野村克也
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 - )は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。現役時代は南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズで活躍した。日本プロ野球史上において、ONと並び評される野球人である。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、アマチュア野球のシダックスの監督を務めた。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督。「うぇっへっへっへっへっ」という不敵な笑いが特徴。
目次 |
[編集] 来歴・人物
愛称は「ノムさん」、「ノム」。あるいは「ノムやん」、「ムース」。ムースとはロッキー山脈に生息する鹿で、野村が打席に入る際に「のっそのっそ」と歩く姿がムースの歩く姿とそっくりだったことによる(常にムスっとしているから「ムース」と呼ばれた、という説もある)。ポジションは捕手。妻はタレントの野村沙知代。息子は現・楽天2軍バッテリーコーチの野村克則。前妻の間にも息子が1人いる。なお、ダン野村とケニー野村は沙知代と前夫との間に生まれた連れ子であり、克也の実子ではない。
少年時代は家庭が貧しく、中学を卒業したら働くようにと母から言われた。しかし兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより何とか高校進学を果たした。高校入学後、母には内緒で野球部に入部するがバレ、退部するよう言われるも、これもまた顧問の先生の取り計らいにより続けさせてもらった。生活が満足に送れない家庭で生まれ育ったため、バットも買えなかった。その為、学校に一升瓶を持って通い、帰宅途中に海で海水を一升瓶に入れ、その一升瓶で素振りをして練習していたと言う。
通算試合出場数は歴代1位、通算安打数および通算本塁打数は歴代2位(「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」ともぼやいてる)など、球史に名を残す大選手である。監督としても、リーグ優勝5回、日本一3回の実績を残している。選手・監督時代を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。理論を重視していて、精神力を軽視しているように見られがちであるが、著書を見る限り、理にかなった精神力は重視している。
現役・監督時代は巨人をけなす発言を繰り返したが、実は幼少のころから巨人ファンであった。著書「巨人軍論」の内容からして、「サインプレーやデータ活用など、かつて球界の先駆者だった巨人が理想のチームである」という解釈が適当と思われる。現役引退後の解説者時代には、従来の結果論でものを言うのではなく、理路整然とデータを元に説明した。通称「野村スコープ」を駆使し、投手の配球をほぼ100パーセント的中させたのは有名である。
[編集] 現役時代
投打は右投げ右打ち。ポジションは捕手。アマチュア時代は全くの無名選手。京都府立峰山高等学校から契約金0のテスト生として1954年に南海に入団。南海の入団テストを受けた理由としては、当時の南海の捕手層が薄く、しかも高齢化していたという理由から一軍のレギュラーに一番なりやすいと踏んだからである。この時から野村は「考えること」を始めていた。よって大の巨人ファンであったにも拘らず、巨人の入団テストを受けようとはしなかった。当時の巨人は藤尾茂という捕手が活躍していたため断念せざるを得なかったと野村本人は語っている。
鶴岡一人監督(当時は山本姓)の「カベ(ブルペンキャッチャー)用にでも入れておけや」の一言で入団が決まったとされるが、鶴岡はテスト前から峰山高校の野球部長から手紙を受け取って苦労人の野村の事を聞いており、人情にもろい鶴岡は既に採用は決めていた(出典:私のベストナイン 新宮正春著 講談社)。当時の南海は鶴岡監督のもと、毎年優勝争いを繰り広げていた。しかし野村は入団してからしばらく試合すら出場できなかった。それもそのはず、野村は単なるブルペンキャッチャーという役割で入団したからであった(野村の生活状況を鶴岡監督が知っていたことにもよる)。
それを知った野村は練習で目立つために、毎日素振りを繰り返し、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、少しずつ試合にも出られるようになってきたが、突然戦力外通告を受けてしまう。しかし、秋季キャンプ中に当時の正捕手が交通事故、2番手捕手がトレード、3番手捕手が怪我をしたことで、南海は捕手不足となり、運良く残留することになる。鶴岡監督の「南海電車に飛び込んで死人が出たら困るだろう」との一言も影響しているらしい。それでも、3年目の1956年、ハワイ春季キャンプで抜擢されたのをきっかけに正捕手に定着。
[編集] 大選手への道
1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降、毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。南海は、1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。この時期の同僚に、投手の杉浦忠、森中千香良、ジョー・スタンカ、皆川睦雄、田中俊幸、村上雅則、野手の岡本伊三美、森下整鎮、広瀬叔功、大沢啓二、穴吹義雄、福田昌久、井上登、柴田猛、国貞泰汎らがいる。
1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)が1950年に記録したシーズン51本塁打を破る52本塁打、1965年には戦後初めての三冠王を記録した。新記録の52号は最終戦、最終打席、カウント0-3から打った起死回生の一打だった。また、1972年にはプレーイングマネージャーとして打点王を獲得した。タイトルを争ったライバルには西鉄の中西、豊田泰光、毎日(後に大毎)の山内、田宮謙次郎、榎本喜八、東映フライヤーズの張本勲、大杉勝男、阪急ブレーブスのダリル・スペンサー、長池徳士、近鉄バファローズの土井正博、永淵洋三がいた。
ただし、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると世間から注目されることは少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年、野村が史上初の2500安打を達成したとき、試合後のインタビューで、「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」と答えたことで、「月見草」が野村の代名詞となった。
多くの打撃に関する通算記録を築いたが、1973年に最多本塁打の記録を(約1ヶ月の攻防の末)王に更新され、1978年には一晩のうちに最多打点を王に、最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1974年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では安打0と完全に押さえ込まれているが、これは通算本塁打記録を破られた野村が意趣返しに全力で王を打ち取りに行ったからではないかという見方もある。
[編集] データ野球・駆け引き
活躍の要因として、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。当時の鶴岡監督率いる南海は根性野球のイメージが先行しがちであったが、実際は他球団に先駆けてデータを取り活用する体制を取り入れており、データの収集に当たっていた尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号ともいわれている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果とあわせて分析し、打撃にも配球にも生かした。
