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長嶋茂雄 - Wikipedia

長嶋茂雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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長嶋 茂雄ながしま しげお1936年2月20日 - )は、千葉県佐倉市出身のプロ野球選手プロ野球監督。現役時代のポジションは内野手。右投右打。

目次

来歴・人物

高校野球界では無名の高校出身であったが、練習試合で訪れた埼玉県熊谷市内の球場で、その素質をプロスカウトに見いだされてはいた。 1954年から1957年まで東京六大学野球立教大学の選手として活躍。

1958年1974年までプロ野球チームの読売ジャイアンツ(以下、巨人と記す)で三塁手としてプレイした。現役時代は読売の中心選手として活躍した。背番号3は巨人の永久欠番のひとつである。

現役引退後、1975年から1980年まで(背番号90)と、1993年から2001年まで(1993年~1999年は背番号33、2000年・2001年は背番号3)に巨人軍の監督を務めた。2001年より、株式会社よみうり専務取締役・読売ジャイアンツ終身名誉監督に就任した。

2002年2004年アテネオリンピック野球日本代表チーム監督に就任したが、2004年に脳梗塞で倒れて指揮することを断念した為、その後は中畑清ヘッドコーチ(肩書きはそのまま変わらず)に指揮を託した。

愛称は「ポチ」「チョーさん」「シゲ」「ミスタージャイアンツ」「ごまぞう」「父さん」。東京のマスコミは、「ミスタープロ野球」もしくは単に「ミスター」と呼ぶこともある。『ミスター大満足』と東京のスポーツ新聞の見出しにあれば、長嶋茂雄が大いに満足したという意味である。

1959年、石原裕次郎(故人)が歌った長嶋の応援歌「男の友情背番号・3」が発売された。2000年には「ミレニアム・バージョン」として再発されている。

※1993年の2度目の監督就任以前、「長島」あるいは「長嶋」と姓の表記が揺れていた。この項での表記は長嶋に統一する。

愛車はメルセデス・ベンツSクラス、送迎車はクラウン

略歴

年度別成績

(表中の太字は年度リーグ最多記録、また試合数においては全試合出場)

年度 試合数 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 四死球 三振 打率
1958年 130 502 89 153 34 8 29 290 92 37 41 53 .305
1959年 124 449 88 150 32 6 27 275 82 21 74 40 .334
1960年 126 452 71 151 22 12 16 245 64 31 70 28 .334
1961年 130 448 84 158 32 9 28 292 86 14 89 34 .353
1962年 134 525 69 151 38 5 25 274 80 18 56 61 .288
1963年 134 478 99 163 28 6 37 314 112 16 89 30 .341
1964年 133 459 81 144 19 6 31 268 90 13 101 34 .314
1965年 131 503 70 151 23 5 17 235 80 2 52 42 .300
1966年 128 474 83 163 31 3 26 278 105 14 61 39 .344
1967年 122 474 65 134 25 3 19 222 77 2 38 37 .283
1968年 131 494 80 157 21 4 39 303 125 8 69 40 .318
1969年 126 502 71 156 23 2 32 279 115 1 40 58 .311
1970年 127 476 56 128 22 2 22 220 105 1 40 52 .269
1971年 130 485 84 155 21 2 34 282 86 4 61 45 .320
1972年 125 448 64 119 17 0 27 217 92 3 64 34 .266
1973年 127 483 60 130 14 0 20 204 76 3 38 35 .269
1974年 128 442 56 108 16 1 15 171 55 2 29 33 .244
通算成績 2186 8094 1270 2471 418 74 444 4369 1522 190 1012 729 .305

タイトル・表彰

首位打者 6回 1959年-1961年1963年1966年1971年
最多安打 10回 1958年-1963年、1966年、1968年1969年、1971年
最多本塁打 2回 1958年、1961年
最多打点 5回 1958年、1963年、1968年、1969年、1970年
新人王
1958年
MVP 5回 1961年、1963年、1966年、1968年、1971年
ダイヤモンドグラブ賞 2回 1972年-1973年
日本シリーズMVP 4回 1963年、1965年、1969年、1970年
ベストナイン 17回 1958年-1974年
  • 入団した年から引退した年までベストナインを受賞し続けたのは、日本球界では長嶋のみである。

