駒田徳広
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駒田 徳広(こまだ のりひろ、1962年9月14日 - )は、奈良県磯城郡三宅町生まれの元プロ野球選手。左投げ左打ちの一塁手、外野手。読売ジャイアンツと横浜ベイスターズに選手として所属した。
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[編集] 来歴・人物
- 1980年 - 桜井商からドラフト2位で巨人に投手として入団。これは巨人側が、その長身と左投げゆえ投手としての可能性を考えた為である。しかし高校時代は打球の飛距離の凄さに校内放送で「今から駒田君が打撃練習に入ります」という警告を促す放送があったり、強豪天理高戦で満塁なのに敬遠されるなどその打棒にむしろ注目が集まっていたため、入団後は打者転向に取り組み、強打好守の外野手として期待される。
- 1983年 - 3年目のこの年、4月10日の対大洋(現・横浜)戦 (対戦投手・右田一彦投手)(後楽園球場)において、史上初の初打席満塁本塁打で1軍デビュー。背番号50の駒田を筆頭に吉村禎章(背番号55)、槙原寛己(同54)の3人は「50番トリオ」と呼ばれ巨人の新時代の主力と期待される。
- 外野と一塁を兼任しながらレギュラーメンバーの故障離脱を縫うように出番を増やし、1987年後半松本匡史から外野のポジションを奪取。以降、打率3割、2桁本塁打を期待できる中距離打者として活躍。当時の打線の都合上7番を打つことが多く、恐怖の7番打者と言われる。
- 1989年 - このシーズン途中で中畑清のサードコンバートで一塁が空き、レギュラー獲得。以降一塁手のレギュラーに定着(但し1992年のみアキレス腱痛の原辰徳に一塁を譲り右翼手)。
- 1993年 - この年のオフ、中日ドラゴンズの落合博満がFA宣言して巨人へ入団する事が濃厚となり、FA宣言して横浜へ移籍。なお、FAで巨人を退団し国内の球団へ移籍したのは2006年の小久保裕紀(福岡ソフトバンクホークスに移籍)まで現れなかった。横浜は駒田の獲得費用を捻出するために、1980年代の看板選手であった高木豊や屋鋪要を含む6人ものベテラン選手を解雇している。
- 横浜移籍後は堅実な1塁守備による内野守備力の底上げ、「マシンガン打線」に数少ないゲームメイクできるタイプのバッターとしてチームを支え1998年のリーグ優勝に貢献する。1998年の日本シリーズでも優勝を決めた第6戦(横浜スタジアム)で、西武ライオンズ・西口文也から決勝タイムリーを放ち、シリーズ優秀選手に選ばれた。
- 2000年 - 通算2000本安打と2000試合出場を達成。しかし権藤博監督と選手の確執などが元で6月頃から駒田の途中交代が多くなる。結果2000本安打を達成するも精彩を欠き、球団から戦力外通告を受ける。駒田はまだ現役への意欲が強く移籍先を探すが、年俸と年齢がネックとなり獲得を希望する球団が現れなかったため引退。
- 2001年 - この年からニッポン放送の野球解説者を務め、翌年からはテレビ東京にも出演。
- 2005年 - 新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスの打撃コーチに就任する。当初は1軍担当だったが成績不振のため4月30日付を持って2軍コーチ降格となり、シーズン終了後に退団。
- 2006年 - 再び野球評論家としてテレビ東京を中心に、TVK、東北放送にも出演。
- マスターズリーグでは、東京ドリームスの4番打者として活躍している。
- FAで巨人を出たものの、テレビ番組に出る際は巨人のユニフォームで登場する。
[編集] エピソード
長身で、頑丈な体であり、怪我による戦線離脱が少ないことも特徴であった。現役の間、シーズン全試合出場は8度(1990年~1992年、1994年~1998年)。途中1993年は不調を理由に出場機会を与えられない事があり、これがシーズンオフのFA移籍につながったとも言われている。