投手の癖を盗み、ボールを投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。初期の頃はカーブが全く打てず、「カーブのお化けが来るぞ」などと野次を浴びるほどだった。しかし、この欠点も投手の癖から球種を盗み、カーブを投げることを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身につけたものであった。なかでも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久投手とは、野村が苦心を重ねて癖を見破れば稲尾はそれに気づいて対策を講じるという、ハイレベルの駆け引きを繰り広げた。
オールスターゲームでも、パ・リーグの捕手の地位を最大限に利用し、同リーグの投手のデータ収集を行った。稲尾は、この意図を見抜いていたため野村のサイン通りにボールを投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」であったと言われている。稲尾は「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と後年語っている。
キャッチャーマスクをかぶったときには、相手チームの打者に私生活の話題などをささやきかけ、集中力を奪うこともあった。最初は、「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などと、直接的な脅しであった。このため当時ライバルの阪急西本監督が、「先に野村にぶつけろ」指令を出したため、鶴岡-西本会談が開かれ、暫くお蔵入りとなった。その後、私生活など集中力を乱す方向へ変更された。この策は「ささやき戦術」として知られる。ただし、この戦術が全く通じない選手が5人だけいた。張本勲、大杉勝男にささやきかけると「うるさい」と一喝され、王貞治は集中のあまり話を全く聞かず、長嶋茂雄は違う話を持ちかけられ、白仁天にいたっては耳栓をつけておりまったく効果なかったという。広島の達川光男も、同様の戦術をとっていたことで有名。
[編集] 監督時代
1970年、最下位に終わって辞任した飯田徳治監督の後任として就任。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「四番」「捕手」「監督」の三重責を担うことになった。彼の著書によればこのときの年俸は、選手、監督分を合わせて、1億円を超えていたという。1973年にはリーグ優勝を果たし、MVPに輝く。当時、パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、当時実力ではかなわないと考えられていた阪急を退けての優勝だった。ただし、日本シリーズでは巨人に敗れ、巨人のV9を許す結果となった。野村のスパイ野球が策士牧野に敵わなかったためと言われている。
このころの選手には、投手の高橋里志・佐藤道郎・山内新一・江本孟紀・福士敬章(当時は松原明夫)・佐々木宏一郎・金城基泰、野手の島野育夫・藤原満・富田勝・松井優典・門田博光・島本講平・黒田正宏・柏原純一・片平晋作・定岡智秋・新井宏昌・和田徹・相羽欣厚・河埜敬幸・久保寺雄二らがいる。このうち、江本は東映、山内・福士(松原)は巨人、金城は広島からトレードで獲得して再生した選手であった。また、コーチにはドン・ブレイザーや高畠導宏、古葉竹識などがいた。野村の指導を受けた選手が各球団でプレー、あるいはコーチになることにより、日本野球界にもサイン盗みなどの技術が広まっていった。
阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで球を投げさせた。これが後のクイック投法の原型となった。クイック投法は現在ではどの球団でも採用している。また、1976年に江本らとのトレードで阪神から江夏豊を獲得し、「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で1977年6月にリリーフ専任の投手へ転向させた。江夏はこの年、最多セーブ投手のタイトルを獲得するなど活躍。江夏のリリーフエースとしての活躍はプロ野球に大きな影響を与え、リリーフの役割が重視されるようになった。
1977年、シーズン終了まで2試合を残して解任される。この年は2位ということで、優勝こそ逃したものの、けっして悪い成績ではなかった。解任理由は、当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は、伊東芳枝)の「チーム・選手への口出しおよび度重なる公私混同」。最終的には野村に同情的だった当時の川勝傳オーナーが苦渋の決断を下したという(もっとも川勝オーナーはこの件以後も野村を大事にし、個人的な付き合いはあった)。なお、広瀬新監督が決定するまでの残り2試合は穴吹二軍監督が代行した。
結局、野村はロッテに移籍。野村一派と言われていた柏原、江夏、高畠の三人はこの解任に反対し、結果柏原は日本ハム、江夏は広島に移籍。高畠は当時コーチであったが、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。なおホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。
[編集] ロッテ・西武時代
1978年、金田正一監督のロッテに移籍。ロッテ時代の同僚に村田兆治、山崎裕之、有藤道世、弘田澄男、八木沢荘六、外国人のレロン・リー・レオン・リー兄弟、水谷則博、仁科時成、水上善雄がいた。標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、野村の代名詞の一つとなった。しかし、若手に対するアドバイスにコーチ陣から批判が出るなど確執が生じ、同年オフで自由契約となる。このときロッテフロントから監督就任を要請されるも、金田らに遠慮して固辞したという。
1979年、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。西武時代の同僚に田淵幸一、ロッテ時代の同僚・山崎、かつてのライバル・土井、大田卓司、山村善則、立花義家、鈴木葉留彦、楠城徹、伊原春樹、行沢久隆、山本隆造、外国人ではジャック・マルーフ、トニー・ミューサー、テーラー・ダンカン、ジム・タイロン、スティーブ・オンティベロスがいる。投手陣では東尾修、永射保、森繁和、古沢憲司、松沼博久・松沼雅之兄弟がいた。なかでも松沼博久は野村の配球に強い印象を受けたと語っている。
現役最後の年となった1980年は控えに回る事が多く、ほとんど目立った活躍がなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場を果たした。これにより1950年代、60年代、70年代、そして80年代の4つの年代でオールスターに出場することとなった。数々の記録を保持する野村だが、これも史上唯一の記録である。
同年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。同年に引退。実働27年、45歳であった。
[編集] 引退の時
野村の著書によると引退を決めたのは、現役最後の年となった1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場していた。試合は8回裏まで4-3と西武が一点を追う展開、この場面で西武は1アウト満塁と逆転のチャンスを作り、野村に打順が回る。しかしここで西武ベンチは、野村に代打鈴木葉留彦を送る。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし、ベンチに下がった後内心で代打策の失敗を祈っていたという。というのも野村は犠牲フライ数日本一の記録保持者であり、横変化の球種をやや遅れ気味に打つというコツを知っていたにも関わらず、その自分に代打を送られたため余計そう思わせた。結局鈴木がショートゴロのダブルプレーに倒れてチャンスは潰え、野村はこの瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れ、野村は帰途の車の中、自らの気持ちがチームを無視して卑しい方向に向いてしまったことを憂い、引退を決めた。
