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中日ドラゴンズ - Wikipedia

中日ドラゴンズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons)は、日本プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。


中日ドラゴンズ
チーム名 中日ドラゴンズ
加盟団体 セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍)
創設年度 1936年
チーム名の遍歴 名古屋軍(1936年1943年
→産業軍(1944年
→中部日本軍(1946年
→中部日本ドラゴンズ(1947年
→中日ドラゴンズ(1948年1950年
→名古屋ドラゴンズ(1951年1953年
→中日ドラゴンズ(1954年~)
フランチャイズ 愛知県
本拠地 ナゴヤドーム(1軍)、ナゴヤ球場(2軍)
収容人員 38414人(ナゴヤドーム)
オーナー 白井文吾
親会社 中日新聞社
監督 落合博満
タイトル リーグ戦:7回、日本シリーズ:1回
(優勝年度) (リーグ戦)1954、1974、1982、1988、1999、2004、2006
(日本シリーズ)1954

目次

球団の歴史

1リーグ時代

  • 1936年、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が結成。河野安通志を総監督(GM)に迎え、監督は池田豊が就任。明大の中根之、白系アメリカ人で捕手ハリス、名手・芳賀直一、日系外国人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。日本各地に同様の球団を結成、大日本野球連盟を組織し、独自のリーグを作ろうとしたが失敗。日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)のリーグに加わった。当初の会社名は「株式会社大日本野球連盟名古屋協会・名古屋軍」「株式会社大日本野球連盟東京協会・大東京軍」であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。
  • 1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らがあとを追い、池田監督も混乱を嫌い辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことにより、チームは低迷。
  • 慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総力は巨人阪神に及ばず、優勝は遠かった。
  • 1942年、戦時下の新聞統廃合令により親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧:名古屋金鯱軍親会社)が統合され中部日本新聞社として新設。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資し1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、球団を理研工業の傘下に入れ選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団に例外なく多くが兵役に駆られ、「人間の翼 最後のキャッチボール」で有名な石丸進一を始め名選手が戦禍に散った。
  • 1946年リーグ戦再開に伴い中部日本新聞社が経営に復帰。チーム名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。愛称は「中部」(参照)。
  • 1947年のニックネーム導入にあたり、当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支であるの英訳「ドラゴン」から中部日本ドラゴンズに改称。服部受弘野手投手に大車輪の働きをみせ戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフに赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手が退団、藤本英雄も読売(巨人)に復帰し、またしてもチーム力が低下。退団した「赤嶺一派」は各球団を渡り歩き、「赤嶺旋風」と言われる混乱を巻き起こした。
  • 1948年中日ドラゴンズに改称。オフに木造の中日球場が完成。翌シーズンより本拠地に。
  • 1949年天知俊一が監督に就任、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日復帰。同年シーズンオフの2リーグ分裂騒動でセ・リーグに加盟。

セ・リーグ加盟後

近藤・山内監督時代

  • 1981年近藤貞雄監督が就任。1982年には3度目のリーグ優勝。近藤は星野・木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙中尾孝義上川誠二らの若手を登用。他の野手では大島康徳田尾安志ケン・モッカ宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な野球と、投手分業制を標榜する継投を駆使する采配を見せた。
  • 1982年 プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤、まだ2位だったのに優勝マジックが点灯。10月18日横浜スタジアム大洋最終戦、中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば読売優勝という天王山では小松辰雄の完封勝利によって見事優勝。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野・木俣が引退。
  • 1983年、戦力不足からチームは5位に終わり近藤が退任。
  • 1984年山内一弘監督が就任。初年度は2位となったが、その後は1985年1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木ヘッドコーチが監督を代行した。 シーズンオフ、星野監督が就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。このトレードに際しては、牛島が当初拒否し、星野自ら説得にあたった。享栄高校から、近藤真一がドラフト1位で入団する。

