近畿地方
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近畿地方のデータ | ||
二府四県の合計 | ||
面積 | 27,335.11km² | |
総人口 | 22,515,720人 (2005年3月31日) |
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人口密度 | 755.39人/km² (2005年3月31日) |
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位置 | ||
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近畿地方(きんきちほう)は、本州中西部に所在する6~9の府県により構成される日本の地方区分の一つ。
古くから、日本の政治・経済・文化の中心として繁栄した地方であり、明治時代より前には、大阪(難波京)・奈良(平城京)・京都(平安京)など、長く都が置かれた。
現在も西日本の中核を成しており、政治的・経済的に関東地方と列んで重要な地方である。関東地方に対して、「関西」「関西地方」と呼ばれることも多いが、それを良く思わない住民もいる。
目次 |
[編集] 名称
畿内五国の大和国・摂津国・河内国・和泉国・山城国と、五国に隣接する丹波国・播磨国・淡路国・紀伊国・伊賀国・伊勢国・近江国・若狭国を総称して「近畿」「近畿地方」という。現在の府県では滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・和歌山県・三重県の全域と福井県の一部に当たる。
ただし、三重県の伊勢湾岸は、京阪神よりも名古屋市との関連が深く、中部地方や東海地方(或いは中京地方)に区分される場合が多い。また、一部の省庁では、三重県の代わりに福井県(特に嶺南=旧若狭国)が近畿地方として含まれることがある。
兵庫県の播但線以西(旧播磨国と旧但馬国)を中国地方に区分する場合がある。これは、但馬国を山陰地方に、姫路以西を山陽地方に含める考えから来ている。
[編集] 近畿と関西
近畿(きんき)が正式名称・雅称であるのに対して、関西(かんさい)は俗称である。「近畿」と「関西」はほぼ同じ地域を指すが、「関西」は一般的に「関西二府四県」(京都府、大阪府、滋賀県、兵庫県、奈良県、和歌山県)であるとされており、両者は分けて使われる事がある。
それぞれ政治・経済・行政・文化・交通の中心となっている京都・大阪・神戸の三市は京阪神と総称され、京阪神の一帯は畿内(きない、きだい)とも呼ばれる。この為、狭義では畿内のみを指す事も多い。以上のように、地理的区分の「近畿」とは少し内容がずれる。
なお、日本国外(特に英語圏)に対しては、"Kinki"の名称が"Kinky"(よじれた、異常な、などの意)と誤聞される可能性があり、旅客に関連するサービス・製品・会社などでは、Kansai の名称を用いる事が多い。
[編集] 首都圏としての近畿
「近畿」の「畿」の字義は「都」(みやこ)であり、近畿とは「都に近い地域」すなわち「首都圏」という語義を持つ。都が所在する京都や奈良の周辺地域を「畿内」と呼んだことに由来しているが、そのルーツは、大化改新で難波長柄豊崎宮(大阪市中央区)を都にした際、都の圏域を「内畿国」(うちつくに)と呼んだことに求められる。
長い年月の間、「近畿」の語は地名として定着したために、明治政府が東京(関東)に首都を置いた時に、東京近辺を「近畿」や「近畿圏」と呼ぶことができず、後に新たな表現として「首都圏」を用いるようになった。
律令時代の畿内は、山城国・摂津国・大和国・河内国・和泉国で、現在の京都府南部・大阪府・兵庫県南東部・奈良県を指す。
[編集] 近畿・副首都構想
副首都構想とは兵庫県伊丹市と大阪府豊中市・池田市にある伊丹空港を廃止し、その跡地に副首都を造る構想である。
