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アメリカ合衆国の歴史

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アメリカ合衆国の歴史(アメリカがっしゅうこくのれきし)ではアメリカ合衆国歴史について述べる。

目次

[編集] 植民地時代前

北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドである。氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していった。彼らは独自の文化を育んだが、農業などは行わず、もっぱら狩猟などで生活を営んでいたため、広大な土地に比べ、人口はごくわずかであった。酋長とよばれた長を中心とした村をつくって社会を形成したが、人口が少なく農業も行わなかったため、村同士で争いあうことも少なかった。これにより先住民による統一したアイデンティティは発生せず、北アメリカ大陸で独自の国家は遂に生まれなかった。なお1000年ノルマン人ヴァイキング)が北米へ達し、アメリカを「発見」しているが、その後の植民地活動はすべて失敗している。今日に置いて彼等の活動は、認知されることとなったが、クリストファー・コロンブスほどの正当な評価を受けていない。近世まで北米には中南米に匹敵する文明が存在しないと思われていたが、近年発掘が進み、マウンド(土塁)群と呼ばれていた遺跡が、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在と確認された。そのうちもっとも大規模なものはイリノイ州セントルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。この超巨大遺蹟は、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録された。

[編集] 植民地時代 (1493-1776)

ピルグリムファーザー (N.Y.)
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ピルグリムファーザー (N.Y.)

イタリア半島を中心としたヨーロッパルネサンスが花開いたこの時代、ポルトガルスペインはいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代が幕をあけた。イタリアジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に西インド諸島を発見した。これに引き続き、英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国が領有(ニューイングランド植民地)、フランス人カルチエがセントローレンス川を遡ってフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓がはじまった。特に現在のアメリカ合衆国に置ける植民地としての開発は当初から多民族国家となる運命を辿るかの様な植民地活動が行なわれた。メインとなる民族は、イギリス人フランス人だが、ヴァージニアやカロライナにはイギリス人が、ルイジアナにはフランス人が、ニューヨークニュージャージーにはオランダ人が、デラウェアにはスウェーデン人が、フロリダにはスペイン人が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いたのである。アメリカ東部には、すでに17世紀中葉に現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。

西欧人は植民地で砂糖コーヒー綿花タバコなどの農作物を農園で作り出したが、労働者の不足に悩まされた。西欧人はこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ人有力者に住民の徴発を命じて、それを買い取り、南北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ人有力者に売った。ただ、誤解が多くあるが、植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米への奴隷輸出は多くない。奴隷制度によって維持される南部の広大なプランテーション農業が盛んになったのは、19世紀になってからである。

英国からの植民団はニューイングランド植民地を建設したが、カナダに植民するフランスとの対立が生じ、17世紀から18世紀にかけて英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、植民地でも戦争が起こったため、一連の北米植民地戦争が続いた。この抗争は1700年スペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続いたが、この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。

北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口が先住民を上回る地域が生まれた。18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造造船運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここで重商主義政策をしいてさらに圧迫した。また、フランスとの長い戦争中に自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため、植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。住民は反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため、英国は翌年これらを撤廃したが、「茶法」によっての貿易を独占しようとした。対して住民は1773年ボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。

茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントンの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。住民代表者は第二回大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議においてワシントンは、トーマス・ジェファーソンが起草し、近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。

[編集] 独立戦争と国家建設 (1776-1789)

アメリカ合衆国憲法への署名(Howard Chandler Christy・画)
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アメリカ合衆国憲法への署名(Howard Chandler Christy・画)
ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)
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ジョージ・ワシントン(1732年-1799年)

アメリカ独立戦争フランススペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。

しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年フィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民共和制三権(立法・司法・行政)分立連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国首都ニューヨーク)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいた最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンが就任した。なお、日本語で大統領と訳されるプレジデントは、当時は親分的な意味合いしかないもので、大統領に特別な権威がないこと(国王や皇帝との違い)を表す為に、わざと付けられたものである。

[編集] 西方への領土拡大 (1789-1861)

[編集] 建国初期

1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州バージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。

[編集] 米英戦争への道

1803年ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収したことにより、広大な西部の土地を得るだけでなく、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになった。

ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとイギリスは戦争状態に入った。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出によって得る外貨にたよる状態であった。アメリカは、中立の態度を取り、両陣営と両陣営の持つカリブ海沿いの植民地に対しての農産物や原材料輸出を行った。両陣営とも、利益になる場合の貿易は許可したが、不利益になる事に関しては拒んだ。

1805年トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスの海上封鎖を実施した。またイギリスはアメリカの貿易政策に対しても緩い海上封鎖を実施し、報復を行った。

イギリスがアメリカ以外の国からの農産品輸入を当てにしないだろうと考えたアメリカ議会とジェファーソン大統領は、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止した。しかし、イギリスは他からの農産物輸入に切り替えてしまう。アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。そこで1812年、イギリスがミシシッピ西部とカナダの先住民を支援していることを口実とし、南部と西部出身の議員が中心となりイギリスへの宣戦布告がなされ、米英戦争となった。

南部と西部の人達は、先住民の土地を得ることや農産物輸出の拡大を期待して、戦争を熱心に支援した。それに対して、北部の連邦主義者たちは戦争には反対であった。しかし、アメリカの初期の勝利でそれらの反戦論は霞んでいった。しかし、次第にアメリカにとって苦しい戦いとなり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となる。米英の領土は戦前に戻された。