星野・高木監督時代

  • 1987年ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。ルーキー近藤が、8月9日の読売戦で、プロ初登板初先発ノーヒットノーランという大偉業を達成。ペナントレースも、前年の不振を払拭し、5月には一時的に首位に立つなど、最終的には2位を確保する。シーズンオフに、大島、平野を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。
  • 1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差をつけられ最下位。7月8日には6連敗を喫し29勝31敗2分で借金2。ところが、翌7月9日から、驚異の大進撃が始まる。連敗したのは2連敗を2回だけ、50勝15敗3分という凄まじさで、当時を覚えているファンが異口同音に「負けた記憶がない」と口を揃えるほどであった。10月7日、文句なしで6年振りの優勝。生え抜き監督での優勝は史上初。小野和幸が最多勝に輝き、小松とともに先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVPに輝き、この年の最大8ゲーム差からの逆転優勝は、1996年に「長嶋巨人」が11.5ゲーム差を逆転して優勝するまで、セ・リーグ記録であった。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。なお、本来は優勝パレードが予定されていたが昭和天皇の体調悪化により自粛に至った。星野監督は1991年を最後に勇退した。
  • 1992年、高木監督が就任。12年ぶりの最下位に沈むも、成績は60勝70敗で、優勝したヤクルトが69勝61敗と、9ゲーム差しか離れておらず、この年のセ・リーグは6球団全てが60勝台という大混戦となった。
  • 1993年は、今中慎二山本昌広のダブル左腕エースが大活躍。両者とも17勝で最多勝に輝くとともに、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。ペナントレースは、前半戦でヤクルトが2位に大差をつけて独走していたが、後半戦開始直後から中日が猛烈な勢いで走り始め、9月1日、遂に首位に立つ。その後はヤクルトとのデッドヒートとなったが、最後はかわされ涙を飲んだ。シーズン終了後、落合が読売にFA移籍。
  • 1994年はシーズン中盤まで首位読売に食らいついたものの、8月18日からの8連敗で完全に脱落したかに思われ、9月に入ると、この年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられるなど、チームは内外で万事窮したかに見えた。しかし9月20日からの9連勝を始めとする猛烈な追い上げを見せて首位の読売に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合では、読売に、落合、松井の本塁打に加えて当時の3本柱・槙原斎藤桑田のリレーでかわされ、苦杯を喫した。しかしながら、首位打者がアロンゾ・パウエル、本塁打と打点王に大豊泰昭、最多勝に山本昌、最優秀防御率が郭源治と、投打のタイトルを総なめした。
  • 1995年、前年度の優勝を最後まで争っての2位という好成績により高木監督が続投。しかし不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫2軍監督が代行を務めた。
  • 1996年、星野監督が復帰。ナゴヤ球場最終シーズンとなったこの年には、韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えの切り札として期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかり不振に終わる。この年は例の長嶋巨人「メークドラマ」の年であったが、読売があと1勝で優勝という時点になっても(読売の残り試合はすべて中日戦だったのでマジックはつかなかった)中日はしぶとく勝ち続け、9月24日から6連勝。特に6連勝目のナゴヤ球場での広島戦は当時を知るファンの間で名試合と称されている。中日が負ければ読売優勝という状況下、7回1点差に迫られてなお無死満塁という絶対的危機でエース今中慎二が救援のマウンドに立つ。まるで格闘技会場のような「今中コール」の中、今中は金本知憲の犠牲フライ1本でこのピンチを凌ぎ、試合は延長戦に突入した。そして延長10回、パウエルのタイムリーヒットによりサヨナラ勝利。10月6日ナゴヤ球場の最終戦における読売との直接対決に持ち込んだ。そして10月6日、いわゆる『10.6』の大決戦が行われる。中日はこの試合を含めて、残り3試合を全勝すれば読売とのプレーオフというギリギリのところであったが、惜しくも敗れ去り、優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜(恐竜)打線”として恐れられた。
球団事務所のある中日ビル
拡大
球団事務所のある中日ビル
ナゴヤドーム(ホームスタジアム)
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ナゴヤドーム(ホームスタジアム)

ナゴヤドーム移転

  • 1997年、ナゴヤドームがオープン。本拠地を移転し新時代の一歩を踏み出す。しかし狭いナゴヤ球場から一転、広いナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、5年ぶりの最下位に終わる。しかしこの年は宣銅烈が39セーブポイントを挙げ、山本昌が3年振り3度目の最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフにはドームに対応した野球を目指して抜本的な改革が行なわれた。守備力と機動力を推進するため、パウエルを解雇、阪神へ矢野輝弘・大豊を放出、交換で関川浩一久慈照嘉を獲得。また韓国ヘテから李鍾範を獲得。更に明治大から星野の後輩である川上憲伸がドラフト1位で入団した。
  • 1998年にはその改革が実を結び、走力を生かして得た1点を強力な投手陣で守る野球を確立。前半戦までは5割付近をさまよっていたが、例のごとく後半戦から走り始め、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の横浜戦7連敗が響き、38年ぶりの優勝を許した。投手コーチに元読売の宮田征典を招聘しテコ入れ、その甲斐あって野口茂樹が最優秀防御率、川上憲伸が新人王を獲得した。日本生命から福留孝介がドラフト1位で入団。
  • 1999年は珍しく開幕前に本命に挙げられ、期待通りに開幕からいきなり11連勝。昨年度の投手陣は新たに招聘された山田久志投手コーチの指導で充実し、野口、川上、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、この年新人の岩瀬仁紀が1年目から65試合に登板して鉄人振りを発揮し、サムソン・リー落合英二らとともに不動のセットアッパーとなる。ストッパーの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝して一気にゴールテープを切り、見事に優勝。神宮球場で優勝が決まった9月30日には、無料開放されたナゴヤドームも超満員となり、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。しかし、ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは対戦相手の福岡ダイエーホークス投手陣を打ち崩せず、また山崎の欠場が響いたのか1勝4敗で敗れ、敵将・王監督の胴上げを許した。
  • 2000年、2位は確保するものの、投打ともに前年の面影はなく、最後は9月24日、東京ドームでの読売戦において、4-0でリードの最終回、エディ・ギャラードが江藤に満塁弾、二岡にサヨナラ弾を浴びて優勝を決められてしまった。
  • 2001年、4年振りのBクラスに終わる。この年から井端弘和がレギュラーに定着。星野監督が辞任し山田投手コーチが監督昇格。