[編集] 範囲
近畿地方にどの府県を含めるかについては、次のような例がある。
- 二府四県(京都府、大阪府、滋賀県、兵庫県、奈良県、和歌山県)
-
- 国交省(運輸局)、旧大蔵省(財務局)、農水省、旧郵政省(電波監理局、現・総合通信局)、旧運輸省(陸運局)
- 放送における近畿広域圏
- 二府五県(二府四県+三重県)
-
- 地理の国定教科書(1903年)
- 広辞苑
[編集] 近畿地方に隣接する県を編入する例
- 二府五県(二府四県+福井県)
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- 国交省(地方整備局)、通産省、旧建設省、旧運輸省(海運局)
- 二府七県(二府四県+三重県+福井県+徳島県)
[編集] 主要都市
[編集] 地域
交通体系で東部(東海道ルート、中山道ルート、北陸道ルート)・南部(南紀ルート)・西部(四国ルート、山陽道ルート、山陰道ルート)の三つのエリアに分ける場合と、中部〔畿内(京阪神)〕と四方〔北近畿、南近畿(南紀)、東近畿(滋賀県草津以東)、西近畿(旧飾磨県=播磨地方、淡路島)〕の五つのエリアに分ける場合がある。
畿内・東近畿・西近畿の3地域と、北近畿・南紀の2地域では、交通網の整備などで格差が大きい。実際に、北近畿や南紀では、高速道路(舞鶴若狭自動車道、紀勢自動車道)の整備が遅れを取っている。
[編集] 地理
紀伊半島の北部を東西に中央構造線が通り、中央構造線より南の地方(南紀など)は、森林が多い多雨地帯である。
気候は大きく四つに分かれる。日本海沿岸の北近畿と福井県嶺南地方は日本海側気候。南紀と三重県(除伊賀盆地)は太平洋側気候で雨が多い。大阪府・兵庫県摂津・播磨地方・淡路島・和歌山県北部は瀬戸内海式気候。京都府山城地方~南丹・滋賀県南部・奈良県北部(奈良盆地)・三重県北西部(伊賀盆地)は内陸性気候。
- 地形
[編集] 歴史
「近畿」の字義が「都の近く」を意味する通り、古くから日本の中心として、近畿地方は発展した。
[編集] 弥生時代・古墳時代
弥生時代前期の畿内には、目立った政治勢力はまだそれほど成立していなかったと考えられている。当時の畿内に特徴的なのが、方形に区画するように溝を掘って作られた方形周溝墓である。
弥生時代後期になると、奈良盆地東南部に大規模な集落が出現した(纏向遺跡)。この遺跡からは、日本列島各地から流通してきたと思われる土器が非常に多数発見されており、また、王宮跡と見られる大規模な遺構も見つかっていることから、弥生時代後期の倭の中心的な都市の一つだったと考えられている。魏志倭人伝に登場する邪馬台国の有力な候補地ともされている。
近畿地方中部には、ヤマト王権が3世紀中葉に成立し、古墳時代が始まると、ヤマト王権は倭国を代表する政治勢力として成長していった。ヤマト王権の王(治天下大王)は代々、奈良盆地や河内平野に王宮を営み、また同地には王族や豪族たちの古墳が多数築かれた。和泉国の大山古墳(堺)は仁徳天皇の墓と伝承されており、世界最大の規模を誇る。
[編集] 古代(飛鳥時代 - 平安時代)
古墳時代が終わる6世紀中期頃から、王宮が奈良盆地南部の飛鳥に代々営まれるようになった。そのため、古墳時代に続く時代区分を飛鳥時代という。古墳時代後期から中国や朝鮮半島からの帰化人が多数来朝しており、その多くは飛鳥時代に奈良盆地や河内平野など畿内近国に定着した。
645年、乙巳の変で蘇我入鹿が宮中で暗殺されると、孝徳天皇により大化の改新と呼ばれる改革が行われ、飛鳥から難波長柄豊埼宮への遷都が実施された。その後、天智天皇が政権を握ると、667年、大津京への遷都が行われた。
672年には、天智天皇の後継者争いから壬申の乱が勃発した。この古代最大の内乱は畿内を舞台に行われ、これに勝利した大海人皇子(天武天皇)は飛鳥浄御原宮に遷都し、集権的な国家建設に取り組んだ。天武後継の持統天皇が奈良盆地南部に営んだ藤原京は日本史上最初の都城である。