この米英戦争中に欧州との関係が途絶え、経済的・文化的に孤立することとなったため、アメリカ人としての精神的自立を促した。これによってナショナリズムが高まり、保護関税を図って自国内の工業を発展させた。また、中南米諸国で独立運動が盛んに行われるようになると、モンロー大統領は1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは後にモンロー主義となり、アメリカ大陸の孤立化(アメリカ合衆国の孤立主義)を図った。これはその後100年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針となった。同時に中南米への政治的・軍事的介入を行うようになった。

1830年代、ジャクソン大統領は選挙権を拡大、民主政治が発達した。家柄にとらわれることなく政治家となることができた一方、大量に選挙人がいることは、被選挙人が大規模な選挙活動を行うこととなり、被選挙人が当選した際には活動協力者に役職を提供するなど、猟官制度が登場した。この政策に賛成する親ジャクソン派は民主党を、反ジャクソン派はホイッグ党を結成し、後の共和党となった。

ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道航路が発達し、国内市場が拡大した。また、工業などに従事する人口が少なかったことも、産業革命を全面的に受け入れる土壌となったので、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会となった。

[編集] 領土の拡大とフロンティア

米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、自国の領土拡大へ方針を転換した。1818年にイギリスと旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。これによって1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生した。

米英戦争直後からアメリカ国民は大挙してルイジアナ植民地へ移住した。その中心はオハイオ川流域であったが、1840年ごろから太平洋沿岸の新天地オレゴンを目指すようになった。このオレゴンを目指す道はやがてオレゴン街道と呼ばれ、西部開拓が盛んになった。移民たちはインディアンなどに襲われないよう、幌馬車で隊列(コンボイ)を組んで移動した。

1844年に領土膨張主義を主張するポークが大統領に就任すると、翌1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。また同年に英国と協定を結び、メキシコとの間で米墨戦争を行って勝利した。これによって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収した。

1848年に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、一攫千金を狙った多くのアメリカ人が移住した。いわゆるゴールド・ラッシュである。

時にインディアンや流れ者と戦いながら開拓し、生活用品は豊富な森林から自分で生み出すと言う移住者には、共通する開拓者精神、いわゆるフロンティア・スピリットが生まれ、これがアメリカ人としてのアイデンティティとなって現在まで受け継がれている。広大な西部は西欧人をひきつけ、アメリカの人口はイギリス植民地時代の旧移民の自然増加と、欧州からの新移民によって急増した。新移民の多くは英国人やドイツ人の農民、英国人の搾取に苦しむアイルランド人であった。このときに流入した白人の人口比は、現代アメリカ白人の人口比とほとんど変わっていない。

外政では、当時多くが西欧の植民地であった東南アジアに対抗して、まだ西欧諸国の手が伸びていなかった東アジアに対して積極的に強圧外交を行い、1800年代に大国やその属国朝鮮に接近、1853年日本に上陸し、翌年にこれを開国させることに成功した。だが、その後発生した南北戦争によって東アジア外交は一時滞ることとなる。

[編集] 南北戦争 (1861-1865) およびその起源

アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との工業製品輸出競争の兼ね合いから、自国産業保護を訴えて関税をかけるなどの保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため、自由貿易と関税撤廃を求めた。こうして南北の対立が非常に深まった。

また、重工業化の進んだ北部では労働者が不足する事態となったので、黒人奴隷を解放して労働者として使用したが、南部ではいまだ黒人奴隷として使用し、広大なプランテーション農業を行っていたが、北部の工場を経営する資本家はこの豊富な黒人労働力を必要としていた。しかし、英国からの綿花需要が拡大し、南部ではますます黒人奴隷に頼る産業構造となった。

領土が西部に広がり、植民地の人口が増加したことにより、これらの植民地を州に格上げすることとなったとき、これらの新州に奴隷制を認めるかで南北対立となった。1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える共和党が結党され、農民の支持が多かった民主党と対立した。

1860年に大統領となったのが共和党エイブラハム・リンカーンである。彼は黒人奴隷解放を政策とし、北部の資本家から喜ばれた。すると南部の奴隷州は反発しアメリカ南部連合を結成して離反した。当然合衆国の認めるところではなく、南北戦争という形で火を吹いた。南軍有利で戦争は進んだが、北軍は海上封鎖などで対抗、1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を発表すると急速に支持を拡大、ゲディスバーグの戦いで北軍が勝利を収めると南軍の勢力が弱まった。1865年、南部連合は降伏してアメリカは統一した。

リンカーンは憲法を改正して奴隷制廃止を明文化し、黒人に市民権が与えられたが、彼は俳優で南部過激派のジョン・ウィルクス・ブース John Wilkes Boothに射殺された。黒人は奴隷制から解放されたものの、社会的な差別や人種差別主義者からの迫害からは守られることはなく、クー・クラックス・クラン等による私刑は20世紀半ばを過ぎても多くの黒人の命を奪い続けた。

奴隷解放後、南部のプランテーション農家の多くは産業の基盤を失って没落したが、中には解放奴隷を小作人として雇い入れ、南北戦争前と実質的にほとんど変わらない経営を続けた大農家も多く存在した。

[編集] 西部開拓時代 (1865-1890)

