清原和博
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清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身のプロ野球選手で、現在はオリックス・バファローズ所属。
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[編集] 来歴
[編集] 中学~高校時代
中学生までのポジションは投手であり、リトルリーグでは完全試合を達成。高校はPL学園高校に進学する(高校進学を決めるにあたって天理高校かPL学園かで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、天理高校では3年生が練習をし、1年生が球拾いをしているのに対し、PL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることを知り、PL学園に進学することを決めた)。入学当初の希望ポジションは投手であったが、桑田真澄の並外れた実力を知り、野手を選んだ。全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り、エース桑田とともに甲子園に5季連続出場(1年生の夏に優勝、2年生の春・夏は共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は2度目の優勝を経験)。清原と桑田はKKコンビと呼ばれた。打っても甲子園通算13本塁打を放ち、植草貞夫に「甲子園は清原のためにあるのか!」と言わせたほどである。3年生春の浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(ともに大量得点差のついた最終回)では監督に懇願し、投手として登板させてもらった。高校通算64(あるいは66)本塁打を放った。
バッティング練習の際は飛距離の出ない竹バットを使用していたが、ネットを軽々越えて場外に飛ばしていた為、清原用の金網が継ぎ足された伝説が残っている。
[編集] 西武時代
清原本人は巨人入りを熱望したが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田を1位指名した。当の清原は南海(現・ソフトバンク)、日本ハム、中日、近鉄(現・オリックス)、西武、阪神の6球団から1位指名を受け、抽選の結果、西武が交渉権を獲得。清原がドラフト会議直後の記者会見で、失意で涙をためた姿が放送された。 後に自宅で泣く清原を見て、清原の母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで。」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くした。
清原はそのまま西武に入団。背番号"3"が与えられた。デビュー年の1986年、開幕2戦目にはスタメンでプロ初ヒット(プロ初ホームラン)を打ち、その後も打ちまくり、31本のホームランを放って新人本塁打記録の最多タイ(高卒新人では最多)を記録し、打率.304、31本塁打、78打点で新人王を獲得。またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。秋山とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。後にオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる。ちなみに、ポジションは普段は一塁手であったが、日本シリーズでセリーグの本拠地での試合では、普段指名打者デストラーデが一塁、清原は三塁を守った。
以後、1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年~1988年、1990年~1992年)に貢献。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。
[編集] 巨人時代
1996年、FA宣言をして念願の巨人に移籍。しかし、長嶋監督の本心はファーストのレギュラーで4番打者の落合博満を翌年もそのままレギュラーで使うつもりだった。なお、このFA移籍劇により西武ファンを公言していた吉永小百合は「あの涙は何だったの」とコメントを発表するなど、一部のファンは清原から去っていった。 1997年は開幕から4番の座を張る。しかし、大事な場面で全く打てず、打率2割そこそこの成績でファンからは罵倒、中傷され、応援ボイコット(応援歌&コールなし)の屈辱も味わう。移籍1年目は当時のセ・リーグ新記録となる152三振を記録するなど、打率.249 32本塁打 95打点という数字に終わった。