引退セレモニーは捕手だった野村にちなんだ形式で、ピッチャーマウンド上にマイクがあり1塁から3塁の間の横一列に西武全選手が並び、一人ずつマイクで野村に対するメッセージを言い、その後打席の後ろで(通常の捕手の位置に)構える野村に向かいボールを投げ野村が受けるというものであった。その後の記者会見終了後の野村の肩にはキティちゃんのカメラを持ったまだ小学生だった息子の克則が乗っていた。
[編集] 年度別成績
年度 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球(故意) | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954年 | 南海 | 9 | 11 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 |
1956年 | 129 | 357 | 33 | 90 | 7 | 54 | 3 | 4 | 5 | 36(6) | 1 | 66 | 8 | .252 | 15 | |
1957年 | 132 | 474 | 75 | 143 | 30 | 94 | 7 | 1 | 1 | 57 | 9 | 87 | 7 | .302 | 10 | |
1958年 | 120 | 451 | 56 | 114 | 21 | 79 | 3 | 3 | 3 | 45(5) | 8 | 94 | 17 | .253 | 16 | |
1959年 | 132 | 472 | 71 | 124 | 21 | 78 | 7 | 0 | 6 | 45(2) | 3 | 98 | 18 | .263 | 15 | |
1960年 | 124 | 430 | 66 | 125 | 29 | 88 | 8 | 1 | 4 | 41(2) | 4 | 77 | 15 | .291 | 9 | |
1961年 | 136 | 494 | 70 | 146 | 29 | 89 | 8 | 0 | 6 | 54(10) | 5 | 71 | 17 | .296 | 6 | |
1962年 | 133 | 489 | 96 | 151 | 44 | 104 | 5 | 1 | 7 | 70(9) | 4 | 101 | 11 | .309 | 7 | |
1963年 | 150 | 550 | 104 | 160 | 52 | 135 | 4 | 0 | 5 | 84(11) | 4 | 112 | 24 | .291 | 18 | |
1964年 | 148 | 558 | 89 | 146 | 41 | 115 | 7 | 1 | 6 | 71(6) | 5 | 50 | 12 | .262 | 8 | |
1965年 | 136 | 488 | 92 | 156 | 42 | 110 | 3 | 0 | 5 | 60(16) | 6 | 57 | 16 | .320 | 4 | |
1966年 | 133 | 474 | 82 | 148 | 34 | 97 | 8 | 0 | 4 | 71(13) | 7 | 79 | 12 | .312 | 11 | |
1967年 | 133 | 472 | 72 | 144 | 35 | 100 | 13 | 0 | 5 | 68(14) | 6 | 53 | 23 | .305 | 10 | |
1968年 | 133 | 458 | 80 | 119 | 38 | 99 | 2 | 0 | 3 | 103(37) | 3 | 65 | 14 | .260 | 10 | |
1969年 | 106 | 388 | 44 | 95 | 22 | 52 | 1 | 0 | 3 | 39(7) | 4 | 51 | 21 | .245 | 11 | |
1970年 | 130 | 481 | 82 | 142 | 42 | 114 | 10 | 0 | 6 | 66(7) | 6 | 47 | 12 | .295 | 11 | |
1971年 | 127 | 467 | 75 | 131 | 29 | 83 | 12 | 0 | 1 | 56(10) | 7 | 43 | 18 | .281 | 4 | |
1972年 | 129 | 473 | 62 | 138 | 35 | 101 | 4 | 0 | 8 | 46(6) | 11 | 38 | 17 | .292 | 12 | |
1973年 | 129 | 475 | 65 | 147 | 28 | 96 | 3 | 0 | 10 | 51(7) | 3 | 48 | 31 | .309 | 12 | |
1974年 | 83 | 265 | 33 | 56 | 12 | 45 | 2 | 0 | 2 | 38(5) | 2 | 30 | 13 | .211 | 14 | |
1975年 | 129 | 473 | 63 | 126 | 28 | 92 | 3 | 0 | 8 | 58(9) | 7 | 49 | 17 | .266 | 15 | |
1976年 | 119 | 429 | 35 | 117 | 10 | 57 | 2 | 0 | 5 | 29(1) | 5 | 50 | 21 | .273 | 13 | |
1977年 | 127 | 447 | 33 | 95 | 16 | 58 | 0 | 0 | 8 | 33(5) | 5 | 41 | 24 | .213 | 18 | |
1978年 | ロッテ | 64 | 133 | 7 | 30 | 3 | 12 | 0 | 0 | 1 | 10(1) | 1 | 15 | 5 | .226 | 5 |
1979年 | 西武 | 74 | 194 | 14 | 43 | 5 | 22 | 1 | 0 | 1 | 14 | 4 | 34 | 4 | .222 | 14 |
1980年 | 52 | 69 | 9 | 15 | 4 | 14 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 17 | 1 | .217 | 5 |
[編集] 通算成績
- 実働26年(歴代1位)
- 試合 3017試合(歴代1位)
- 打数 10472(歴代1位)
- 安打 2901本(歴代2位)
- 打率 .277
- 本塁打 657本(歴代2位)
- 打点 1988打点(歴代2位)
- 盗塁 117盗塁
- 犠打 11個
- 犠飛 113本(歴代1位)
- 四球 1252個(歴代6位)
- 死球 122個
- 三振 1478三振
- 併殺打 378個(歴代1位)
[編集] 獲得タイトル
- MVP 5回(1961年、1963年、1965年 - 1966年、1973年)
- 三冠王 1回(1965年)
- 首位打者 1回(1965年)
- 本塁打王 9回(1957年、1961年 - 1968年)
- 打点王 7回(1962年 - 1967年、1972年)
- ベストナイン 19回(1956年 - 1968年、1970年 - 1973年、1975年 - 1976年)
- ゴールデングラブ賞 1回(1973年)
- オールスターゲーム選出 21回(1957年 - 1968年、1970年 - 1977年、1980年)
[編集] 解説者時代
1981年のTBSを経て1983年からテレビ朝日の野球解説者、サンケイスポーツの評論家。この間1981年から6年余り、朝日新聞社の週刊朝日で「野村克也の目」を掲載。人気を博した。テレビ朝日解説者時代には「ノムラスコープ」という野球中継では初のストライクゾーンを9分割したスーパーを使った配球の読み、打者・投手心理をズバリとついた捕手出身ならではの巧みな解説が評判となる。1989年に野球殿堂入りしている。
[編集] ヤクルト監督
1990年、優勝の土台を築き上げた関根潤三監督の後任として就任(当初は監督就任を心臓病などで断ろうとしたが、沙知代夫人がヤクルトの球団幹部に野村を売り込んだ説もあり)。同年ロッテ監督に復帰した金田正一と共に、史上初の殿堂入り監督として話題になった。9年の監督期間に4度のリーグ優勝、3度の日本一を果たした。チームの要となった古田敦也捕手(2006年から監督兼任)をはじめ多くの若手選手を育成する一方田畑一也、小早川毅彦を筆頭に他球団から戦力外とされた選手を再生させる「野村再生工場」と呼ばれる手腕を発揮し、ヤクルトを強豪チームに育て上げた。