監督としてのチーム成績

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム本塁打 チーム打率 チーム防御率
1975年 6位 130 47 76 7 .382 27 117 .236 3.53
1976年 1位 130 76 45 9 .628 - 167 .280 3.58
1977年 1位 130 80 46 4 .635 - 181 .280 3.48
1978年 2位 130 65 49 16 .570 3 136 .270 3.61
1979年 5位 130 58 62 10 .483 10.5 154 .259 3.85
1980年 3位 130 61 60 9 .504 14 153 .243 2.95
1993年 3位 131 64 66 1 .492 16 105 .238 3.22
1994年 1位 130 70 60 0 .538 - 122 .258 3.41
1995年 3位 131 72 58 1 .554 10 139 .252 3.40
1996年 1位 130 77 53 0 .592 - 147 .253 3.47
1997年 4位 135 63 72 0 .467 20 150 .251 3.69
1998年 3位 135 73 62 0 .541 6 148 .267 3.74
1999年 2位 135 75 60 0 .556 6 182 .265 3.84
2000年 1位 135 78 57 0 .578 - 203 .263 3.34
2001年 2位 140 75 63 2 .543 3 196 .271 4.45
通算成績 1982 1034 889 59 .538        
※1 太字は日本一
※2 1975年から1996年までは130試合制
※3 1997年から2000年までは135試合制
※4 2001年から2004年までは140試合制

プロ入り以前

東京六大学野球での活躍

幼少時代、藤村富美男のプレーを見て野球を志す。当時は阪神ファンだったと言う。千葉県立佐倉第一高校(現:佐倉高校)から立教大学に進む。野球部では砂押邦信監督の下、猛練習を重ね、正三塁手となる。同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、同じく主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)とともに「立教三羽烏」と呼ばれた。

長嶋は東京六大学野球において1956年春季・57年秋季には首位打者を獲得。また55年秋季から57年秋季まで5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれている。57年、六大学リーグの通算記録となる8本塁打を放つ。プロ入りが確実視されており、特に大学の先輩大沢昌芳の所属する南海ホークス鶴岡一人監督は、大沢を通じて熱心に長嶋と杉浦に多額の栄養費を渡すなどして勧誘していた。同じ頃広島カープも長嶋を広島観光に誘うなど獲得を希望するものの、プロ入り時は長嶋、杉浦とも南海でほぼ決定していた。特にプロ入りに熱心でなかった杉浦を南海に誘ったのは、長嶋であった。しかし長嶋は直前で一転、巨人入団を決め、11月20日契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」、契約金は当時最高額の1,800万円であった。長嶋は当初、杉浦と共に南海に入ることを希望していたが、巨人や周りのマスコミが当時大学野球のスターだった長嶋は、巨人に入るものだと決め付け長嶋自身に圧力をかけたため、長嶋は巨人に行かざる得なかったと言われている。 長嶋は、立教大学の合宿所の食堂で、杉浦に南海行きを断ることを告白した。しかし杉浦はそのまま南海に入団。また、長嶋は鶴岡にオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪している。 このとき鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。

プロ入り以後

新人時代

長嶋は、東京六大学リーグでの活躍もあり、「ゴールデンボーイ」あるいは「ハリケーン」とあだ名され、入団時から活躍が大いに期待されていた。1958年4月5日、開幕戦である対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場して公式戦デビューを果たすが、国鉄のエース金田正一投手に4打席連続三振を喫した。しかし、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。ちなみに、初出場の試合で金田正一に全打席三振を喫するというのは、王貞治も同じである。また、長嶋は翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。

しかしシーズン途中から川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。最終打撃成績は、本塁打29本、打点92を記録し二冠王。打率は、大阪タイガース田宮謙次郎と首位打者争いをするが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的には2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。なお、この年の9月19日に行なわれた対・広島戦(後楽園)で長嶋は一塁を踏み忘れて、本塁打を1本取り消されている(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「3割・30本・30盗塁」の記録が達成されていたことになるが、息子・一茂が記録したセ・リーグ通算3万号は「30001号」になっていた。

天覧試合

1959年6月25日、後楽園球場で行なわれた対阪神戦は、日本プロ野球史上初の天覧試合天皇が観戦した試合、当時は昭和天皇)であった。長嶋は4対4で迎えた9回裏、阪神の2番手村山実投手からサヨナラホームランを放った。村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、この試合では新人王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。

