松本市野球場
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松本市野球場 | |
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Matsumoto Municipal Baseball Stadium | |
施設統計 | |
所在地 | 長野県松本市浅間温泉1-9-1 |
開場 | 1991年 |
所有者 | 松本市 |
管理・運用者 | 松本市 |
グラウンド | 内野:クレー舗装 外野:天然芝 ファウルエリア:砂入り人工芝 |
照明 | 照明塔:6基 最大照度:投捕間2500Lx 内 野1500Lx 外 野 750Lx |
設計者 | |
使用チーム、大会 | |
収容能力 | |
25,000人 | |
規模 | |
両翼:98 m 中堅:122 m |
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フェンスの高さ | |
松本市野球場(まつもとし・やきゅうじょう)は、長野県松本市にある野球場。松本市が運営管理を行っている。
目次 |
[編集] 歴史
1926年、市内浅間温泉地内に長野県営松本球場(ながのけんえい・まつもときゅうじょう)として開場した。これは1924年の大正天皇、皇后両陛下のご結婚25周年を記念した奉祝事業の一環として長野県が建設した運動場の施設内に建設された。
しかし老朽化のため全面改築される事となった。また、市内にあるもう一つの野球場で松本空港近くにあった松本市営野球場も老朽化したため廃止される事となり、県と市は施設の所有相互交換を行い、県営球場は市に移管し1989年に着工、市営球場跡地は屋内型多目的施設「やまびこドーム」の建設用地となった。現市野球場は1991年に完成、その後ナイター設備も設けられた。
[編集] 主なエピソード
- 旧球場時代の1947年8月16日に行われたプロ野球変則ダブルヘッダー(当時は1会場で異なるカードのダブルヘッダーが多かった)において2試合で13本の3塁打が飛び出した。
- 当時の球場には外野が低い土手になっていることからフェンスがなく、特例として「土手を超えた場合はエンタイトル3塁打とする」という取り決めができた。しかも折からの強風の影響で巨人vs阪急戦では巨人が3回に1イニング4本の3塁打が飛び出すと、第2試合の阪神vs東急の試合では阪神4本、東急5本の都合9本の3塁打が飛び出した。
- 翌年の1948年5月16日に開かれた中部日本vs阪神戦では「3塁打が続出してしまうとルールが甘すぎる」として「土手を超えた場合はエンタイトル2塁打」に変更された。
- 1991年に改築が完了し「松本市野球場」となってからの初本塁打は、当時松商学園高等学校野球部に所属していた上田佳範(のち日本ハム-現中日)が放った。上田は「球場のこけら落としに強い」というジンクスがあり、高校時代には新潟県頸城村(現上越市頸城区)にあるくびき球場の開場記念招待試合で本塁打を放っている他、プロ入り後の1995年にも、三条市民球場で行われた近鉄戦で球場プロ1号をマークしている。
- 初のプロ野球公式戦は1992年6月15日、巨人対ヤクルト戦。地元出身で当時読売新聞社の名誉会長だった務台光雄の誘致により、松本市で37年ぶりに巨人戦が開催された。球場プロ1号はヤクルト・古田敦也が放った。試合は16-5でヤクルトが圧勝したが、先の事から翌日のスポーツ各紙では「巨人、お膝元で赤っ恥」という見出しで書き立てられた。
- プロ野球初のナイターは1999年、日本ハム対千葉ロッテ2連戦。地元・松商学園高出身の日本ハム・上田佳範が出場。2試合ともロッテ・松本尚樹選手が活躍し、松本市関係者は「同じ松本で縁を感じる」として松本を特別に表彰した。
- 2003年7月1日のヤクルト対横浜戦でヤクルト・稲葉篤紀が史上56人目のサイクルヒットを達成した。5回まででの達成は史上最速で、降雨コールドゲームでの達成も史上初。
[編集] 施設概要
- 両翼:98m、中堅:122m
- 内野:クレー、外野:天然芝、ファウルエリア:砂入り人工芝
- 照明設備:6基(最大照度:投捕間2500Lx、内野1500Lx、外野750Lx)
- スコアボード:磁気反転式
- 収容人員:25,000人(外野:芝生席、内野:座席、内野スタンドのバックネット裏に屋根架設)
[編集] 交通
- 松本バスターミナル(JR松本駅東口より徒歩約3分)7番のりばから松電バス「横田経由 浅間温泉」行で「松本第一高校」下車後徒歩約5分
- プロ野球等開催時は松本駅から臨時バス運行あり
- JR松本駅東口からタクシー約10分