1998年は前年の不振のせいで松井が4番の座を張って開幕した。しかし、松井は開幕からスランプに悩まされ、得点圏打率が1割に満たない状況が続いた。一方清原は開幕から前年とは打って変わって打ちまくり、4番に返り咲いた。だが、相変わらずの勝負弱さがたたり、すぐに4番失格の烙印を押された。この年清原は23本塁打を放ち、原辰徳がもっていたプロ入り1年目からの12年連続20本塁打の日本記録を塗り替えた。
1999年は開幕から不振に悩まされ、阪神タイガースの藪からのデットボールで左手を亀裂骨折。さらに6月には広島戦でクロスプレーの際に右足を負傷し、出場試合数は86試合に留まった。そのため、連続20本塁打記録が13年で途切れてしまった。中日との優勝争いとなる試合で全く打てない上に、牽制アウトなど考えられないミスを連発し、この年優勝を逃した大戦犯になった。追い詰められた清原は巻き返しを図るため、意を決してその年のオフに渡米し、肉体改造に取り組む姿勢を見せた。しかし暴飲暴食は止められず、西武時代はシャープな細面の顔だったのが丸々とした顔になり、別人のような太いウエストとなってゆく。体重増加と共に足も遅くなり、守備範囲も狭まってしまった。また肉離れ等の怪我が目立つようになっていく。
2000年はキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕2軍スタートとなった。しかし、7月7日の復帰後初打席で代打3ランを放ち、復活をアピール。夏場にはドミンゴ・マルティネスからレギュラーの座を奪い取り、3割近い打率を残した。またこの年、元タレントの木村亜希と結婚した。
2001年は開幕から怪我することなく打ち続け、終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と巨人入団以来最高の成績を残した。
2002年は開幕から絶好調で打ちまくったが、故障のため戦線離脱。規定打席未満ながら3割を超える打率を残した。8月23日に長男・正吾が誕生した。ちなみに父の名が「かずひろ」で息子の名が「しょうご」というのは、元横浜ベイスターズの投手の佐々木主浩と同じである。
2003年も故障に悩まされ続けたが、打率.290とまずまずの成績を残した。
2004年はぺタジーニとの併用で出場試合数が減ったが、史上31人目、巨人の選手では落合博満以来6人目の2000本安打を達成した。同年シーズン終了後、監督の堀内恒夫の戦力構想から外れたことが判明。退団・引退の危機に陥ったが、オーナーに残留を訴え、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。
2005年の清原は、大リーガーのバリー・ボンズ並みのダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。開幕4番のシーズンに挑んだが5月以降は主に6番を打つことが多かった。4月29日の広島東洋カープ戦で、広池浩司からホームランを打ち、史上8人目の快挙となる通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時.269まで上昇した。 しかし、交流戦のオリックス戦で投手の山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障も重なって成績は徐々に低迷し、張本に並ぶプロ入り1年目から20年連続2桁本塁打の日本記録を作るも、終わってみれば自己最低打率.212を記録。そして、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約選手として公示された。
[編集] オリックス時代
巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後、オリックス・バファローズのシニアアドバイザー(SA)である仰木彬が「大阪に帰って来い。おまえの最後の花道は俺が作ってやる」とオファーし、現役を続けることが決まった。仰木氏には前年の2004年にも勧誘を受けていたが、その際は巨人に残留し、1年後のオリックス入りが現実となった。 背番号は巨人時代に引き続き"5"(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した"8"も用意されたが、その"8"は同年入団の中村紀洋がつけた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 当時、体重は120kgに達していたが二ヶ月足らずで約20kgも減量。また球団が吉本興業と業務提携を結んでいることから、中村らと共によしもと新喜劇にも出演した。 PL学園での同学年の松山秀明(PL学園時代の主将)、内匠政博や先輩の新井宏昌がコーチをしている。