[編集] 就任時の状況
野村が監督に就任した頃のヤクルトは、松園尚巳オーナー(1994年死去)のもと投手の高野光、伊東昭光、荒木大輔、内藤尚行、加藤博人、川崎憲次郎、野手の広沢克己、池山隆寛、栗山英樹、長嶋一茂、秦真司、荒井幸雄など素質に恵まれた人気選手が多く、ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、長年にわたる負け越し・Bクラスの状態が続いていた。その反面、実力の無い選手ややる気の無い選手に対しては冷酷な扱いする等もしていた。
そうした中での就任は、野村の暗い性格がチームカラーにあわないと懸念する声も多く、世間からは「過去の人」「ヤクルトにとっては部外者」というイメージを受けた。また、健康面での不安も報道されていた。
[編集] ID野球
1990年、野村はデータを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Import Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山や広沢らに三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得する(1993年)など成長を遂げたが、池山は本塁打数を野村就任前より減らすなど打者としては伸び悩んだ。また、ドラフト2位で入団した古田らをレギュラーに抜擢、前年まで控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず5位に終わり、前年の4位を下回る成績となった。しかし心配されていた健康面はよほど現場が楽しかったのか、一年経過すると信じられないほど良化。おかげで太ってしまい、それまでのスーツを全部買い換える羽目になってしまったというエピソードも。
1991年はキャンプ時から若手の成長が注目され、Aクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たし、二塁手から中堅手へコンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。
[編集] セ・リーグ連覇と日本一
1992年に混戦を制してセ・リーグ優勝。9月には故障から4年越しで復帰した荒木投手の起用もあった。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激戦の結果、西武に敗れた。この年に活躍した選手には前述の選手のほか、投手の西村龍次、岡林洋一、高津臣吾、野手のジャック・ハウエルらがいる。また、ベテラン選手の渋い活躍もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。
1993年は、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田・広沢・レックス・ハドラー・ハウエル・池山・荒井・飯田・秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、前半戦に新人伊藤智仁が大活躍。伊藤は酷使がたたったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東・川崎・西村、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。日本シリーズは、前年に続いて西武と戦い、再び最終第7戦までもつれ込む激戦となった末、今度は日本一に輝いた。
1994年は投手陣や古田などけが人が相次いだこともあり、低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位を逃れるありさまだった。
[編集] リーグ優勝・日本一
1995年は、前年オフの間に主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが巨人に移籍し、苦戦が予想されていた。しかし投手の石井一久、テリー・ブロス、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー一塁手、前ロッテのヘンスリー・ミューレン三塁手、前近鉄で西村投手とのトレードで獲得した吉井理人投手など移籍してきた選手が活躍。安定した戦いぶりでセ・リーグを制した。また、対オリックス戦となった日本シリーズはイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、日本一になった。1996年は4位。
1997年は、開幕の対巨人戦で小早川がエース斎藤雅樹から3本のホームランを放ち、快勝。小早川は前年度広島を自由契約になっていた選手だった。ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げたが、石井投手のノーヒット・ノーランなどで突き放し最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り、日本一になった。
この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也、ドゥエイン・ホージー、真中満、稲葉篤紀、1996年に田畑とともにダイエーから移籍して代打の切り札として活躍した佐藤真一、同じ代打の切り札・青柳進、同じく1996年に西武から移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博らがいる。1998年は4位に終わり、この年のオフで勇退。ヤクルト時代は、最初に日本一になった後は4位→日本一→4位→日本一→4位と日本一と4位を交互に繰り返した。
監督本人は毎回連覇をなんとか成し遂げたいと語っていた。が、本人が日本一になるとオフやキャンプで浮かれた発言・パフォーマンスを繰り返していた。また、先発ローテ投手が2年連続で活躍することがほとんど無かった。日本一を達成した際のローテ投手は前回の日本一時のローテ投手とは1人を除いて全部入れ替わってることがほとんどだった。その中には故障のために離脱せざるを得なかった投手もおり、野村再生工場と呼ばれた一方で連覇を狙う投手起用法だったのか疑問符がつく。しかし、歴代でも屈指の名将であったことには間違いない。
[編集] 阪神監督
1999年、阪神の監督に就任。ヤクルト監督勇退直後であること、阪神は例年生え抜きの人材を中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。就任直後はチーム再建を高く期待され、ファンの人気も絶大だった。実際にこの年は6月9日には単独首位に立ち(結果的にこの年優勝した中日を唯一首位から蹴落としたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった純金製の野村監督像が前倒しで発売されたほどである(ちなみにこの純金像を最初に購入したのは、落語家の月亭八方)。また新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ(遠山-葛西-遠山-葛西、通称「遠山-葛西スペシャル」)(この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかった為)などで話題を呼んだ。しかし期待されていた好成績には遠く及ばず1999年、2000年と2年連続最下位。実際1年目終了後野村自身このチームの再建は不可能(阪神は自分に合わない)であるとして、阪神フロントに辞意を求めたが、阪神フロントの必死の説得によりやむを得ず続投したといわれる。
2000年オフに新庄がFAで大リーグへ移籍するなどさらに厳しい状況で迎えた3年目の2001年は若手選手育成を掲げた。ルーキーの赤星憲広、藤本敦士、沖原佳典、上坂太一郎ら7人の俊足選手をF1セブン(後述)と名付けて売り込んだのはこの年である。また、桧山進次郎をホームランアーティストからアベレージヒッターに変貌させ、当時23歳の濱中おさむをブレイクさせて、現在の常勝阪神の礎を築いたとも言える。しかし結果はまたもや最下位。この年のオフ、一度は続投も報じられたものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。結局、阪神監督としては3年連続最下位と最低の成績で終わった。ヤクルトを4度リーグ優勝させた名将でも、深刻な戦力不足の眠れる虎を目覚めさせることはできなかった。