大陸横断鉄道
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大陸横断鉄道

領土は太平洋へ到達したとは言え、東西交通は馬車か船舶での移動に頼っていた。地上を行く馬車は移動に半年を要する上に、大平原やロッキー山脈を越えなければならず、インディアンネイティブ・アメリカン)の襲撃などもあって、危険な交通手段であった。船舶は基幹の大量輸送交通であったが、南米大陸の南端を回る為、移動に4ヶ月を要し、さらに南米南端の海域は常に荒れて事故が多発した。こうした交通網の未整備により、ゴールドラッシュによって人口が急増したとは言え、西部には基幹産業も無く発展が遅れ、陸の孤島のような有様であった。これは、南北分裂の上に、西部まで分裂する可能性を含んだ問題であり、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の機関となる大陸横断鉄道の建設を進めた。

鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは新参の中国人移民が駆りだされ、シエラネバダ山脈で低賃金の労働をしたが、爆薬としてニトログリセリンを、安全性を軽視したまま使用させたことにより、多数の死者を出した。東側からは食詰めの貧困白人が駆り出され、鉄道沿線に労働者街を形成したが、この新たな街は法秩序が確立されておらず、流入したアウトローのギャング・盗賊行為が頻発したため、労働者は自ら武装して、戦いながら線路を建設した。また、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ法」が制定され、一定の抑止力となった。さらに、生活圏を脅かされることを恐れたインディアンが線路沿いで蜂起し、白人労働者を殺戮したため、政府は2000人の軍を沿線に投入して制圧した。1869年に最初の横断鉄道が開通したことを皮切りに、次々に開業した。南北戦争の残務処理も終わり、アメリカは実質的にも精神的にも、国土が一つとなった。

横断鉄道の完成によって西部との物流・交流が活発になり、西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われるようになった。牛を追いかけて生活するカウボーイは西部を象徴するものとなり、テキサスから国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。農業は、少ない人口で効率よく生産するため機械化が進み、大規模農業をすることができた。鉄道・道路網の拡大によって西部との一体化が進み、国内市場の拡大は工業産業を飛躍的に高めた。しかし法秩序が確立されていなかった西部では、ギャングや盗賊によって治安が悪化し、これを防ぐために保安官が登場した。

太平洋に達したアメリカの領土だが、1868年に北部アラスカロシア帝国から安値で購入した。西部の人口はさらに増加し、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860年代にから1870年代にかけて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で20年以上争い続けた。結局、蜂起は次々に鎮圧されてゆき、ほとんどは居住区へ移されて部族のコミュニティも壊滅、人口も減少していった。掃討作戦も最終段階に入っていき、1890年にフロンティアの消滅が宣言された。

[編集] 帝国主義時代 (1890-1918)

西部開拓時代の終焉によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識が起こった。1889年にパン・アメリカ会議が開催され、この力がアメリカの中南米進出を促した。とはいえ、モンロー主義に基づくアメリカ合衆国の伝統的な外交政策は引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら経済的進出を狙いとしていた。

アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していった。1898年ハワイ王国をなし崩しに併合、領土を太平洋上まで拡大した。さらに同年、スペイン領キューバの反スペイン暴動に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を契機として、スペインとの間で米西戦争を起こした。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たした。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行った。これは新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。

米西戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地とし、プエルトリコフィリピングアム島などを領有した。さらに、西欧列強と日本によって中国分割が進もうとしているときに、1899年1900年に清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への進出を狙った。また、1905年日露戦争の調停役を申し出るなど、国際的な立場向上を目指した。

一方、日露戦争に日本が勝利を収めたことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄渦論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。また、日本は戦後にロシアと和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。

カリブ海地域を勢力圏にするために、カリブ海政策を推し進め、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉した。また、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させた。さらにパナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。

またこのころ、石油電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガンロックフェラーは一代で巨大企業にのし上がり、巨万の富を得た。その後のアメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。

19世紀後半からヨーロッパで人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、彼らは都市部で未熟練労働者として働いたため、低所得者として都市中心部でスラム街を形成した。彼ら新移民はカトリックギリシア正教ユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見と摩擦が起こり、しばしば抗争に発展した。こういった新移民にフォード・モーターが技術・言語教育を施し、大量生産方式に組み入れていった。また、日本からも移民が発生した。急増した日本移民は低所得労働者として都市各地で活動したため、人種差別感情に基づいた、彼らに対する排斥運動が起こった。

[編集] 第一次世界大戦 (1914-1918)

1914年セルビアの凶変によって第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの各国に武器、車両を輸出して外貨を獲得することができ、経済が非常に潤った。すぐに終わるといわれた戦争は長期化し、ヨーロッパはドイツオーストリアを挟んで東と西の戦線で非常に荒廃した。イギリスはアメリカの参戦を要望したが、孤立主義の看板を掲げたアメリカは応じることはできなかった。1917年、自国商船ルシタニア号Uボートに撃沈される事件が発生、さらにツィンメルマン電報も要因となり、国民世論は派兵賛成へ展開し、ようやく出兵した。こうしたドイツへの軍事的圧力は、1918年ドイツ革命やドイツ敗戦を導いた一要因であると考えられる。これによって、アメリカは国際的な威信を高めることになった(一方で、ヘミングウェイらに代表される失われた世代も登場した)。また、ロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が発足すると、チェコ軍団の救出のため、日本と共にシベリア出兵を行った。米国は終戦とともに撤兵したが、日本が侵攻を継続した為、日本に対する疑念が深まった。