5月21日の阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成した。
5月26日の横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔投手から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーン投手から放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。
7月23日のオールスター第2戦では、あと1本と迫っていたオールスター最多本塁打記録を狙った。8回2死走者なしの場面で、因縁の相手である藤川球児に対し「代打・清原」が告げられたが、151キロのストレートが真ん中高めに決まり、空振り三振に倒れている。 清原は「すごいストレートだった」と完敗を認めた。
8月29日の西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続二桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。
来期も現役続行。
[編集] 略歴
- 身長・体重:188cm 104kg
- 投打:右投右打
- 出身地:大阪府岸和田市
- 生年月日:1967年8月18日
- 血液型:B型
- 球歴・入団経緯:PL学園高 - 西武(1986年 - 1996年) - 巨人(1997年 - 2005年) - オリックス(2006年 - )
- FA行使:1996年(1回目)
- プロ入り年度・ドラフト順位:1985年(1位)
- 英語表記:KIYOHARA
- ポジション:一塁手(現在は主にDH)
[編集] 人物
[編集] 無冠の帝王
清原は打者の三冠タイトルである首位打者・本塁打王・打点王の獲得経験がないために「無冠の帝王」とも呼ばれる。
しかし、2000本安打、500本塁打、1500打点を達成した打者はプロ野球史上、清原を含めても6人しかおらず(他は王貞治、野村克也、門田博光、張本勲、落合博満)、通算本塁打数は単独5位、通算打点数は単独6位(いずれも2006年シーズン終了時)と、プロ野球史に残る大打者であることは間違い無い。
また、全くタイトル争いに絡んでいない訳ではなく、1点差(1992年:ブーマー 97打点、清原 96打点。同年において、もし大野久に2ランホームラン性の打球を好捕されなければ単独打点王になっていた)、1本差(1996年:ニール 32本塁打、清原 31本塁打)で打点王、本塁打王を逃したこともある。最多本塁打が30本以下(1位:小久保裕紀 28本塁打)だった1995年は怪我のため出場試合数が減り、トップと3本差の同率2位(25本塁打)だった。さらに、打点自己ベストの121打点を挙げた2001年も2位(1位:ぺタジーニ 127打点(清原が出演した番組で「阪神タイガースがペタジーニから1試合で9打点も取られなければ打点王だった」と徳光和夫がぼやいていた。)、同じく本塁打自己ベストの37本塁打を放った1990年も2位(1位:デストラーデ 42本塁打)だった。西武時代はイチロー、秋山幸二、オレステス・デストラーデ、落合博満、門田博光、ラルフ・ブライアント、ブーマー・ウェルズなど、球史に残る打者にタイトルを持っていかれることも多かった。
なお、三冠タイトルは獲得していないものの、清原は過去に新人王、最高出塁率(2度)、最多勝利打点(1度)、ベストナイン(3度)、ゴールデングラブ賞(5度)を獲得しているため、本当は無冠ではない。特に最高出塁率と最多勝利打点(現在は廃止)は正式タイトルであるにも関わらず、マスコミ等が「清原はタイトルを取ったことが無い」と報じるため、多くの人間の誤解を招いている。これは首位打者・最多本塁打・最多打点の三冠タイトルに比べ、最多盗塁・最多安打・最高出塁率(・最多勝利打点)の認知度及び相対的な価値が低いことが要因として挙げられる。
また、清原はオールスターのMVP最多受賞(7度)、通算打率1位、通算本塁打2位、通算打点1位という記録を持っている。
ちなみに、2006年シーズン終了時において、通算三振数1944、通算死球数196の日本記録保持者である。
[編集] 清原和博のドラマ
- 1985年夏、高校野球選手権決勝 対 宇部商業戦