[編集] F1セブン
F1セブン(えふわんせぶん)は、2001年に阪神の監督の時に、広い本拠地・甲子園、ホームランバッターが皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。
余談だが、この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太がF1セブンの一員に入っていないのは、野村監督が秀太をF1セブンに加えるのを忘れたためである(翌日、野村監督は「秀太を忘れていた、F1エイト」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった)。
- エピソード
- かつての横浜大洋ホエールズのスーパーカートリオ(屋鋪要・高木豊・加藤博一)を意識したネーミングで、野村監督曰く「スーパーカーはもう古い、これからの時代はF1」とのことだったが、ファンからは「いや、F1もどうだろう」との声も聞こえた。
- 上坂、松田、高波以外の選手は新入団で、平下(近鉄からのトレード入団)を除く3人は野村監督がじきじきにスカウティングを行った選手であった。そのためキャンプでは新戦力に期待するファンが多かったが、オープン戦では全員が打率2割台以下に落ち込み、オープン戦で大爆発を見せた新外国人のイバン・クルーズ(バースの再来と騒がれたが、暗黒時代の外国人選手の例に漏れず、オープン戦のみの活躍に終わった)に話題を奪われ、空中分解。阪神ファンや他球団ファンらの嘲笑の対象となった。
- 同年、空中分解したF1セブンの後釜をと、上坂・赤星・濱中で『平成の新少年隊』を結成したが(当初は藤本の予定だったが、藤本が怪我で2軍落ちした為、上坂と交代)、F1セブンと比べると話題性は小さかった。
- このようにF1セブン自体は不発に終わったものの、赤星・藤本がレギュラーに定着、沖原も2003年の優勝に貢献するなど、一部のメンバーは活躍を見せた。これが彼らが「野村遺産」と呼ばれる所以である。
- 翌年、星野仙一が高波・松田の代わりに坪井智哉・濱中おさむを加えた「新F1セブン」を考案したが、これも全く話題にならなかった。
- 用語としてのF1セブンはこれ以後まず聞かれないが、そのネーミングや不発に終わったことから、阪神ファンの間でネタとして使われることは多い(例えば「お前F1セブンの名前全員言えるか?」など。松田を思い出せない場合が圧倒的に多い。秀太を混同してしまっている事もありがちである)。
- メンバーがトレードなどで欠けた為、現在の阪神では、オリジナルメンバーで再現することは不可能である。しかし2006年時点で松田以外は全員現役。
[編集] 阪神監督としての評価
阪神監督としての野村の評価は2つに分かれている。一つは、3年連続最下位と全く結果が出なかったことと、本塁打を放った選手も出迎えない、陰気であるなどといった理由からである。それと、酷評していた今岡誠が星野監督就任後活躍するという事態も野村批判の根拠となっている(しかし今岡は野村時代から活躍をはじめ、また本人が主張した1番ではなく、後に野村の主張し確執の一端であったクリーンアップとして活躍をする。星野の今岡評は、野村のそれにかなり近い)。また、大豊泰昭(後に中日移籍)、ダレル・メイ(後に巨人移籍)、坪井(後に日本ハム移籍)、今岡、藪ら主力選手との対立、当時の岡田彰布2軍監督、阪神OBとの確執もあった。また、ヤクルトから移籍したカツノリを積極的に起用した反面、近鉄から移籍した吉田剛等は起用したものの翌年には2軍へ回したり、戦力的に使えない選手を冷遇する等も一面も見られた。
しかし、井川慶、福原忍、吉野誠、赤星、藤本、沖原、濱中、上坂などの若手を積極的に起用、矢野輝弘捕手に大きな影響を与えるなど選手育成に大きく貢献し、木戸克彦、葛西、伊藤敦規、遠山各コーチにも影響を与えたと評価する人もいる。また、フロントに戦力補強を訴えたのも野村であり、はじめは「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否する久万オーナーに「ある意味では(巨人の補強方法は)正しいと思います。時代に合っていると思います」と回答し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか?掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか?4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説き、それが後の金本、下柳、片岡らの補強、ひいては低迷からの脱却、リーグ優勝につながった。
後任として中日の星野監督を推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り(その証拠に、就任1年目から進退伺いを出している)、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。後任の星野もオーナーに直談判をし、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言したが、監督が久万オーナーに自ら会談したのは野村が最初である。
2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における阪神戦(交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。
[編集] シダックス監督
2002年から社会人野球チームシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任し、2003年、都市対抗野球で準優勝を果たした。このときの選手に、野間口貴彦やオレステス・キンデランなどがいる。2005年10月3日、社会人野球日本選手権を最後にシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本野球連盟は、社会人野球界に大きな貢献をしたとして、2005年社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。
[編集] プロへ輩出した選手
- 庄田隆弘外野手(2003年ドラフト6巡目・阪神)
- 野間口貴彦投手(2004年ドラフト自由枠・巨人)
- 武田勝投手(2005年ドラフト4巡目・日本ハム)
- 小山桂司捕手(2005年ドラフト5巡目・日本ハム)
[編集] 楽天監督
2005年楽天は、「チームの再構築が必要」などで、田尾安志監督を解任すると、楽天側から、非公式の監督要請を打診するものの、契約条件や、巨人を自由契約になった清原和博の獲得問題などで難航するが、2005年10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督の要請を正式に承諾、5年ぶりのプロ野球界復帰となった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代の監督となったのは仰木彬(2005年オリックスの監督として1年間指揮を取るも、同年12月15日没)に次いで史上2人目(ただし監督契約としては元太平洋クラブ(現・西武)のレオ・ドローチャーを含め3人目)、1年間続ける事が出来れば仰木の持つ最年長監督記録を更新する予定。
監督就任に対し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育ってないことを意味している」とコメントしている。実際、アテネ五輪監督に長嶋茂雄、ワールドベースボールクラッシックの監督に王貞治と60代後半の高齢者が監督になっていることからも野村のコメントは的を射ているといえる。