[編集] 史上最高の繁栄と没落 (1918-1939)

大戦後はウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟を設立、国家間の争いを防ごうと積極的に整備を進めたが、孤立主義を守ろうとする保守的な議会の決議によってアメリカは不参加と言ういびつな機構となってしまった。ウィルソンによって掲げられた高い理想の達成が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなる。

経済は、消耗したヨーロッパに変わって世界の工場として輸出を拡大、国際的にも大戦に消極参加だったアメリカと日本が大国として存在感を増し、両国は史上初めての繁栄を謳歌した。米国内では、戦争から帰還した若者を中心に刹那的な文化が台頭し、急速に消費社会に移行した。大都市では高層ビルが建設され、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となった。トーマス・エジソンによって早期に電気が普及したことから、夜間でも明るい街は人間の活動時間を飛躍的に拡大した。グラハム・ベルによって普及した電話は遠く離れた人と直接交流できる手段となり、ビジネスをより効率的に、効果的に発展させることに寄与した。さらに、ラジオ新聞の発達によるマスメディアの成長によって、市民はリアルタイムで新しい情報を仕入れることが可能となり、成長を常に新しい情報に頼る社会(情報化社会)のさきがけとなった。

1920年代前半は大規模なストライキなどが頻発し、アメリカで最も労働運動が盛んに行われた時代でもある。しかし、賃上げなどを要求することよりも、企業の国有化を求めるものが大半であった。これは共産主義革命に成功したソビエト連邦に影響を受けたものとも取られて、企業活動に影響を与える労働運動を弾圧する動きが司法庁を中心に盛んに行われ、マルキスト共産主義者とされた人々のソ連への追放が行われた。

またこのころ、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功したり、ベーブ・ルースルー・ゲーリックなどの野球スターが登場、市民を熱狂させ、大資本によるハリウッド映画が製作された。また大衆市民が手軽にや土地を売買し、情報網の発達に伴って大都市を中心に流行したが、これは株価や地価を異常に高騰させる理由となった(バブル景気)。しかし、アメリカが人類史上最高の「富」を手にしていることは、世界の誰が見ても真実のようであった。

一方、農村部では大戦中の食物増産によって土地が疲弊し、その後の農業政策に失敗したことから、南部の小農家がさらに没落し、離農して西部を目指すものが多く現れた。大都市が繁栄を謳歌する傍らで、農家は貧しさを味わうと言う、非常に偏った「富」であったことも事実である。

豊かになった大都市では、富を目当てに群がるユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が蔓延した。アルコール依存症患者が増加したためとの名目で禁酒法が制定されたが、実際は新移民に酒造業を営むものが多かったことへの排斥感情に基づいているとも言える。他にも黒人の反乱が地方都市で頻発したこともあり、クー・クラックス・クラン(KKK)などの人種差別団体が公然と組織され、黒人や新移民を弾圧した。また20年代には日本人による移民が急増したが、これら日系アメリカ人が社会的に成功する様に危機感を抱いた勢力によって、日本人の脅威を煽る積極的な反日キャンペーンが繰り広げられ、日本製品のボイコットなどが行われた。日系移民の多いカリフォルニア州を中心に排斥運動は高まり、移民禁止法が制定されるなど、人種差別が公然と行われる時代であった。日系人排斥運動は隣国カナダへも飛び火した。

やがてヨーロッパの自力復興によって、アメリカの輸出経済に陰りが生じ、1929年9月の最高値を境に、株価はじわじわと値を下げ始めていた。しかし熱狂した市民はそれに注意することも無く、株や土地の売買を続けた。1929年10月、遂に株価が一斉に大暴落し、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはここに破綻した。アメリカの破綻は「世界の工場アメリカ」に経済依存していたヨーロッパ諸国や日本に波及し、1930年代を取り巻く世界恐慌となった。

資本家は一斉に労働者の首切りをはじめ、大都市は失業者で溢れた。配給には長蛇の列ができ、浮浪者や犯罪者が増加して社会不安が蔓延した。農家の没落はもはやとどまるところを知らず、彼らが逃れた西部にも、彼らを受け入れる余地はどこにも無かった。そこにかつての繁栄を誇ったアメリカはどこにも存在しなかった。

この社会不安の中、大戦恩給の前払いを求めて退役軍人が首都ワシントンで大規模なデモを起こした。陸軍士官ダグラス・マッカーサーはこれを共産主義者に煽動された暴挙とし、彼らを戦車を主体とする軍事力で弾圧、流血の事態となった。このころ失業者のデモや闘争が相次いでおり、革命が公然と叫ばれるようになっていたが、これらを共産主義者が煽動していることは十分に考えられることであった。どちらにしろ、この後に共産主義者を大量に検挙することに成功し、アメリカでの共産主義運動は沈静化した。

この不景気によって自国経済から外国を締め出そうと、欧州の多くの国で民族主義帝国主義を色濃く含んだ国家主義、いわゆるファシズムが台頭、すでに植民地を持つ国では、宗主国と植民地の間での地域内経済(ブロック経済)によってある程度復興したが、持たざる国ではそうもいかなかった。そして植民地を持たない国は、領土拡大・植民地獲得のための侵略でしか国家生存の道は残されていなかった。