ON(オーエヌ)砲

1962年、王貞治が本塁打王、打点王のタイトルを獲得して以後、長嶋は王とともに巨人の中軸打者としてON砲と称された。これは米メジャーリーグニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王・4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番・王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。前述の王のタイトル獲得以後、長嶋が最後にタイトル(首位打者)を獲得した71年までの10シーズンで、両者の獲得した打撃3部門(打率・本塁打・打点)のタイトルの合計は26であり、その間2人で前記3タイトルを独占したことが6回ある。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇したが、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。他に秋山幸二清原和博AK砲が有名。

長嶋の守備

プロ選手としての長嶋は、その打撃力のみならず三塁手としての守備も注目された。長嶋はライン際の打球の処理に難点があるため、欠点をカバーすべく三塁線に近く、そして深めに位置していた。そのため、長嶋とコンビを組む遊撃手(初期には広岡達朗、のちに黒江透修)は長嶋の分まで守備範囲を広めにとっていた。しかし長嶋は、時に通常の守備範囲を超え、本来であるならば遊撃手が捕るべき打球にまで反応し、猛烈なダッシュとともに捕球を試みる場合も多かった。

イージーゴロにさえ鋭いダッシュをみせる長嶋の守備は、プロ経験者からは「簡単なゴロを難しく見せる」と評された。一方、フライ飛球などは「見せ場がない」と、遊撃手に任せるということもしばしばあった。それゆえ、当時から守備の堅実さでは三宅秀史(同時代のタイガースにおける正三塁手)に軍配を上げるファンや解説者も少なからずいた。しかし、長嶋の派手なアクションをまじえた守備は、トンネルなどの単純なエラーですら、多くの観客に喜ばれた。

長嶋の功績

1970年前後に秋田書店などから、多く発刊された子供向けの野球入門書の表紙は、ほぼ全部長嶋茂雄である。監修が村山実のものも表紙は長嶋である。プロ野球=長嶋茂雄と言う当時の長嶋の絶大な人気が窺える。当時メキシコオリンピックで日本サッカーが銅メダルを獲った事もあり、サッカーの時代の到来が噂されたが、数十年間そうなることはなく野球は人気を維持し続けた。近年はスポーツの多様化で野球人気凋落と言われるが、ここまで半世紀以上もの間、野球が人気スポーツとして栄えてきたのは、長嶋茂雄の功績と言っても過言では無いだろう。

不振と引退

1971年に6度目の首位打者を獲得して以後、長嶋はかつてのような活躍を見せなくなる。打席数を増やすことで不振を克服しようと考えた川上監督は、長嶋の打順を1番にするなどの対策をとったが、衰えは明らかであった。また、14年務めた川上の後継者としての期待もあり、コーチを兼任するなど、現役引退後の進路も定まった。

1974年10月12日中日ドラゴンズの優勝が決まり、巨人の10連覇が消えると、長嶋は現役引退を表明した。翌々日の10月14日、後楽園球場で行われた優勝したドラゴンズとのダブルヘッダーの第1試合で、長嶋はホームランを放つ。これが現役最後のホームラン(通算444号)である。また、大卒での通算2471安打は日本最多記録であり、この先これを抜く選手はなかなか出ないであろうとも言われている。 第2試合の最終打席はショートゴロ(ダブルプレー)であった。引退セレモニーでは「わが巨人軍は永久に不滅です」という、あまりにも有名な言葉を残した。

第1期監督時代

クリーン・ベースボール

1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。川上流の緻密な用兵と作戦重視のスタイルではなく、投・打の力量差がそのまま勝敗につながることを理想としていることを端的にあらわした言葉である。それゆえ、川上監督時代のスタッフはほぼ一掃された。また、巨人としては初めて、非日系の外国人選手であるデーブ・ジョンソン内野手を獲得し、自らの後継三塁手とした。長嶋は自らの背番号を「90」に変更し、現役時代の「3」は永久欠番となった。この「90」の由来は、息子・一茂が「現役のときは3つの3ががあった(ルーキー時代の打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9。これに0を付け加えて90番にしたら?」と助言したからである。しかし、迎えた1975年のシーズンは長嶋の構想が裏目に出て、球団創設以来初の最下位に終わった。そのため、オフには日本ハムファイターズから「安打製造機」と呼ばれた張本勲を獲得。外野手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。その結果、翌1976年、1977年と優勝を果たすが、日本シリーズではともに阪急に敗れた。同年、ヤクルトから倉田誠投手との交換で浅野啓司投手を獲得した。