山田・落合監督時代

  • 2002年谷繁元信が横浜からFA移籍。福留が松井の三冠王を阻止して首位打者のタイトルを獲得する。チームは3位。この頃、荒木雅博がレギュラーに定着。
  • 2003年まで山田監督が指揮を執る。この年の7月5日立浪和義が2000本安打達成。また、この年は一度入団契約を交わしながら突如翻意し、メジャーリーグ・レッドソックスの入団を希望するケビン・ミラーとの間に騒動があった。その代わりロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。山田監督下の成績は3位、2位とまずまずだったが、山内一弘以来となる完全な外様(現役時代に中日に籍を置いた事がない者)だったことや、山田自身の生真面目な性格から周囲との軋轢があったといわれる。2003年9月9日、優勝した阪神タイガース相手に善戦していたにも関わらず休養させられたことがファンの物議を醸した。この年は朝倉健太川上憲伸がケガで離脱し、ローテーションを守ったのは山本昌一人だった。山田休養後は佐々木恭介ヘッドコーチが監督を代行。最終的に阪神には勝ち越し、完全優勝は阻止した。
  • 2004年、1988年優勝時の4番打者である落合監督が就任。1987年以降チーム内に染みついていた星野カラーを一新し、見事就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ野球を見せた。しかし日本シリーズでは、西武に3勝4敗で惜しくも敗れ、50年ぶり2度目の日本一は果たせなかった。10月30日に名古屋市内で行われた優勝パレードでは16万人を動員した。
  • 2005年横浜よりタイロン・ウッズが加入。ドラフトでは石井裕也をはじめ即戦力となりうる新人を確保。しかしこの年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ首位の阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの、連覇を逃した。
  • 2006年3月、東京遠征時の宿舎を第2次星野政権から使用していた赤坂プリンスホテルから近隣のホテルニューオータニへ変更することが決定した。ライバルの阪神も同じ宿舎を使用しており、阪神とは東京ドームでの巨人戦と神宮球場でのヤクルト戦で互いが日程的に重なることがあり、両チームの選手同士が同じ日に同じホテルに宿泊するという好ましくない事態がしばしば起きていたということと、これまでのヤクルト主催の千葉マリンスタジアムでの地方試合に加え、交流戦の開始によりロッテ主催の公式戦が始まったことで千葉への遠征が多くなり、千葉・幕張のニューオータニと併用して宿舎契約すれば宿泊料金が割安になるというメリットがあったための変更とされている。
  • 2006年ペナントレースでは、投手陣と堅い守り、打撃陣がうまく絡み合い、6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速でマジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神タイガースの猛追に遭うものの一度も首位を明け渡すことなく、2006年10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。また、この年はセ・リーグ5球団に勝ち越しての、いわゆる完全優勝であった。
    • 2006年各種記録(抜粋)
      • 福留孝介が球団で50年ぶり、2人目となる「3割・30本・100打点・100得点」を達成、セリーグのシーズン二塁打記録を更新。
      • タイロン・ウッズが球団の打点記録、本塁打記録を更新。
        • 福留・ウッズの二人で稼いだ248打点は中日歴代の3・4番では球団新記録である。
      • 山本昌が9月の阪神戦で史上最年長でのノーヒットノーラン達成。
      • 岩瀬仁紀が史上初の2年連続40セーブを達成。
  • 北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズでは、1勝4敗で敗退。52年ぶりの日本一はならなかった。

落合監督の見えぬ偉業

  • このことはメディアではほとんど報じられていないのだが、2003年以前の中日は優勝してから次に優勝するまでに最短でも6年(1982年→1988年)を要していた。しかし、落合監督が監督就任1年目で優勝したため中日球団が持っていたこの最短記録を5年(1999年→2004年)に短縮。落合監督の目に見えぬ偉業ともいえよう。2005年は連覇こそ逃したものの、2006年の優勝によってこの記録を一気に2年にまで縮めた。また、落合監督より前、1つの連続任期中にチームを2回以上優勝に導いた監督は一人もいなかったが(星野仙一は中日監督として合計2回優勝に導いているが、第一次政権(~1991年)と第二次政権(1996年~)にそれぞれ1回ずつであるのでこれに該当しない)、2006年の優勝によりこの悪しき伝統にも終止符を打った。しかし、2006年の日本シリーズは1勝4敗とまたしても敗れ、チームに古くから蔓延るパ・リーグチームへの苦手意識は払拭できなかった。

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
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1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • 優勝(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年)・7回
  • 日本一(1954年)・1回
  • Aクラス(1938年秋、1943年、1947年、1950年~1959年、1961年~1963年、1965年~1967年、1971年~1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年~1989年、1991年、1993年~1994年、1996年、1998年~2000年、2002年~2006年)
  • Bクラス(1937年春~1938年春、1939年~1942年、1944年、1946年、1948年~1949年、1960年、1964年、1968年~1970年、1976年、1978年、1980年~1981年、1983年、1985年~1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年)
  • 最多勝 89勝(1950年)
  • 最多敗 83敗(1948年、1964年)
  • 最多引分 19分(1982年)
  • 最高勝率 .683(1954年)
  • 最低勝率 .283(1937年秋)

その他の記録

  • 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1961年、1994年)
  • 最大ゲーム差 34.5ゲーム(1948年)
  • 最多本塁打 191本(1984年)
  • 最少本塁打 1本(1937年春)
  • 最高打率 .282(1984年)
  • 最低打率 .182(1941年)
  • 最高防御率 1.41(1943年)
  • 最低防御率 4.75(1995年)

