李承ヨプ (野球選手)
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イ・スンヨプ | |
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各種表記 | |
ハングル: | 이승엽 |
漢字: | 李承燁 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
イ・スンヨプ |
ラテン文字転写: | Yi Seung-Yeop |
本人表記: | Lee, Seung-Yeop |
男子 野球 | ||
銅 | 2000 | 野球 |
李承燁(イ・スンヨプ、1976年8月18日 - )は韓国出身で読売ジャイアンツ所属のプロ野球選手。
韓国・全羅南道出身、1995年慶尚北道大邱慶北高等学校卒業後、三星ライオンズに推定契約金1億3200万ウォン、推定年俸2000万ウォンで投手として入団したが、高校時代に傷めた左肘が完治せず、当時の白仁天監督の勧めで打者に転向した。左投げ左打ち、主なポジションは一塁手。「ライオンキング」「アジアの大砲」「韓国の松井」の異名で呼ばれる。背番号36は三星ライオンズの永久欠番。2004年から2005年までプレーした千葉ロッテマリーンズのチームメートからは「スンちゃん」と呼ばれていた(読売ジャイアンツでも同じように呼ばれているようで、原辰徳監督もこう呼んでいる)。 2006年の背番号は33であったが、2007年からは25に変更する。スコアボード上では『李承燁』とフルネーム表記されている。
目次 |
年度別成績
韓国プロ野球
(太字は年度リーグ最多記録)
年度 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 所属 | 背番号 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | 121 | 365 | 55 | 104 | 13 | 174 | 73 | 0 | 33 | 4 | 54 | 0.285 | 三星ライオンズ | 36 |
1996年 | 122 | 459 | 57 | 139 | 9 | 210 | 76 | 4 | 34 | 5 | 42 | 0.303 | 三星ライオンズ | 36 |
1997年 | 126 | 517 | 96 | 170 | 32 | 309 | 114 | 5 | 49 | 6 | 79 | 0.329 | 三星ライオンズ | 36 |
1998年 | 126 | 477 | 100 | 146 | 38 | 296 | 102 | 0 | 78 | 5 | 97 | 0.306 | 三星ライオンズ | 36 |
1999年 | 132 | 486 | 128 | 157 | 54 | 356 | 123 | 10 | 112 | 12 | 114 | 0.323 | 三星ライオンズ | 36 |
2000年 | 125 | 454 | 108 | 133 | 36 | 274 | 95 | 4 | 80 | 7 | 113 | 0.293 | 三星ライオンズ | 36 |
2001年 | 127 | 463 | 101 | 128 | 39 | 280 | 95 | 4 | 96 | 12 | 130 | 0.276 | 三星ライオンズ | 36 |
2002年 | 133 | 511 | 123 | 165 | 47 | 352 | 126 | 1 | 89 | 15 | 109 | 0.323 | 三星ライオンズ | 36 |
2003年 | 131 | 479 | 115 | 144 | 56 | 335 | 144 | 7 | 101 | 10 | 89 | 0.301 | 三星ライオンズ | 36 |
通算成績 | 1143 | 4211 | 883(4) | 1286 | 324(2) | 2586(11) | 948(3) | 35 | 672 | 76 | 827 | 0.305(6) |
日本プロ野球
(太字は年度リーグ最多記録)
年度 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 所属 | 背番号 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004年 | 100 | 333 | 50 | 80 | 14 | 150 | 50 | 1 | 42 | 3 | 88 | 0.240 | 千葉ロッテマリーンズ | 36 |
