ビル・クリントン
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アメリカ合衆国 42代大統領 | |
任期: | 1993年1月20日 – 2001年1月20日 |
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副大統領: | アルバート・A・ゴア |
出生日: | 1946年8月19日 |
生地: | アーカンソー州ホープ |
配偶者: | ヒラリー・R・クリントン |
政党: | 民主党 |
ウィリアム・ジェファーソン・クリントン(William Jefferson "Bill" Clinton, 1946年8月19日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。第42代大統領(1993年-2001年)。血液型はAB型。愛称は "Bubba" (ブバ、南部で「兄貴」)。
目次 |
[編集] 略歴
1946年8月19日アーカンソー州ホープ市生まれ。ジョージタウン大学卒業。エール大学ロースクールにて法学士号(J.D.)取得。第二次世界大戦後のベビーブーム世代初の大統領。1977年のアーカンソー州司法長官から政界入りし、1978年に32歳でアーカンソー州知事に初当選。アーカンソー州知事時代には南部成長政策理事会理事長、全米知事協会副会長、全米知事協会会長、全州教育委員会委員長を歴任。1992年の大統領選挙で当選し、翌1993年アメリカ合衆国大統領に就任、二期をつとめる。
[編集] 政策
[編集] 内政
アメリカ経済の中心を重・鉱工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成した。グリーンスパンFRB議長の助言の下に、均衡財政をめざし、巨額の財政赤字を解消して、2000年には2300億ドルの財政黒字を達成した。
教育を重視し、学校へのPC導入など、IT教育を推進した。その他、就学前児童の早期教育プログラムの拡大、移民の英語教育の充実を図った。後期には「強いドル」政策を実行し、他国の通貨に対してドル高を維持し、海外からの投資を呼び込んだ。また、アル・ゴアの提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」を推進し、IT産業の育成と、IT化による生産性向上(ニューエコノミー)を押し進めた。
税制では、レーガノミックスで引き下げられた高額所得者の所得税率を引き上げた。国民健康保険のような制度が整備されていないため高額な国民の医療費負担を改善させるための制度を導入しようと試みたが、民間保険会社や企業などからの法案反対活動で成立させることは出来なかった。
一方では、好景気の原因は冷戦から解放された資源が民需に回ったことによる「平和の配当」や民間企業のIT化推進などによるもので、大統領の政策によるものではないとする意見や、クリントン政権以前のレーガン・ブッシュ時代の知的財産権重視、市場原理強化政策の成果が周回遅れで出て来たとする評価もある。
しかし、FRBの金融緩和、それと連携した財政再建およびドル高容認などによる「金利の低下」に、当時の好景気の主要因を求める意見が、専門家の多数説である。クリントンの経済政策は、後任のジョージ・ウォーカー・ブッシュのそれとは好対照であり、現在その政策は再評価されている。ただし、長期にわたる好景気をもってしても、レーガノミックスによって拡大した社会格差を是正することは、ついに出来なかった。
[編集] 外交
外交政策においてクリントン政権は「人権外交」を掲げた。
[編集] 南北アメリカ
北米地域では、アメリカ合衆国、メキシコ、カナダが自由貿易圏をつくり、関税障壁をなくすというNAFTA(北米自由貿易協定)に調印した(1994年1月1日発効)。
[編集] アジア太平洋
アジア太平洋地域では、歴代政権と違い親中華人民共和国であり、今後の主要な貿易相手国としての重要性を認める一方、日本や中華民国(台湾)などの同盟国との関係はやや遠ざかった。1998年の中華人民共和国訪問時には、江沢民総書記(当時)との会談で「台湾の独立不支持、二つの中国及び一中一台の不支持、台湾の国連等国際機関への加盟不支持」を表明し、台湾だけでなくアメリカ国内の保守派からも大きな非難を浴びた。
また、北朝鮮との間で核兵器の開発放棄と引き換えにKEDOを発足させたが、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。なお、1994年には、1975年4月のベトナム戦争終結後より19年間におよんだ、ベトナムに対する貿易禁止の撤廃を発表した。またクリントン政権時にはアメリカは北朝鮮攻撃を計画し日本に2000項目以上の協力事項を要請していた。
[編集] 中東
中東地域では、イスラエルとパレスチナを仲介し、ノルウェーの仲介によるオスロ合意によって和平への一定の枠組みを作り、イスラエルのイツハク・ラビン首相とPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が歴史的な和平協定(パレスティナ暫定自治協定)を結ぶことに成功した。1995年にはイスラエル・ヨルダン平和条約を結ぶことに成功した。
パレスティナ暫定自治政府が成立すると、イスラエル・パレスチナ双方で強硬派がオスロ合意に反対し、ラビン首相が暗殺されると、和平継続反対派のベンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され和平は頓挫した。1999年にエフッド・バラクがイスラエルの首相になると、和平交渉は再開された。その後、対パレスチナ強硬派のアリエル・シャロンが首相になり、パレスチナ暫定自治政府にたいして武力攻撃を行い、再びオスロ合意は頓挫した。