江川事件

1977年オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とするなど、さらなる強化策を図った。しかし1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、いったんは首位に立つものの力尽き、結局、広岡監督率いるヤクルトにペナントを奪われた。長嶋が巨人に入団した当時の監督であった水原茂は、ヤクルトの優勝が確定的となった10月1日、テレビ朝日のニュース番組「こちらデスク」の放送中、「長嶋は野球を知らないのではないか」と、長嶋の監督としての手腕を批判した。巨人OBによる長嶋の采配に対する批判が、公の場でなされたのはこれが初めてであった。江川卓の入団をめぐって騒動(江川事件)がおきたのはこのシーズンのオフのことである。

エース小林繁を江川の代わりに阪神へトレードに出した1979年は5位に終わり、長嶋は若手を率いて静岡県伊東市で秋季キャンプを行なった。このキャンプでは中畑清篠塚利夫定岡正二らが成長株として、このシーズン限りで引退した土井正三や、衰えが見えてきたV9時代の主力選手の後継者として期待された。また、このオフには張本がロッテオリオンズに放出され、ニューヨーク・ヤンキースでプレーしたロイ・ホワイト外野手を獲得した。ホワイトは張本に代わり、1980年のシーズン中には40歳を迎える王とともに打線の中軸を担う人材として期待された。スタッフでは、長嶋の理解者であるOB青田昇をヘッドコーチに招請するなど、チーム再建を企図した。しかし青田は週刊誌のインタビューで、暴力団と自身の交際を認めるような発言をしたため問題となった(青田舌禍事件)。この責任を取り青田はシーズン前に辞任する。

長嶋解任劇

この頃(1980年前後)になると長嶋の采配が「カンピューター野球」(論理的に説明することができない、長嶋独自の勘・ひらめきによる野球)と揶揄されることも通常の事となり、また、OBによる批判も数多く出るようになった。前監督である川上が、週刊文春の座談会で長嶋の後継監督について語ったことは、長嶋批判の象徴的な出来事であったと言えよう。また、王の衰えも明らかであり、チームの成績は芳しくなかった。長嶋の指揮する巨人の低迷を憂慮した務台光雄読売新聞社幹部は、1980年のシーズン終了前には長嶋の監督解任を決断した。10月21日に行われた記者会見で長嶋は「男のけじめ」と、みずから不振の責任を取り辞任することを表明したが、自身が「辞任」を知らされたのは、会見の直前のことであったという。解任が発表されると、一連の読売新聞社および巨人の措置に激怒した一部のファンによる、読売新聞・スポーツ報知の不買運動が起きた。

第2期監督時代

監督復帰以前

長嶋以後、故藤田元司1981年1983年1989年1992年)、王(1984年1988年)が監督に就任し、リーグ優勝5度、日本一も2度達成するが、プロ野球全体、そして巨人の人気は低下していった。V9時代の巨人にはじまり、そのOBである広岡や森祇晶などにより確立されたシステマティックな野球は管理野球(長嶋の前任者だった川上監督時代の流れを汲む野球)と評され、かつての長嶋のように個人技が際立つということがみられなくなったことによる人気の低下と考えられよう(もっともこの説を盛んに唱えていたのは、主に長嶋シンパの球界OBやマスコミ関係者であったが)。

そのような状況の下、長嶋の現場復帰待望論があらわれた。長嶋待望論は、1980年以降何度となく沸き起こった。たとえば1981年オフ、土井淳監督辞任後の大洋監督就任説(関根潤三が就任)、1984年オフに立教の先輩である大沢の後任として日本ハム監督就任が噂され(高田が就任)、1985年オフに広岡の後任として西武監督就任が観測されたり(森が就任)、1986年オフ、土橋正幸監督辞任後のヤクルト監督就任が噂されたり(関根が就任)、1989年の関根監督辞任後のヤクルト監督候補にも祭り上げられたり(野村克也が就任)、1990年上田利治監督辞任後のオリックス監督就任説(土井正三が就任)がささやかれた。しかし、長嶋本人はそれらの噂に対しすべて否定するか、あるいはノー・コメントを貫いている。