歴代本拠地

2軍本拠地

チーム特徴

  • 杉下茂、星野仙一、川上憲伸らをはじめ、明治大学出身者が多い。
  • 打線の愛称は「恐竜打線」「強竜打線」など。かつてナゴヤ球場(改修前)を1軍ホームグラウンドにしていた時期は、狭い球場を生かした打力が売り物のチームだった。しかしナゴヤドームへと移転してからはチームが不振に陥り一転、投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、2004年以降は奮起も目立ち再度の定着を果たした。
  • ニックネームの「ドラゴンズ」は親会社・中部日本新聞社(社名は当時)の杉山虎之助社長の干支「辰」にちなむ。ちなみに、1948年に「中部日本ドラゴンズ」から「中日ドラゴンズ」へ名称を変更しており、新聞や親会社の名前より先に「中日」と改称している。しかし、実質的には名称を1947年に「中部日本軍」から「中日ドラゴンズ」に変更している解釈が一般的である。
  • 2位になることが非常に多いチームであり、1950年に2リーグ制になってから2006年までの57シーズンで2位に21回なっている(ただし、1959年は大阪と同率の2位であるが、この年は引き分け(0.5勝+0.5敗)を勝率に含めていたため、引き分けを勝率に含めなかった場合、単独の3位になっていた。)。この回数は、2リーグ制移行後の両リーグトップである(1990年代以降だけでも1991年、1993年、1994年、1996年、1998年、2000年、2003年、2005年の8回)。そのため、ファンの間では2位が中日の「定位置」と呼ばれることもある(「万年2位」というニュアンスも含むので、あまりいい称号ではない。その証拠に『サンデードラゴンズ』で「もう2位はいらない」というナレーションが入ったこともある)。21回の2位の内、読売が最多で優勝したシーズンが13回あり、特に1963年、1994年、1996年、2000年は、直接対決で読売に敗れて優勝を決められた(2006年には、東京ドームでの読売戦に勝ってリーグ優勝を決めた。)。以下セ・リーグの他のチームでは阪神14回、読売10回、広島6回、横浜・東京ヤクルト各4回。パ・リーグのチームで、現存するチームでは福岡ソフトバンクの16回が最多で、オリックス12回、西武8回、千葉ロッテ7回、北海道日本ハム6回。過去に存在したチームでは大阪近鉄10回である。ちなみに1リーグ時代では2回(1943年、1947年)あり、以下他のチームでは、読売・大阪各5回、阪急2回、西鉄(戦前)1回である。
  • 2位が非常に多いのは、読売が2リーグ制移行後に30回も優勝していることもあるが、中日自体のここ一番で勝ち切れない体質も指摘されている。1990年代以降を見ても、1991年の広島、1993年のヤクルト、1994、1996年の読売、1998年の横浜、2005年の阪神との優勝争いが挙げられる。いずれも一時期は絶望的な状況に追い込まれたにもかかわらずそこから相手を猛追して、あと一歩というところまで相手に迫りながらもそこからあと1勝が出来ずに優勝や日本一を逃している。特に2005年の阪神には一時は8ゲーム差まで突き放され、そこから2度も0.5ゲーム差まで追い詰めたにもかかわらず、あと1勝ができずに一度も首位の座を奪還できなかった。後述の日本シリーズ敗退の多さを含め、短期決戦への柔軟な対応が今後の課題といえる。
  • かつては数年周期で大きな低迷の年が来ていたが、その翌年はたいていの場合優勝争いを演じるという特徴があり、また、読売との優勝争いはファンの間で名勝負と評されることが多い。

パ・リーグ苦手意識

  • 7度の日本シリーズで通算1勝6敗(実試合:14勝27敗、勝率.341)かつ6連敗中ということもあり、パ・リーグとの相性はかなり悪い。また、勝率.341は近鉄を含めた日本シリーズに出場経験のある12球団の中でもダントツのワースト記録である。

交流戦実施元年の2005年には前半に大きく足踏みを重ね、新規参入の楽天には本拠地ナゴヤドームで3連敗し11球団で唯一負け越すなど15勝21敗に終わってしまった。2006年も交流戦こそ20勝15敗1分と勝ち越したが日本シリーズでは1勝4敗でまたしても敗れたため苦手意識の払拭はできなかった。

応援スタイル

選手別のヒッティングマーチを歌いながら、メガホンなどを叩くスタイルである。1980年代~1990年代初頭までの選手別応援歌は他の楽曲から流用したものが多く見られる(例:立浪和義ガラスの十代落合博満マグマ大使など)。現在では全国中日ドラゴンズ私設応援団連合が2つのチャンステーマと現監督落合博満の応援歌(上述したマグマ大使)以外は全て作曲・作詞して演奏している。1回の攻撃開始、7回の攻撃前、9回以降の攻撃前、得点時に燃えよドラゴンズ!を演奏。応援歌が無い選手には1、2年目に「ガッツだドラゴンズ」3年目以降は「ドラゴンズマーチ」が演奏される(以前は5年目までの選手がガッツだドラゴンズ。6年目以降の選手がドラゴンズマーチだったが、2005年オフシーズンに5、6年目の選手を大量に解雇・放出したことで基準が変更された)。

  • チャンステーマは3つある。
  1. 元中日ゲーリー・レーシッチらに使われた山本リンダの「狙い撃ち」(2002年後半戦から)。
    • 2003年から青とピンクの手袋をはめて応援するスタイルを始めたが、ほとんど広まっていない。
  2. 元中日アロンゾ・パウエルの応援歌(2004年から)。
  3. 元中日川又米利に使用されていたささきいさおの「ぶっちぎりの青春」(2005年から。初めは巨人戦限定、関東以北限定だったものの、2006年8月下旬よりナゴヤドーム等全国の球場(太鼓が使えない神宮球場を除く)でも使用されている)。
  • 他にも特徴的な応援としては、小田幸平が打席に立った時に「O・D・A」コール、タイロン・ウッズが打席に入った時の入場曲(メガホンダンス付きである)の演奏、井端弘和のファンファーレ等がある。