2005年 | 117 | 408 | 64 | 106 | 30 | 225 | 82 | 5 | 33 | 1 | 79 | 0.260 | 千葉ロッテマリーンズ | 36 |
2006年 | 143 | 524 | 101 | 169 | 41 | 322 | 108 | 5 | 56 | 5 | 126 | 0.323 | 読売ジャイアンツ | 33 |
通算成績 | 360 | 1265 | 215 | 355 | 85 | 697 | 240 | 11 | 131 | 9 | 293 | 0.281 |
韓国プロ野球時代
韓国プロ野球を代表するホームラン打者。韓国では「国民的打者」と呼ばれ抜群の人気と注目度を誇っている。 1999年にシーズン54本塁打の韓国記録をマーク、2003年のシーズンでは、10月2日のシーズン最終試合(133試合目)にて56号を打ち新記録を作った。 日本のプロ野球では王貞治、カブレラ、ローズの55本がシーズン最多本塁打の記録であり、アジアのプロリーグの中では現在、シーズン最多本塁打記録である(ただし、韓国の球場の狭さ、日韓の投手レベルの差を考慮する必要がある)。在籍9年間で通算324本塁打(通算300本塁打以上は、韓国プロ野球では李を含めて史上3人しかいない)を記録し、MVP5回、本塁打王5回、打点王4回を獲得。
韓国代表
1999年に日韓プロ野球スーパーゲームに韓国オールスターとして出場している他、シドニーオリンピック(2000年)やWBC(2006年)にも韓国代表として出場。シドニーオリンピックでの予選リーグ、対日本戦では日本の松坂大輔からホームランを放った。3位決定戦の日本戦でも松坂から決勝タイムリーを放ち五輪韓国代表初のメダルに貢献した。2003年に行われたアテネオリンピック野球予選を兼ねたアジア選手権大会でも来日し、日本戦で4打数1安打を記録している。なお、このとき韓国代表自体は台湾に敗れて予選敗退に終わっている。WBCでは、5本塁打・10打点で本塁打・打点でタイトルを獲得したほか、記者投票による優秀選手(ベストナイン)に一塁手として選出された。特に二次リーグのアメリカ戦でドントレル・ウィリス投手から本塁打を放ち、歴史的勝利に貢献した。このWBCの活躍により、韓国プロ野球時代よりも国際的評価は高まった。
NPB移籍後
移籍騒動
2003年にFA権を取得。シーズン中からメジャーリーグ志向を明らかにしていた。シーズン後はFA宣言し、同様にメジャーを目指していた松井稼頭央とテレビ番組の企画で「メジャー級」対談をするなどしたもののメジャー契約を確約する球団が現れなかった。唯一、ロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約からであればという条件を持ちかけたがスンヨプ側が契約金等の条件に満足せず、契約に至らなかった。韓国リーグと再契約かとも騒がれたが、最終的には日本の千葉ロッテマリーンズと契約。背番号は36。
日韓の間にあるレベルの差、さらには56本塁打を打ったとはいえ韓国の球場の狭さ(特に李の所属した三星ライオンズの本拠地である大邱市民球場は、韓国でも指折りの小ささに加えてラッキーゾーンまでも存在した)などの不安要素もあったが、2年2億4千万円という大型契約を結んだ。
このために千葉ロッテの他の選手が不満を述べるなど軋轢を生じたが、待遇を全体的に改善することで落ち着いた。その後、KAIST(韓国科学技術院)は「日本でも40本以上は打てる」などと予測したが、日本においてパワーはともかくバッティングフォームなどから日本球界では苦労するだろうといった悲観的な予想が多かった。
2004年
復帰した第2次バレンタイン政権の下、開幕を4番で迎える。開幕戦で松坂大輔から初打席初安打初打点を放つなどその存在感を見せた。しかし、対戦相手がざっと一巡するころには内角高めと外の落ちる変化球に弱いという弱点が露呈し、徹底した内角攻めから外角低めに落ちる変化球というパターンで仕留められることとなる。この攻略によって李は極端な打撃不振に陥り、開幕からわずか一ヶ月半となる5月早々には人生初となる2軍降格を告げられることとなり、1軍復帰へは約一ヶ月を要した。最終的な1軍成績はホームラン14本、打点50、打率.240、さらには規定打席を満たせないなど惨憺たる成績に終わり、目標として挙げていた30本塁打、打率.290、100打点以上に遠く及ばなかった。また、福浦和也と同ポジションのため、成績や守備力を比較すると一塁手としての起用が困難であることからDHとしても起用された。
2005年