[編集] ヨーロッパ
ヨーロッパ地域では、ロシアとの融和や西欧諸国の協調などをベースに行動し、旧ユーゴスラヴィアで発生したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の和平調停に乗り出して、和平協定締結に成功した。だが、コソボ紛争に対するNATO軍単独での武力介入(1999年)は、ロシアや中華人民共和国との協調関係に亀裂を生じさせた。また、このユーゴ空爆は、人道主義のためには国連決議なしで武力行使しても良いとする前例を産み出した。ただし、介入それ自体は未だに賛否両論である。
[編集] アフリカ
アフリカ地域では、1993年に、国連の多国籍軍の一員としてソマリア内戦に介入した。これは、人道目的による武力行使(「人道的介入」)の最初の例である。これにより、一時的に援助物資の輸送路が確保され、1日平均の餓死者を1/3以下に激減させる効果を上げた。だが、モガディシュの戦闘では多数の死傷者を出したため、世論の反発から、アメリカ軍はソマリアから撤退することとなった。そして結局、アメリカ軍主導であった国連ソマリア活動そのものも失敗に終わった。この事件は、アメリカが国連平和維持活動に参加しなくなった一因とされる。
また、1998年には、アルカーイダの関与したアメリカ大使館爆破事件への報復を名目として、アフガニスタンとともにスーダンをミサイル攻撃した。この際、スーダンの医薬品の5割以上を供給していた工場が、「化学兵器工場」であるとして破壊された。
[編集] その他
他には、政権末期において、レームダックから来る政治的空白から、世界貿易機関(WTO)シアトル会議を決裂させたなどの点が一部で指摘されている。
[編集] 閣僚
職名 | 氏名 | 任期 |
大統領 | ビル・クリントン | 1993 - 2001 |
副大統領 | アル・ゴア | 1993 - 2001 |
国務長官 | ウォーレン・M・クリストファー | 1993 - 1997 |
マデレーン・K・オルブライト | 1997 - 2001 | |
財務長官 | ロイド・ベンツェン | 1993 - 1994 |
ロバート・E・ルービン | 1995 - 1999 | |
ローレンス・H・サマーズ | 1999 - 2001 | |
国防長官 | レス・アスピン | 1993 - 1994 |
ウィリアム・J・ペリー | 1994 - 1997 | |
ウィリアム・S・コーエン | 1997 - 2001 | |
司法長官 | ジャネット・レノ | 1993 - 2001 |
内務長官 | ブルース・バビット | 1993 - 2001 |
農務長官 | マイク・エスピー | 1993 - 1994 |
ダニエル・R・グリックマン | 1994 - 2001 | |
商務長官 | ロナルド・H・ブラウン | 1993 - 1996 |
ミッキー・カンター | 1996 - 1997 | |
ウィリアム・M・ダレー | 1997 - 2000 | |
ノーマン・Y・ミネタ | 2000 - 2001 | |
労働長官 | ロバート・B・レイッチ | 1993 - 1997 |
アレクシス・M・ハーマン | 1997 - 2001 | |
保健社会福祉長官 | ドナ・E・シャララ | 1993 - 2001 |
教育長官 | リチャード・ライリー | 1993 - 2001 |
都市住宅開発長官 | ヘンリー・G・シスネロス | 1993 - 1997 |
アンドリュー・クオモ | 1997 - 2001 | |
運輸長官 | フェデリコ・F・ペーニャ | 1993 - 1997 |
ロドニー・E・スレーター | 1997 - 2001 | |
エネルギー長官 | ヘイゼル・オレリー | 1993 - 1997 |
フェデリコ・F・ペーニャ | 1997 - 1998 | |
ビル・リチャードソン | 1998 - 2001 | |
復員軍人長官 | ジェッセ・ブラウン | 1993 - 1997 |
トーゴー・D・ウェスト・ジュニア | 1998 - 2000 | |
ハーシェル・W・ゴッバー (act.) | 2000 - 2001 |
[編集] スキャンダル
1992年の大統領選出馬中にはジェニファー・フラワーズ事件が発覚、多くの批判を浴び大統領候補としての資質も問われたが、ヒラリー・クリントン夫人の援護によりこれを乗り切った。
1998年にはモニカ・ルインスキー事件が発覚、共和党から弾劾訴追も受け、ついに「彼女と不適切な関係を持った」( I did have a relationship with Ms. Lewinsky that was not appropriate.)と告白せざるを得ない状況に追い込まれた。この「不適切な関係」は同年の流行語となった。ちなみに手を出した理由は「そこにいたから」である。
結局、ヒラリー夫人の寛大な援護と民主党の根強い支持によって辛くもこれを乗り切ったが(ただし、私生活では相応の報復を受けている)、このスキャンダルの影響は大きく、これ以降、外交関係において消極的となり、内向きな姿勢が強化されることとなった。クリントン政権はこのルインスキー事件の進展にタイミングを合わせるかのようにアフガニスタンやスーダンへの爆撃を行った。「スキャンダルから目をそらさせるための爆撃」だと当時は批判されたが、9/11テロ後にこれがアルカイダに対する先制攻撃だったことが明らかになり、再評価されるようになった。