2006年5月11日対横浜戦の8回裏に谷中が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに木内球審を突くなどして猛抗議。あわや退場処分になるところだった。5月16日に、フルキャストスタジアム宮城で行われたセ・パ交流戦で、ヤクルト率いる古田監督と師弟対決が実現した(結果は、10-9で古田に軍配)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトに凱歌が上がっていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝ち師匠の意地で一矢を報いると同時に、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。
些かの余談であるが、これまで南海、ヤクルト、阪神と監督経験があるが、南海(ホークス=タカ)でパ・リーグ優勝、ヤクルト(スワローズ=ツバメ)で日本一と、鳥にちなんだ球団で輝かしい経歴があるため、現在の楽天(ゴールデンイーグルス=イヌワシ)においてはアジア一のチャンピオンにというファンの期待がある。
また、かつては自軍の選手がホームランを打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、現在ではベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方で記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。育成方針も基本的には叩いて伸ばすタイプであまり褒める事はしないのだが、最近では活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈ることが多くなってきた。このような、以前とは若干違った面を見せるようになってきており、年齢を重ねた為か、社会人チームの監督を経て心境の変化があった為かは定かではないが性格が丸くなったのではないかと言われている。(ヤクルト時代に野村の下で選手として活躍した池山隆寛が以前よりもずっと優しくなった、と語った他、以前との違いをいくつか指摘している。)
2006年11月23日に開催された楽天イーグルスのファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを懸ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。これは球団側も聞かされていなかったことらしく米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村監督は監督就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年をかけてのチーム作りの方針を語ってきたが、来季は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱するチームの計画に反するため、本当に辞めるつもりなのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うということなのか、という点についてはまだ定かではない。球団側は来季が終了してもまだ契約が残っていることを強調しているため、現時点では来季の成績如何に関わらず慰留する方針であると考えられる。
2006年11月26日に行われたイーグルスの納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。
2006年11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける。」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。実際野村自身も70歳を超えており、監督としてもう長くは無いだろうと自身でも感じているのではないかという見方もある。
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1970年 (昭和45年) |
2位 | 130 | 69 | 57 | 4 | .548 | 147 | .255 | 3.43 | 35歳 | 南海 |
1971年 (昭和46年) |
5位 | 130 | 61 | 65 | 4 | .484 | 156 | .260 | 4.27 | 36歳 | |
1972年 (昭和47年) |
3位 | 130 | 65 | 61 | 4 | .516 | 133 | .253 | 3.48 | 37歳 | |
1973年 (昭和48年) |
1位 | 130 | 68 | 58 | 4 | .540 | 113 | .260 | 3.35 | 38歳 | |
1974年 (昭和49年) |
3位 | 130 | 59 | 55 | 16 | .518 | 124 | .246 | 3.06 | 39歳 | |
1975年 (昭和50年) |
5位 | 130 | 57 | 65 | 8 | .467 | 102 | .246 | 2.98 | 40歳 | |
1976年 (昭和51年) |
2位 | 130 | 71 | 56 | 3 | .559 | 97 | .259 | 2.91 | 41歳 | |
1977年 (昭和52年) |
2位 | 130 | 63 | 55 | 12 | .534 | 108 | .250 | 3.15 | 42歳 | |
1990年 (平成2年) |
5位 | 130 | 58 | 72 | 0 | .446 | 123 | .257 | 4.24 | 55歳 | ヤクルト |
1991年 (平成3年) |
3位 | 132 | 67 | 63 | 2 | .515 | 140 | .259 | 3.93 | 56歳 | |
1992年 (平成4年) |
1位 | 131 | 69 | 61 | 1 | .531 | 173 | .261 | 3.79 | 57歳 | |
1993年 (平成5年) |
1位 | 132 | 80 | 50 | 2 | .615 | 140 | .263 | 3.20 | 58歳 | |
1994年 (平成6年) |
4位 | 130 | 62 | 68 | 0 | .477 | 130 | .250 | 4.05 | 59歳 | |
1995年 (平成7年) |
1位 | 130 | 82 | 48 | 0 | .631 | 147 | .261 | 3.60 | 60歳 | |
1996年 (平成8年) |
4位 | 130 | 61 | 69 | 0 | .469 | 103 | .264 | 4.00 | 61歳 | |
1997年 (平成9年) |
1位 | 137 | 83 | 52 | 2 | .615 | 138 | .276 | 3.26 | 62歳 | |
1998年 (平成10年) |
4位 | 135 | 66 | 69 | 0 | .489 | 97 | .253 | 3.69 | 63歳 | |
1999年 (平成11年) |
6位 | 135 | 55 | 80 | 0 | .407 | 97 | .259 | 4.04 | 64歳 | 阪神 |
2000年 (平成12年) |
6位 | 136 | 57 | 78 | 1 | .422 | 114 | .244 | 3.90 | 65歳 | |
2001年 (平成13年) |
6位 | 140 | 57 | 80 | 3 | .416 | 90 | .243 | 3.75 | 66歳 | |
2006年 (平成18年) |
6位 | 136 | 47 | 85 | 4 | .356 | 67 | .258 | 4.30 | 71歳 | 楽天 |
- ※1 太字は日本一
- ※2 1970年から1996年までは130試合制
- ※3 1997年から2000年までは135試合制
- ※4 2001年から2004年までは140試合制
- ※5 2005年からは136試合制
- 監督通算成績 2772試合 1356勝1346敗70分 勝率.502
- 正力松太郎賞 1回(1993年)
[編集] 背番号
[編集] 発言
野村の発言は「ボヤキ」という一言でくくられるが、現在のプロ野球の問題点に鋭く斬り込んだものがある一方、他球団の選手・監督を口汚く罵ることもあるため、物議を醸すことが多い。