オープン戦で打率.050と極度の不振に陥り、開幕一軍入りに失敗。前年の二の舞かと案じられたが、4月初旬に一軍昇格してからは主に下位打線中心に定着する。ただし、先発が左投手だとベンチを温めることが多かった。また、千葉ロッテのファーストには福浦という絶対的な存在があったため、オープン戦でレフトにコンバートされた。シーズンを通してレフト、もしくはDHとして出場した。シーズン打率は.260(規定打席到達打者中で下から3番目)に終わるも30本塁打を放ち、チームの本塁打王。リーグ優勝に貢献した。しかし、調子の波が大きい上に左投手に弱いためにスタメンを任せられるには至らなかった。
後述のように打席3回以上の対戦経験がある投手には弱いために、プレーオフでは打率.176、打点0、7三振と完全に沈黙した。
しかし、初見の投手に対しては異様な強さを誇り、2005年日本シリーズ第1戦、相手先発は阪神の左腕エース井川慶からホームランを打ち起用に応えた。第2戦でも左腕江草仁貴からホームランを放った。第3戦ではスタメンを外れたものの、第4戦は杉山直久から先制アーチを放つなどこの試合の全打点を記録してロッテ31年ぶりの優勝に貢献し、優秀選手賞を受賞した。4試合で終了したシリーズ(56回中5回のみだが)における3本塁打はシリーズ記録である。
2005年のアジアシリーズではライバルと目された古巣の対三星ライオンズ戦で5番、および3番に座ったものの、7打数ノーヒット1打点に終わった。千葉ロッテとの契約は2005年度をもって満了した。
2006年
千葉ロッテとの再契約を噂されていたが、2006年1月13日に突如自由契約となり、1月19日には読売ジャイアンツへの入団が発表された。背番号は55(または5のつく背番号)を希望していたともされるが、松井秀喜の空き番で付けられなかったこともあり、西武ライオンズに移籍した江藤智(元読売ジャイアンツ)が2005年まで付けていた33となった。読売ジャイアンツはONなど子供のころからの憧れだったという。肝心の移籍1年目のシーズンだが、開幕前から原監督に四番として起用することを明言された中で始まった。4月は打率.299、本塁打4本とやや物足りない成績であったが、その後交流戦中の6月に打率.396、本塁打12本を放つなど、成績を伸ばし、最終的には打率.322、本塁打41、打点101という好成績をマークした。一時は本塁打王のタイトルをほぼ手中にしたかのように思われたが、シーズン後半からペースが落ち始め、その間に本数を伸ばしたタイロン・ウッズにタイトルは譲ることとなった。打率と本塁打はリーグ2位、打点はリーグ4位であった。この大躍進にはやはり左投手の克服というものが挙げられる。前年まで苦しんでいた左投手に対してこの年は.338という高打率をマークした。
日本でのエピソード
- 来日第1号本塁打は新垣渚(福岡ダイエー)から千葉マリンスタジアムでの場外弾で、駐車場に停まっていた車の窓ガラスを割ってしまった。ボビー・バレンタイン監督曰く「こんな大きなホームランは今まで見たことがない。これからはライト側に車は停めない方がいい」。
- 性格はいたって謙虚で真面目でインタビューなどの受け答えも真摯。チームメイトから「スンチャン(韓国語で『スン兄』の意味。日本語の「スンちゃん」ともかけている)」と呼ばれるなどチームに溶け込んでいる。特に同世代である渡辺俊介とは仲がいいようで、渡辺が自分が投げている試合中に、李へ「ホームラン打ってよ」と頼んだところ、「無理だよ」と言いながらも貴重なホームランを打ち、試合後、渡辺とともにお立ち台にあがった際そのエピソードを渡辺から披露された。
- NHKが日本での成功からメジャー入りまでを描いたドキュメントを製作する予定があったというが、現在のところ放映はされていない[1]。
- 2004年9月21日、インボイスSEIBUドームでの西武ライオンズ戦で、ベニー・アグバヤニ、マット・フランコ、李の3人が、張誌家投手から、史上初となる外国人3者連続ホームランを放った。
- 2006年シーズンより巨人に移籍したが、韓国では2006年より(李が移籍してきたため)巨人主催試合を全て衛星中継しており、高視聴率を得ている。
- 「ヨプ」の文字が表記出来ない環境があるため、ネット上の記事などでは「李承☆(☆は火へんに華)」「李承〓(〓は火へんに華)」などと記載されることが多い。
- ロッテ時代は左投手に弱く、ボビー・バレンタイン監督は左投手が先発の場合は極力スタメンからはずしていた。