701年、大宝律令が施行され、律令制が本格的に導入され始めた。律令制の地域区分である五畿七道によれば、大和国・山城国・摂津国・河内国・和泉国の5か国が五畿(畿内)とされたほか、丹波国・丹後国・但馬国が山陰道に、播磨国が山陽道に、紀伊国・淡路国が南海道に、伊賀国、伊勢国が東海道に、近江国が東山道に、若狭国が北陸道にそれぞれ区分されていた。
710年、平城京への遷都が行われ、以後を奈良時代という。平城京には10万人が在住したと推定されており、突如として出現した日本最初の大都市であった。8世紀後期になると、桓武天皇によって長岡京そして平安京への遷都が相次いで実施された。平安遷都(794年)以後を平安時代という。
平安時代を通じて、畿内近国は朝廷の統治が比較的及びやすい地域だった。例えば、9世紀後期には、諸官庁の経費をまかなうための官田が畿内に4000町設定されたほか、他の地域で次第に実施されなくなった班田が、畿内諸国では遅い時期(10世紀)まで励行されていたことなどは、朝廷の統治権が他地域よりも畿内に強く作用していたことを表している。平安中期に名田制が登場すると、畿内では名田の面積が均等化された均等名が多く見られた。平安後期の荘園公領制の形成過程では、畿内近国では他地域よりも荘園の増加がいち早く進行した。
[編集] 中世
鎌倉時代には、武士による荘園・公領への侵出が著しくなったが、多くの権門(有力貴族や有力寺社)の権利が複雑に入り組む荘園・公領が汎在する畿内近国では、武士の侵出は他地域ほどとはならなかった。畿内の荘園・公領は、権門の統治権が強く及んでいたが、収入の増加を目論む権門は、中国由来の農業技術や新たな農業技術を畿内の荘園・公領に導入しようと努め、その結果、畿内は農業技術の先進地域となった。例えば、畿内では鎌倉時代までに早くも二毛作が実施されていた。
また、一方では商人・職人らが、商業上・生産上の特権を得るために、有力寺社の神人となったり、天皇に奉仕する供御人となる動きが、畿内では特に顕著に見られた。こうした神人・供御人らは獲得した特権を背景として、座とよばれる同盟を結成し、畿内のみならず他地域に渡る広範な交易活動を展開した。
農業生産の向上と神人・供御人らによる交易活動の広域化は、鎌倉時代中期ごろから進展していき、畿内を中心としたこの動きは、流通の活発化、銭貨の普及、そして社会の流動化をもたらすこととなったのである。このような状況がいち早く現出していた畿内では、従来の荘園領主・武士層とは異なる階層が急速に経済力・政治力をつけ始めており、彼らは悪党と呼ばれた。
後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内国住人の楠木正成も悪党の一人だったと考えられている。悪党の台頭は、社会構造の流動化を加速させた。従来は荘園領主・国衙・武士に支配されるのみで、自己決定権を持ちうべくもなかった村落が、自検断権を持ち領主と対等に交渉しうる惣村へと成長したのも、社会構造の流動化の一つの現れである。畿内では特に惣村が高度に発達し、また多数存在していた。
室町時代当時、畿内において高い権利意識を持ち、自らの権利を主張したのは惣村だけではなかった。神人・供御人として広範な商業活動を行っていた土倉・馬借らや、在地武士層である国人らも高い自立性を有していた。彼らの高い自立性の一つの帰結が15世紀前期から見られ始めた土一揆・徳政一揆・惣国一揆である。これらの一揆の大多数は畿内で発生しており、他地域ではほとんど見られない。畿内特有の現象だったのである。このように自立性・自主性の高い地域であったため、戦国時代になっても、畿内は他地域のように戦国大名による一円的な支配を織田信長・豊臣秀吉の出現まで受けることがなかった。
[編集] 江戸時代
江戸時代になると、西廻り航路が開発され、日本海沿岸から瀬戸内海沿岸の物資が集積する大坂は「天下の台所」と呼ばれ、著しい繁栄を見せた。江戸時代以降、鈴鹿関以西の近畿地方は「関西」とも呼ばれるようになり、中でも京都や大坂を中心とする近畿地方中部は「上方」と呼ばれ、上方文化の中心地となった。上方文化を象徴する人物には、井原西鶴などが代表的である。