満塁時には無類の強さを発揮し満塁男の異名を持つ。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打は歴代3位の13本(13本中、横浜在籍時に8本。1994年~1999年までの6年間、毎年満塁本塁打を放つ)を記録した。
また一塁守備における捕球技術の高さにも定評があった。ファールゾーンのフライの捕球は苦手で、日本テレビの人気番組「笑点」のお正月スペシャルに出演した際、自らのことを「オレはフライの落球王」と呼んで笑いを取っている(実際には元々強打の中堅手として期待され、一時期右翼手を任されるような柔軟さを持っている)。
1989年の日本シリーズにおいて、対戦相手の近鉄バファローズ・加藤哲郎投手が「巨人は(パ・リーグ最下位の)ロッテより弱い」と発言した(※)ことに激怒。最終第7戦で加藤からホームランを放ち、マウンド上の加藤を「バ~カ!」と罵ってダイヤモンドを一周したことは巨人ファンの語り草となった。 ※実際には「パ・リーグのシーズンゲームのほうが(比較的)きつかった」と、いうような趣旨の発言だったが、それが歪曲されて報道された。ただし、ネット裏のインタビューでは「パ・リーグ最下位のロッテ戦よりもですか?」の問いに「そうですね」と相槌を打ったらしい。 駒田自身は「そんなことがロッカー裏で着替えながら聞こえるはずが無いし腹も立たなかった。誇張されるようなことを言った時点で近鉄の負けだっただけ」と突き放した目でコメントしている。
横浜に移籍した1994年の夏頃から、元大洋ホエールズのジョン・シピンよろしく、ヘルメットを被って一塁守備に付いた時期があった。本人は「目立ちたいから」と説明していたが、実際は巨人からやってきた駒田を快く思わない一塁側スタンドの横浜ファンからの投げ込みに対する「無言の抗議」であったと言われる。しかし、それがかえって観客をあおる結果になって、さらに彼に対しての物の投げ込みが激しくなったという。結局、程なくしてヘルメット着用と「無言の抗議」はやめ、投げ込みや野次には自らも怒号で応じるようになった。野球4コマ漫画家やくみつるなどの過度のバッシングもこの時期である。
巨人時代はかつて巨人に在籍したトマソンをもじって「コマソン」とも呼ばれていた。駒田に近い人間は駒田本人の名前から「駒」とか「ウマ」とか言っていた。
プロ入り後、1989年頃まで「こまだ とくひろ」で選手登録されていた。子供の頃から親にも「とく」と呼ばれていたために、本人も自分の名前は「とくひろ」だと認識していた。しかし、結婚するために戸籍謄本を取得したところ、戸籍謄本に記載されていた本名は「こまだ のりひろ」。驚いて親に確認したところ、「(のりひろで)提出したかもしれない」との返答だったそうで、親自身も「のりひろ」で出生届を出したことを忘れ、「とくひろ」だと思い込んでいたらしい。
1989年に最初の妻と婚姻したが一年ほどで離婚(奥さんが黒人の子供を身ごもり出産した事が原因という都市伝説は事実ではない)。現在の夫人である美佳子夫人と知り合うきっかけは、夫人が熱狂的な駒田ファンで、新人時代から常に一塁側のスタンドの最前列に陣取り、絶叫しているうちにグラウンド上の駒田に気がつかれるようになった為である(TBS系「金曜日のスマたちへ」に美佳子夫人が出演し、発言)。
1989年の優勝時後のビールかけで水中メガネを使用した第1号である。
[編集] 通算成績
- 2063試合 打率.289(6941打数 2006安打) 195本塁打 953打点 35盗塁 582四死球 1113三振 810得点
- ベストナイン1回(一塁手 1998年)、ゴールデングラブ賞10回(一塁手 1989-1991年、1993-1999年)
[編集] 背番号
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第52代
-
- 先代:
- 呂明賜
- 次代:
- 吉村禎章
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