ユニフォーム変遷

  • 1936年 球団創設時のチームカラーは黒。左袖には金のシャチホコをモチーフにしたマークがつけられていた。帽子マークは現在の広島のものと同一。
  • 1937年1938年 金のシャチホコがユニフォームのマークとなり、その下には「NAGOYA」のマークがつけられていた。また、新愛知新聞のマークが左袖に付けられた。
  • 1939年1940年 球団創設時のユニフォームを復活。ロゴが黒で縁どりが赤。
  • 1940年 ナチスハーケンクロイツを参考にしたロゴが登場。左袖にポケットがないのが特徴。
  • 1940年~1942年 名古屋の「名」マークが赤に変更され、前立てラインが廃止される。
  • 1943年1944年 国防色の採用が義務付けられ、「名」マークが廃止された。
  • 1946年1947年 「CHUBUNIPPON」のロゴ登場。ビジター用に当たるグレーのユニフォームに「CHUNICHI」のロゴが登場。当時はペンキで書いていた。
  • 1948年 この年から中日ドラゴンズとなるが、スペルが「Doragons」となっている。ビジター用はライン部分をマイナーチェンジ。ホーム用のロゴはドジャースを意識していた。
  • 1949年 中日の「C」と名古屋の「N」を組み合わせたロゴが登場したが選手からの評判が悪く1年で廃止された。
  • 1950年1951年 2リーグ分裂を機にユニフォームのスペルを「Dragons」に変更。また、夏場に縦縞ユニフォームが登場。
  • 1952年1959年 球団名が名古屋ドラゴンズとなる。その後名鉄が球団経営から撤退し中日ドラゴンズに戻るが、ユニフォームは継続使用された。1956年からビジター用が「CHUNICHI」に変更。帽子マークは名古屋時代は「N」マークだったが、中日になってからは「C」(書体は後の広島と同じもの)となった。
  • 1960年1961年 胸番号の装着を機にフルモデルチェンジ。えび茶が採用され派手なイメージとなる。帽子に中日の「C」とドラゴンズの「D」を重ねたマーク(CDマーク)が初登場。
  • 1962年 濃人監督の出身球団・名古屋金鯱のチームカラーである紺と山吹を採用したユニフォームが登場。同時に帽子のマークを変更しCDマークが1968年途中まで使われたデザインとなる。
  • 1963年1964年 水色に近い明るいブルーが登場。同時に帽子・アンダーシャツ・ストッキングもブルーに変更。※いわゆる「ドラゴンズ・ブルー」のユニフォームが初登場。理由は主催試合の中継権をもつ中部日本放送東海テレビ放送が1964年から東海地区では初のカラー放送を開始するためそれに合わせたためだといわれている。
  • 1965年~1968年 西沢監督の就任を機に紺と赤を基調としたユニフォームに変更。1967年からは「Dragons」のヒゲが長くなり、1968年からは日本プロ野球史上初のノースリーブユニフォームも登場(後述を参照)。
  • 1969年1973年 ノースリーブの反省からフルモデルチェンジ。ビジター用は1963年から2年間使われていたスタイルの復活だった。チームカラーがブルーに。帽子のCDマークもドジャースを意識したようなブロック体に変更。
  • 1974年1986年 ニット素材の特長を生かした太いラインが登場。1981年に2つボタンとなり、1984年にVネックとなる。13年間使用。
  • 1987年2003年 ドジャース・スタイルにフルモデルチェンジ。1995年から番号・背ネームの書体が変更される。ホーム用は17年間、ビジター用は15年間の長きに渡り同一デザインをキープした。帽子マークは筆記体の「D」に変わり、97年以降はブロック体に変更された。ビジターは2002年のみツートンカラー、2003年にはライン入りのものに変更された。1998年のみ日曜日のナゴヤドームでの主催試合に限り、ノースリーブユニフォームが復活した(後述を参照)。
  • 2004年~ 落合監督就任とともに1969年から使われたCDマークが復活。ビジターにツートンが復活。2006年からホーム用左袖部分に「中日新聞」のロゴが入る。

親会社である中日新聞社が新愛知新聞社と名古屋新聞社(名古屋金鯱軍の親会社)の合併によって出来たため、社長の座を新愛知系・名古屋新聞系とが争うことなり、親会社の社長が交代する度に球団社長・監督・ユニフォームの頻繁な変更を繰り返した結果、「親会社の社長交代が球団強化の最大の障害になっている」と批判されることとなった。そのため昔はユニフォームが著しい変遷を見せてきたが、近年は1デザインの使用期間が長くなっている。

  • なお、帽子マークが1987年、「CD」から「D」に替わった理由は、当時の監督星野仙一が前年に広島東洋カープに負け越していて、「(カープ(Carp)の)CがDの上に着いているから負けるのだ」という理由から外している。1987年は広島に勝ち越したが、Dのロゴだった2003年までの17年間で見ると、中日は負け越している。ただし、2004年から再び「CD」に替えて、中日は2006年まで広島に3年連続で勝ち越している(2004年以降のCDマークの立体刺繍ではDがCの上になっており、前述のジンクスに配慮した形となっている)。