近畿地方にも多数の藩(地方王国)が樹立された。有力な藩としては紀伊藩(紀伊徳川家、56万石)や彦根藩(井伊家、35万石)などがあった。紀伊藩は西日本の鎮として睨みを利かせ、彦根藩は中山道沿線を領土として、京都に対する備えとして配置されていた。両藩とも幕府にとって重要な存在であったため、居城の和歌山城と彦根城は大きな規模を誇っている。
[編集] 明治維新以後
明治維新を迎えると、天皇は京都御所から江戸城に居住を遷した。この時、江戸は東京と改名され、国家機関も東京に置かれた。このため、畿内では衰亡の危機との危惧論も出されたが、1897年の京都帝国大学(京都大学)の創立を初めとして、文化の中心は依然として京都に置かれることとなった。また、江戸時代に「天下の台所」と呼ばれた大坂は、大阪に改称し、引き続き経済と行政の中心地となった。
1871年の廃藩置県後の近畿地方を概観すると、大阪府、京都府、兵庫県、和歌山県、奈良県、滋賀県、三重県となっている。1881年2月6日までは、福井県の若狭地方が、近畿地方の滋賀県に含まれていた。また、近畿地方各地を結ぶ鉄道が、明治政府と私鉄によって建設されたが、特に近畿地方中部では私鉄が中心となって鉄道を建設し、かつ多角化事業を打ち出した。それ以来、近畿地方は「私鉄王国」と呼ばれている。軍事面では、日本海沿岸の舞鶴に、海軍の拠点が置かれた。
第二次世界大戦による戦災を経て、高度経済成長期には、1963年7月には名神高速道路が開通、1964年10月には東海道新幹線が開通し、1970年には日本万国博覧会(大阪万博)が開かれるなど、現在では関東地方(南部)に次ぐ日本第二の経済圏を形成している。
しかし、金融ビッグバン以降には東京一極集中が一層加速して、東京の政治・経済の力が急激に伸びていることから、近畿地方の地盤沈下が問題視されている所がある。
[編集] 交通
[編集] 交通史
とりわけ畿内は、古代から日本の中心地として盛えた地方であり、律令時代には畿内(面)を中心にした放射状交通網が整備された。畿内から伸びる路線には、東には奈良経由で東海道が、米原から分岐する形で北東には東山道が、北には北陸道が、北西には山陰道が、西には山陽道が、南と南西には南海道が、それぞれ整備された。
江戸時代になると、畿内でも京都(点)を中心にして交通網が整備され、東には東海道と中山道(途中、草津で分岐する)が、西には西国街道が整備された。
明治時代になると、大阪(点)を中心にした放射状交通網が整備され、現在に至っている。
[編集] 幹線交通網
明治時代以後は、近畿地方の交通網は、概ね大阪を中心にした放射状幹線が整備されている。幹線ルートは、東海道ルート、中山道ルート、北陸道ルート、南紀ルート、四国ルート、山陽道ルート、山陰道ルートに大きく分けられる。
日本海側では、福知山を中心として、京阪神を経由せずに北陸地方から山陰地方に抜けるルートが整備されている。
- 東海道ルート:関西本線、東海道本線・草津線、第二名神高速道路、西名阪自動車道・名阪国道・東名阪自動車道、国道1号、国道25号
- 中山道ルート:東海道新幹線、東海道本線、名神高速道路、国道8号、国道21号
- 北陸道ルート:北陸本線、北陸自動車道、舞鶴若狭自動車道、国道8号、国道27号
- 南紀ルート:阪和線・紀勢本線、阪和自動車道・紀勢自動車道・伊勢自動車道、国道26号・国道42号・国道23号
- 四国ルート:神戸淡路鳴門自動車道、国道28号
- 山陽道ルート:山陽新幹線、山陽本線、山陽自動車道、中国自動車道、国道2号、国道250号
- 山陰道ルート:京都縦貫自動車道、舞鶴若狭自動車道、国道9号、国道176号
[編集] 鉄道
近畿地方は「私鉄王国」として有名な地方であり、私鉄の乗客数がかなり多い。以下に、主な路線を掲載する。
