関係なく延長なし、9月28日の阪神戦は伝統の一戦にもかかわらず、深夜のダイジェスト放送も無し、10月の主催4試合は地上波での生中継は実施せず、BS日テレとCSのG+での中継のみ(地上波は深夜のダイジェスト放送)となった。シーズン終了後にはフジテレビは視聴率次第では中継撤廃の可能性を示し、テレビ朝日もジャイアンツ戦中継の削減を検討した。
2006年4月はチームが好調だったにも関わらず視聴率は低迷し、4月27日の対広島戦は地上波・BSでは放送されず、生中継はCSのJ-sports plusのみで行われた。また、先述のとおり横浜、中日、広島主催のビジターゲーム(特に週末のデーゲーム)と、一部交流戦に関しても全国中継を行わない試合が発生した。特に、5月の東北楽天イーグルスとのビジター試合では、第2試合(テレビ朝日系全国放送)以外では地上波の全国放送は無く、第3戦に至っては宮城県内でのテレビ中継すら行われなかったが、これはこの試合が主催者側の親会社である楽天へのID登録によって視聴可能な楽天イーグルスTVでの生放送が行われていることも影響している。最終的にパシフィック・リーグでは楽天イーグルスだけが球団主催の巨人戦の全てを地上波で中継しなかった。7月には低迷を続ける視聴率を受けてフジテレビが同月の延長の取り止めと8月以降の試合は原則として地上波ではなく系列のCS放送にて中継することを表明した。また8月11-13日、及び9月18、19日の広島戦ビジター(初日から8月は中国放送、広島テレビ放送、広島ホームテレビ、9月は広島ホームテレビ、広島テレビ放送製作)の全国放送も取りやめ、更に9月30日・10月1日の広島戦、10月3-5日の横浜戦のホームマッチ(東京ドーム)も地上波では録画中継を含め一切中継がない(広島戦は広島ローカル分も)という、日テレは巨人の主力スポンサーでありながら全国中継はおろか、東京でも放映なしという異例の事態も起きた。(いずれも衛星放送=BS・CSの受信装置やケーブルテレビで視聴可能)
なお、一部の試合は各系列のBSやCSでプロ野球トップ&リレー中継が行われている。交流戦のパ・リーグ各チーム主催試合に関しては完全中継がなされることが多い。
優勝決定前後の中継における問題
民放各局は巨人の優勝決定試合は通常より時間を大幅に延長する。2002年9月24日に巨人がリーグ優勝に輝いた際、試合中継を行っていたフジテレビが原監督の胴上げの瞬間を生中継するなどで150分にわたる中継の延長を行い、視聴率は平均で29.1%、瞬間最高では42.9%に達した。しかしその結果「ナースのお仕事4」の最終回2時間スペシャルの開始が23:30(JST)となった。視聴者からは中継延長に対してフジテレビに14,000件の抗議が寄せられ、後日改めて「ナースのお仕事4」の最終回を放送することになった。
また、この年は巨人優勝決定以降の試合を各局とも放送しなかった。しかし当時は松井秀喜に最終戦まで三冠王の可能性があり(首位打者は獲得ならず)、最終戦に関しては翌朝ダイジェスト放送という結果となったため巨人ファンがテレビ局に抗議するという問題も起きた。過去にもジャイアンツの優勝の可能性が消えたときには中継が行われなかった年度がある。
ホリデーユニフォーム
ジャイアンツは2005年末、アディダスジャパンとサプライヤー契約を結び、2006年度の新ユニフォームを開発した。ホーム用はこれまでのデザインをほぼ踏襲した形となったが、ビジター用は地色を灰色から黒に変更。またこれまで「Y」と「G」を組み合わせた「YGマーク」から、ホームと同じく「GIANTS」の英文字のユニフォームになった。ビジター用ユニフォームの胸マークがGIANTSとなるのは、1952年以来54年ぶりのことである。更に、ジャイアンツ70年余の歴史で初めての試みとして、ホームゲームの日曜日・祝日のみに着用する「ホリデーユニフォーム」を実施することになった。デザインは白色ベースに「Giants」の筆記体文字(2002年~2004年に採用されたビジター用セカンドユニフォームで使われたものと同じロゴ)が取り入れられた。
ちなみに、ジャイアンツは2001年にホームゲーム3連戦の中日(なかび・2日目)に選手名を外す「バックナンバーデーユニフォーム」を採用したり、また2002年にはオープン戦や公式戦の試合前の練習用に限定したセカンドユニフォームを使用した事例がある。
関連項目
読売ジャイアンツを主な舞台とする作品
- ちかいの魔球(ちばてつや)
- 巨人の星(梶原一騎・川崎のぼる)
- 侍ジャイアンツ(梶原一騎・井上コオ)
- リトル巨人くん(内山まもる)
- マツイ日記は知っている!(荒木ひとし)
- ミラクルジャイアンツ童夢くん(石ノ森章太郎)
- ワルG(片山誠)
外部リンク
読売ジャイアンツ - 2007 | |
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