- この試合、「KKコンビ」を擁し、後に4名のプロ野球選手を送り込むことになる「高校野球史上最強」と言われたPL学園は苦戦していた。しかし、この大舞台で清原は2打席連続のホームランを放ち、優勝に貢献する。このホームランに際し、実況していたABC(朝日放送)の植草貞夫アナウンサーが「甲子園は清原のためにあるのか」とコメントした。自身、この試合で放った2本目のホームランの感触を超える感触(ホームラン)をプロでも未だに経験していないと話していた。(ナンだ!?にて)
- 1985年ドラフト会議
- 前述したとおり、高卒の内野手としては最多の6球団からドラフト1位指名を受けるも、意中の球団の巨人からは指名を受けることなく、指名後の記者会見では悔し涙を流す。しかも巨人から指名を受けたのはエースと4番の関係で共に甲子園を制し、早稲田大学進学を表明していた盟友・桑田真澄であった。
- 1987年オールスター
- 巨人との日本シリーズ第6戦、9回表ツーアウト。日本一までアウト1つのところで西武はタイムを要求する。一塁手の清原が泣きべそをかいたのである。「巨人を破って日本一が達成できて嬉しかった」と後に清原は語っている。
- 1993年シーズン中、対ロッテ戦
- この日のロッテのマウンド上には伊良部秀輝。打席には清原。伊良部の投じた一球は当時の日本最速となる158km/hを記録する。しかしその後、清原は156km/hのストレートをはじき返し、右中間二塁打を放つ。
- このシリーズで、清原自身は4本塁打の活躍を見せながらも、いい場面では打てず西武は巨人に2勝4敗で敗れた。
- 古巣・西武との日本シリーズ第1戦。マウンドには故障上がりの松坂大輔。第2打席、清原が松坂のストレートを看板直撃の150m弾。4戦でもリリーフに登った松坂からタイムリーを放ち、巨人が4連勝で日本一に輝いた。
- 2005年、シーズン中、対横浜戦
- 横浜ベイスターズのストッパー・佐々木主浩の引退試合で、彼と最後に相対する打者として指名される。清原は明らかなボール球に対しても全球フルスイングで真っ向勝負し、最後はフォークで空振り三振に倒れた。そしてピッチャーマウンドに駆け寄り二人で握手を交わした。「最後に世界一のフォークが来ました」とは清原のコメント。打席に入る前からずっと目に涙を湛えていた。ただし、以下のような観点から「試合の私物化ではないか」との批判も起こった。
[編集] エピソード
- 誕生日が「ワイや」(818=8月18日)と読める。しかし、誕生日の勝率はあまりよくない。
- 恐持ての外見や、番長日記から傍若無人なイメージが先行するが、意外とファンサービスに熱心。
- 好きな芸能人は吉永小百合で、今もそれは変わらない。かつては南野陽子、酒井美紀なども好きだった。
- 清原といえば「ワイ」が代名詞で(ただし実際には使用していない)、写真週刊誌「フライデー」の人気連載企画をまとめた「おう、ワイや!清原和博番長日記」という書籍(内容は巨人時代のもの)が出版されたことがあるほどだが、インタビュー等では基本的に「僕」を使う。また「ジャンクSPORTS」(フジテレビ)のスペシャルにゲスト出演した際、番長日記の事を浜田雅功に突っ込まれると「僕は俺とか言いますが、ワイなんて言っていません」と弁解(自分のことを『ワシ』と言うことはたまにあるとのこと)。ちなみに、番長日記については「俺は昔からフライデーに殴られっぱなしだから、今後もそれでいい。しかし、あれはマジで面白い」と容認した。
- なにかにつけて「命がけでやります」という言葉を頻発する。最近では2006年4月20日の対北海道日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)初回においてダルビッシュ有投手から死球を受けた翌日、番記者との囲み取材の中で「昨日は家族も観戦に来ていた。(死球後に)病院に向かう時、長男が泣きそうになるのを我慢してたのを見た時は辛かった。僕は守るべきものを命懸けで守りたい。そういうことがあれば(死球を受けるようなことがあれば)命を懸けてそいつを倒したい」と語った(この発言に関しては一部の野球ファンや星野仙一などから批判が起こった。プロレス界への転進を進める記者(江尻良文)まで現れた。これに対し清原は怪我で登録抹消された際、「体を治し、頭も冷やしたい」と語っている)。
- 過去には「現在の夫人と交際中に、写真週刊誌のカメラマンの執拗な張り込みを受け「怖いんです」と警察に通報の電話をかけたことがある」「近鉄はファンの野次が凄いのでトレードされたくない」(いずれも「ジャンクSPORTS」出演時の発言より)などのエピソード・発言もあり、実像は普通の人間とそれほど大きくは変わらないようである。