- 主な幹線:山陽新幹線 東海道本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線を含む) 北陸本線 阪和線 紀勢本線 関西本線(大和路線を含む) 山陽本線(JR神戸線を含む) 福知山線 山陰本線 舞鶴線 小浜線 大阪環状線
- 主な連絡線:奈良線・桜井線 播但線 草津線 片町線(学研都市線)
[編集] 道路
- ※ 詳細の路線は「近畿地方の道路一覧」も参照する事。
- 主な幹線道路
- 名神高速道路・京滋バイパス・国道1号・国道21号
- 北陸自動車道・国道8号
- 東名阪自動車道・西名阪自動車道・近畿自動車道・国道25号(名阪国道を含む)
- 阪和自動車道・紀勢自動車道・伊勢自動車道・国道26号・国道42号・国道23号
- 神戸淡路鳴門自動車道・国道28号
- 山陽自動車道・第二神明道路・国道2号・国道250号
- 中国自動車道
- 京都縦貫自動車道・国道9号
- 舞鶴若狭自動車道・国道27号・国道175号・国道176号
- 播但連絡道路・国道312号
- 国道171号
- 国道24号
[編集] 空港
[編集] 港
[編集] 経済
関東地方(特に東京都23区を中心とする南部)に次ぎ、日本で第二の経済圏を構成する。概して、大阪市に本社が集中している。
[編集] テレビ放送
広域放送は、近畿6府県と徳島県をエリアとする放送局が、大阪市に立地する。又、独立UHF放送局を初めとして、独立系のローカル局も存在する。
※ 三重県の伊賀地方や熊野地方、福井県若狭地方などでも受信が可能。
- 県域放送
- びわ湖放送(滋賀県の独立系ローカル局)
- 奈良テレビ放送(奈良県の独立系ローカル局)
- 京都放送(京都府の独立系ローカル局)
- サンテレビジョン(兵庫県の独立系ローカル局)
- テレビ和歌山(和歌山県の独立系ローカル局)
- テレビ大阪(大阪府のテレビ東京系列局)
[編集] 人口
ISO 3166-2 | 都道府県名 | 順位 | 人口 | 割合 |
---|---|---|---|---|
JP-25 | 滋賀県 | 31 | 1,366,415 | 1.10% |
JP-26 | 京都府 | 13 | 2,645,796 | 2.10% |
JP-27 | 大阪府 | 2 | 8,831,177 | 6.90% |
JP-28 | 兵庫県 | 8 | 5,588,268 | 4.40% |
JP-29 | 奈良県 | 29 | 1,434,576 | 1.10% |
JP-30 | 和歌山県 | 39 | 1,056,050 | 0.80% |
20,922,282 | 16.40% |
※順位・人口・割合は2003年10月1日のデータによる。なお、2005年3月31日現在の「住民基本台帳に基づく人口調査結果」(総務省)では、初めて人口が減少に転じ、京都府・大阪府・兵庫府・奈良県の四県を合わせた人口が2004年より0.004%減となっている。
[編集] 年齢構成
次のグラフは滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・和歌山県の人口を合計した。
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
総計 [単位 千人]
年齢5歳階級別人口
2004年10月1日現在推計人口
男女別 [単位 千人]
- データ出典:第10表/都道府県, 年齢(5歳階級), 男女別人口-総人口
(総務省統計局)
[編集] 関連項目
日本の地域 | |
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道北 | 道東 | 道央 | 道南 | 北東北 | 南東北 | 北関東 | 南関東 | 甲信越地方 | 北陸地方 | 東海地方 | 中京地方 | 山陰地方 | 山陽地方 | 瀬戸内地方 | 北九州 | 南九州 |