復帰・日本一

Jリーグの創設を翌年に控えた1992年には、巨人は2位でシーズンを終了、2年連続で優勝を逃したこともあり、国民的スポーツとしての野球を再活性化するためのキャラクターとして長嶋の復帰が求められた。読売グループ内の事情を考えても、長嶋の復帰を阻む最大の障害であると考えられていた務台光雄1991年に死去し、現役時代から親交のある渡邊恒雄が読売新聞社社長に就任したことが、長嶋の監督再就任を容易にした。ふたたび現場に復帰することとなった長嶋の新しい背番号は「33」(3を2つ合わせたもの)となり、同年のドラフト会議において当時、星稜高等学校松井秀喜(現:ニューヨーク・ヤンキース)を引き当てた。

監督に復帰した長嶋は現役大リーガーだったジェシー・バーフィールドを入団させるなど、チーム再建を期待されたが、1993年は3位に終わった。そのオフ、フリーエージェント制度が導入されると、中日ドラゴンズから落合博満を獲得した。翌1994年には中日と同率で最終戦(対中日戦)を迎え、リーグ優勝を果たす。なお戦前、長嶋はこの試合を「国民的行事」とコメント。後に「10・8」と語り継がれる名試合となった。 さらには、西武ライオンズを下して長嶋監督の指揮では初めて日本一となった。その後も1996年には最大11.5ゲーム差をつけられた広島を逆転しリーグ優勝し「メークドラマ」を築きあげる。しかし、日本シリーズでは仰木彬監督率いるオリックスに1勝4敗で敗れた。

監督晩年

この間長嶋は監督にとどまり続けるが、シーズンオフになるたびに後継監督候補として、堀内恒夫や森、江川などのOBの名が取りざたされた。しかし、長嶋本人が解任されることはなく、それに代わるように、コーチ陣の入れ替えがなされたのは、成績不振の責任を取らせるとはいえ、処理を誤れば、1980年のように不買運動が起こることを読売本社は恐れたからであると観る向きもあった。

2000年には、FAで獲得した江藤智内野手に背番号「33」を譲り、長嶋は現役時代の背番号「3」を25年ぶりにつけた。当初、この背番号「3」を長嶋は、ユニフォームの上に上着を着て、マスコミ・ファンには隠していた。世間の背番号「3」の長嶋が見たいという気運が高まった頃にユニフォームを公開し、当時、話題性に欠けていたチームの話題作りに大いに貢献した。この年、長嶋率いる巨人は前述のとおり2度目の日本シリーズ制覇を達成した。翌2001年はヤクルトとの優勝争いをするも力尽き、この年をもって監督業から勇退。9年間の監督生活にピリオドを打った。長嶋の勇退および原辰徳ヘッドコーチを後任の監督とする発表がなされた記者会見で、記者の「あなたにとって野球とは何ですか?」という質問に長嶋は、「野球というスポーツは人生そのものです」と答えた。

オリンピック日本代表監督と闘病生活

2002年アテネオリンピック出場を目指す野球日本代表チームの監督に就任。2003年11月に行われたアジア選手権で中国台湾韓国に勝利して優勝し、オリンピック出場が決定したが、2004年3月、長嶋は脳梗塞で倒れた。長嶋が現地アテネで指揮を執る姿を見る事は叶わぬ夢となった(その代理として後輩である中畑清ヘッドコーチが肩書きはそのままにチームの指揮を執り、銅メダルに輝いた)。

2004年6月16日、長男の一茂に双子の女児が産まれた。長嶋にとっては初孫である。

2005年には東京ドームに野球観戦に行き、また2006年現在、少年の野球教室に飛び入りで参加するなど、リハビリの成果もあって少しずつ活動を再開している。また2006年には三菱UFJ信託銀行のコマーシャルに、一茂共々親子出演。(撮影は発病以前のもの)

その他

長嶋の子女

主演映画

1964年2月12日には主演映画ミスタージャイアンツ 勝利の旗』(佐伯幸三監督・東京映画製作・東宝配給)が公開された。球団創立30周年記念映画として、63年のシーズンと日本シリーズにおける長嶋の活躍を、実際の試合映像とサイドエピソードのドラマ(フィクション)を重ねて描いた作品である。プロ野球からは長嶋のほか、川上監督以下、主将の広岡、藤田、王、柴田勲など主力選手や、日本シリーズで対戦した西鉄ライオンズの中西太(三塁手兼監督)が出演した。また、フランキー堺(巨人の広報役)、三木のり平(西鉄の広報役)、伴淳三郎(野球好きのタクシー運転手役)、淡島千景(山ごもりの宿の女将役)が助演し、また当時の映画スターが多数カメオ出演した。主題歌は坂本九が歌い、映画のクライマックスではアイ・ジョージが、この年制定された球団応援歌「闘魂こめて」を、作曲者古関裕而の指揮により歌った。