- 「特定の球団に選手が流れるFAを廃止し、ウエーバー方式にするべき。プロ野球という機構に就職するものだ」(年俸高騰の原因であるFA制度について)
- 「近鉄・オリックスの合併に抗議する選手会のストは反対。契約違反だ」(合併撤回がなければストの可能性を示唆する選手会に対して。しかしスト決定後のテレビ出演では選手会の古田敦也会長支援に)
- 「ルールを破っちゃいかん。岡田(彰布)監督に従うのは最低の義務。やめるしかない」(阪神・井川慶のメジャーリーグ移籍問題に関して、星野仙一シニアディレクターが「アイツは大事な試合できっちり抑えていない」とコメントしたことについて)
- 「茶髪選手は球界のゴミ」
- 「茶髪では優勝は無理」
- 「私だったら絶対に許さない。茶髪にする精神構造が分からない」(以上は髪を茶髪にする選手について。また1990年のヤクルト監督就任時、池山隆寛に対して「タレントはいらない」と発言。しかし野村は池山を高く評価しており、楽天監督に就任した際に池山を打撃コーチとして招聘した)
- 「1つ負けるとズルズル連敗しそうなので、西武との日本シリーズは4つすべて勝つ」(1992年の日本シリーズ前の発言。実際第1戦はとったが第2戦以降3連敗し、結局3勝4敗で敗退)
- 「われわれは挑戦者。前年敗退した悔しさをばねにセ・リーグで勝ち上がってきた。なんとしても雪辱しよう」(1993年の日本シリーズ前の発言。この言葉どおり4勝3敗で前年の雪辱を果たす)
- 「なんと言っていいのか…日本の選手がメジャーで活躍するのはいいことだが…。ただ、野茂(英雄)本人の移籍方法に問題がある」(野茂のメジャー挑戦を近鉄が任意引退扱いで容認したことについて)
- 「落合(博満)は球界の常識を知らない無法者だ。どうして名球会入りを拒否したのか」(その後落合は球界OBなら誰でも入れる日本プロ野球OBクラブに入会。ただし、野球選手としての落合の実力は高く評価している)
- 「長嶋(茂雄)さんがメークドラマと言っているが、オレにはああいう発言は効かない。あれらは負けドラマのようなもの」(1995年は巨人は3位で終わったが、1996年には首位広島との11.5差をひっくり返し前年の雪辱を果たした。メークは英語表記でmake。これをローマ字読みすると『負け』となる。『負けドラマ』とはそれを意識したシャレ)
- 「ただいまのオーナーの談話によると、私は今季が最後だそうで・・・。まあボチボチやらしてもらいますよ」(ヤクルト監督時代、1995年の開幕目前の激励会で桑原潤オーナーに「おそらく野村監督も今季が最後だろうと思いますので・・・」と言われて。詳細は桑原潤へ)
- 「試合前にミーティングもしないなんて信じられない。オレには考えられない」(1995年の日本シリーズ前、オリックスの仰木彬監督が「(ミーティングは)全然しなくても大丈夫ですよ」と発言したことについて)
- 「イチローを投手として起用することは考えられない。仰木はオールスターゲームの意味を知らない」(1996年のオールスターゲームで全パの仰木監督が、松井秀喜の打順でイチローをマウンドに送ったことについて。この後野村は投手の高津臣吾を代打に送る)
- 「何とも言いようがない。でも父親は良く決断した。巨人は伝統があるし、高いレベルが要求されるからな。((長嶋)一茂が)ヤクルト復帰? アホか! パ・リーグの何処かが取るに決まっているだろう」(一茂が巨人を戦力外になったことに関して。ヤクルトは一茂を一切復帰させるつもりはなく他の球団も近鉄・オリックス・広島・日本ハム以外は獲得の意向がなかった。
- 「3億6000万円の清原(和博)が開幕で抑えられ、3000万円の小早川(毅彦)が活躍したなら叩かれるのは巨人のフロントだろう」(1997年にFAで西武から巨人に移籍した清原について。実際、清原の前半戦での不振が巨人のV逸につながる)
- 「対戦相手の西武が茶髪(松井稼頭央のこと)だろうが何だろうが絶対負けられない」(1997年の日本シリーズ前の発言。実際に投打に西武を圧倒したヤクルトが4勝1敗で勝利)
- 「佐々木(主浩)がスパイ野球だと発言したかがわからない。パ・リーグならするけどセ・リーグではしないはずだ」(横浜・佐々木の発言について。その後佐々木は発言を訂正し謝罪)
- 「新庄(剛志)は足は遅いが、肩が強いからピッチャーはやれる。彼のストレートは金田(正一)・江夏(豊)クラスだ」(阪神監督就任1年目で投手に挑戦させた新庄について。オープン戦で好投するシーンもあったものの、新庄は「ピッチャーは難しいからやめる」と発言し、お蔵入りとなった)
- 「(ダレル・)メイは巨人に魂を売った裏切り者だ。和田(豊)に謝るべきだ」(巨人に移籍したメイが和田に対し、打席を外した際に頭部を狙って危険球を投げたことについて。メイは「野村とは考えが合わない。オレは自分のやり方を貫く」と反論した)
- 「ヤクルトの選手は大人だったけど、阪神の選手は子供だった」(阪神監督辞任後毎日新聞社のインタビューで、確執を噂された今岡誠や藪恵壹について)
- 「私のような年寄りにはチームがまとめられないと、久万(俊二郎)オーナーに相談しました。それで、星野を監督にと要請しました」(同じインタビューで、阪神の再建には時間がかかると思い発言。なお、一説には「西本(幸雄)あるいは星野のような熱血な監督でないとダメです。」と発言したとも言われる。)
- 「今岡が変わるはずがない。なぜ星野のもとでひと皮向けたかが不思議だった」(2003年の阪神快進撃について)
- 「試合前から勝負は始まっている。先発オーダーからの読み合いも必要だ」(楽天監督就任時、予告先発制度について)
- 「岡田はまともな野球をしていない。落合のが常識の野球で、あれは『オレ流』なんかじゃない。岡田の方がよっぽど変わっている」(仙台市内の講演で、因縁の阪神・岡田監督に挑戦状をたたきつける発言)
- 「どうせヤクルトに決まってたんだろう。年俸のつり上げに使いやがって。無駄な努力をした。古田、石井(一久)、高津は何をするにも一緒で、ホモみたいな関係だ」(かつての教え子である石井のヤクルト復帰について。この後、「(石井を)交流試合でつぶしてやる」と発言。この発言を豊田泰光が「週刊ベースボール」に連載している自らのコラムで痛烈に批判した)
- 「日本人初の1億円プレイヤーは落合ということになっているけど、本当は私なんですよ」(フジテレビの『とんねるずのみなさんのおかげでした』の収録での発言。南海で選手兼任監督になった1970年に監督料込みで年収1億円を超えていたという。監督料込みとはいえ、時代を考えると驚異的な額)
- 「女房は揚げ物などの和風料理などできないんですよ。ただ女房が作る料理はうまいですよ」(テレビ朝日の『愛のエプロン』で沙知代夫人とともに出演した時の発言。実際、あんこう鍋について梅沢富美男、加藤茶、勝俣州和の各氏から絶賛される)
- 「やめるのも本人の自由だが、あれほどの選手が簡単に辞めるのは惜しい」(2006年4月に突然の引退宣言をした新庄について)
- 「鶴岡御大にやられた」(南海監督解任時の一言。解任理由についてのインタビューでの解答。この一言で恩師である鶴岡との確執は決定的になり、鶴岡の葬儀にもキャンプ・練習試合(当時は阪神監督)を理由に欠席している。その時のコメントは「キャンプだから」、「練習試合だから」だった。なお、鶴岡の葬儀には長嶋は出席しており、野村の欠席で大沢啓二が激怒していた)
- 「(選手への接し方は)無視、賞賛、非難。(賞賛するということは)一人前扱いしていないということ。今日賞賛された選手が明日は非難を浴びるようになってくれればいい。」(野村流の育成方針、選手への対応について。「非難」とは主に選手の欠点を指摘することにあたる。またこの育成方針については南海時代に監督であった鶴岡一人の影響を受けているとも述べている)
- 「バッティングは謙虚な人がレギュラーをとる。ホームランは麻薬。自分は600本打ったからそれがわかる。自分を見失わないようにしなければいけない。」(2006年9月27日オリックス戦にてプロ初アーチを記録した塩川達也にクギを刺す意味で。「ホームランは麻薬」は昔からよくみられる発言であり、ヤクルト監督時代は飯田哲也などが槍玉に挙がっていた)