歴代監督

※太字は優勝達成監督
  • 1936年 - 池田豊
  • 1937年 - 桝嘉一(第1次)
  • 1938年~1939年 - 根本行都
  • 1939年~1941年 - 小西得郎
  • 1941年~1942年 - 本田親喜
  • 1942年~1943年 - 桝嘉一(第2次)
  • 1944年 - 三宅大輔 ※1
  • 1946年 - 竹内愛一 ※2
  • 1946年~1948年 - 杉浦清(第1次) ※3 ※4
  • 1949年~1951年 - 天知俊一(第1次) ※5
  • 1952年~1953年 - 坪内道典
  • 1954年 - 天知俊一(第2次) ※6
  • 1955年~1956年 - 野口明
  • 1957年~1958年 - 天知俊一(第3次)
  • 1959年~1960年 - 杉下茂(第1次)
  • 1961年~1962年 - 濃人渉 ※7 
  • 1963年~1964年 - 杉浦清(第2次)
  • 1964年~1967年 - 西沢道夫 ※8
  • 1968年 - 杉下茂(第2次) ※9
  • 1969年~1971年 - 水原茂
  • 1972年~1977年 - 与那嶺要
  • 1978年~1980年 - 中利夫
  • 1981年~1983年 - 近藤貞雄
  • 1984年~1986年 - 山内一弘 ※10
  • 1987年~1991年 - 星野仙一
  • 1992年~1995年 - 高木守道 ※11
  • 1996年~2001年 - 星野仙一(第2次) ※12
  • 2002年~2003年 - 山田久志 ※13
  • 2004年~ - 落合博満
※1 ここから産業
※2 ここから中部日本
※3 ここから中部日本ドラゴンズ
※4 ここから中日ドラゴンズ(第1次)
※5 ここから名古屋ドラゴンズ
※6 ここから中日ドラゴンズ(第2次)
※7 1961年から1962年の登録名は濃人貴実
※8 1967年は5月18日まで指揮、5月30日に復帰するまでは近藤貞雄が代行
※9 1968年は6月24日まで指揮、残り試合は本多逸郎が代行
※10 1986年は7月5日まで指揮、残り試合は高木守道が代行
※11 1995年は6月2日まで指揮、残り試合は徳武定祐島野育夫が代行
※12 2000年は5月6日まで指揮、5月12日に復帰するまでは島野育夫が代行
※13 2003年は9月9日まで指揮、残り試合は佐々木恭介が代行

永久欠番

※中日出身者で名球会に加入している選手が現役時代につけていた背番号(41・1=高木守道、14・41=谷沢健一)はすべて永久欠番にはならず、在籍選手での会員である立浪和義の背番号(3)を永久欠番にする話もない。これは中日での永久欠番の条件が日本一に貢献した選手に限られるためと言われている。

※ただし、1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号(20)が永久欠番になっていないのは、一旦引退しながら1961年大毎オリオンズで現役復帰したからだと推測される。このことから、中日での永久欠番には中日で現役生活を終えることも条件の1つに含まれると考えられる。

マスコット

球団マスコット

球団マスコットは以下の3体。

  • ドアラ - 名古屋市千種区東山動物園コアラにちなんだキャラクター。アクション担当。背番号は000、のち1994。2003年には、期間限定マスコットとして、ゴールデンドアラも登場した。珍プレー好プレーでイジられる姿がよく映った。
  • シャオロン - 下記で述べるように2匹は龍の子供という設定である。ドーム元年となった1997年、公募により誕生。シャオロンは龍の子供を中国語で“小龍”(しゃおろん)と読むためそこから名付けられた。水色。背番号は777、のち1997。
  • パオロン - 2000年より登場。シャオロンの友達とも妹ともいう。ピンク色。背番号は2000。
たまにシャオロンとパオロンを見た目から「カバの兄弟」と勘違いする者がいるが、彼らのモチーフは龍である

関連マスコット

  • ガブリ - 2006年に球団創設70周年を記念して設立された球団公式ファンクラブのマスコット。龍をモチーフにしている。宮崎駿がデザインを担当し、名前は公募でつけられた。
  • ドムラ - ナゴヤドームの公式マスコット。ゴリラをモチーフにしている。

歴代の球団歌

  • ドラゴンズの歌
    • 1950年発表。小島情作詞 サトウハチロー補作詞 古関裕而作編曲 伊藤久男歌唱。
      1949年昭和24年)、中部日本新聞社が曲詩を一般公募。小島情の詩を第一等入選とし、中日ファンであったサトウの助力を受けて、巨人東急阪神の球団歌を手がけた古関により仕上げられた。翌1950年(昭和25年)3月21日、セントラルリーグ発足式で発表会が行なわれ、レコードが発売された。B面は、やはり名古屋の「名古屋タイムス社」一般公募による当選詩に藤浦洸の補作詞、古関作曲、「宝石の声をもつ」と讃えられた安西愛子の歌唱による「私のドラゴンズ」が収められていたが、中日、名古屋タイムス、両紙の関係が良好ではなかったため2曲とも歴史の闇に眠ったままであった。 (アナログLP盤「懐かしのSP盤黄金時代」(日本コロムビア) 曲目解説文・改)しかし、『ドラゴンズの歌』は2006年発売のアルバム『昇竜魂~ドラゴンズ70thメモリアルソングス~』に収録された。
  • 燃えよドラゴンズ!
    • 1974年にCBCラジオの企画で作られた応援歌。中日の代表的な応援歌であり、毎年選手の入れ換えとともに歌詞が変わる希有な応援歌でもある。詳細は同項を参照。
  • 夢は1001、ドラゴンズ
    1987年星野仙一監督の就任とともに『燃えよドラゴンズ!87』とともにリリースされた中日のイメージソング。
  • ドラゴンズに乾杯!
    1991年、『燃えよドラゴンズ!91』の発売と同時にリリースされた。『燃えよドラゴンズ』『少年ドラゴンズの歌』『燃えよガッツだドラゴンズ』『ダッシュだ!!ドラゴンズ』『夢は1001、ドラゴンズ』の流れを引き継ぐイメージソング。作詞作曲は山本正之、編曲は神保正明。
  • 勝利の叫び
    歌はドラゴンスターズ。
  • 嵐の英雄(ヒーロー)
    歌はドラゴンスターズ。