一方、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心としたニューディール政策によってこの難局を乗り切ろうとするが、経済は一時的に回復したのみで、1930年代後半には再び危機的状況に陥った。

[編集] 第二次世界大戦 (1939-1945)

1939年9月、アドルフ・ヒトラー率いるドイツポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発、短期間で西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスも執拗な攻撃によって疲弊した。イギリスのウィンストン・チャーチルは再三にわたってアメリカに参戦を求めたが、世論の支持を得られないと考えた大統領ルーズベルトは難色を示し、中立法を遵守するとした。ドイツは頑強に抵抗するイギリスの攻略を諦め、1941年にはソビエト侵攻に移った。三国同盟によってドイツと同盟関係にある日本は、中国大陸への軍事侵攻を行っており、アメリカは西欧と共に経済制裁を行っていたが、効果は大きく、1941年7月の南部仏印進駐は、東南アジアの油田に対する侵攻準備と受け取られた。アメリカはこれに対して「ハル・ノート」として知られる強硬な要求を突き付け、12月に日本がハワイ真珠湾を攻撃した。ルーズベルトは即座に参戦を表明、枢軸国に対して宣戦布告した。

この頃、欧州戦線はドイツがスターリングラードでの戦いに敗れ、形勢が逆転した。ドイツが防戦となる中で、米英両軍はフランスノルマンディーへ上陸した。また、ドイツ軍が発展させた都市無差別爆撃の戦法を英米軍も採用し、ドイツの主要都市をことごとく破壊して国家機能を奪った。同盟国イタリアは政権転覆によって降伏、ドイツは東西両軍から挟み込まれる形となり、ついに自国領内への侵攻を許し、連合国の勝利は決定的となった。

日本は開戦と同時に東南アジア植民地を次々に占領、欧米の統治体制を一時的に崩壊させた。アメリカもフィリピングアムアリューシャン列島の数島を奪われたが、ミッドウェー諸島の占領を阻止(ミッドウェー海戦)し、ガダルカナル島上陸によって戦況は逆転、太平洋の島々で両軍は世界戦史に残る壮絶な死闘を繰り広げた。マキン・タラワ両島や硫黄島では最大の戦死者を出し、サイパンフィリピン沖縄では住民を巻き込んだ悲惨な戦争となった。北マリアナ諸島を占領した米軍は、無差別爆撃を日本でも行ったが、木や紙を多用する日本家屋の構造を考慮した焼夷弾を使用して、主要都市を人口の多い順に焼き払い、日本の国家機能は破壊された(太平洋戦争)。

また、米国内の日系アメリカ人を敵性国民として、残らず砂漠地帯に建設した強制収容所に送った。このため、日系人の若者は信頼を回復する為に軍へ志願入隊し、欧州戦線の激戦区に送られた。日系人部隊の戦いぶりは他の部隊を凌駕し、大戦で最多の勲章を受章した。この活躍により、米国での日系人の信用は徐々に回復して行った。日系人や在住日本人はカナダや南米の多くの国でも同様に収容所へ送られ、終戦まで過ごした。このような措置は、イタリア系やドイツ系の国民に対しては行われず、あからさまな人種差別感情が背景にあった。

ルーズベルトは戦争中にもチャーチル、ソ連ヨシフ・スターリン、中国の蒋介石と密接に会談(テヘラン会談カイロ会談ヤルタ会談)、ルーズベルトは戦後の処理についてこの頃から路線を決定していたが、1945年5月のドイツ降伏後に急死する。跡を継いだハリー・トルーマンポツダム会談によって戦後の路線を明確にし、日本に対して世界初の原子爆弾を使用した。原爆はマンハッタン計画と称した極秘計画によって、巨額の費用と最高の能力を投じて開発した最終兵器であり、後には「核」と呼ばれ、終戦後の世界を支配する力を持つものであった。アメリカは日本に2発の原爆攻撃を与え、ソ連もヤルタ会談の約束どおり参戦して、日本を降伏に追いやった。

戦後世界の復興は、まずアメリカ・イギリス・ソ連の3カ国によって主導権が握られた。欧州では、枢軸中心国ドイツとオーストリアは英米仏ソ4国によって分割統治、イタリアは領土割譲と高額の賠償金を承諾して講和し、植民地も保障された。枢軸国となった東欧諸国はソ連の影響圏に置かれ、南欧は英ソ両国が影響力を持った。日本は本土をGHQ SCAPが統治、沖縄奄美小笠原南洋諸島をアメリカが信託統治朝鮮半島は米ソで分割、南樺太千島はソ連が領有、台湾は中国が領有した。しかし、日本が占領していた東南アジアは宗主国が復帰したものの、ベトナムインドネシアでは独立戦争が勃発し、インドでも反英暴動が起こるなど、戦前の帝国主義が崩壊した新たな時代の幕開けとなった。

[編集] 冷戦前期 (1945-1969)