[編集] 大統領退任後
大統領退任後は妻ヒラリー・クリントン上院議員の選挙区であるニューヨーク市に事務所を構え、世界中で講演会活動などを行っている。ヒラリー・クリントン上院議員は2008年の大統領選挙出馬を狙っているとされ、その動向が注目されている。
2003年にはケント・ナガノ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団のプロコフィエフ「ピーターと狼」のCDでミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領らとともに朗読を担当し(正確にはカップリングされているフランスの作曲家、ジャン=パスカル・バンテュスの「狼のたどる道」の朗読を担当)、グラミー賞の最優秀児童向け朗読アルバム賞を受賞した。
2004年6月には、不倫(モニカ・ルインスキー)事件のことなども綴った回顧録『マイ・ライフ』を出版。発売日には一部の書店に行列が出来るほどの売れ行きを示した。
現在では、「平和と好景気の時代の大統領」として記憶されており、その人気は根強い。2004年7月にボストン市で行なわれた民主党全国大会の演説で登壇した際には、満場の拍手と喝采で迎えられた。2004年11月18日には、地元アーカンソー州のリトルロックに「クリントン記念図書館」がオープン。
なお、クリントン政権のスタッフは、ブッシュ前大統領からホワイトハウスを引き渡された際に、コンピュータのハードディスクを全て取り外されるという嫌がらせを受けており、その息子であるジョージ・W・ブッシュのスタッフと交代するときに、キーボードから“W”のキーだけを抜き取るという意趣返しをした。
[編集] 立場
民主党では相対的にやや右寄りに位置するが、これは党内のスタンスであって、あくまで彼自身は中道左派サミットに参加していることなどから第三の道に共感している中道左派である。
[編集] 外部リンク
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Works by Bill Clinton
- White House biography
- William J. Clinton Foundation official website
- Clinton Global Initiative official website
- Clinton Presidential Library official website
- Clinton School of Public Service
- The American Presidency Project at UCSB: The Most Comprehensive Resource on the Web
- First Inaugural Address, via Yale Law School
- Second Inaugural Address, via Yale Law School
- Audio recordings of Clinton's speeches, via Yale Law School
- Executive Orders signed by Clinton, via Michigan State University
- Pardons Granted By President Clinton, via United States Department of Justice
- Draft Articles of Impeachment, 1998, via United States House of Representatives
- Clinton Found in Contempt of Court by Federal Judge Susan Webber Wright
- Documents: U.S. condoned Iraq oil smuggling, via CNN
- Political donations made by Bill Clinton, via Newsmeat
- Bill Clinton, Governor of Arkansas, et al., appellants v. M.C. Jeffers, et al., 498 U.S. 1019 (1991), via United States Department of Justice
- The Clinton Presidential Center(クリントン記念図書館。英語)
- クリントン ビル:作家別作品リスト(青空文庫)
- Photos of Bill Clinton's actions to bring peace to the Middle East.
- アーカンソー州知事
- 1979 - 1981
-
- 先代:
- ジョー・パーセル
- 次代:
- フランク・W・ホワイト
- アーカンソー州知事
- 1983 - 1992
-
- 先代:
- フランク・W・ホワイト
- 次代:
- ジム・ガイ・タッカー
- アメリカ合衆国大統領
- 1993 - 2001
-
- 先代:
- ジョージ・H・W・ブッシュ
- 次代:
- ジョージ・W・ブッシュ
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