主なキャンプ地

キーワード

延長28回

1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)の試合は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言され試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった。

但し3Aも入れて見ると世界最長は1981年4月18日にポータケットで記録された、延長33回、8時間25分である。この時は日付変わって午前4時7分、延長32回サスペンデッドゲームが宣告され、同年6月23日に再開(サヨナラヒットにより1イニングで決着)されている。(史上2位はアメリカメジャーリーグの延長26回=1920年5月1日ブルックリン・ドジャースvsアトランタ・ブレーブス)。

  • 当時のスコアテーブル
チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 合計
名古屋軍 0 1 1 0 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4
大洋軍 0 0 0 0 0 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 4

2度も唯一を経験

中日ドラゴンズは1948年に自前の球場ナゴヤ球場(※1948年1975年までは中日スタヂアム)を完成させナゴヤドームに本拠地を移す前年の1996年まで本拠地として使用していたが本拠地球場がらみの災難をナゴヤ球場時代に2度経験している。1つ目は球場を火事で焼失。2つ目は球場の運営会社倒産の影響で本拠地消失の危機に陥ったことである。

前者は1951年の出来事である。初代の中日スタヂアムは木造作りだったが故にタバコの不始末によるボヤ騒ぎがしょっちゅうでセントラル・リーグ発足以降は連盟から改善命令を受けていた。その年の8月の対巨人戦の3回表頃にバックネット裏から出火、あっという間に燃え広がり全焼してしまった。おかげでチームは残りの主催試合を静岡県や神奈川県で行う羽目に。しかしこの火災直後に鉄筋コンクリート作りで再建が開始され、翌1952年には完成して支障を来たさずに済んでいる。(なお、1959年に発生した伊勢湾台風の時も、球場が水没したため一部の主催試合の会場を変更した事例がある)

後者は1973年1974年の出来事。中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社(株)中日スタヂアムが運営していたが1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見されたことにより倒産にいたっていたことが発覚(※ 倒産後同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件が発生したがこれは中日スタヂアム事件を参照されたい)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが債権者の同意を得て1974年1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と地元の中継権を持つ中部日本放送東海テレビ放送東海ラジオ放送、地元名古屋市の財界の雄トヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業)や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資して新たな運営会社、(株)ナゴヤ球場が設立され中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営していくのである。

変則ダブルヘッダー

人工芝が苦手だった

1976年後楽園球場人工芝が敷設されたが、中日はこの後楽園を大の苦手としていた。初戦の5月4日読売ジャイアンツに3-10で敗れると、そのまま7連敗。6月27日に9-9で引き分けて新生後楽園での初勝利は近いかと思われたが、その後5連敗し、結局この年は後楽園で全く勝てぬまま終わってしまった。

1977年4月2日に3-5で敗れるとそのままズルズルと負け続け、2年続けて後楽園では勝てないとファンを不安がらせたが、9月13日に6-5で勝ち(勝利投手松本幸行)、連敗を19で止めた。中日はナゴヤ球場では1976年は7勝6敗、1977年も後楽園の連敗ストップ時には4勝5敗1分けと、2年連続でリーグ優勝した読売相手に互角の勝負を演じていただけに、この連敗は大きな痛手となった。

初登板がノーヒットノーラン

1987年8月9日、ナゴヤ球場で開かれた巨人軍との対戦において、この年入団したばかりの近藤真一投手が初登板した。近藤は地元・愛知県の享栄高校のエース投手として活躍し、1986年のドラフト1位で入団。2軍での調整が続いたがこの日1軍公式戦に初登板。すると初完封はおろか、日本球界で史上初となる初登板ノーヒットノーランの偉業を達成した。

観客動員の発表

2005年から各球団がより透明性のある球団経営の定着を図るために、有料入場人員を実数で発表しているが、中日だけは実数に近い数値で発表するとしながらも、100人以下を切り捨てて発表している。これは中日主催ゲームのチケットが他球団の主催ゲームのように半券をもぎるスタイルではなく、チケットに入場を証明するスタンプを押す方式であるため正確な人数が把握できないためであった。2006年オープン戦からは他球団と同様1人単位までの実数発表に切り替えられている。

中日主催試合を中継する放送局

中日ドラゴンズ主催試合の放送権があるのはNHKと中京広域圏内で中日新聞社系列である民間放送のAMラジオ2局・テレビ4局のみで非中日新聞社系列である名古屋テレビ放送(メ~テレ)・中京テレビ放送岐阜テレビ・岐阜ラジオに放送権はなく、中日ドラゴンズ主催試合を中継できない(但し、系列がある阪神戦・横浜戦のビジターゲームは放送することもある。)。

なお、同じ中日資本のテレビ愛知も以前はホームゲームの中継が出来なかったが、現在は年数本が放送されている。また、岐阜テレビでは過去にCBCと提携し、CBCで中継できなかったホームゲームを中継したことがあったが、現在はしていない。また岐阜ラジオではスポーツニュースで中日ドラゴンズの結果を伝える際は「中日」とは言わず「ドラゴンズ」としてコメントするといわれている。