世界の盟主を自負していたイギリスは、戦争の痛手と植民地の相次ぐ反乱によって急速に衰退し、代わってアメリカとソ連が世界の覇者となった。かねての構想であった国際連合を設立、戦後世界の構築を進めた。しかし、思想が異なるソ連との連合は不可能なことであり、戦後すぐに双方は離反した。アメリカはマーシャルプランによって西ヨーロッパを経済援助することを基本路線に掲げ、対するソ連は東ヨーロッパの周辺弱小国を共産化したことから、欧州大陸は東西に分裂した。いわゆる冷戦である。双方はベルリン問題で対立を深めたが、朝鮮戦争1950年-1953年)によって遂に熱い戦争となった。アメリカは欧州を防衛する為、集団防衛組織として北大西洋条約機構(NATO)を設立し、ソ連と東欧を封じ込める戦略を採った。また中東条約機構(METO)の成立に寄与し、東洋では東南アジア条約機構(SEATO)・ANZAS条約日米条約米韓条約米華条約米比条約をそれぞれ締結して、ソ連と中国を包囲した。

国内では戦争が終わった安堵感と、若い兵士が帰国したことから結婚と出産が急増し、1945年から数年間で幼児人口が増加した(ベビーブーム)。いわゆる「ベビーブーマー」(日本では団塊の世代)と呼ばれる世代の登場である。戦争を潜り抜けた若い家族は、戦前の家族制度に縛られず、両親とは離れた郊外に一戸建てを購入して生活することが多くなり、核家族化が急速に進んだ。この背景には、安くて高性能・しかも若者受けするスタイルの自動車が多数販売されたこと、高速自動車道路網の整備が急速に行われたことが大きく影響している。さらに、家庭用電化製品(家電)の発明と普及が、核家族化の進んだ家庭を助けた。郊外の宅地整備ラッシュ、自動車と家電製品の製造、さらには戦争で再び荒廃した西欧へ製品を輸出したことにより、米国経済は非常に活性化し、1950年代には大好況となった。テレビレコードなどの新たな娯楽が普及し、エルビス・プレスリーなどのミュージシャンが登場した。また、ハリウッド映画の黄金期と呼ばれるのもこの時代で、長編の大作映画が次々に製作された。

世界では1960年代までに植民地からの独立が相次ぎ、西欧の帝国主義的な覇権は終焉を迎え、独立国が資本主義的国家ならばアメリカが、共産主義国家ならばソ連が支援すると言う二極世界が誕生した。そしてお互いは核兵器大陸間弾道ミサイル原子力潜水艦という具合に、この間に相手を何万回も殺せる兵器を持つに至った。大気圏内での核実験を相次いで実施し、核戦争に備える対策が全国で取られた。また両国は軍事的優位に立つために宇宙開発競争に乗り出した。航空宇宙局(NASA)が設立され、人工衛星、有人宇宙船を次々に宇宙空間に送り出したが、ソ連が常に先を行っていた。ジョン・F・ケネディ大統領(民主党)はソ連より先に人類をへ送り込む計画を打ち出し、NASAの事業はこの目的の為にほぼ一本化されていった。

そんな時、アメリカの庭であるキューバ革命が起こり、これを阻止すべく、亡命キューバ人を中心とした侵攻軍を組織したが、この計画は失敗した。共産化したキューバはソ連と親交を深め、アメリカを狙う弾道ミサイルを配備しようとしたため、ジョン・F・ケネディはソ連と核戦争瀬戸際の外交戦を展開した。これがキューバ危機1962年)である。この危機的状況を打破した米ソ首脳は、緊張の緩和を目指すことで一致し、この後は米ソの直接的な激突は避けられた。

国内では、社会的に保障されず、差別に悩む黒人が公民権を獲得する為の運動(公民権運動)を行い、急速に盛り上がっていた。特に、1963年は南北戦争の奴隷解放宣言から100周年であり、黒人のデモが相次いで白人と衝突し、銃撃戦に発展する地域もあったが、指導者的存在であるキング牧師インドに学んだ非暴力闘争を主張し、支持を拡大した。この公民権運動に加え、フランスを中心に拡大した大学生による大学自治運動(学生運動)が飛び火し、学生によるストライキやデモによって、ほとんどの都市が騒然とした状態となった。ケネディは黒人への公民権付与や大学自治の拡大を認め、解決への道筋をつけた。しかし、以前からアメリカ政府が取り組んでいたベトナム政策を転換しようとした矢先に暗殺された。

ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソン(民主党)は、拡大しつつあった「貧困との戦い」と、公民権運動の最終的な解決を目指した「偉大な社会」計画を実行し、一方ではベトナムへ積極的な介入を行い、トンキン湾事件を引き金としてベトナム戦争1965年-1972年)へ発展した。北ベトナムへ地上軍を進めることの出来ない米軍は、北から次々に侵入する共産軍に苦しめられ、戦闘は泥沼化した。死傷者が続々と増える中で、欧米や日本では大学生を中心に共産主義運動が流行しており、これは公民権運動と結びついた反戦運動となった。これらの運動は「ベビーブーマー」が主体となっており、既存の文化・社会体制に反感を持ったヒッピーなどに代表される、反社会的な若者文化によっていっそう盛り上がった。長引く戦争に対して国民の支持が得られなくなったジョンソンは退任に追い込まれたが、大統領選に出馬しようとしたロバート・ケネディ(ジョンの弟)や、公民権運動の立役者であるキングは相次いで暗殺され、社会は危機的状況となった。

