米比相互防衛条約
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米比相互防衛条約(べいひそうごぼうえいじょうやく)は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で結ばれた軍事的な同盟を結ぶための条約。1951年8月調印。
[編集] 設立
ヨーロッパでソビエト連邦の影響力が増して、米ソ対立の冷戦構造が深まる中、1949年に共産主義の中華人民共和国成立に伴って、アジアが立て続けに共産化するのではといったドミノ理論が起こり、朝鮮戦争によって冷戦構造がいよいよ激化して、アジアにおいても共産主義の封じ込めを図る必要に迫られたアメリカは、1946年まで植民地支配下においていたフィリピンと正式に集団防衛条約を結ぶことで、米軍をフィリピン国内に駐留させ続け、西部太平洋における安全保障の一角を担わせることとした。
[編集] 冷戦から対テロ戦争へ
この体制は1989年の冷戦終結から1991年末のソ連崩壊によって見直しが図られる。緊張緩和による米軍兵力の削減と、91年のピナトゥボ山大噴火によって基地が被災したことにより、両政府間で在比米軍の撤去が決定した。まずクラーク空軍基地から撤収をはじめ、1994年にスービック海軍基地からも撤収して、フィリピンはアメリカの軍事的な影響下から離脱した。また、ビル・クリントン米大統領が軍事費削減を政策とした為、1995年を最後に米比共同の軍事演習も取りやめとなった。
ところが、この米軍撤収の直後から、南シナ海で中国と東南アジア各国が領有を主張する南沙諸島(スプラトリー諸島)において、中国軍の活動が活発化し、フィリピン主張の島を占領して建造物を構築した。また米軍・米政権内でも中国脅威論を唱え始め、2000年に共同軍事演習を再開した。
2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生すると、同年1月に就任したグロリア・アロヨ比大統領はクラーク・スービック両基地の再使用を承認し、アメリカの対テロ戦争に協力した。また、2000年半ばからマニラなどで爆弾テロが頻発していた。これをイスラム原理主義過激派「アブ・サヤフ」と見ていたアロヨは、軍によって掃討を行っていたが、米軍もこれに参加して、陸軍特殊部隊などがミンダナオ島などで軍事活動を行っている。しかしながら、アブ・サヤフはフィリピン軍の攻撃や内部分裂で組織としては崩壊状態であり、米軍の行動は、フィリピンを再び軍事的影響下に置くことで、中国を牽制する目的があると考えられる。
[編集] 関連項目
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