大沢啓二
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大沢 啓二(おおさわ けいじ、1932年3月14日 - )は、神奈川県藤沢市出身のプロ野球選手(外野手)・プロ野球監督。旧名は「昌芳(まさよし)」。本名は「昭(あきら)」。サングラスを掛けた貫禄のある容貌から、付いた愛称が「大沢親分」。実兄の大沢清は名古屋軍、大沢紀三男は中日ドラゴンズの元プロ野球選手。タレント・モデル等で活躍中の大沢あかねは孫娘。 嫌いな食べ物はなく、チョコレート系の食べ物が大好物。特に、エクレアとココアが大好きだという。動物好きで、現在、犬と猫を飼っている。サッカーの中村俊輔のファンでもある。「球界界No.1の競艇通」競艇通としても知られる。
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[編集] 来歴・人物
旧制神奈川県立平塚工業学校(現・神奈川県立平塚工科高等学校)→神奈川県立商工高等学校(通称「神奈川商工」)→立教大学を経て、1956年に南海ホークスに入団。頭脳的な守備で鳴らし、とりわけ1959年の日本シリーズ第3戦では、2度にわたるピンチを自身の巧守でしのぎ、4連投4連勝の杉浦忠と共に南海の日本一に貢献した。鶴岡一人監督は大沢の能力を高く買い、外野手の守備位置決定権を委ねたといわれる。1965年に東京オリオンズへ移籍し、同年シーズンをもって引退。
引退後は東京・ロッテの打撃コーチ、2軍監督(1966年~1971年7月)を歴任し、1971年7月24日、監督昇格。1972年シーズン終了後、同球団の経営体制刷新(それまでスポンサー的立場だったロッテが本格的に参加した)のあおりを受けて5年契約を破棄・解雇される不運にあったが、1975年オフに当時球団社長の三原脩の要請で日本ハムファイターズの監督に就任。1981年に初(旧東映時代を含めると19年ぶり)のリーグ優勝に導いた。
1983年限りで勇退し球団常務に就任。翌1984年途中で植村義信監督が退団した際は臨時にシーズン終了まで指揮を執った。その後はフロント運営に専念し、高田繁、近藤貞雄、土橋正幸各氏の監督招聘に辣腕を振るった。土橋監督の辞任を受け、1993年監督に復帰。1年目は2位に躍進するも、1994年は最下位に沈み、責任を取って辞任した。
監督時に着用した背番号86番はファイターズの準永久欠番となっている。球団史上、86番を着用したのは大沢のみ。この背番号は、監督就任前に解説者を務めていたラジオ関東の社員で送別会「大沢さんを戦場に送る会」を行ったときに、当時アナウンサーだった島碩弥が、「日本ハムの監督だからハムをもじって86番がいい」と勧めたのがきっかけだったという。
2006年11月、44年ぶりに日本一となったファイターズがKONAMIアジアシリーズに進出。始球式で登場し、外角低めにコントロールされた球で見事に空振りを奪うと「74歳にしては良い球を投げただろ」と誇らしげに話した。
[編集] エピソード
指導者になってからは「親分」という愛称が示すカリスマ的な存在で、選手・裏方・ファンの各層から人望が厚く人気があった。「夏の甲子園の県予選で判定に腹を立て審判に暴行を加えたが、その審判から『ウチのチームには君のような闘志溢れる人間が必要だ』と立教大にスカウトされた」「東京六大学野球の試合で、世界で公式戦唯一の『レフトゴロ』を成立させた」「日本ハムの最下位転落を土下座してファンに詫びた」など逸話も多い。通算退場回数は7回とタフィ・ローズ、金田正一に次ぐ記録を持っている。
激情家のイメージが強いが、日本ハムの監督時代退場処分を受けて出場停止となったときに、毎日違うコーチに指揮権を与えて采配能力を見極めるなど、策士としての一面も持ち合わせている。
長嶋茂雄(現・巨人終身名誉監督)は立教大学の後輩。学生時代でろくな食生活も送っていなかった長嶋に面倒見のいい大沢は援助をし、自分と同じ南海への入団を要請していた。長嶋は巨人へ入団したが、長嶋と同級生で同様に大沢に可愛がられた杉浦は南海に入団した。
当時フジテレビでプロ野球ニュースを担当し始めて間もない中井美穂元アナウンサー(現・ヤクルト古田敦也監督夫人、タレント)は日本ハムの名護キャンプに取材に行き、大沢が当時監督ではなく球団専務の時で、その時ジャージ姿で選手に檄を飛ばしていた光景を見ていたが、中井への事前予備知識として大沢は球団専務だということしか伝えてなく、元監督であるという事を知らせていなかった為に、大沢に「(野球に)お詳しいんですね」と言ったり、レポートで「大沢さんは常務でありながらジャージ姿で随分気合が入った出で立ちですね」と報告し、後で注意を受けていた。