アメリカの1960年代は、黒人と白人、若者と大人、さらには戦争に送られる下層市民と徴兵を逃れる上流市民、傷ついた帰還兵と一般市民が、互いに対立しあう、混沌とした社会であった。その最後の年である1969年アポロ11号によってアメリカ人は月面に降り立ち、米国民の心を慰め、世界にとっても希望となった。

[編集] 冷戦後期 (1969-1989)

ジョンソンの後を受けたリチャード・ニクソン共和党)は、泥沼化したベトナムからの撤退を模索し始めた。アメリカ軍はベトナムからの段階的な撤退をはじめ、ついに1973年、ベトナムからの完全撤退を完了した。ベトナムでの死者は5万人以上に上り、心身ともに傷ついた帰還兵の社会復帰と市民からの蔑視が社会問題化した。ニクソンはその他にも、中華人民共和国との関係改善を図ったり、アポロ計画やベトナム戦争によって悪化した財政を立て直すため、ドルの兌換を停止するなど、外交、経済面においていくつかの新機軸を打ち出したものの、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、大統領の権威の低下、政治不信が始まった。

ニクソンの跡を継いだジェラルド・R・フォード(共和党)がニクソンに対して恩赦を与えたことや、さらにこれに続くジミー・カーター(民主党)の政権運営が弱腰と批判された事から、70年代を通じて政治不信は解消されなかった。特に、イラン革命の際に占拠された大使館を救出する作戦が失敗し、数十名の海兵隊員を死なせた事は、国民の米軍に対する信頼を裏切ることとなった。さらには、この大使館問題が解決される際、裏取引があったことが後に明るみになり、後に大問題となった(イラン・コントラ事件)。

国内ではベビーブーマー後の世代によるモラルの低下が著しく、また高所得者と低所得者の格差が急激に開いていった。ケネディによって市民権を獲得した黒人も、白人による差別感情は短期間で拭えるものではなかった。高級職業につくことは難しく、貧しい生活が続いた。これらの要因によって市街地で犯罪が増加し、主だった大都市の中心ではことごとく低所得者や黒人・プエルトリコ人の暮らすスラム街が形成され、治安は最悪となった。高所得の白人は郊外の住宅地に移転し、都市のドーナツ化現象が進んだ。こういった米国の負の特徴は「アメリカ病」と呼ばれ、アメリカの影響下にある先進諸国共通の問題となっていった。政府は問題を改善する為に福祉に力を入れざるを得なくなり、70年代に福祉国家へ生まれ変わった。

こうした中で保守派やキリスト教原理主義団体の期待を背負って登場したのがロナルド・レーガン(共和党)である。レーガンはソ連を「悪の帝国」と規定し、それに対抗するためにSDI(スターウォーズ構想)をはじめるなど、それまでの柔軟な外交政策を強硬的なものに変更した。おりしもソ連がアフガニスタンへの侵攻を開始したため、冷戦は新たな高まりを見せた。そのためこの時期を「新冷戦」と言う。このような強攻策はレーガン政権に入り込んだ新保守主義(ネオコン)の影響が強く働いている。ネオコンはリベラルな民主党で勢力を伸ばしていたが、70年代の民主党の支持率低下によって見切りをつけ、大挙して共和党へ流れ込んだ。

レーガンは、軍事ではグレナダ侵攻を成功させ、ベトナムとイランで傷ついた軍の威信も取り戻したが、すぐにレバノン内戦で大使館と海兵隊が襲われ、200名以上の死者を出したことから、地上作戦には消極的になった。リビアとは長く対立し、戦闘機同士の空中戦や、旅客機爆破の報復攻撃などを行った。また、イギリス日本といった同盟国との関係を重視し、これらの国とは蜜月の関係となった。内政ではキリスト教原理主義団体の主張にしたがって妊娠中絶を規制するなどした。この時代は60年代末までのニューディール絶頂期から保守的な時代へと大きく転換した時代である。

一方、70年代から80年代にかけ、経済成長によって大国となった日本や西ドイツが自動車、家電、オーディオ機器などを次々に米国で展開した。特に日本製の製品は大衆的で高品質低価格として非常に人気となり、日本製自動車が全米の保有台数の4分の1から3分の1に迫るまでになった。このため、商務省と財界は日本に対して貿易不均衡の是正として様々な圧力をかけ、牛肉や柑橘類の自由貿易を認めさせたが、日本側も様々な手段で抵抗した為、すさまじい貿易摩擦へと展開した。米国内では、国民の不満を日本へ向けるための煽動報道が繰り返し行われ、90年代前半にかけ、「ジャパン・バッシング」(日本たたき)と呼ばれる反日運動が国内を覆った。

レーガンの跡を継いだジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)は積極的な強硬政策を採り、パナマ侵攻湾岸戦争を成功させ、軍の威信と信頼を取り戻した。また、上記のような反日感情を反映し、日本に対しては様々な圧力外交を行った。この露骨な圧力政策は、日本のバブル経済が崩壊する90年代半ばまで続いた。さらにブッシュの時代、ロス暴動をきっかけとして、国内に根強く残る人種差別感情や人種間対立が浮き彫りとなった。

1989年11月9日、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、それを受けて12月3日ミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談では「冷戦の終結」が宣言された。こうしてアメリカのみならず、世界は新しい時代の幕開けを迎える事になる。

[編集] 冷戦後 (1989-2000)