出演CM

ラジオ番組

  • 「TOYOTAメイクハッピー・ようこそ!長嶋茂雄です」(ニッポン放送

音楽作品

長島茂雄球場

長嶋は浪人(スポーツ報知日本テレビ放送網客員解説者)時代、日本トライアスロン連盟の会長を務め、毎年熊本県天草で開かれたトライアスロン大会のスターターを担当していた。その縁から大会のスタート地点である本渡市(現:天草市)にある市営広瀬球場(1989年完成)を、1991年に長嶋茂雄球場に改称して長嶋の業績を称えることになった。

長嶋語

長嶋の会話における語法は、長嶋語と呼ばれ、以下の特徴が認められる。

  1. 外来語の多用、混用。例:攻撃→オフェンス、守備→ディフェンス、「鯖」いう字は魚偏に青→魚偏にブルー、など。ただし、日本シリーズの事は「選手権」と呼ぶ。
  2. 「うーん」「ええ」「いわゆる」「ひとつの」「ややもすると」など、間投詞、修飾語句、接続詞の多用。「ひとつの」は英語の不定冠詞 a の転用とも考えられる。
    例:「うーん、どうでしょう、いわゆる4番打者というのはですね、ひとつの期待を担っているわけですから、それだけプレッシャーがかかるわけで、ややもするとスランプに陥ると、そういうことも考えられるわけですね、ええええ
  3. 同じ意味の表現を言葉を変えて展開する二重表現の事例も多い。
    例:「オールスターという夢のドリームゲーム」、「1年目のルーキー」、「今年初めての開幕戦」、「体験を経験」、「疲労からくる疲れ」、「秋の秋季キャンプ」、「始まりのスタート」、「バースデー誕生日」、「打率のパーセントテージ」、「ブルーな青空」など
  4. 60歳になった感想を求められて「初めての還暦」(120歳で二度目の還暦=大還暦を迎えるため誤りではない、のだが)、続けて「ましてや年男」(還暦を迎える年には必ず年男となる)。
  5. はなわに「佐賀君の出身はどこなの?」。
  6. 人の呼び名に関する語録が多いが、これは基本的に人の名前を覚えないせいと思われる。
  7. イアン・ソープに年齢を聞いた時「ハウ オールド いくつ?」と聞いた。