また、常務時代(1986年頃)、フライデー、フォーカス(以下FF)等の週刊誌がプロ野球選手を含む有名人のプライベートを掲載し社会問題にもなったが、日本ハムの選手が登場しないのを嘆き、「FFに載れ!」(FFに狙われるような選手になれ、の意で)と選手にゲキを飛ばした。
ヤクルトのガトームソン投手がノーヒットノーランを達成し、サンデーモーニングで司会の関口宏が独立リーグや3Aを渡り歩いていたガトームソンの経歴をみて、「どうしようもない選手なんでしょう」と発言したのをうけ、大沢は「どうしようもないってことはないでしょう。ノーヒットノーランを達成したんだから。ちょっと発言が悪いですね。」と関口を注意した。このことからわかるとおり、大沢の現役の野球選手に対するやさしい一面をうかがい知ることができる。
サンデーモーニングでは、その週にプロ野球に貢献した人物が亡くなったか、野球殿堂表彰者が発表された週には必ず、その人たちに追悼あるいは賛辞の意味も込めてあっぱれ!を贈ることからも、人情家であることがうかがえる。しかし2006年だけは大沢にとって不快な人物でもある豊田泰光(大沢が理事長を務める日本プロ野球OBクラブを事あるごとに批判)と川島廣守(コミッショナー時代に池永正明の復権を認めず、大沢はそれに関し喝!を入れていた)が殿堂入りしたため、その件に関しては全く触れなかった(そのおかげで同時に殿堂入りした高木守道、山田久志、門田博光がとばっちりを受けるはめになった)。
サンデーモーニングの名物コーナー『週刊御意見番』でサッカーの日本代表が他国の人間であることに不満をのべ『日本語もしゃべれねぇ奴にやらすんじゃねーよ。日本人にも優秀な人材がいるだろーか。』と発言するほどで、ヘイトスピーチと解釈されることも多くサッカーファンからの評判を落とす原因になっている。(※ 類似の発言をした野球人に広岡達朗がいる。)
神奈川商工高時代、球審の判定に不服を覚え、試合後にトイレでその審判を殴った。そのことが佐伯達夫の逆鱗にふれ一年間対外試合出場停止という辛酸をなめていた。そのトラウマから上記番組で佐伯の名前を出すことを拒絶している。その時の審判は立教大学野球部関係者だったが、暴力行為を非難されるどころかそのファイトを買われ立教大学で野球をすることを薦められた。大学受験時には受験勉強をしていないため一問目の問題に地図を書き二問目の問題に一問目の問題を書いたという。なお当時は戦後間もなかった故の事情があり、名前を書いて受けさえすれば合格するという私大も珍しくなかった。
親分と呼ばれているが、立教の大先輩である西本幸雄には全く頭が上がらない。これは単に西本の方が年上であるというだけでなく、西本は旧制和歌山中学(当時の和歌山県下トップレベルの進学校)出身のため実力で立教大学に入学したのに対して、大沢は上記のような事情で立教大に入学したことも関係している。西本から見ると大沢は不出来な後輩としか映らないのは仕方がないであろう。なお、親分と呼ばれ球界に影響力を持つようになった大沢に西本が「お前も偉くなったなぁ」と感慨深げに話しかけたところ大沢は「いや西本さん(昔の話は)勘弁してください」と冷や冷やだったそうである。余談ではあるが、同様に長嶋茂雄も、西本には立教大つながりで頭が上がらない。
立教大学時代に左前安打の打者を一塁送球で刺して、レフトゴロにしたことがある。
当時伸び悩んでいた間柴茂有に喝を入れるため、膝蹴りをしてその年同投手が大活躍したという。
1982年の西武とのプレーオフで当時右手指の故障中であった工藤幹夫を第一戦に強行登板させ、当時の広岡監督や西武ナインを愕然とさせた。ちなみに日本ハムはプレーオフで敗退している。さらに、これが工藤の選手生命を縮めたとも言われている。
学生時代は悪童でならし、野球をやらなければヤクザにしかなれなかったかも知れないとも話している。 マーティー・キーナートとは不仲でここが変だよ日本人のコーナーでは幾度となく激論を交わしているほか キーナートがコラムで渇のコーナーを酷評したこともある他キーナートが楽天GMを短期で解任された際には どっかに行ったか等と渇のコーナーで発言した。