- 直球勝負にはこだわりがあるようで、藤川球児にカウント2-3からのフォークを投げられ「チン○コついてんのか」と激怒した。ちなみにこの発言で、当時の阪神監督の星野仙一は「何ぬかしとんじゃい!ワレ!」と言いかえした。その藤川とは2006年のオールスターで対戦したが、今度は全球ストレートで三振した(藤川球児の項を参照)。
- 「番長」とあだ名される清原もさすがにPL学園の先輩には頭が上がらないらしい。本人曰く「僕も吉村さんの前では直立不動ですよ」。
- オリックスに入団して最初に行った事は、ジャイアンツ時代頭部に死球を与えた山口投手に「あれは事故やから気にするな」。また、中村紀洋のコンビを「俺(清原自身)はお好みソース、こいつはマヨネーズ」と巨人時代とはうって変わって、フレンドリーになった。
- 2006年10月12日放送の「ダウンタウンDX」(よみうりテレビ)で、格闘家の須藤元気が清原との関係について語った。その際、メッセージという形で清原が登場した。拳を突き上げ、浜田曰く「メンチを切った」状態での登場であった。そのVTR中において、元阪神タイガース在籍のデリック・ホワイトを倒すための技を教えるよう清原が須藤に迫ったというエピソードがあった。しかし、それはたとえ自分が悪役を買って出てでも、日本球界の秩序を守るために命を懸けて戦うという彼の男気が現れたものだった。これは、ダルビッシュとの項を参照してもわかるように、「守るべきものを守る」という彼の姿勢がよく現れたエピソードである。ちなみに、良いタトゥーの店を教えるよう須藤に迫ったというエピソードもあった。これについては、巨人軍との去就問題の際、この悔しい思いを忘れないように入れようと思ったということだった。しかし、タトゥーについて自分の母親に相談した際、「烈火のごとく」しかられ、あえなくあきらめた。
- TVゲームファミスタシリーズでは初代(清原のルーキーイヤーでもある)から最新作まで全ての作品に皆勤賞で出場しており、またあまたの野球ゲームのほぼすべてと言っていいぐらいの作品に出場しており、歴代のプロ野球選手のTVゲームでの出場記録を持っている(清原入団と前後してファミコンブームが発生しており、また彼登場以前の野球ゲームでは選手個人のデータの入った作品が僅かであった為)。
- 2006年の日本シリーズ第二戦では、フジテレビの中継で解説を務めた。現役選手の解説といえば、口数が少なく、「はい」、「そうですね」といった常套句だけで終わってしまうケースが多いが、清原は場面に合わせた分かりやすい的確なコメントを繰り出し、同じパ・リーグの日本ハムの八木智哉や武田久らへの評価、また現役選手としての視点を活かした明朗快活かつ冷静で公平な解説、自身が持つ日本シリーズ記録に触れられると「すごい打者がいたもんですね」、代打立浪が打ち取られた際には「ここで打ったらマンガですよね」など、ユニークなコメントは概ね好評であった。
- 2006年の球団納会において、2007年度から巨人に移籍する谷佳知に「ジャイアンツは天国でもあり地獄」「選手としては最高の環境だけど、アカンかったらA級戦犯」と言い、マイペースを貫くようアドバイスした。
- ファン感謝イベント「Bs Fan-Festa 2006」(2006年11月25日)で、「(来期の目標は)日本ハムを倒してハムを丸かじりする」「今年のチャンピオンチームですから。毎日、日本ハム食べます」と意気込みを語った。また「僕は番長です!」と自ら番長宣言を行い、選手会長の北川博敏とどちらが立場が上かを聞かれると「番長です」と答えて会場を沸かせた。
- RKB毎日放送の富永倫子アナウンサーと生年月日が同じ。
[編集] ニックネーム
[編集] 西武時代
- キヨマー
- 社長
- ネコ(ネコをかぶるの意)
[編集] 巨人時代
- 番長
- だんじりファイター
[編集] オリックス時代
- 番長(巨人時代に引き続き使用される)
- キヨ
- お好み焼きソース(中村紀洋とのコンビの表現で、自らこう表現)
[編集] 背番号
- 3(1986年~1996年)
- 5(1997年~)
[編集] 通算成績・各打撃部門通算順位(2006年シーズン終了時)
※太字はタイトル獲得
年度 | チーム | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 四死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 | 勝利打点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | 西武 | 126 | 404 | 66 | 123 | 18 | 1 | 31 | 236 | 78 | 6 | 60 | 109 | .304 | .392 | 7 |
