黒沢俊夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒沢 俊夫(くろさわ としお、1914年6月10日 - 1947年6月23日)は、大阪府出身の元プロ野球選手(外野手)。左投げ左打ち。174cm、68kg。当時の表記は「黒澤 俊夫」。
旧制大阪府立八尾中学校から旧制関西大学へ進学。1936年、名古屋金鯱軍に入団し春季大会より参加。1941年に名古屋金鯱軍が翼軍と合併したため、合併球団の大洋軍→西鉄軍へ移籍。1944年には人員不足のため供出選手として東京巨人軍へトレード移籍。この1944年、1946年は主軸打者として活躍した。俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させている(歴代1位は与那嶺要の11個)。
1947年のシーズン中、腸チフスを発病し6月23日に急死(享年33)。現役選手のまま病死するという異例の事態に球団は球団葬を行った。黒沢の着けていた背番号4は読売ジャイアンツの永久欠番。黒沢の欠番については、ほとんどの主力選手を軍隊に取られた戦時下の巨人に球団史上初のトレードで移籍後、4番を打ち、戦後も病に倒れるまで5番・6番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉茂を中心とする選手有志が提案し、沢村栄治と共に欠番になった。黒沢が遺言として「自分が死んだら、巨人軍のユニフォームのまま葬って欲しい」と残したとも言われる。また永久欠番の理由の一つとして、前述の通り本塁への盗塁が多いことも考慮されたと言われる(一部野球ファンからは「ホームスチールの神様」と呼ばれている)。
2006年、東京ドームに永久欠番のプレートが掲示された時、親類者を捜索したが見つからず、関係者不在でのセレモニーとなった。
[編集] 通算打撃成績
- 通算試合 484試合
- 通算打率 .259
- 通算安打 459本
- 通算本塁打 7本
- 通算打点 201打点
- 通算盗塁 80盗塁
- 通算犠打 19個
- 通算犠飛 2本(1940年のみ公式記録集計)
- 通算四球 301個
- 通算死球 4個
- 通算三振 135三振
- 通算併殺打 集計以前
[編集] 関連項目
- 読売ジャイアンツ4番打者
- 第14代
-
- 先代:
- 川畑博
- 次代:
- 小松原博喜
カテゴリ: 日本の野球選手 | 名古屋金鯱軍の選手 | 西鉄軍及び大洋軍の選手 | 読売ジャイアンツの選手 | 1914年生 | 1947年没