冷戦の終了後、まず最初に直面した問題は中東問題である。1991年イラククウェートに侵攻したことに対してアメリカ軍を中心とした多国籍軍が編成され、クウェートをイラクから解放することに成功した。これが湾岸戦争である。湾岸戦争はその現在まで続く中東問題の端緒ともなった。

ソ連の崩壊は、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利を意味していたが、強硬姿勢を維持しつづけるために軍事予算は膨張し、アメリカの経済は双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)と呼ばれる状態に苦しめられていた。

ブッシュの後に登場したビル・クリントン民主党)はこうした経済的不況を解消することに努力し、クリントンが大統領職を去るときにはこの状況は完全に解消され、アメリカはこれまでに無い好景気を謳歌することができた。これには副大統領のアルバート・ゴアが主張する情報スーパーハイウェイ構想など、IT産業を積極的に後押しした事もその助けとなっている。アメリカは1980年代から軍事目的として電話回線を使用した情報網の整備を行っており、1990年代パソコン通信インターネットが民間によって急速に広がる下地となった。また、クリントン時代にはファーストレディであるヒラリー・クリントンの影響から女性の権利を大幅に認めるなど、ブッシュまでの保守的な状況から、ある程度リベラルな方向へ巻き戻す試みがなされた。対外的には、ソマリア国連平和維持活動が地元民兵に襲撃されて米兵に多数の犠牲を出した事件によって、海外派兵を控える意見が大きくなり、またコソボ紛争によるユーゴスラビアやイラクへの空爆、アフガニスタン・スーダン攻撃は地上軍を伴わない比較的小規模な戦闘で、大きな対外軍事行動による出費がなかったこともクリントン政権には幸いした。

[編集] 現代 (2001-)

次に政権に就いたのは、ネオコンサバティブやキリスト教原理主義に支持されていたジョージ・W・ブッシュ(先のブッシュ大統領の息子)であった。ブッシュの支持率は当初から低かったが、アメリカ市民は20世紀から21世紀の世紀転換期を、平和と好景気とリベラルの中で謳歌していた。そんなアメリカの目を覚ます出来事が起こる。2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件(nine eleventh、September eleventh)である。ブッシュ政権はこの事件を期に支持率を拡大、アフガニスタン侵攻イラク戦争と言った対テロ戦争をはじめ、大きく保守化の方向へ舵を切った。

こうしたアメリカの強硬な外交政策はユニラテラリズムと呼ばれ、冷戦後に欧州で発言力を増したドイツフランスなどから批判を受けている。一方、対テロ戦争を契機にイギリス日本といった国は米国への追従を強め、戦争へ協力するとともに、米国との蜜月関係を築いた。また、ロシアや中国もテロ対策に賛同したが、イラク戦争によって対立へと変わった。2004年に再選されたブッシュは、アフガニスタンやイラクのほかにもイラン北朝鮮を「テロ支援国家」「悪の枢軸」と規定しているが、イラク戦争が泥沼化し、国内のハリケーン災害が後手に回ったこともあり、強行外交の見直しと軍の再編が行われている。

クリントンによって解決された双子の赤字問題は、ブッシュの強硬な外交政策による軍事費増加によって、まず財政赤字が急速に増加した。また、中国の急成長や、イラク戦争後の統治失敗に伴う中東の不安定化による原油価格の急騰によって貿易赤字も増大している。景気はクリントン時代のITバブルが崩壊して一時的に鈍化したが、続いて住宅人気による宅地造成・建設ラッシュが好景気を招いた。しかし、今後はこの住宅バブルの崩壊が危惧されている。かつて世界一を誇った工業力も、企業が工場の海外移転を進め、また、投資事業や金融に力を入れた結果、産業の空洞化が起こっている。イラク駐留による軍事力の疲弊も重なり、米国の国際力は長期的に衰退する可能性がある一方、産業移転と投資によって中国やインドは工業的に急成長し、原油高によってロシアの経済力も回復した。ドイツ・フランスの周辺国への影響も増しており、冷戦に続く米国の一極構造は崩れつつあるという見方もある。

国家を形成する人種構成も20世紀末から大きく変化した。中南米からのスペイン語系移民(ヒスパニック)が土着し、それまでの白人・黒人のどちらにも属さない新たなコミュニティを形成している。貧しいラテンアメリカから豊かに見えるアメリカ合衆国への人々の流れは増加一途にあり、黒人人口を上回ったり、スペイン語が実質、英語に変わって共通語化する地域も発生した。この事象はメキシコと国境を接する各州共通の問題であるが、ヒスパニックが低賃金の新たな労働資源となっていることや、ラテンアメリカ系の商品売買による、新たな経済活動の機会となっているため、単純な同化政策を採りづらくなっている。しかし、同化政策の遅れがスペイン語地域と英語地域の分断を招いており、いずれ南部諸州はヒスパニックが多数派を占め、文化的にも経済的にも、アメリカは2つに分裂するのではないかとも言われている。ヒスパニックは今後のアメリカを左右する重要な勢力になると思われる。米国政府の推測では、2006年10月に人口が3億人を超えたが、ヒスパニックの流入と自然増が要因と考えられている。

[編集] 領土の変遷

[編集] 大陸領土の拡大

[編集] 太平洋・カリブ海への進出

[編集] 戦後統治・信託統治

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目

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