正力松太郎
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正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年4月11日 - 1969年10月9日)は、日本の警察官僚、政治家で、読売新聞社社主を務めた。A級戦犯に指定されたが不起訴となった。従二位 勲一等。
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[編集] 来歴・人物
読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だい-しょうりき)と呼ばれる。
日本におけるそれぞれの導入を推進したことで、「プロ野球の父」、「テレビ放送の父」、「原子力の父」とも呼ばれる。駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。
その一方でフィクサーとしても暗躍し、京成疑獄などにも関与している。その手法を受け継いだのが渡邉恒雄だとされる。近年著された佐野眞一「巨怪伝」(文芸春秋)は、その知られざる貌を精緻に描写し、その実像の一端を紹介している。長男は読売ジャイアンツ初代オーナーの正力亨。
[編集] 略歴
正力という姓は嘉永年間に祖父・庄助が発案した鉄の金輪に命名された正力輪から始まっている。この金輪は河川の氾濫で流れた古橋の抗をぬくための道具として効力を発した。
- 1885年 富山県射水郡大門町(現・射水市)に土建請負業を営む父・正力庄次郎、母・きよの次男として生まれる。
- 1900年 旧制高岡中学(現富山県立高岡高等学校)入学。
- 1903年 第四高等学校入学。同級生に河合良成(小松製作所会長)、品川主計(読売ジャイアンツ代表)など。
- 1906年 三高との高専柔道の対校戦に優勝。この時、団体戦で正力側の学校は相手校に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、正力側の学校は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった。
- 1907年 東京帝国大学法科大学独法科入学。河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連会長)などが同級。
- 1910年 内閣統計局に入る。
- 1912年 高等文官試験に合格。
- 1913年 警視庁入庁、警部。警視総監・安楽兼道の義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島出身)と結婚したが一女をなしてまもなく亡くなる。
- 1914年 警視、日本橋堀留署署長。
- 1915年 吉原波満と再婚。
- 1917年 牛込神楽坂署署長、警視庁第一方面監察官。
- 1919年 警視庁刑事課長。
- 1921年 警視庁官房主事。
- 1923年 警視庁警務部長。虎ノ門事件。
- 1924年 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ懲戒免官。直後摂政宮婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。
- 1928年 京成電車疑獄事件に連座、収監される。禁錮4月執行猶予2年の判決を受ける。
- 1934年 大リーグ選抜チームを招聘、巨人軍創立。
- 1935年 読売新聞社前で暗殺未遂。首を斬りつけられ重傷を負う。
- 1944年 貴族院勅選議員。小磯内閣顧問。
- 1945年 第1次読売争議。A級戦犯に指定され、巣鴨拘置所に収容される。
- 1947年 不起訴、釈放。
- 1952年 日本テレビ初代社長に就任(1955年まで務める)。
- 1953年 日本テレビ開局。
- 1955年 富山2区から衆議院議員選挙に出馬、当選。第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官兼原子力委員長。
- 1956年 科学技術庁設置により初代長官。
- 1957年 第1次岸内閣改造内閣で科学技術庁長官兼国家公安委員長。茨城県東海村で日本初の原子力発電所稼動。
- 1961年 武道会館建設議員連盟会長。
- 1962年 財団法人日本武道館初代会長。駒澤大学より名誉博士号を授与される。
- 1964年 勲一等旭日大綬章を受章(没後、旭日桐花大綬章追贈)。
- 1965年 大門町名誉町民。高岡市名誉市民。
- 1969年 国立熱海病院で死去。14日に日本武道館にて葬儀。柔道八段から十段に。
[編集] 警察官僚時代
- 警視庁官房主事として1923年6月の日本共産党第1次弾圧や、同年9月の関東大震災に乗じた社会主義者弾圧を指揮した。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。
[編集] 新聞経営
- 同年、番町会グループである郷誠之助・藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社の経営権を買収し、社長に就任した。元警察職員である正力が社長となることで「御用新聞」になるのではないかと反発した記者が、相次いで退社した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面・地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。
[編集] 大リーグ招聘
- 1934年、ベーブ・ルース率いるアメリカ大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成されたが、同チームを基礎として東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)が創設され、1936年の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は最初期と戦後の一時期を除いて巨人軍のオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁に就任した。このような正力の業績を称え、日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年「正力松太郎賞」が贈られている。
[編集] 襲撃事件
- 1935年、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられ重傷を負った。直接の実行犯の長崎勝助は右翼団体武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘し、神宮球場を使用し「神域を穢し」たことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社「東京日日新聞」の幹部による指示があったとされた。