1985年、フロント入りしたころ「頑固親父の目に涙」という曲をリリースした。また1998年には舘ひろし主演のNHK金曜時代劇 「いねむり紋蔵」で藤木紋蔵(舘)の上司役として出演している。
競艇通であり、時折競艇場などで見かけられる。競艇に関しての知識に関しては、球界では随一である。
野球通で知られる松村邦洋に物真似されている。それが縁で大沢はモルツ球団のイベントに松村を招いたり、番組(「踊る!さんま御殿!!」など)で共演するなどしている。
[編集] 現在
現在はプロ野球評論家、日本プロ野球OBクラブ理事長、プロ野球マスターズリーグ委員会議長、モルツ球団監督などとして活躍している。また、TBS系毎週日曜日8:00~9:54のサンデーモーニング(立教の後輩である関口宏が司会を務める)の「週刊御意見番」に張本勲と共にレギュラー出演し、1週間のスポーツの話題に喝とあっぱれを入れている。
さらに、ニッポン放送「おはよう!ニッポン全国消防団」(2006年4月スタート;全国30局ネット)では、消防応援団長の肩書でレギュラー出演している。なお、日本広告審査機構(JARO)や大東建託等のCMにも出演していた。
[編集] 選手通算成績
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1971年 (昭和46年) |
2位 | 130 | 80 | 46 | 4 | .635 | 3.5 | 193 | .270 | 3.77 | 39歳 | ロッテ |
1972年 (昭和47年) |
5位 | 130 | 59 | 68 | 3 | .465 | 20.5 | 148 | .264 | 4.54 | 40歳 | |
1976年 (昭和51年) |
5位 | 130 | 52 | 67 | 11 | .432 | 4位 5位 |
107 | .258 | 3.72 | 44歳 | 日本ハム |
1977年 (昭和52年) |
5位 | 130 | 58 | 61 | 11 | .487 | 4位 4位 |
113 | .245 | 3.36 | 45歳 | |
1978年 (昭和53年) |
3位 | 130 | 55 | 63 | 12 | .466 | 3位 4位 |
131 | .264 | 3.98 | 46歳 | |
1979年 (昭和54年) |
3位 | 130 | 63 | 60 | 7 | .512 | 3位 4位 |
131 | .266 | 4.09 | 47歳 | |
1980年 (昭和55年) |
3位 | 130 | 66 | 53 | 11 | .555 | 2位 2位 |
167 | .264 | 3.61 | 48歳 | |
1981年 (昭和56年) |
1位 | 130 | 68 | 54 | 8 | .557 | 4位 1位 |
126 | .276 | 3.81 | 49歳 | |
1982年 (昭和57年) |
2位 | 130 | 67 | 52 | 11 | .563 | 4位 1位 |
127 | .266 | 3.63 | 50歳 | |
1983年 (昭和58年) |
3位 | 130 | 64 | 59 | 7 | .520 | 20.5 | 153 | .275 | 3.82 | 51歳 | |
1984年 (昭和59年) |
6位 | 130 | 44 | 73 | 13 | .376 | 29.5 | 144 | .259 | 4.98 | 52歳 | |
1993年 (平成5年) |
2位 | 130 | 71 | 52 | 7 | .577 | 1.0 | 106 | .259 | 3.37 | 61歳 | |
1994年 (平成6年) |
6位 | 130 | 46 | 79 | 5 | .368 | 28.5 | 101 | .252 | 4.62 | 62歳 |
- 監督通算成績 1547試合 725勝723敗99分 勝率.501
[編集] 関連項目
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1971年は7月24日からシーズン終了まで指揮。
- ※3 1984年は6月29日からシーズン終了まで指揮。
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