1987年 | 130 | 444 | 66 | 115 | 25 | 3 | 29 | 233 | 83 | 11 | 90 | 88 | .259 | .382 | 10 | |
1988年 | 130 | 451 | 97 | 129 | 21 | 0 | 31 | 243 | 77 | 5 | 97 | 102 | .286 | .410 | 15 | |
1989年 | 128 | 445 | 92 | 126 | 22 | 2 | 35 | 257 | 92 | 7 | 110 | 60 | .283 | .424 | - | |
1990年 | 129 | 436 | 99 | 134 | 19 | 2 | 37 | 268 | 94 | 11 | 120 | 85 | .307 | .454 | - | |
1991年 | 126 | 448 | 73 | 121 | 20 | 0 | 23 | 210 | 79 | 3 | 89 | 77 | .270 | .390 | - | |
1992年 | 129 | 464 | 82 | 134 | 17 | 0 | 36 | 259 | 96 | 5 | 89 | 98 | .289 | .401 | - | |
1993年 | 128 | 448 | 66 | 120 | 15 | 1 | 25 | 212 | 75 | 3 | 90 | 120 | .268 | .389 | - | |
1994年 | 129 | 455 | 78 | 127 | 29 | 0 | 26 | 234 | 93 | 5 | 105 | 117 | .279 | .411 | - | |
1995年 | 118 | 404 | 63 | 99 | 13 | 3 | 25 | 193 | 64 | 2 | 99 | 111 | .245 | .392 | - | |
1996年 | 130 | 487 | 67 | 125 | 30 | 0 | 31 | 248 | 84 | 0 | 76 | 122 | .257 | .357 | - | |
1997年 | 巨人 | 130 | 462 | 65 | 115 | 24 | 0 | 32 | 235 | 95 | 0 | 81 | 152 | .249 | .356 | - |
1998年 | 116 | 384 | 67 | 103 | 14 | 0 | 23 | 186 | 80 | 1 | 75 | 76 | .268 | .379 | - | |
1999年 | 86 | 263 | 39 | 62 | 12 | 0 | 13 | 113 | 46 | 0 | 56 | 68 | .236 | .365 | - | |
2000年 | 75 | 216 | 41 | 64 | 10 | 0 | 16 | 122 | 54 | 0 | 33 | 51 | .296 | .385 | - | |
2001年 | 134 | 467 | 67 | 139 | 29 | 0 | 29 | 255 | 121 | 0 | 79 | 140 | .298 | .396 | - | |
2002年 | 55 | 148 | 24 | 47 | 1 | 0 | 12 | 84 | 33 | 0 | 25 | 36 | .318 | .414 | - | |
2003年 | 114 | 341 | 47 | 99 | 9 | 0 | 26 | 186 | 68 | 0 | 58 | 97 | .290 | .390 | - | |
2004年 | 40 | 101 | 18 | 23 | 2 | 0 | 12 | 61 | 27 | 0 | 19 | 41 | .228 | .350 | - | |
2005年 | 96 | 321 | 42 | 68 | 6 | 0 | 22 | 140 | 52 | 0 | 51 | 111 | .212 | .317 | - | |
2006年 | オリックス | 67 | 203 | 21 | 45 | 7 | 0 | 11 | 85 | 36 | 0 | 37 | 83 | .222 | .340 | - |
通算成績 | 2316 | 7792 | 1280 | 2118 | 343 | 12 | 525 | 4060 | 1527 | 59 | 1539 | 1944 | .272 | .389 | 32 |
- 試合 --- 2316(歴代10位)