エピソード

  • 立教大学時代練習がきついという理由で合宿所を抜け出し、エースの杉浦忠と共に中日ドラゴンズの球団事務所へ行き入団テストを受けさせてくれと頼むものの球団職員に「卒業してから来なさい」と言われた。
  • 前述の杉浦忠とはお互いが巨人、南海に入団してからも親しい間柄だった。また大学に入学して初めて杉浦を見たとき「メガネを掛けているから頭が良いんだなぁ」と思ったという。
  • 宿帳の「職業」欄に「プロ野球選手」ではなくしばしば「長嶋茂雄」と記していた。
  • 立教大学での卒業試験で『I live in Tokyo.(私は東京に住んでいます)を過去形にしなさい』という問題を『I live in Edo.(私は江戸に住んでいます)』と解答して単位取得した(正解は『I lived in Tokyo.』)。また、立教大学での卒業学部を聞かれ「野球部」と言い切った(「野球しかしてなかったからこれで正しいんじゃないかな」とも言っている)。しかも自分専用に作成された入学試験・卒業試験の問題さえ正解できなかった。他にも「The」を「テヘ」と読んでいた。なお星野仙一も学歴を訊かれた時に「明治大学野球学部島岡学科」と答えることがあるが、こちらの場合は恩師島岡を尊敬しているためによく使う冗談である。
  • 契約金を預金した銀行の名前を忘れ、大学時代の友人など方々に尋ねた挙句ようやく判明した。
  • 試合前の打撃練習ののち、そのまま帰宅しようとした事がある。片足に2本分(1足)のストッキングを履いた事があり、片足の分がないと探した。
  • 新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」の他、1塁走者として、後続打者が外野フライにより帰塁する際、2塁ベースを通過しながら、2塁を空過して1塁に帰るという三角ベース事件を、1960年、1964年、1968年の3回起こしている。その一方で、敵チームの三角ベース事件も3回発見している。
  • 試合後に自宅の場所を忘れ、田園調布の自宅のお手伝いさんに「あの僕、長嶋茂雄です。僕の家、どこでしたっけ?」と電話で尋ね、美容院に行っていた夫人が後楽園球場に迎えに来た事がある。
  • 現役時代のオフシーズンには伊豆などで「山ごもり」と称する自主トレーニングを行っていた。しかし、実のところは取材の来る初日と最終日だけ練習の振りを見せ、あとはもっぱら宿の部屋で好きな西洋名画の画集を眺めていることが多かったという。中にはその期間、実際には海外旅行に出かけていたという極端な年もあった。
  • ナインがメロドラマを見ているときに、突如テレビを消してしまい「この筋書きはですね、こうなってこうなるんですよ」と説明するも、「それを分かってて見ているんです!」とトラブルを起こしている。
  • 長嶋氏は試合の時に、気に入ったバットを自分のものにしてしまう癖があり、巨人軍は"バットの個人持ち"を命じたにも関わらず、長嶋氏は他人のバットを勝手に使って、最終的には自分のものにしてしまう一面があった。
  • 監督時代、試合後に選手が「皆で寿司を食べに行こう」と言うと、体が冷えると言う理由でダメだと言い、代わりに焼きバナナを食べろと言った。
  • 今のファンは意外と思うかもしれないが、現役時代に王と共にあれだけタイトルを総なめしてきたにもかかわらず、三冠王サイクルヒットは一度も達成できなかった。ただし、逆に長嶋が打点王を取って王の三冠王を3年続けて阻止したこともある。
  • 1961年10月に朝日新聞の「わたしが新聞記者なら」というインタビュー記事で「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と発言。1960年安保闘争の記憶が生々しい時期で(長嶋もインタビューで「安保(闘争)」に言及している)、政権交代を思わせる時代背景があった。もっとも多くの日本人は万一現実に政権を取ったらある程度現実的に行動するであろうと理解していた。社会党もこの記事に対してただちに「そのようなことはしない」といったコメントを出している。
  • 購入したばかりのBMWを運転中、「今日は随分エンジンブレーキが効くなぁ」と思いながらもそのまま走っていたら、車が火を吹き出した。サイドブレーキを引きっぱなしで走っていた為で、車は即廃車となった。同様のエピソードはビートたけし石田純一にもある。
  • 1973年5月5日こどもの日に長男・一茂を後楽園球場に同伴し、試合を観戦させた。帰宅後、妻の指摘で一茂を球場に置き忘れた事に気がついた。一茂は審判室で保護されていた。
  • 完成直前の東京ドームをテレビの収録で訪れて「この天井にボールをぶつける事は無理でしょう」と話したが、オープンした1988年にダラス・ウィリアムズ(阪急ブレーブス)が天井直撃のファウルを放っている。
  • アントニオ猪木志村けんと誕生日が同じ。
