パナマ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パナマ侵攻(パナマしんこう)は、1989年にアメリカ合衆国が中米のパナマに軍事侵攻した事件。
マヌエル・ノリエガ将軍の軍事独裁化にあったパナマでは、麻薬交易の温床となっているとされており、非民主的な政治体制が中米各国の中でも孤立していた。
1989年1月に就任したブッシュ米大統領は麻薬撲滅を掲げていたが、89年10月に発生したヒロルディ少佐ら軍の一部によるクーデターを支援せず、ヒロルディは鎮圧され失敗に終わった。しかし、12月20日になって米国は米軍2万4,000名をパナマに侵攻させ、エンダラを大統領に就任させた。ノリエガの率いるパナマ国家防衛軍との間で激しい戦闘が行われたが、米軍によって首都パナマシティが占領され、翌1990年1月にノリエガは米軍に投降した。
ノリエガはその後米国に身柄を移送され、1992年4月にフロリダ州マイアミにて麻薬密売容疑等により禁錮40年の判決を受けた(後に30年に減刑された)。また、パナマ国家防衛軍は解体され、非軍事的性格の国家保安隊(国家警察隊、海上保安隊及び航空保安隊で構成される)に再編された。
侵攻作戦は麻薬撲滅を掲げて行われたが、1999年に米国がパナマへ返還しなければならないパナマ運河に関する交渉を有利に進めるためだったとも考えられている。一部では、ブッシュ大統領がCIA長官時代にノリエガの中南米撹乱協力の見返りにコロンビア産コカインの密輸入を秘密裏に容認していたため、自身の政治生命を守るために電撃的に発動したとされる。なお、麻薬撲滅という大義名分を掲げての侵攻だったにも関わらず、21世紀初頭のパナマの麻薬流通量はノリエガ時代の2倍に増加した。これはそれまで「国家」によって統制されていた麻薬の取引網が開放されたためと伝えられる。
この戦争において、アメリカは露骨な情報統制を行い、侵攻期間中の4大ネットワーク各局は、攻撃を受けたパナマ市民への取材は殆ど行わず、侵攻に賛同する裕福な白人住民層の意見を中心に放送した。また、米軍の被害、死傷者数は積極的に報道したが、パナマ軍・パナマ市民がどれほど被害を受けているかについては、米国内向けには殆ど伝えられなかった。この情報戦略は2年後の湾岸戦争でも充分に発揮されることとなる。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 1989年 | 20世紀の戦争 | アメリカ合衆国の戦争 | ラテンアメリカの戦争 | アメリカ合衆国の歴史 (1945-1989) | パナマの歴史