- 打数 --- 7792(歴代15位)
- 得点 --- 1280(歴代9位)
- 安打 --- 2118(歴代22位)
- 二塁打 --- 343(歴代27位)
- 三塁打 --- 12
- 本塁打 --- 525(歴代5位)
- 塁打 --- 4060(歴代10位)
- 打点 --- 1527(歴代6位)
- 盗塁 --- 59
- 四球 --- 1343(歴代3位)
- 死球 --- 196(歴代1位)
- 三振 --- 1944(歴代1位)
- 打率 --- .272
- 出塁率 --- .389
- 勝利打点 --- 32
[編集] 獲得タイトル
- 最優秀新人(1986 )
- 最高出塁率 ・・・(1990 1992 )
- 最多勝利打点・・・(1988 )
- ベストナイン(1988 1990 1992 )
- ゴールデングラブ賞(1988 1990 1992 1993 1994 )
[編集] テレビコマーシャル
- エースコック・スーパーカップ
- 常盤薬品工業・ビタシーゴールド(西武時代より継続出演)
- ナイキ
- プレイステーション2用ゲームソフト・GENJI
- ポッカコーヒー
- フィールズ パチンコ機・パチスロ機- 架空の球団「フィールズ」の投手として登板。しかしアマチュア選手だと思われるバッターに簡単にホームランを打たれてしまい、悔しそうな顔を浮かべた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- http://www.professionalmanagement.jp/sports/kiyoharakazuhiro/
- http://www2.netstates.co.jp/kiyo/
- 西武時代の清原和博の唄
- 巨人時代の清原和博の唄
- オリックス・バファローズでの清原和博の唄
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第64代
-
- 先代:
- シェーン・マック
- 次代:
- 石井浩郎
オリックス・バファローズ / サーパス - 2007 | |
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00 軒作 | 0 森山周 | 2 的山哲也 | 3 村松有人 | 4 阿部真宏 | 5 清原和博 | 6 トム・デイビー | 7 水口栄二 | 8 中村紀洋 | 9 平野恵一 | 10 大引啓次 | 11 川越英隆 | 12 歌藤達夫 | 13 吉田修司 | 14 岸田護 | 15 加藤大輔 | 16 平野佳寿 | 17 香月良太 | 18 山口和男 | 19 金子千尋 | 20 山本省吾 | 21 吉井理人 | 22 ユウキ | 23 北川博敏 | 24 後藤光尊 | 26 ジェイソン・グラボースキー | 27 日高剛 | 28 小松聖 | 29 ダン・セラフィニ | 31 塩崎真 | 33 高木康成 | 34 本柳和也 | 35 大久保勝信 | 36 下山真二 | 37 辻俊哉 | 38 前川勝彦 | 39 鴨志田貴司 | 40 前田大輔 | 41 松村豊司 | 42 萩原淳 | 43 菊地原毅 | 44 鈴木郁洋 | 45 光原逸裕 | 46 迎祐一郎 | 47 延江大輔 | 48 阿部健太 | 49 中山慎也 | 50 大西宏明 | 52 坂口智隆 | 53 相川良太 | 54 嶋村一輝 | 55 岡田貴弘 | 56 柴田亮輔 | 57 筧裕次郎 | 58 長田昌浩 | 59 梅村学人 | 60 牧田勝吾 | 61 町豪将 | 62 長田勝 | 63 吉良俊則 | 64 田中彰 | 65 近藤一樹 | 66 由田慎太郎 | 67 横山徹也 | 68 仁藤拓馬 | 69 土井健大 | 99 吉川勝成 | 113(育成選手) 柴田誠也 | 114(育成選手) 宮本大輔 | |
1 監督 テリー・コリンズ | 81 大石大二郎 | 83 神部年男 | 75 ジョン・ディーバス | 89 真喜志康永 | 74 松山秀明 | 85 別府修作 | 78 米村理 | 80 赤川貴弘 | 96 二軍監督 住友平 | 70 清川栄治 | 87 赤堀元之 | 76 大島公一 | 82 三輪隆 | 77 弓岡敬二郎 | 79 内匠政博 | 72 吉原孝介 | 88 安田昌玄 | 84 本屋敷俊介 |
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オリックス サーパス | |
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