また、浜松、福井といった中京広域圏外での主催ゲームは、地元民放の中継がない。ただし浜松市近郊では、中京広域圏内の中日新聞社系列民放の豊橋局を受信することでゲーム視聴可。

サンデーユニフォーム

第二次星野監督時代の1998年、白地に星野の母校明治大学のイメージカラーである紫の縦縞でノースリーブのユニフォームを日曜日のナゴヤドーム限定で使用したが、安っぽいとの評価や着用した試合の勝率が余りに悪いことなどからわずか1年で廃止された。

ちなみに中日は1968年にもノースリーブのユニフォームを使用したことがある(ホーム用は白地で左胸に赤いDの飾り文字、ビジター用はグレー地に赤でChunichi)。この年最下位に沈んだこともあり、こちらもわずか1年で廃止されている。

映画の中のドラゴンズ

野球を扱った映画は数多くあるが、中日ドラゴンズを扱った映画として、1992年に公開されたアメリカの作品『ミスター・ベースボール』(Mr.Baseball、トム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)がある。ヤンキースから中日にトレードされたメジャーリーガーの活躍を描いた作品で、中日球団および地元テレビ局の全面協力の元、野球のシーンでは1992年当時の全国各地の本拠地球場で撮影、ナゴヤ球場での撮影ではのべ10万人以上もの名古屋市民がエキストラとして参加した。

日本では高倉健が内山監督役で出演したことで話題となった(ちなみにこの時に野球をあまり知らない高倉の相談役になったのが、福岡・東筑高校時代の後輩で当時近鉄監督を務めていた仰木彬である)。またチームメイト役では『メジャーリーグ』シリーズや『24』シリーズに出演しているデニス・ヘイスバートが、さらにはレオン・リー(元ロッテ)やアニマル・レスリー(元阪急)など日本でも活躍した往年のメジャーリーガーもゲスト出演している。

アメリカのフロリダ州にあるウォルト・ディズニー・ワールドの施設、ディズニー-MGMスタジオのアトラクション、「マジック・オブ・ディズニー・アニメーション」のツアーで「ドラゴン」の付く言葉として「チューニチ・ドラゴンズ」が映像と共に出てくる。

キッズドラゴンズ

中日ドラゴンズは、1997年から子供向けサイトとしてキッズドラゴンズというサイトを運営している。マスコットのペーパークラフトや、野球教室、さまざまなゲームがある。このようなサービスを行ったのは中日ドラゴンズが初。ほかにこのような試みをしている球団は読売ジャイアンツのキッズジャイアンツがある。

2006年優勝時の中継

巨人戦の視聴率低下の余波からか、2006年10月10日の優勝決定試合(対巨人戦・東京ドーム)では地上波テレビでの全国中継がないという事態が生じ、日本テレビとその系列局中京テレビに苦情の電話が殺到した。ただしNHKが急遽予定を変更してNHK-BS1での中継をしたため、スカパーCS放送に加入をしていないファンがみな当該試合を視聴できなかったわけではないが、放送が決まったのは当日のことであり、この日は新聞休刊日朝刊が休刊だったため、事前にこれを知ることができなかったという人もいた。

また、地上波ラジオではNHKラジオ第1放送が全国中継を、在京ラジオ局ではTBSラジオニッポン放送が中継を放送した。

関連項目

外部リンク

中日ドラゴンズ - 2007
0 金剛弘樹 | 1 福留孝介 | 2 荒木雅博 | 3 立浪和義 | 5 渡邉博幸 | 6 井端弘和 | 7 李炳圭 | 8 平田良介 | 9 井上一樹 | 11 川上憲伸 | 12 岡本真也 | 13 岩瀬仁紀 | 14 朝倉健太 | 16 佐藤充 | 17 川井進 | 18 中里篤史 | 19 吉見一起 | 20 中田賢一 | 21 樋口龍美 | 22 藤井淳志 | 23 鈴木義広 | 25 新井良太 | 26 小田幸平 | 27 谷繁元信 | 28 田中大輔 | 29 山井大介 | 30 石井裕也 | 31 森野将彦 | 32 中川裕貴 | 34 山本昌 | 35 上田佳範 | 36 平井正史 | 37 小山良男 | 38 斉藤信介 | 39 清水将海 | 43 小笠原孝 | 44 T.ウッズ | 45 森岡良介 | 46 デニー友利 | 48 沢井道久 | 49 マルティネス | 50 佐藤亮太 | 51 中村一生 | 52 春田剛 | 53 柳田殖生 | 54 鎌田圭司 | 55 前田章宏 | 56 中村公治 | 57 英智 | 58 石川賢 | 59 小川将俊 | 60 高江洲拓哉 | 61 久本祐一 | 62 普久原淳一 | 63 堂上剛裕 | 65 金本明博 | 67 高橋聡文 | 68 長峰昌司 | 69 小林正人 | 201(育成選手) 加藤光教 | 202(育成選手) 竹下哲史 | 未定(育成選手) チェン | 未定 堂上直倫 | 未定 福田永将 | 未定 浅尾拓也 | 未定 菊地正法 | 未定 岩崎達郎 | 未定 清水昭信 | 未定 西川明 | 未定 三澤興一 | 監督 落合博満 | 二軍監督 辻発彦 | 球団  |    編集
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