- 初対決となる投手に対して、2打席目までは.390と圧倒的ともいえる成績を残している。逆に3打席以上の対戦のある投手には.230と圧倒的に弱い(数字は2005年のもの)。そのためか、2005年のセパ交流戦、および日本シリーズでは大活躍した。逆にプレーオフでは完全に沈黙を余儀なくされていた。
- あまり披露することはないが、非常に流暢な日本語を話す。
- 井川慶と相性が良く、2006年シーズンは6本のホームランを浴びせた。
守備
守備範囲は一塁手としてはそこそこ広いがエラー・落球が少し多く、悪送球を追わずに後逸するという悪癖がある。外野守備も飛球の目測を誤ることが多々ある。また、投手出身であるが肘の怪我で投手を断念した経緯があるため、強肩だとはいえない。
関連項目
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第70代
-
- 先代:
- 小久保裕紀
- 次代:
- 二岡智宏
2006 ワールド・ベースボール・クラシック韓国代表 |
---|
1 孫敏漢 | 3 朴鎮萬 | 6 金在杰 | 7 李鍾範 | 9 李炳圭 | 11 崔熙涉 | 12 宋志晩 | 14 金敏宰 | 15 具臺晟 | 16 金鍾國 | 17 吳昇桓 | 18 金東柱 | 20 陳甲龍 | 21 鄭大炫 | 22 洪性炘 | 25 李承燁 | 26 徐在応 | 27 朴明桓 | 28 全炳斗 | 33 朴龍澤 | 35 李晋暎 | 36 裵英洙 | 41 鄭載勳 | 44 趙寅成 | 45 奉重根 | 49 金炳賢 | 51 金善宇 | 52 金泰均 | 55 李机浩 | 61 朴賛浩 | |
81 監督 金寅植 | 70 金在博 | 75 柳仲逸 | 76 柳志炫 | 80 曹凡鉉 | 90 宣銅烈 | 項 | |
読売ジャイアンツ - 2007 | |
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0 木村拓也 | 2 小笠原道大 | 6 小坂誠 | 7 二岡智宏 | 8 谷佳知 | 9 清水隆行 | 10 阿部慎之助 | 11 久保裕也 | 12 鈴木尚広 | 13 林昌範 | 15 辻内崇伸 | 17 姜建銘 | 19 上原浩治 | 20 豊田清 | 21 高橋尚成 | 22 福田聡志 | 23 脇谷亮太 | 24 高橋由伸 | 25 李承燁 | 26 内海哲也 | 27 門倉健 | 28(新人) 金刃憲人 | 29 前田幸長 | 30 西村健太朗 | 31 小関竜也 | 32(新人) 円谷英俊 | 33 野間口貴彦 | 35 越智大祐 | 36 岩舘学 | 37 斉藤宜之 | 38(新人) 上野貴久 | 39 吉武真太郎 | 41 木佐貫洋 | 42 パウエル | 43 真田裕貴 | 44 大道典嘉 | 45 小田嶋正邦 | 47 工藤公康 | 48 矢野謙次 | 50 吉川元浩 | 51 古城茂幸 | 52 十川孝富 | 54 酒井順也 | 56 加藤健 | 59(新人) 深沢和帆 | 60 深田拓也 | 61(新人) 坂本勇人 | 63 会田有志 | 65 梅田浩 | 66(新人) 田中大二郎 | 67 加登脇卓真 | 69(新人) 寺内崇幸 | 90(新人) 深町亮介 | 92 木村正太 | 93 東野峻 | 96(新人) 伊集院峰弘 | 102(育成選手) 山口鉄也 | 103(育成選手) 芦沢明 | 104(育成選手) 下山学 | 105(育成選手) 松本哲也 | 106(育成選手) 林羿豪 | 107(育成選手) 隠善智也 | 108(育成選手) 作田啓一 | 109(育成選手) 鈴木誠 | 110(育成選手) 大抜亮祐 | 未定(育成選手) 山本光将 | 未定(育成選手) 佐藤弘祐 | 未定 實松一成 | 未定 星孝典 | 未定 亀井義行 | 未定 三木均 | 未定 野口茂樹 | 未定 村田善則 | 未定 三浦貴| 未定 川中基嗣 | 未定 栂野雅史 | |
88 監督 原辰徳 | 87 尾花高夫 | 78 伊原春樹 | 85 斎藤雅樹 | 81 篠塚和典 | 84 内田順三 | 71 伊勢孝夫 | 89 村田真一 | 83 西岡良洋 | 76 白坂契 | 82 木村龍治 | 77 二軍監督 吉村禎章 | 70 小谷正勝 | 72 香田勲男 | 75 岡崎郁 | 86 岸川勝也 | 79 福王昭仁 | 73 緒方耕一 | 74 西山秀二 | 未定 伊藤博 | 未定 宮本英治 |
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球団 | |
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