ロベルト・ペタジーニ
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ロベルト・ペタジーニ(Roberto Petagine , 1971年6月2日 - )はシアトル・マリナーズに所属していたベネズエラ出身のプロ野球選手。身長・体重 184cm/84kg、左投左打。ポジションは一塁手・外野手。
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[編集] 人物・来歴
日本ではヤクルトスワローズ、読売ジャイアンツに所属しており、両球団で主軸打者として安定した活躍をみせた優良助っ人外国人として有名である。ヤクルト時代は毎年、巨人の松井秀喜との本塁打王争いが注目された。グラウンド外では愛妻家としても知られ、25歳年上のオルガ夫人との熱愛ぶりは有名な話。元々オルガ夫人はペタジーニの友人の母で、少年時代に友人宅に遊びに行った時に初めて出会った。その友人はペタジーニよりも年上であり、従って義理の息子の方が年上というきわめて珍しい関係である。オルガ夫人は試合のみならず、巨人時代はキャンプにも同伴。ペタジーニ夫妻専用の宿舎が用意されるほどであった。巨人退団後の2005年には、メジャーリーグのボストン・レッドソックス傘下の3A、ポータケットと契約。同年8月にメジャーに昇格し、8月5日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では『4番・一塁手』で先発出場した。2006年、招待選手を経てシアトル・マリナーズとマイナー契約。WBC日本代表がマリナーズ(当時招待選手)と練習試合を行ったときホームランを打っている。また、開幕戦ではフランシスコ・ロドリゲスから代打ホームランを打って首脳陣にアピールし、貴重な左の控えとしての地位を勝ち取った。しかしシーズン中にマリナーズを解雇された。
[編集] ヤクルト(現:東京ヤクルト)時代
- 1999年 来日一年目から打率.325、44本塁打、112打点の成績でセ・リーグ本塁打王獲得。
- 2000年 打率.316、36本塁打、96打点の成績。
- 2001年 打率.322、39本塁打、127打点の大活躍でチームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。MVP・本塁打王・打点王を受賞。
- 2002年 打率.322、41本塁打、94打点の成績。
2002年の8月中旬以降、阪神タイガース戦と横浜ベイスターズ戦で本塁打の直後の死球(米国ではタブーとされる)を立て続けに3度も受ける。半月の間に計4度も死球を受けながら全く報復を行ってくれないチーム方針に不満を抱き、自ら交代を要求してベンチに下がった後、試合終了を待たずに無断帰宅するなど首脳陣やフロントとの確執が表面化し、高年俸もネックとなってオフにヤクルトを退団した。尚、この当時は表向き日本最高年俸だった松井秀喜に配慮してか、ペタジーニの推定年俸は4億5千万円とされていたが、実際には600万ドル(当時のレートで7億2千万円)を支払っていた事を退団後にヤクルト球団が公表した。 この最強助っ人を巡って資金力豊富なセリーグの人気4球団が史上稀に見る大争奪戦を繰り広げるも、出来高を含まない球団側の公称年俸で約7億円(中日が2年間で出来高を含む総額約26億円を提示したとも報道されていた事から、一説には2年間で30億円とも噂されている)の2年契約を提示をした巨人に移籍。
[編集] 巨人時代
- 2003年 巨人では慣れない外野手としての起用。膝の故障の影響で出場は100試合にとどまるが、打率.322、34本塁打、81打点の成績を残す。
- 2004年 本来の一塁に戻り、117試合に出場し打率.290、29本塁打、84打点の成績を残したものの、持病の膝痛(膝に水が溜まる持病)と高年俸などが響き翌年のチーム構想から外れ同年限りで日本球界を去った。
- 巨人時代はヤクルト時代のペタジーニじゃないという意味から「ジーニ」と呼ばれていた(原辰徳監督が命名)。また、リストバンドもヤクルト時代の赤から変更したチームカラーのオレンジにも「GINE」の文字刺繍が入っていた。なぜか巨人ではまず着用する選手がいない(ただし巨人時代の清原和博などが練習時に着用していたことがあった)中でオレンジのリストバンドを着用した外国人選手はおそらくペタジーニが初と思われる。
[編集] 獲得タイトル
- MVP 1回(2001年)
- 最多本塁打 2回(1999年、2001年)
- 最多打点 1回(2001年)
- 最高出塁率 2回(1999年、2001年)
- 最多勝利打点 1回(1999年)
- ベストナイン(一塁手部門) 4回(1999年~2002年)
- ゴールデングラブ賞(一塁手部門) 3回(2000年~2002年)
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第68代
-
- 先代:
- ドミンゴ・マルティネス
- 次代:
- 小久保裕紀