  • 部下(選手)達の名前を覚えられず、しばしば二人以上の名前を合成していた(高橋尚成高橋由伸との合成で「ヨシノリ」など)。また、名前の呼び違いもある。たとえば上原浩治を同期入団の「二岡」と呼んでいたほか、清水隆行を自分の現役時代の同僚であった「柳田」と呼んだことがあり、勝利監督インタビューでは広澤克実を「広岡」と言ったことがあった。1999年に兄の入来智が巨人に移籍してきたとき、生え抜きの弟、入来祐作に対して「お兄ちゃん」と呼んでいた。また入来祐作と岡田展和をとり間違えることがあったようでブルペンに救援投手を岡田と連絡しておきながら審判に入来と告げることがあった。(突然指名されたため入来は準備不足で救援失敗)また1998年の長野冬季オリンピックの日本人選手の活躍をキャンプ地で気にする為にある記者に「モーグルヒルはどうだった」(スキーのモーグルとノーマルヒルの合成語)と真面目に質問していた。その他、インフルエンザインフレと誤って覚えていたことも有名であった。
  • 桑田真澄に対しては「くわた」ではなく「くわだ」と呼びかけていた。また、ペタジーニを「ペタちゃん」と呼んでいた。
  • 長嶋氏は自宅の他に数ヶ所の不動産を所有しているが、政治家に世田谷に住むと出世するというジンクスがあったため、かつて中曽根康弘が長嶋氏が所有する世田谷上北沢の借家に居住していた時期があった。中曽根氏は内閣総理大臣に就任して総理大臣公邸に引っ越すまで居住していた。
  • キャラの濃い長嶋の真似をする人も数多く、中でも関根勤は今でも持ちネタにしている。また地元の水道局を退社してまで長嶋に似ているというだけでタレントに転向したプリティ長嶋は、その芸能活動のおかげで市川市に家まで建てた程である。
  • 1996年、日本シリーズの終了後、長男・一茂に「お前は、来年の戦力構想に入っていない。」と戦力外通告した。
  • 1994年西本聖が巨人の入団テストを受けた際、当時の堀内投手コーチは反対したが、古巣へ復帰させ、自分が前政権で付けていた90番を譲った。そして、その年で引退した西本の引退試合が多摩川グラウンドで行われた時、遅れて駆けつけ最後のバッターとして打席に立った。
  • 第1次政権時代の「地獄の伊東キャンプ」で成長した選手たちは、その後藤田元司監督の下で主力となり、日本一を勝ち取る。そのシーズン終了後、教え子たちは長嶋を極秘裏に中華料理店に招いて祝賀会を開き、店の裏で長嶋を胴上げしたという。
  • よく野村克也と仲が悪いといわれるが実際は人が思うほど悪くはない。オフの選手同士の会合において、決して社交的とは言えず、またゴルフを一切やらない野村は孤立することが多かったが、そんな野村に長嶋はよく声をかけていたそうで、野村はそのことを素直に感謝している。一茂がヤクルトの選手になり、その後長嶋が巨人に復帰して両者が同リーグの監督になったことで、意識的に距離を置いたのが仲が悪いとみなされた一因と思われる。むしろ仲が悪いのはV9時代の同僚・森祇晶で、監督時代にオールスターで全く口を聞かなかったほどである(しかし、雑誌の企画では対談している)。
  • よくカンピュータと揶揄されることがあるが、彼のカンは驚異的なものらしい。現役時代長嶋監督の下でプレーした村田真一(現:バッテリーコーチ)いわく、長嶋がボソッと「あ、打たれるな。」とつぶやいた後、本当にピッチャーが打たれてしまった事があるらしい。その他に長嶋が自らフォークを投手に投げさせろとサインを村田に出し、実際にマウンドの橋本清に投げさせると、橋本は立浪和義に見事なまでに狙い撃ちされ、特大ホームランを打たれてしまった。その直後、村田がベンチを見るとカンのいい長嶋は投げる前に打たれると思って、既にベンチ裏に下がって姿がなかったという。
  • 1999年に亡くなったプロレスラーのジャイアント馬場は1955年から1960年まで巨人軍の選手だったため親友だった。彼を「馬場ちゃん」と呼べたのは長嶋ぐらいだろう。長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。
  • ある試合の解説で「うーん、この試合は一点でも多く点を取ったほうが勝ちでしょう」と言った。
  • 昭和53年7月6日、札幌・円山球場で行われた巨人-広島戦で、3人も投手をつぎ込んだにもかかわらず1イニング10四球6押し出しで、計8失点し、日本ワースト記録が誕生した際に、あまりの酷さに「おい、誰か、野手で投げれるヤツはいないのか」とぼやいたという。

背番号

  • 3(1958年~1974年、2000年~2001年)
  • 90(1975年~1980年)
  • 33(1993年~1999年)

参考文献

主な著作

  • 『燃えた、打った、走った!』(中公文庫BIBLIO20世紀) ISBN 4122039533
  • 『人生の知恵袋 ミスターと7人の水先案内人』(幻冬舎)ISBN 4-344-00457-4
  • 『長嶋茂雄笑顔の言葉』(文藝春秋)ISBN 4-16-358200-2

関連項目

外部リンク

読売ジャイアンツ4番打者
第25代
先代:
与那嶺要
次代:
坂崎一彦
読売ジャイアンツ監督
1975年1980年
先代:
川上哲治1961年1974年
次代:
藤田元司1981年1983年
読売ジャイアンツ監督
1993年2001年
先代:
藤田元司(1989年1992年
次代:
原辰徳2002年2003年
※カッコ内は監督在任期間。
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