ルシタニア号事件
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ルシタニア号事件(るしたにあごうじけん)とは、第一次世界大戦中の1915年5月7日、アイルランド南岸沖13キロの海上を航行していたイギリス船籍客船ルシタニア号(RMS Lusitania)がドイツのUボート「U-20」(艦長ワルター・シュヴィーガー大尉)により放たれた魚雷によって沈没した事件。アメリカ人128人含む1198人が犠牲となった。
[編集] ルシタニア号
- 総トン数: 32,500トン (89 340 m3)
- 全長: 241m (790フィート)
- 全幅: 30m (88フィート)
- 煙突数: 4
- マスト数: 2
- 材質: 鋼
- 推進機構: 4枚羽スクリュー, 4汽室パーソンズ型蒸気タービン
- 巡航速度: 26ノット 最大速度: 28ノット
- 建造主: John Brown & Co. Ltd, G
- 進水日: 1906年6月7日
- 船客数: ファーストクラス563人, 2等464人, 3等1,138人
第一次世界大戦の開幕にあたって、イギリスはルシタニア号を武装巡洋艦として改造することを検討した。しかし船のサイズと燃料消費が釣り合わないことからこの計画は破棄され、従来どおり北大西洋航路で船務についた。経済的理由からルシタニア号の航海は1月1回におさえられ、第4ボイラーを閉鎖して速度を21ノットに落としていた。
[編集] 事件の発生
1915年5月1日、ルシタニア号はニューヨークの港を出港した。ニューヨークで発行された新聞には、キュナード社のルシタニア号の広告と並んで、ドイツ大使館による「交戦国イギリスの船舶は攻撃の対象である」との警告広告が掲載されていた。この航海に際して、船客の中にはUボートの攻撃が予想されるので航海を見合わせるようにとの警告がなされている者もいた。ニューヨークを出港して6日後南部アイルランド沖でルシタニア号はドイツの潜水艦U-20に発見された。
U-20は距離640mから2本の魚雷を発射した。そのうち1本が船腹に命中し、魚雷の爆発に続いて2度目の爆発が発生した。これは石炭の粉塵爆発によるものだと説明されてきたが、ドイツ側は秘密裏に船底に積まれていた弾薬が誘爆したものであると主張した。ルシタニア号はタイタニック号と違い、水密区画と縦通防水隔壁の両方を備えていたが、魚雷の命中から18分で沈没してしまった。タイタニック号で同様の損傷があったのなら持ちこたえられただろうといわれている。
長年この事件は戦時下と言えどドイツ軍による民間船への非人道的な攻撃として語り継がれていたが、近年では積み荷の保険金請求裁判の目録には船倉に173トンの弾薬があることが記入されており、当時の国際法に照らし合わせるとルシタニア号は攻撃を受けても致しかたなかったことが明らかになってきた。ドイツ軍は無制限潜水艦作戦をアメリカにも通告しており、弾薬が積まれていることを知っていて攻撃したのである。しかしウィルソン大統領は弾薬の積載を認めず、目録を「大統領以外は開封禁止」という命令書が添えて財務省の倉庫に保管させた。
ドイツの“野蛮な”攻撃に対してアメリカの世論は沸騰した。この世論を見て、それまでモンロー宣言の伝統に従い中立政策を堅守してきた議会でも反ドイツの雰囲気が強まっていく。その後1917年1月のツィンメルマン電報事件とドイツの無差別潜水艦作戦の再開を見てアメリカは第一次世界大戦に参戦する事になった。
また、ドイツ政府にとっては不運な事に、ミュンヘンのメダル製造業者がルシタニア号の撃沈を祝うメダルを制作していた。ドイツ政府はこのことをイギリスの新聞の報道により知ったが、既にメダルは制作された後だった。業者はこのメダルは唯の冗談にすぎないと抗弁したが、ドイツ政府は配布を禁止した。皮肉な事にイギリスのナショナリストがコピーを作り、ドイツの悪辣さをあげつらうためにメダルを売りさばいた。売り上げは赤十字に献金されたと言われる。また当時公開されたルシタニア号沈没時の悲惨な映像は、実はイギリス政府による特撮であった。