- 「選ばれても今は名誉に思わない。ファンサービス精神がない。インタビューでファンのおかげとか、もっともらしいことを言っといて現実と違う。どこの球団とは言わないが、チームの教育や考え方が出るわ」(2006年10月18日。自身が監督を務める日米野球での辞退者続発に。なお、日本一の日本ハムからは1人、セリーグ優勝の中日は出場0。日ハムはアジアシリーズ出場のため。)そんななか志願して出場した小笠原道大には「辞退者が多いなか助かる」と頭をさげた。
- 「来季優勝出来なかったら他の人に(監督を)お願いする。仙台で胴上げしましょう」(2006年シーズン最下位を反省し、ファン感謝デーにて)
- 「プロ野球選手は野球博士であれ」
[編集] 名言・格言
- 勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし
- 「負けるときには、何の理由もなく負けるわけではなく、その試合中に何か負ける要素がある。勝ったときでも、何か負けに繋がる要素があった場合がある。」という意味。試合に勝つためには、負ける要素が何であったか、どうしたらその要素を消せるかを考えて行く必要がある。また、もし勝ち試合であっても、その中には負けに繋がることを犯している可能性があり、その場合はたとえ試合に勝ったからと言って、その犯したことを看過してはならない。
- 初めの勝ちは、嘘の勝ち
- 1992年、名将対決となった森祇晶監督率いる西武との日本シリーズ第1戦勝利後のインタビューで。野村は短期決戦では初戦を重視しており、1973年の阪急とのプレーオフ、監督として出場した5回の日本シリーズはいずれも初戦に勝利している。一方の森は当時から第2戦に重きをおいた発言をしており(この年の日本シリーズでも、シーズンの成績が良かった郭泰源や石井丈裕ではなく、渡辺久信を第1戦の先発としている)、この発言は森の第2戦重視主義を意識した発言といえよう。
- なお、野村は森と親交があり、監督としての立場を離れれば、野村が「一晩中、彼と野球の話をしてますよ」と言うぐらいの仲である。巨人V9時代には日本シリーズ対策として、森がパリーグ選手の情報を聞きに野村の家をよく訪問しており、その親密ぶりは「野村の家には、森の歯ブラシがある」と称されるほどであった。
- 戦いに勝つは易し、勝ちを守るは難し
- 1993年セ・リーグ優勝を決めた直後、神宮球場での監督インタビュー締めの言葉。この年は名言格言・故事成句などを引用したコメントが多かった。
[編集] 著書
- 『頭脳派・野村克也のもう一つ別の管理学―人をどう読み、どう動かすか』(1983/01 PHP研究所)
- 『親バカ野球バカに捧げる本―ノムさんの野球式子育て』(1983/01 KKベストセラーズ)
- 『プロ野球野村克也の目'82』(1983/04 朝日新聞社出版局)
- 『敵は我に在り[正]』(1984/01 KKベストセラーズ)
- 『ノムさんの目くばりのすすめ―捕手型人間で成功する方法』(1984/01 プレジデント社)
- 『裏読み―今、勝つために何をすべきか』(1984/09 ロングセラーズ)
- 『敵は我に在り(続)』(1984/10 KKベストセラーズ)
- 『プロ野球 監督たちの戦い』(1985/03 朝日新聞社)
- 『野球は頭でするもんだ!』(1985/09 朝日新聞社)
- 『生涯一捕手の目―組織論の死角』(1985/12 潮出版社)
- 『一流の条件―プロ野球 野村克也の目』(1986/03 朝日新聞社)
- 『役者はもう新人類―プロ野球 野村克也の目』(1986/12 朝日新聞社)
- 『負けに不思議の負けなし』(1987/04 朝日新聞社)
- 『勝者の資格―ノムダス』(1995/11 ニッポン放送プロジェクト)
- 『弱者が勝者になるために―ノムダス2』(1997/12 ニッポン放送プロジェクト)
- 『功なき者を活かす―リストラ時代の人材活用法』(1998/02 光文社 筑紫哲也共著)
- 『一流になる人二流でおわる人』(1999/04 致知出版社 米長邦雄共著)
- 『女房はドーベルマン』(2002/05 双葉社)
- 『新・敵は我に在り―生涯現役宣言』(2004/02 経済界)
- 『野村ノート』(2005/10 小学館)
- 『巨人軍論―組織とは、人間とは、伝統とは』(2006/2角川書店)
- 『私の履歴書 無形の力』(2006/3日本経済新聞社)
[編集] CD
- 「俺の花だよ月見草」(1993/04/01、1999/07/23再発売)
[編集] テレビCM
- サントリー「バイオミンX」(解説者時代、年代不明)- ビートたけしと共演。野村が解説者で、たけしが実況アナ役だった。
- JR東日本『踏切事故防止キャンペーン』(ヤクルト監督時代、声のみで出演。1990年代)
- 大阪メディアポート(現在会社はケイ・オプティコムに吸収合併されて現存せず。阪神監督時代。1998年-2000年。関西ローカルCM) - 「関西の通信はOMP」と言う台詞であった。
- 大正製薬「大正漢方胃腸薬」(楽天監督時代、2006年11月から放映中) - 長塚京三と共演。忘年会の席で長塚が社員の1年の労を労い「食べる前に…」、野村が登場して「ノム(飲む)」という。因みに野村のアドリブが入っている。
[編集] 関連項目
- フジテレビジョン
- イマだ!タレント再生工場 「ノムさん」
- 京都府出身の有名人一覧
- 京都府立峰山高等学校
- ボビー・ボンズ
- バリー・ボンズ
- 岡田正泰
- 水島新司
- あぶさん
- 景浦安武
- 松村邦洋
- 桑原潤
- 野村克則
- 鉄平
- 赤星憲広
- セドリック・バワーズ
- 松田匡史
- 平下晃司
- 新庄剛志
- 藤本敦士
[編集] 外部リンク
- 東北楽天ゴールデンイーグルス監督
- (2006年~)
-
- 先代:
- 田尾安志(2005年)
- 次代:
- -
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1977年は9月25日まで指揮。
東北楽天ゴールデンイーグルス - 2007 | |
---|---|
00 森谷昭仁 | 0 佐藤宏志 | 1 塩川達也 | 2 渡辺直人 | 3 吉岡雄二 | 4 高須洋介 | 6 西谷尚徳 | 7 山﨑武司 | 8 礒部公一 | 9 鷹野史寿 | 11 一場靖弘 | 12 草野大輔 | 13 小倉恒 | 14 河本育之 | 15 福盛和男 | 16 山村宏樹 | 17 フェルナンデス | 18 田中将大 | 20 谷中真二 | 21 岩隈久志 | 22 愛敬尚史 | 23 関川浩一 | 24 山崎隆広 | 25 横川史学 | 26 有銘兼久 | 27 河田寿司 | 28 片山博視 | 30 永井怜 | 31 藤井彰人 | 32 沖原佳典 | 33 平石洋介 | 34 渡邉恒樹 | 35 大廣翔治 | 36 朝井秀樹 | 37 嶋基宏 | 38 山下勝充 | 39 井野卓 | 40 吉崎勝 | 41 青山浩二 | 42 ウィット | 43 徳元敏 | 44 中谷仁 | 45 川井貴志 | 46 鉄平 | 47 松崎伸吾 | 48 竜太郎 | 49 吉田豊彦 | 51 川岸強 | 52 山本大明 | 53 牧野塁 | 54 木谷寿巳 | 55 リック | 56 戸部浩 | 57 小山伸一郎 | 58 長坂健冶 | 59 富岡久貴 | 60 藤崎紘範 | 61 憲史 | 63 牧田明久 | 64 中島俊哉 | 65 松本輝 | 66 西村弥 | 67 銀次 | 68 枡田慎太郎 | 91 インチェ | 未定 林恩宇 | 121(育成選手) 金森久朋 | 126(育成選手) 中村真人 | |
19 監督 野村克也 | 78 橋上秀樹 | 71 紀藤真琴 | 76 杉山賢人 | 77 池山隆寛 | 86 星野おさむ | 80 西俊児 | 75 佐竹学 | 70 山田勝彦 | 87 二軍監督 松井優典 | 74 小野和義 | 85 広橋公寿 | 81 清家政和 | 72 上川誠二 | 90 芹澤裕二 | 84 高村祐 | 89 永池恭男 | 73 野村克則 |
|
球団 | 編集 |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 | 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 | 西武ライオンズ及びその前身球団の選手 | 野球監督 | 野球解説者 | 野球殿堂 | 名球会 | 京都府出身の人物 | 1935年生